とはいえ、わからないでもない

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地方再生とか創生ってないよね、って実感している。
地域の魅力を、とか誰もが言うけれど、そんなもんがあるなら若い人は出ていかないよ。出て行っちゃったから移住者を招こうとしているわけなんだから。
地域活性化という目的で何百万円が注ぎ込まれたある実例を知っていて、それをある人に話したら、「あら、かわいいもんですよ、そんなの」と言って、その方の住んでいる地域での地域活性化事業の金額が二桁違うということを教えてくれた。
もうほとんどの人が利用しないであろう施設を大幅に改修してその金額。名目上は、その施設を再利用するということなのだが……億単位のお金をつぎ込んでやることではない、というのは余所者でも簡単にわかること。そして、その事業を推進したというムラの長の懐にはいったいなにが入ったのだろう、というところまで考えを巡らすのはごく自然のこと。
そういうのが、日本全国いたるところであるのだろうし、そういう事業を引っ張ってくる政治家が「えらい先生」ということになるのだろう(直接的には省庁経由だと思うけど)。
そういう「えらい先生方」のなかのさらにえらいやつが、たとえばデマ情報をもって学芸員批判をして、後日、曖昧模糊とした撤回・謝罪に終始することになる。
現閣僚たちほど仕事ができない、もう少し言葉を選べば任ぜられた職務にふさわしくない人間を、僕は実社会で出くわしたことがない。「あいつ、ほんとダメだなあ」と陰口を叩かれまくりの人間だって、もう少しまともだったように思う。
率直に言って、ああいう人たちを支持している人たちって、同様に無能なのかなと思う。自分たちと同じ程度だから安心できる。そういう理窟なのかな。で、そういう人たちってきっと多いのだろうな、と考えてしまう。そうでなきゃ、支持率が高いはずがない。
僕の知っている「まともな人たち」であれば、おれ/わたしだったら少なくともそんなことはしない、ということをいともたやすくやってのけてしまう人間たちを、支持するはずがない。支持どころか、軽蔑し、怒りを覚えるはずだ。
殊に最近は、専門家や研究者たちの意見と、なにも勉強していないただの素人の放言とを一緒くたにしてしまうタイプの「意見の平等性」という考えが、実際に言語化されていなくても、浸透してしまっている気がする。すごい自信に裏打ちされているのだろうな。僕にはとうていそんな考え方できないけど。

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NHKの朝ドラ『ひよっこ』が始まった。
第一週を観終えて、ひさーしぶりに、観つづけてみようかなと思えた。これまで朝ドラにはさんざんと失望させられてきたから、「絶対観よう!」とまでは言えないのだけれども、それでも、「ん? これってかなりいいんじゃないの?」と感じている。それでも「いまのところは」だなんて留保はつけてしまうのだけれど。

まあ最初はこのドラマ全編にあふれる「かわいい」について書いておく。
有村架純は、これまでかわいいお嬢さんというイメージしかなくてほとんど興味が持てなかったのだけれど、頬にまでかかっていた髪を上げてついでに額まで見せたら、なんとまあ。劇中「たぬき」という表現があったが、まさに僕の好きな下ぶくれのたぬき顔。
そのたぬきさんが、いい意味で非常に朝ドラのヒロインらしいヒロインを演じてくれている。しかも訛って。厳密にいえば異なるのだろうが、僕は東北や北関東の言葉の響きがたまらなく好きなので(これは男女いづれがしゃべっても同様)、それだけでぐっときてしまう。ありがたやありがたや。
同級生のふたりもかわいい。時子(佐久間由衣)と部長(泉澤祐希)。 いや、部長ってのは役名じゃねーんだけんどもよ、前に『オモコー』ってドラマがやっていたことあって……知ってっか? そう、そのドラマんなかでよ、この泉澤ってのが、合唱部の部長さんの役さやってたことあってな、んでな、そのときの印象がかなりよかったもんだからよ、いまだに部長っておら呼んでんの、でもよ、はじめてこの泉澤ってのを観たのはよ、NHKの『ロング・グッドバイ』でよ、小雪のところの小使をやっていてよ、おら初めてその顔見てよ、なんかうしろの百太郎みてーな顔してんなー、って思ってよ、だからなーんか親近感があるっていう、そういう思い入れみてーなもんが、このわらすにはあんのよ。
時子もかわいいのは当たり前なのだが、初回と、それから3回目か4回目くらいに、朝、みね子(たぬき)が自転車に乗って「おーい!」と手を振りながら時子のうちにやってくるときに、その時子が、(内実嬉しそうに)「毎朝会ってるのに、なーにがそんなに嬉しいんだか」というセリフがあって、特段ものめずらしいものではないかもしれないが、僕にはものすごくいいセリフに感じられた。
二回目のそのセリフがあったとき、そのみね子の嬉しさは、東京に出稼ぎに行っていた父親が稲刈りのために帰ってくることによるものもあったのだが、この場面に限らず、一週目全体に流れる、なんの事件も起こらないまったくもってのどかな感じを、「ああ、いいものだなあ」と思うか、それとも「なんだか退屈で古臭いな」と思うかで、たぶんこのドラマの評は分かれると思う。
僕は、多くの朝ドラを「退屈で古臭いし予定調和で芸がないうえ芝居も下手で演出も手を抜いていやがってまあ観られたもんじゃないな」と見切ってきたが、今回のドラマの一週目に対してはなぜか、「いいもんだなあ」と好々爺のように目を細めて観ている。

気に入っている理由のすべてではないが、映像がきれいだなと感心することが多い。稲刈りのときなどは特にそう感じられたが、あの一連のシーンでの主人公は、人間ではなく、自然だった。
カメラが捉えているのは広がる里山と田園風景で、そのなかに愛すべき人物たちが慎ましやかに配置されていた。おそらくこれは、ヒロインたちが東京に行ってからのちに、より効果を発揮するようになるシーンで、何度も何度もこの心象風景に立ち戻ってくる演出がなされるだろうと思う。
それと、一週目を観ていて西岸良平の『夕焼けの詩』(いわゆる『三丁目の夕日』。子どもの頃からコミックに接している身としては『夕焼けの詩』というほうが実感が湧く)をよく連想した。映画の『ALWAYS』ではなく、あくまでも『夕焼けの詩』のほう。映画のなかで六さんが堀北真希というのは驚きはしたものの好ましくとらえられたが、しかしスズキオートの社長が堤真一ってのは……昔から原作を読んでいる人間からすれば別物として観るほかないっていう仕打ちだった。ああいう配役ができてしまう感性の雑さからは、雑で安直な表現しか生まれないと思っていて、これみよがしの「昭和30年代ノスタルジー」を直接的に刺戟しようとする意図は、映画をとても安っぽいものにしていたと思う。まあ、あくまでも別物ととらえればそう腹も立ちゃしないが。
で、『ひよっこ』で連想したマンガ版の『三丁目の夕日』だが、これはほんとうにいいマンガで、大学生くらいのときだったか、ある回を読んでいて、誰も悪人が出てこないのにストーリーが成立していることに新鮮な驚きを覚えたものだ。そして同時に、そういう表現は簡単に見えて実はものすごく難しいのだろうとも思った。
この『ひよっこ』というドラマも、派手な事件はなくてもいいから、「ああ、いいなあ」とずっと思えるものになってくれればいいかな、といまは控えめな期待をしている。「なーにがそんなに嬉しいんだか」というセリフが、そんな予感を僕に感じさせてくれたのだ。

東京は赤坂の宮本信子の洋食店で、みね子の父親役の沢村一樹がハヤシライスを食べて感動をする。それを見た宮本信子は、帰り際の沢村にポークカツサンドをお土産に持たせる。「東京を嫌いにならないでくださいね」という言葉を添えて。
ずるいだろう。 沢村一樹は特別なにかをしたってわけじゃない。ただ隠すことのできない素朴な人柄で、うめえなあ、田舎(「クニ」と言ったかもしれないし、そっちのほうが正確だろう)の子どもたちにも食わせてやりてえなあ、みたいなことを言っただけである。
たったそれだけなのに、宮本の目配せに、シェフの蔵之介が「あいよ!」みたいな感じでお土産を用意してくれたのである。
観ていた僕は、んなことあるわけねーじゃん、と実際声にも出したが、それでも心はじいんとしているのである。なんだこりゃ。でも、こういう話は、『夕焼けの詩』にもときどきあるのだ。
決して豊かでない人たちが、ちょっとした人のやさしさに触れ、あたたかい気持ちになる。そういう物語に触れた人間にも、そのあたたかさが伝わる。
かつて、安房直子『まほうをかけられた舌』(1971)を読んだときにその主人公たちがみな貧しいことにあらためて時代というものを感じた、ということを書いた。珍しく我田引水してみよう。
思えば、私の子どもの頃に読んだり、聞かされたりした昔話なんていうのは、基本的には貧しい人間が主人公だったのだが、おそらく最近では、そういうのは「暗い」ということで流行らないのだろう。安易な「キャラクターもの」で横溢している印象の昨今の子供向け市場だが、「貧しさ」なんて存在しないという認識の子どもを育てたいのか、あるいは、大人自身がそういう認識なのか。
翻って、最近の朝ドラ(『あまちゃん』以降に限って)はどうなっていたのか。

朝ドラ主人公の属性早見表
放送期間タイトル主人公の家庭環境物語開始時の時代設定
2013年前あまちゃん海女の孫娘
2008年(平成20年)
2013年後ごちそうさん東京の洋食店の娘
1922年(大正11年)
2014年前花子とアン貧しい小作農家の娘
1900年(明治33年)
2014年後マッサン造り酒屋の息子
1920年(大正9年)
2015年前まれ無職の娘
2001年(平成13年)
2015年後あさが来た豪商の娘
1865年(慶応元年)
2016年前とと姉ちゃん工場の営業部長の娘
1934年(昭和9年)
2016年後べっぴんさん商社の創業者の娘
1934年(昭和9年)
2017年前ひよっこ農家の娘
1964年(昭和39年)

まったく観ていないものもあるからWikipediaで確認した情報をもとにつくった。特に「物語開始時」をどう考えるかで数字は異なってくるが、あまり深く考えないことにした。
『あまちゃん』以降、『まれ』と『花子とアン』を除けば貧しい家庭はなく、どころか、スーパーリッチも含めた富裕層階級がたびたび描かれているのが特徴的だ。この「特徴」については、上記のようなやっつけ仕事ではなく、きちんとした研究者がおそらくは真面目に論攷しているのではないかと思う。
ともかくこういった歪な偏りの背景になにがあるのか、あるいは、ないのか、等の推察は頭の片隅に置いておいて損はないだろう。それにしても、『おしん』が記録的視聴率を誇った時代は遥か遠くになりにけり、だな。『おしん』、僕は観ていないけれど。

また、この場面で、僕自身がハヤシライスを初めて食べたときのことを思い出していた。
中学生の頃かそれとも小学生の高学年くらいかで、そのとき母がつくってくれたのを、はじめはカレーだと思って食べたらまったく別種の味がして(いわゆる「外の味」だった)、ものすごく感動した記憶がある。いまから思うに特別な料理ではなかったろうと思うが、そのときの「なにこれ? おいしい!」という感じは、まさに沢村の「うめえなあ、うめえなあ」とぴったり合致する。
僕の食事のレベルが子どもの頃から上がったとはまったく思わないが、それでも、ときどきは洒落た店に行って澄ました顔でワイングラスを傾けたりはする。しかしこれまで、子供の頃にハヤシライスを食べたときのような感動をしたことはないし、これからもきっとないだろうと思う。
誰かがアマゾンレビューかなにかで、アガサ・クリスティの名作について、「この本をまだ読んでいない世の中の人たちに嫉妬します。だって、まっさらな驚きと衝撃をもってページを読み進めて行くことができるのですから」みたいなことを書いていたが、それと似たようなことだと思う。あのときのハヤシライスは、真っ白なページにはじめて書き込まれた絵のようなものだった。いまどれだけ高いお金を払っても、そのページを上書きすることしかできない。はじめて描かれた絵に対する感動は、もう味わえないのだろうと思う。

それと、このハヤシライスとポークカツサンドのやりとりで、以前ラジオで聴いたあるリスナーの思い出話も思い出していた。といっても、かなりうろ覚えで、かつてブログに書いていたことがなかったかとちょっと検索してみたのだが、見つからない。やっぱりきちんと記録しておくべきだった。
たしか、戦中か戦後直後くらいの話で、ある人(女性)が小学校で遠足に行ったときに、同級生があんパンを半分割って分けてくれた。そのとき、あんパンなんてものを初めて知った彼女は、ちょっとだけ食べて感動し、そのほとんどを残して紙に包んで家に持って帰り、母親と妹に食べさせてやった。
母親も妹もそのときはじめてあんパンを食べて、ふたりとも「おいしい!」と喜んでくれた。
「まるで自分自身が褒められたように感じられて、そのときの嬉しさはいまでも忘れられません」
ディテールは忘れてしまっているが、話の核は誤っていないはず。いい話だな、と思う。

などと、褒めてばかり来たが、三点だけツッコミを入れておく。
ひとつは、みんなかなり歯が白い。殊に沢村一樹に関しては異常なくらいに白い。個人的に審美歯科のスポンサーがついているのかっていうくらいに白くて、さすがに黒くしろとは言わないけれど、もうちょっと自然な白さが望ましい。
もうひとつは、方言フェティシズムをたのしみつつも、茨城言葉って、もう少し激しいのかもしれない、というところ。というか、方言――特に昔は――っていうものは、通常それを聴いたことがない者にとっては「え? え? 聞こえなかった。なんて言ったの?」っていうくらいのものだと僕は思っていて、その仮説に対して、『ひよっこ』の訛は、訛っているということはわかるが、しかしそれでも意味は全然通じてしまうし、全然聞き取れてしまう。
唯一、峯田和伸のムネオのしゃべりは、半分くらい「ん?」という感じがあって、ものすごくいい。調べると、この人、山形の出身で高校まで山形にいたみたいだから、正確な茨城言葉かというのはともかく、言葉のニュアンスの発し方みたいなのが自然なのだと思う。
自分の言葉ではないのだから難しいとは思うのだが、より本物に近いずーずー弁になってくれると、おじさん嬉しくて悶絶してしまいます。
最後、増田明美のナレーションはいいのだが、ひとつだけ、ムネオが初めて登場したときに、「朝ドラってヘンなおじさんがよく出ますよね。なんででしょうね?」みたいなメタ的な内容のコメントがあったけれど、ああいうのはかえって物語の枠組みを矮小化するので、やめたほうがいいと思う。
物語全体にも言えることなのだが、まっすぐ、大きく、のびのびと行ってほしい。
 
とまあ、いまのところではあるのだが、かなり『ひよっこ』に対する期待は大なのであります。そうそう、稲刈りの稲架掛けのところで『いつでも夢を』がまた唄われていた。 また、っていうのは『あまちゃん』でも唄われていたから。『あまちゃん』以前、僕にとってはサントリーのウーロン茶の中国語版のイメージが強かったんだよな。それが、『あまちゃん』でイメージの上書きがなされた。
この『ひよっこ』でもふたたび唄われる場面があるのだろうか。もしあるとすれば、それはきっと重要な場面なんだろうな。 

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「うーん?」という感じが強まる。 2話目にしてすでにストーリーが失速している感じがあるのだ。
前知識をまったく持たないまま観始めたので、だいたいの設定とか展開をまったく知らない。4人が演奏家ということも知らなかったほど。そのため、ストーリーの求心力が奈辺にあるのかがわからず、初回に想定した、松たか子の夫失踪事件→連続殺人?→犯人は誰か、みたいなサスペンスが主軸でラブコメ要素は付随的なものというラインは、もしかしたらまったくの見当違いだったのかもしれない。

そのほか、いろいろと問題がありました。

個人的に他人の恋愛話に興味がないせいか、今回の松田龍平を中心とした恋バナには心がまったく動かなかった。風見さん問題もある。
風見さんはドラマ『逃げ恥』のキャラクターだが、扮する役者の演技が下手でまったく感情移入できなかった。あのドラマをすべて観終えて、彼がもう少しまともだったなら、あるいはもっとうまい役者が演じていたのなら、僕はもっと風見さんに感情移入できたし、その恋の行方にもう少し身を入れて注視することもできたのではないか、という疑念をいまだ払拭できないままでいる。
松田龍平にも同じことを感じ始めている。好きでもないし評価もしない役者が演じるキャラクターは、おそらく脚本以上(以下?)に低く評価してしまいがちだ。僕にとって松田龍平は、松田優作と熊谷美由紀の息子という以上のなにかになったことがない。世の中に役者は大勢いるというのに、なぜ彼を起用するのかを理解した瞬間はいままで一度もない。

今回、高橋一生はほとんど活躍するところがなかったが、寸劇しているときの髪型・表情にバナナマン日村との相似問題。
また、マミーDのでかい車に高橋一生を乗せたが、まあこれからピクニックに行くという様子にも見えなかったから借金とかかな。『夜のせんせい』でも高橋一生は借金をしていたな。

すずめちゃんはともかく、まきさんも不思議ちゃんで、松田龍平もわりあい不思議ちゃんっぽさがあって、主要キャラクターの3/4が不思議ちゃん問題。なんかこういうのって、脚本家の女性趣味みたいなものを疑ってしまう。
実はNHKのドラマ『トットてれび』を録り溜めしたまんまにしているのだが、はじめ少し観て、満島ひかり演じる黒柳徹子の奇矯っぷりが辛くて辛くて、そのうえ脚本の粗っぽさが引っかかって今日まで鑑賞し終えていない。
黒柳はともかく、男の描く「奇矯な女性」というのを女性はどうとらえるのだろう。
僕はときどき男女逆転というものを考えてみるのだが、出演する男性キャラクターがみな不思議ちゃんだったら、とてもじゃないけれど観ていられない。「お話」というのは理解したうえで、それでも受け容れがたいものはある。

菊池亜希子(八木亜希子とのW亜希子だ!)が証明するショートカット最強問題。

タイヤ(≒現実生活の象徴)について話すのを「つまらない男」と批判する人間(別府くん)が『人魚対半魚人』を大切にする、という描写が「うわ~、『サブカル層』ウケよさそう~」と苦笑してしまった。やたらとゾンビ映画推しする男子、とか、春画大好きアピ女子、とかがあるんだったら、タイヤについて語る男女も認めてくれよ! おれはすべて興味ないけど。
宇多田ヒカルの『Keep Tryin'』をはじめて聴いたとき(2006年頃らしい)、
「タイムイズマネー」
将来、国家公務員だなんて言うな
夢がないなあ
「愛情よりmoney」
ダーリンがサラリーマンだっていいじゃん
愛があれば
という歌詞が鼻についた。当時はまだ宇多田に対して批判的な感覚というのを持っておらずむしろその歌詞には好ましいものばかりを感じていたが、この部分にだけはイヤなものを覚えた。なんで「将来、国家公務員」だと夢がないのか。御身は「アーティスト」であらせられる宇多田による「サラリーマンだって」の「だって」の部分には、蔑視感情が多少含まれていると感じないわけにはいかなかったし。
「タイヤについて話す男はつまらない」と「国家公務員には夢がない」とには、通底しているものがあるように感じられる。僕は、タイヤのことしか話せない男も、幼稚さに引きこもって『人魚対半魚人』を面白がっている男も否定はしないけれど、けれども両者は同じ地平に等価値に配置されているべきだと単純に思っている。登場しないからといって片方が「手近なチェーン店」に喩えられてしまうほど、もう片方ははたして魅力的なのだろうか。それはただの脚本家の「趣味」だったり「自己弁護」だったりしないのか。
【今週のハルキくん】
すずめちゃんと別府くんがコンビニに買い出しにいくところ。
す「猫好きなんですか?」
別「ハリネズミ、かわうそ、猫の順で好きです」
「アリクイ、しろくま、猫の順です。3位・3位ですね~」
「3位・3位ですね~」
サンドウィッチマンの富澤と八木亜希子と吉岡里帆だけが心のオアシスとなりつつある。

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さっとメモ。

基本、満足&期待大。その上での以下。
わたくしイチオシの俳優、高橋一生、満島ひかりが主演クラス。そして松たか子(彼女の芝居は、野田の舞台『贋作 罪と罰』以来だと思うのだが、いまちょっとネットで調べたらもう11年も前の話……ってほんとかよ)。ここでもう僕のなかでは大三元なんだけど、松田龍平でちょっとケチがつく感じ。で、実際に始まるとやっぱり彼は『あまちゃん』のミズタクとおんなじで、観ていられないというわけではないけれど、残らない。まさかヴァイオリンの弓(bow)に掛けてあえてボウ読みをしているのかと一瞬疑ったが、まさかね。
「まさか」で思い出したけれど、「人生には3つ坂があって、上り坂、下り坂、まさか」っていう昭和の結婚式のスピーチみたいなのが決め台詞として出てきて、多少辟易した。
役者の芝居はいいし、つい引き込まれてしまうのだが、どうも脚本がすんなりと頭に入ってこない。難解というのではなく、むしろ書割的というか、上のような古臭い部分も多く感じられるし、あと村上春樹の影響がでかすぎる気がするんだけど、どうなんだろうか。
  • 「音楽ってのはドーナツの穴のようなものだ」
  • 「あー、みぞみぞしてきた」 「みぞみぞって?」「みぞみぞすることですよ」
なんていうのはそのまんまハルキの作品にあっても全然不思議はないという気がするし、
  • 平熱が7度2分ある人は、首元からいい匂いがする
  • 東北ではトマトに砂糖をかける
  • あしたのジョーの帽子
みたいなフレーズ・仕掛け・装置もやっぱりハルキ的だと思う。
あと、いちばん違和感を覚えたのが、壁に躊躇なく鋲を刺せるがどういう人間だとか、唐揚げにレモンをかけることについて黙っていれば夫婦じゃないとか、そういうかなり安直で一方的な価値判断が議論の場の意見を支配してしまう、という設定があまりにも予定調和にすぎるように感じられた。
反対に言えば、上記を言いたいがために、高橋一生はベンジャミンさんのチラシを持って帰ってきてわざわざ家の中で貼ろうとしたのだし、あるいは、唐揚げの皿に1/4レモンを4つ配置した、と言えてしまうのではないか。特に、はじめの唐揚げのくだりがとても面白かっただけに、ちょっと残念。
男が道を歩いていて、バナナの皮に滑って転ぶとする。腰をさすりつつ立ち上がりながらバナナを拾った男は、「人生とはバナナのようなものだ」というセリフを発し、それが物語のなかで重要なメッセージとなる……という筋書きがあったら、おかしいだろう。バナナがあまりにも唐突じゃありゃしませんか、とも言えるし、バナナの皮くらいで人生を喩えるなよ、とも言える。
これはもう好みの問題になってくるのだと思うが、ある人物たちがあって、あるシチュエーションがあって、ある事件や事故などがあって、そういう諸々に配された変数がすべて同じだと仮定して、100回その場面が繰り返されたら、100回すべてが同じ結果になる、というのがエンターテインメント系の考え方。それに対して、100回ごとに異なる結果に至る、というのが純文学系の考え方だと思っている。
であるから、エンタメはある程度の予定調和を排さないし、リアリティと言われるものの一部を放棄する場合がある。それはそれで構わない。が、程度が過ぎれば、気に障る。
第1話で判断するのは早計なので、ここらへんについては、しばらく様子見。上に書いたことは、「いまのところは」という留保つき。だいたい物語の全体がまだ見えていないし、マミーDの説明もまったくなかったからね。

以下、さらに余談。
楽器を演奏する演技のことを「あて弾き」とでもいうのかわからないが、わざとかっていうくらいにみんなうまくない。それを菊地成孔がラジオで「あれはわざと下手にやっていると思いますよ」と断言していたが、その理由は謎。
吉岡里帆、が元地下アイドルという設定で出演していて、面白く感じられた。
俳優については、まったく不満がないので、あとはストーリーが面白くなっていけばいいなあと思っている。明日からつづきを観る予定。

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1話を観て、すげー文句言って、それっきりにしておいたのを9ヶ月ほど経ってから観て、なおかつ感動したのでどうしてもそれを記録しておきたいっていう姿勢は、ネットにおける当世の一般的な態度――情報の正確さなんてものは二の次でとにかくなるべく早く新鮮なものにキャッチアップするというそれ――とはかなり距離があるが、まあ若人でもない僕はそんなことを気にもしないのだけれども。

すべてを観たのちの感想を思うがままに書くのだが(とここまで書いてさらに2ヶ月経ってしまった……)、まず思ったのは、この「ゆとり世代」の設定っていうのは、もしかしたら半沢直樹を書いて世にバブル世代の矜持というものを示したかった池井戸潤へのアンサーだったのかもしれない、ということ。僕自身はこういう「世代感」というものにまったく共感を覚えられない点は1話への批判として書いたのと同じで変わらないのだが、けれども池井戸の作品の一部には「世間ではバブル世代って悪く言われるけれどおれらは一所懸命だったんだ」というひとつの弁明の意図があったわけで、クドカンはクドカンなりに、「バブル組の弁明があるのなら」ということで、当事者ではないくせに「ゆとり世代」の弁明を意図したのではないか、と思う。

物語は、特に前半、各話の終わりで次の大きな問題が提示され、そのいちいちが重く、かなり本格的な側面を持っていた。たとえば第1話の終わりで自殺したかと思われた部下は実は生きていて、しかしそれを心配して病院に駆けつけた主人公の坂間くん(岡田将生)は、(部下とは別人だったのだが)実際に仕事を苦にして自殺した人間の母親(真野響子)と知り合う。ここには、「コメディだから」とか「ドラマだから」みたいな言い訳はまったく用意されておらず、きちんと(もちろんそれはフィクションの範囲内ではあるが)真正面から問題を取り上げていた。
そのほかにも、SNSと現実における自己の乖離、社内告訴、学習障害(LD)、国籍問題、不妊、離婚した家族における子どもの精神発達、就職氷河期、などが取り上げられていて、すくなくとも「ファッション社会問題」としてではなく、物語上の展開の必要性と絡めていたが、とはいえそれらは、全体をとおしてみればやや散漫としていたという批判は免れないだろう。
たとえば学習障害に触れ、受け入れる学校環境側の未来に対して期待しているという描写をするほどであれば、最終話の性教育の際、思春期を子どもたちへ教えるときの「男の子は男らしく、女の子は女らしくなる」みたいな説明の仕方にはもう少しLGBTの存在に寄り添ったエクスキューズが必要だったろう、というのは最新の知見に触れていればごく当然に出てくる疑問だ。また、不妊のプレッシャーについて悩む坂間くんの兄夫婦(高橋洋&青木さやか)が、最後あっさりと妊娠してしまうことで、「妊娠しなかった夫婦のその後」をまったく描かなかったことに、ちょっとしたご都合主義的ニュアンスを感じとらざるをえなかった。
このように、ひとつひとつの問題じたいはとても重いものではあるものの、(作者の意図はさておき)結果として小さな装置として機能するだけのものも少なくはなかった、という指摘はできる。できるが、それはドラマの良さに較べれば瑣末なことだ。

まず、このドラマは役者の演技を死ぬほど堪能できる。
堪能しすぎて、最終話が終わって喪失感がしばらく抜けなかった。生活のふとしたおりに、「あ、宮下あかねちゃん、もういないんだ」とか「まりぶがにやにやしているところをもう観られないんだ」なんていう感慨がふと浮かんで、鼻の奥が熱くなってしまったことは一度や二度ではない。
DVD出ているのかなあ、とアマゾンで検索して以下の画像が出てきたときにゃあ、もう胸が詰まってしまって……。
yutori
突き詰めりゃ、この3人が笑って話していて、そこに安藤サクラのあかねちゃんがいりゃもうじゅうぶんなんだよね。こんな感情がどうして生じたのかはよくわからない。僕自身にこういう時代があったわけではないし、どっちかっていうと価値観も異なると言ったっていい。けれどもこの3人(+1人)が演じきった4人のもがき生きている姿は、その切実さにおいて僕自身の過去の一部をさえ見せてくれたように感じられたのである。

岡田将生の坂間くんの必死さはほんとうにすてきだった。彼のことはほとんど知らず、はじめはずいぶんとハンサムな子だなあというふうに思ったのだが、このドラマを観ている最中は、彼に対してスマートとかハンサムなんていう形容は思い浮かびもしなかった。お人好しで一所懸命な青年を好演していた。

童貞の山路を演じた松坂桃李だが、この作品で僕のなかの松坂桃李評は完全に定まった。この若い役者はうまい、ということだ。以前からそうではないかとは睨んでいたのだが山路の役で決定的になった。滑舌良く早口でまくしたてる場面が幾度も出てきたが、そこをきちんと演じてみせることによって、俳優としての基礎的技術があるということを証明してくれた。
なお、彼に絡んだ女優ふたりはふたりとも魅力的で、LD児童のお母さんは本ドラマ最強の色気を放っていたし、実習生の吉岡里帆は、配役の人物は好きにはなれなかったが、女優自身には今後にめちゃくちゃ期待する。朝ドラの主演を何年かのちにやりそうな気もする。ちなみに吉岡を気に入った最大の理由は、Wikipediaで以下の記載を見つけたから。
上京資金を貯めるために2015年3月まで約1年間滋賀県大津市の大津プリンスホテルにアルバイトとして勤務し、クロークや配膳などの職務に携わり接客を学んだ。
滋賀ってのがいい。

安藤サクラは、なんなんだ、ってくらいにうまかった。うまい、という言葉が失礼にあたるくらいだ。彼女の演じた宮下あかねという人物はどこかに実在している生身の人間、という感触がドラマをたのしんでいるあいだずっと離れなかった。
ぼそぼそとしゃべってそれでリアルであるとするような演技ではなく、ダイナミックで感情の起伏の激しい人物を演じながらも、そこにはすべて彼女の持っている「本当らしさ」が通っていて、たぶんそれは細かな表情や仕草、振る舞いの積み重ねが鑑賞者にそう感じさせるのだろう。彼女がにやにやと笑っているときは、にやにやと笑っている演技をしているように感じられるのではなく、本当ににやにやと笑っている感じがするのだ。

まりぶの前に、ぜひ山岸にも触れておきたい。大賀。最高だよな、っていつも思う。ハズレの演技を観たことがない。必ずしも目立ったところに配置されるわけではないけれど、でも製作する人たちはとっくに彼の実力を知っているのだと思う。
桐島のバレー部の補欠(だったっけ?)もよかったし、夜のせんせいのニセ不良もよかったけれど、今作の山岸は、少なくとも現時点での彼の最高到達点だと思う。「パワハラだよ!」と逆脅迫するときのいやらしさと、先輩の坂間に叱られて「はじめて叱られて、ちょっと嬉しかったです」と心情を吐露する素直さとが同居しているいわば真正のゆとり世代。坂間世代すらが「ゆとり世代」と少し小馬鹿にするような世代の代表者として好演どころか熱演をしていたが、僕としては彼の心情の不安定さがとても印象に残った。
クドカンは、「ゆとり世代」とは言いつつ坂間世代を理解できる世代として認識していたか、あるいは自分たちと同じ感覚を共有していると思っていたのではないだろうか。そして、彼にとってなかなか理解がしがたい「ゆとり世代」の象徴が山岸だったのではないか。
ちなみに。前述したとおり、ミスをしてでんでんの会社に謝りに言ったときに坂間が山岸を叱り、そこで「はじめて叱られて、ちょっと嬉しかったです」みたいな感動を見せるものの、その後それがパワハラだったと社内で訴え、坂間にとってもたいへんな問題になるのだが、僕は、叱られたときの山岸は、そのときはほんとうに改悛し感動したのではないか、と感じた。
感じやすく心を動かされやすいことと、利己的行動に走り究極的な個人主義を貫こうとする態度は、山岸という人物のなかでは地続きで連続性があるのだと思う。過剰な行動をとるものだから戯画的な人物ととられやすいが、実はリアリティあふれる人物なのではないかと思う。これは、ネットで散見される若い世代の言動をわづかながら観察したうえでの私見でしかないのだが。
とにかく、山岸が新店長となったあとも、バイトリーダーに叱られたり発注をミスしたり、と目が離せない。僕にとってはかわいくてかわいくて仕方のない愛すべき人物となっていた。

で、まりぶ。ふた月ほど前に観たものだからけっこう忘れてしまっているのだけれど、このドラマのなかでは、彼の言ったセリフがいちばん心が動かされた。もちろん、突然涙をあふれさせて吉田鋼太郎に「なんで謝んだよ!」と怒鳴りつけるところなんか最高だった。「あふれる」という言葉がぴったりの感情の動き。観ている側の心が動かないわけがない。
でも、少しヒネているかもしれないが、僕のなかの最高のまりぶのセリフは、「おっぱいいかがですか、そろそろおっぱいなんじゃないですか?」じゃなくて……、童貞の山路と話しているとき、山路が「でも女って、ヤれば変わるじゃん」ってな話からセックスをしたことによって変わってしまう女性の怖さ・いやらしさを滔々と語るのだが、それを聞いたまりぶが「変わんねーよ?」とあっけなく言うところ。
ここ、ほんとうにあっけなくさらっと言っていたのだが、ものすごく言外のものを感じ取ってしまったのだ。変わるわけねーじゃん。人間ってさ、そんな単純なものなわけねーじゃん。そんな単純なものであってたまるかって話だよ。僕には、まりぶがそう言っているように思えた。山路の幻想は、それはそれで可愛らしい。それをつまらない視点から即座に否定するのではなく、受け止めつつ、おまえが思っているほど人間はつまらなくないよ、と諭すようなやさしさが感じられたので、それをぼうっと観ていた僕は、突然打たれたように感じ入ってしまったのだ。クドカンの脚本もいいのだが、柳楽優弥の演技がすばらしかったのだろう。言わなかったセリフまで聞こえてしまったのだから。

もうひとつすばらしいセリフというかシチュエーションがあった。
このドラマのなかで唯一ド下手と言ってかまわないAKBの女の子が演じる坂間くんの妹。その子が生まれるというので、幼年時代の坂間っちが「どれにしようかな」で女の子の名前の候補を選んでいく場面。「ど・れ・に・し・よ・う・か・な、か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り」の「いうとおり」が幼くて言えないために「ゆ・と・り」となってしまって、それで彼女の名前は「ゆとり」となった、というところ。
これは、「クドカンはなあ……」と嫌いながらも『あまちゃん』を観ていて、『潮騒のメモリー』の「三途の川のマーメイド」が「三代前からマーメイド」となったときの、あのグッときた感じ(もうちょっと言うと、グッとさせられた感じ)に相当するものがあった。すばらしい仕掛けだった。

わりあい急転直下型でこのドラマは終熄を迎えたのだが、最後に出てきたメッセージは「赦し」だった。
山路が性教育のシーンで説明するように、他人の失敗を赦せる大人になってほしい、というのは陳腐かもしれないが、非常に説得力のあるセリフだった。
好きではない人を好きになってしまう、というのは、物語上の関係性についての言及でもあると同時に、昨年の頭くらいから世間がバカみたいに批判していたなんとか不倫の問題を想起させた。すくなくともテレビのメディアはあのバカ騒ぎを反省していないはずで、つまらない正義感をふりかざすことの正当性というのはいまだに視聴者の多くと結託して共有しているのかもしれないが、このドラマは、無粋にならないレベルで、世間の愚かしさというものをやんわりと否定したのではないかと思う。
酔って上司とうっかり寝てしまったあかねちゃんも、何度も離婚した吉田鋼太郎も、いっときは坂間くんを脅した山岸だって、赦されている。これは、単純な予定調和ではない。「世間」の常識に一石を投じる、いわば挑戦的な赦しだ。僕はそれを評価したい。

全回を一度きりしか観ておらず、なおかつ観てからふた月も経ってしまっているので細部についてはかなりあやふやだが、このドラマは必ずもう一度観るつもり。そして、夏に放映予定のSPにそなえる。どんなに忙しかろうと、夏までは死ねない。

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最近ちょっと引っかかったこと(かつ瑣末なこと)。

ほとんどウォッチしていないところなのだが、いよいよ全面禁煙が図られる、みたいなことを風の噂レベルで聞いた。といっても僕は非喫煙者なので細かな規定というのはわからないし興味もわかないのだが、分煙はわかるけれど、完全禁煙って、それはそれでどうなのかと思う。副流煙や歩きタバコの問題が回避できれば、ある程度喫煙場所が設けられてしかるべきだと思う。
健康のため、とか、公共(またもやオリンピックが口実か)のため、という大義名分を振りかざして個人の嗜好・自由を制限するのが「成功」してしまうと、次は禁酒、次は……と際限がなくなるようなおそれがある。
過去を思えば、あらゆる場所でぷかぷか吸われるような状況じゃなくなったいま、もう充分な気がするのだけれど。

時事通信の3月の世論調査のニュースを読んで、現政権への支持率がいまだ50%を超えているというのを知ってたいへん驚いた。しかも、新共謀罪の法案に対しては6割を超える人間が賛成か。すごいな。最近オーウェルの『1984』を読み終えたせいかもしれないけれど、日本人って監視社会を自ら望んでいるとしか思えないな。
支持率を見たところ、たぶんあの教育勅語の問題に関しても(僕からすれば信じられないほどの)多くの人間が問題なしとしているのだろうな。すごいよな。いわゆる「右傾化」という言葉が叫ばれてひさしいけれど、保守というか、愛国カルト集団の皆々様にとっても、今日こんな地点まで来られるとは思ってもみなかったのではないか。この状況をスルーして、遠く離れたトランプを批判している人がいたら、そいつはだいぶ頭がおかしいと思う。対岸の火事より、お前んちがすでに火事なんだよ。

がらり話は変わって。
最近の広告代理店のイースター推しは滑稽すぎる。ハロウィンもだいぶ無理があったけれど、いったん成功しちゃったもんだから、次はイースターってことになったんだろう。お次は謝肉祭で、その次は……アメリカの独立記念日を祝ったりしたら面白い。そんで、紀元節、天長節の復活! それなら政府も喜んでバックアップしてくれるよ。  

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昨年の文化の日のことだった。一年に一回のイベントのようなものがあって、そこである男の人に声をかけられた。「どう? 元気にやってる?」
その声の調子と表情から一度ならず挨拶や言葉を交わしたことがある、ということは明らかだったけれどすぐには思い出せず、「ええと誰だっけかな……」と心中考えながらも「そうですねえ、今年もなかなか……うまくいきませんでしたねえ」なんて適当なことを言いつつ、できのわるい検索システムをフル稼働していたのだが、そのとき、ある女性が視界の隅に入り、そこでその男性が誰だか思い出すことができた。
もともと僕はその女性のほうと知り合いで、たぶん彼女ははじめて会ったときですでに五十代も後半に入っていたはずだからいまはもう六十に手が届いているはずだった。男の人は、その女性の夫だった。
人懐こい人で、一度思い出せたら、その人好きのするしゃべり方や仕草までも一気に思い出すことができた。その前に会ったのが、ちょうど一年前の同じイベントでのことだった。一年という時間をあっという間にジャンプして、僕たちは隣人のように話した。黒く日焼けをした、とても元気な人だった。

その人が、昨年末に死んだということをきょう聞いた。事故死だった。
話を聴けば、人間、そんなもんで死んでしまうのだろうか、というくらいにあっけない事故で、それを教えてくれた人間も、半ば笑いながら話した。
不謹慎だ、と思う人もいるだろう。けれども、話を聞いた僕も半ば笑いながら聞いたのだ。もちろん、げらげらと笑ったわけではない。僕はまず驚き、それから、笑うしかないから笑った。そういう種類の笑いだった。教えてくれた人もたぶんそうだったのだろうと思う。
僕はやっと四十になろうというところだが、僕のまわりにいる人たちは六十代で若いほう、七十代がざらだ。教えてくれた人も、七十は優に超えている。その人たちにとって、死はいつもかなり近いところにある。両親はとっくに死に、同級も半分以上は死んでいる。病死のほかにも、事故死、自殺、などいろいろな死に方を目の当たりにしてきたと思う。
いろいろな事情が考えられるが、この七年間で僕も、都市部に住んでいた三十数年間で出会った死のおよそ十倍の死に出くわしている。深夜に救急車の音がわりと近くで長く響いているのが聞こえたら、喪服のありかをすぐに思い浮かべるくらいにはなった。
それでも、知り合いが亡くなったことを知らされれば、ついこのあいだ会ったばかりなのに、と思わないことはない。そして同時に、家族や特別に深い友人であったりしなければ、実にあっけないことのようにも感じてしまう。
話に聞いた状況から判断するだけだが、今度亡くなった人は死ぬ間際に、「あ」とだけ思ったのではないか。あるいは、「あれ?」かもしれない。いづれにせよ、ほとんど苦しまずに逝けたことを願う。 

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次々作の朝ドラのヒロインが葵わかなになったと知って、特に驚きもなかった。
2015年からのヒロインを見ると、土屋太鳳→波瑠→高畑充希→芳根京子→有村架純→葵わかなという流れは、朝ドラヒロイン的という観点からすると波瑠以外はすべて納得の配役。波瑠が嫌いとかそういうことじゃなくて、線の細い美人ってのは少しイメージが違う気がしたのだ。次々々作はもう松岡茉優でいいんじゃないかな。
ブクマを確認したら2014年の9月には彼女(葵)をチェックしていたというのが判明したのだが、たぶんこれはラジオドラマの好演が原因だったと思う。声の感じがよくて、そこからその人物を知った、という流れ。オモコーの芳根京子の親友役もやっていた。まあ、ドラマは観ない可能性が高いが。

キャスティングといえば、今朝、ヤフーのヘッドラインで「水戸黄門を武田鉄矢が演じる」というのを見て、エイプリルフールにゃ早すぎると思ったのだが、どうやらほんとうのことらしい。
印籠を見せてからの説教が長そう、名前の由来を懇々と教える、漢字の話をよくする、オリジナルのテーマソングを自分で唄う、マルちゃんがスポンサーにつく、などといろいろなことが頭をよぎる。
 
ヤフーニュースといえば、「ゆとりですがなにか」のSPが夏に放送されるとかいうのがあって、これは嬉しい驚き。またまりぶが観られるなんて、ほんと嬉しい。
 

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いまさらながら観始めていて、いま第4話まで来た。みくり「恋人をつくろうと思いますが、考えた結果、ひらまささんにします」というところで終わる回。
やらなくちゃならないことが多いのですごくさらっと書いておくと、観る前には絶対萌えると思っていたガッキー、というか、ガッキーに萌えるために観ようと思っていたのだが、いざ蓋を開けてみると、まったく萌えない。どころか、このみくりさんという人物が大っ嫌いだということがわかった。まあ、ドラマを観ているとだいたいの女性キャラクターをキライになる、っていうのはよくあることなのだが。
で、石田ゆり子は……やっぱりうーん、という感じ。流行っていた当時は、「○○歳とは思えない!」なんていう褒められ方をしちゃっていたのかもしれない(というかそういうフレーズを実際目にした)けれど、ふだんからあんまりそういうところを気にしたことがない――つまり、年齢のわりに若い!とか、そうでないとか――僕は、フラットに見て、女性としてそれほど魅力的には思えないというのが正直なところ。容姿が整っているために彼女のセリフや存在感に重みがあるのだとしたら、それはキャラクターの魅力じゃなくて、石田ゆり子の魅力だろうから。
同じ理窟で、みくりさんが、ガッキーじゃなくても好きかどうかっていうと、ガッキーの容貌をもってしても「こんなやつ、どーでもいーや」と思ってしまうのだからなあ……。これ、つづきを観ていくと好ましく思えるんだろうか?

じゃあまったく観る気がしないかっていうと、そんなことはなくて、星野源がめちゃくちゃかわいいから観ている。愛されない感じ、とかすごくよくわかる。ふんぎりをつけるために、もういっそ手放しちゃえばいい、とか。
あとは、古田新太と藤井隆のところがおもしろい、っていうのがなんとかドラマの推進力になっているのかな、というふうに見ている。それ以外の場面は、僕にとってはけっこう中だるみに感じてしまって、まだるっこしい。というか、全だるみのなかにポイントポイントで「お」と思えるところがあって、なんとか観つづけられるというのが現在までのところ。
風見さんとか、申し訳ないんだけど下手くそすぎて、観ている側が素に戻っちゃうんだよな。ガッキーも、特別うまいっていうわけじゃないから、星野源との対話なんかだとなんとか立脚していられるものを、風見さんとふたりで話していると、けっこうきつい。なので、このドラマを観るときは必ずアルコールを入れるようにしている。たぶんシラフだと電源オフにして終わりにしてしまうから。

どうしても杏&ハセヒロの『デート』と比較してしまうのだけれど、丁々発止という言葉がまさにふさわしかったあちらの脚本とくらべて、こっちの脚本はどうも隅の隅まで締まっている感じがしない。たとえば、風見さんに対してイケメンイケメンと臆面もなく連発するみくりさんだけど、これって、男女逆転させたら、けっこういやらしい男じゃない? 美人に対して「美人はいいですよね」ということを連発する男って、意図的であれば当然気持ち悪いし、無意識であっても、なーんか気持ち悪いものを感じる。わざわざそんなこと面と向かって言わねーよ、っていうのが僕の感覚なんだけど、そっちのほうがおかしいのだろうか。もちろん、みくりさんを自信満々に口説き気味の風見さんは男女をどう入れ替えたって気持ち悪いんだけど。
あと、いろいろなテレビ番組のパロディをやるにしたって、ちゃんとやりきったほうが面白いと思うんだけどなあ。情熱大陸はTBS系だからちゃんとロゴまで使って窪田等つかってやっているのに、ビフォーアフター(テレビ朝日)のパロディでは加藤みどりを使わなかったのに、なんだかなあ、と思ってしまった。「他局」だから? 視聴者にとっては知るかそんなもん、だよね。
あと、『奥様は魔女』をはっきりと言及してしまっていたのは野暮ったかったなあ。で、エヴァは言及しないんだよね。ここらへんに、振り切れていなさを感じてしまった。
あと、キャストの8割が不満。風見さん、石田ゆり子の部下たち、ガッキーの幼馴染等々……なんか、一定基準すら満たしていなくて……ヒットして注目浴びたかもしれないけれど、今後は辛いだろうなあ。あと、新垣結衣というタレントはキライではないからけっこう大目に観ているけれど、みくりさんは、『精霊の守り人』をやっている綾瀬はるかに対する「うわあ……」という気持ちといまのところはあんまり変わらない、ってことは書いておくことにする。

まあとにかく、いちおう主人公はガッキーなはずで、彼女の一人称的独白部分は多いのだけれど、でもやっぱりその彼女がどうしても空虚に思えてしまって、これが工夫の凝らされた演出のせいで、もしかしたら、回を重ねることによって感情移入できるようになっていくのかもしれないが、いまのところは、あまり期待できない。でも、つづきは観ることにする。
なんだかんだいって、でもやっぱり星野源はかわいいよ。

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最近の仕事上のトピックといえばスクラップ&ビルドでしかなく、とりあえず、肉体作業に従事している間に時間がいともたやすく流れ去っていく。10年前の僕は、将来防護メガネをつけて、サンダーやら小型切断機なんかを使って鉄管相手にバチバチと火花を散らすことになるなんて想像もしていなかった。仕事は強制されているものではないのでその内容にはまったく不服はないのだが、しかしもともと体力が存分にあるという人間ではないので疲れてしまい、帰宅してからなにかをしようと思ってもその気力が残されていないのが残念なところ。
満を持していまさらながら『逃げ恥』を観ようと思ったがTBSのオンデマンドは月額いくらという設定になっており、この月末で加入するのはいささかもったいないということで来月はじめのたのしみにとっておくこととし、かといって早々に大河ドラマは見切ってしまったので(一点、柴咲コウは歌はうまかったということを思い出させてくれた、というのがほぼ唯一の発見)、特段テレビをつけても観るべきものは発見できず、仕方なしにというわけでもないが積読になっていた本を読んでみるとこれが実に面白いものばかりで、「こりゃあネットを眺めているバヤイではないぞ」とひさしぶりに読書にひたることをたのしんだ。
小説なんかもう読めないだろうなあなどと漠然とした悲しさを覚えていたものだが、ジョージ・オーウェルの『動物農場』をぱらぱらと読んでいたら実に面白く、その流れで最近またベストセラーにリストオンされたと評判の『1984』をつづけて読み、いまやめられなくなっている最中。もちろんドナルド・トランプ政権との相似という点で本書は話題になっているわけだが、その予言性にだけ着目するだけではもったいない(ただし、二回目以降の読書という意味ではそれもアリだとは思う)。まだ途中なのでなんとも言いがたいが、純粋に小説としてたのしめるもので、ディックのような――時代的にいえば、オーウェルのように書いたディック、なのかもしれないが――切実さと悲しみがあって、いまのところは僕ごのみの小説である。
トランプといえば、昨年の大統領就任または一昨年からの大統領選で日本では一般的に注目されたように思うのだが、僕の場合は2000年にリリースされたm-floの『Planet Shining』のなかのinterlude 4におさめられたフリースタイルに「ビル・ゲイツ、yo! ドナルド・トランプ」という言葉があって、そこで漠然とそういう金持ちがいるんだなあ、程度の受け止め方をしていたし、なんといっても、マクドナルドとかドナルドダックを連想させるファーストネームと、トランプというファミリーネームが憶えやすく、爾来その名前はなんとなく頭のなかに残っていた。
そのことを確認するために当該CDアルバムをひさしぶりに聴いてみると、アルバム内の設定として2012年(当時から見て12年後)の近未来ということになっていて、いまだにこの仕掛けに新鮮さを感じてしまう。interlude 4では、「saywatchugotta」という曲へのフリとして、3人のラッパーが好き勝手にしゃべっている(という体をとっている)のだが、そのなかで「むかしはCDなんてものを出していたし、デモテープなんてものがあったねえ。今や『デモレコード』をつくっているくらいで、レコードを自分ちでつくれるアナログのいい世の中になった」みたいなところがあるんだけど、これが現代の「一部」を予言していて面白い。実際にCDの流通は、日本はともかく世界的には減少しており、アメリカかイギリスか忘れたが、CDはもちろんもはやDLの売上よりもアナログレコードの販売金額のほうが上回った、ということがニュースになっていた。これはアナログ回帰ということも部分的には指摘できるのだろうが、より定額制のストリーミング配信に移行したユーザーが多いということの証左であるってことをどこかで見聞きした。まあ、それでもレコードが売れているということは面白い現象だとは思うし、2000年当時におそらくは「面白おかしく」のつもりで発したジョークがそれなりの意味を有してしまった、という事象もまた面白く感じられる。

話はがらりと変わるが、例の極右学校法人に対する報道を見ているといろいろな疑問が噴出して仕方がないのだが、当該理事長は、「安倍晋三記念小学校」なんて名前を考えだしたり、夫人を名誉校長に置いたりと、まともな頭の持ち主にはいっけん見えない。ものすごくストレートにとらえてしまうと、現政権と親和性の高い極右思想組織およびその構成人物が、その権力を笠に着て行政と癒着したというふうに見えるが、はたしてこの問題に出てくる登場人物たちは、大阪の財務局も含めて、それほどバカなのだろうか、とその点にまず疑問を覚えるのだ。億単位の国有地の払い下げ契約について相当恣意的な9割のディスカウントを行って(なおかつ交渉記録をすみやかに廃棄して)バレずにすまそうだなんて、マンガ家が発案して編集者に見せたら「いくらなんでもこんな設定は読者をバカにしている」と突っ返されるレベルだろう。
そう考えると、どうもあの学園の理事長が、安倍や日本会議を貶めその陰部に捜査の手が伸びるよう企んだとしか思えなくなってくるのだ。保護者への恫喝、狂信的に映る思想教育、隠そうともしない民族差別主義。そして例の事件についての、もはや矛盾のないところを探すほうが難しかった説明は、ツッコミ待ちをしているとしか思えない。こうなってしまうと、政権に擦り寄ったり、はたまたその顔色を窺ったりして様子見をしていたメディアまでもが動かざるを得なくなり、結果、現政権への痛烈なダメージを与えている(はず)。
陰謀論を支持することはあまりないのだが、しかしこの場合は、まさに有志の理事長と財務局トップとが密かに諮り今回の問題を企図したと見るほうが自然に感じてしまう。彼らは自分たちが罰されることを前提としていろいろなところで餌を撒き、それがじゅうぶんに達せられたと認識した時点で自らリークしたのではないだろうか。はじめはわかりやすい左右の対立構造を引き出し、そこから現在の「右」がいかに極端な場所に位置しているのかを明らかにし、右傾というよりは右落状態にある潮流を押しとどめ、あわよくば政権を打倒するとそこまで考えての行動、と読み取ることのほうが、「安倍晋三記念小学校」の設立を意図して行政に不当な癒着を持ちかけた(あるいは忖度させた)という構造よりよっぽど自然に思えるのだが。

またまた話は変わって。
小説だけではなく、積読本のなかにはドイツワインについて書かれたエッセイもあって、それをなんとはなしに読んでいたら非常に面白かった。岩本順子の『おいしいワインが出来た!』というものと『ドイツワイン 偉大なる造り手たちの肖像』 というもので、特に前者が面白い。
いままでなんとなく目にしていた、ワイン用のぶどうというものがどのように収穫されてうんぬんという記述は、ほとんどがワイン商の視点、つまりマーケティング戦略の一環として描かれているものであったが、本書は作者が実際にケラーというドイツの醸造所に飛び込み、一年間栽培に携わった記録となっていて、これを読むと、ワイン用のぶどうとはいえ、ほんとうに野菜や他の果樹の栽培と通底するところがあって実に親近感をもってたのしむことができた。もちろん醸造は、田舎の家庭菜園の視点からでは想像するべくもないが、それでもぶどうにはできるだけ手をくわえないでワインにするという思想は、商売者というより農家・百姓の考えのように感じられた。ごく単純に言ってその醸造所のワインに興味を持った。
きっとおいしく感じられることだろう。人間は舌だけで味わっているではないし、もし「純粋に」舌だけで味わおうとしたら、それ相応の訓練を自分に課さなければならない。しかしそのようにして得られるものは、じつは少ないと僕は思っている。味覚を業務の中心に置くような職業にでも就かないかぎりは。
誰々がこのようにして作った、とか、どこそこという場所には伝統的な栽培方法があって、とか、そのようなイメージが味覚に及ぼす影響は小さくないし、そこにいい意味で騙され乗ってしまったほうが、食はたのしめる。ワインでいえば、テイスティングとは試飲とか味見のことだ。それは試飲会やそれに類する場所で行えばいい。けれどもそんな場所にほんとうの食のたのしみがあるのだろうか。 ひとりでも複数でもいいけれど、僕は食卓にこそ食のよろこびやたのしみを見出す。料理自慢はあってもいいが、供された食事や飲み物に対して批判するなんて野暮の骨頂で鼻つまみ者。どうせならおもしろいエピソードを披瀝できるほうがよっぽど好まれる。僕は、嫌われる人間より好かれる人間になりたい。

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