とはいえ、わからないでもない

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第6週「響け若人のうた」。もうひと月半ほど前になるのか。

そうそう、前回は乙女寮に綿引巡査があらわれたところで終わったのだったけれど……。
はじめての休日で、乙女寮のあの部屋のメンバーの一部が外出したのだが、各々があまりいい結果を得られない。時子、幸子、そしてみね子たちがひとりひとり失意に沈みつつ帰ってくると、向島電機の中庭で、仲間がベンチに腰掛けていて「おかえり」と言ってくれる。「ただいま」
ここは、みね子に限らず、故郷を遠く離れてやってきた女性たちの、東京でできた初めての居場所なのだ。もしかしたら、そんなことが言えるとは期待すらしていなかったかもしれない「ただいま」をここでは言うことができるし、「おかえり」と応えてさえくれるのだ。わたしはひとりじゃない、と思える場所。あまりにも幼い女の子たちの口に、愛子さんが甘納豆を一粒づつ入れていくのは、ほんとうにすばらしいシーンだった。

この週は指揮者も出てくるんだよな。警官にしても指揮者にしても「ハンサム」とか「すてきな人」ってことになっているのだ、設定上。まあ、それはいいとして。背は高い。顔も小さい。清潔感はある。これは、すずふり亭の若い衆にも共通していることでもある。でも、なーんか小粒感が否めないというか、まったく感情移入することができないのだ。
僕が男だから、というわけでもあるまい。三男も三男の兄ちゃんも時子の兄ちゃんも、みんな好きでそれぞれの演技をずっと観ていたい。でも、警官と指揮者が出てくると、「あらら」と急に気持ちが醒めてしまって、「ああ、そういえばいまドラマ観ているんだっけな」とか「いま8:06だからあと十分弱ほどか」とか、そういうふだんなら気づかない部分に気づいてしまう。
しかし、このふたりが出てきたことによって、僕はすこし安心もしたのだ。ああそうだ、きっとこの大好きなドラマにだって、自分の気に入らない部分や首をかしげる部分が今後でてくるはずで、彼らの存在がそのことを先行して僕に知らせてくれている。そう思うことにした。
彼らは、「人生はままならないもの」であり「物事に完璧を期待することなどできないこと」の象徴なのだ。僕の不満の対象が、彼らの存在にとどまってくれるのであれば、どんなに幸せだろう。それにすら耐えられないというほど、ひどくはないのだから。
余談だが、このあいだシャムキャッツの新曲のMVを観ていたら、この指揮者の雄大先生が出演していてかなり驚いた。ドラマに出演しているのがいろいろと奇蹟的なレベルなのに(詳しくは書くまい)、他の場所でもニーズがあるとは!

みね子父を見かけた人がいるらしい、と警官に伝えられ、そのことを電話のある時子の実家にかけて時子母に伝える。時子母は、夜にもかかわらず自転車に乗ってみね子の実家に行き、みね子母にそれを伝えるのだが、すでにわれわれは同様のシチュエーションを二度も経験している。
田神先生が、みね子の働き口が見つかったことを知らせに来てくれたときと、みね子がそのことを時子に知らせに行ったときと。
コミュニケーションツールの未発達がゆえ、というひとことで済ませることもできるが、やや過剰かつコミカルではあれこういう部分を執拗に描くのは、あまりにも情報伝達が簡易になってしまった現代へのアンチテーゼととらえられなくもない、などと僕などは感じてしまうのである。
たいせつなことを、相手に一刻も早く伝えたいというとき、汗をかいて喉をからからにさせなくてはいけない時代もあった、ということだ。それだからよい、というわけではない。この時代の人たちにスマホを渡せば、100人中100人が喜んで使うだろう。それはあたりまえのこと。
ただ(以下はドラマとはまったく関係のない話だが)、以前から書いているように、コミュニケーションツールが発達したおかげで、人々が簡単に他人を罵倒できるようになった点は否めない。
ツールの「向こう側」にいる相手が、自分にとって必ずしもたいせつな人間であるとは限らなくなったし、場合によっては、その相手とはずっと匿名同士のままでいられることもまったく可能だ。
だからこそわれわれは、挨拶のように「死ね」だの「殺す」だのを顔の知らない相手に簡単に投げかけられるようになった。

ドラマに話を戻す。給料日にみね子が妹・弟のためにノートと消しゴムを買い、そしてかわいらしいと手に取ったブラウスについている値段があまりにも高くて(みね子が一ヶ月稼いでやっと自由にできる金額とほぼ同じ!)、ハンガーをもとに戻し、それを別の誰かが買う場面があった。
みね子はこのあと、田舎の気の利きすぎるお母ちゃんからすてきなすてきなブラウスをプレンゼントされることによって、ある種の救いを得られるのだが、たぶんこの一連のシーンの本質は、お母ちゃんの優しさ・ありがたさにだけあるわけではない。
ちょっと考えればわかることだが、みね子のようなラッキーな人間のほうが少なかったはずで、お金のままならなさ、生まれた場所・環境によって出稼ぎして仕送りしなければいけないという理不尽さ、をぐっと飲み込まなければいけなかった人間のほうが多かったに違いない(たとえばこの翌週の澄子がそうだったように)。
ドラマではあえてそこにスポットライトを当てているわけではないものの、みね子が買えなかったブラウスを買ったのが、どこかのお大尽の娘というわけではまったくなく、みね子と同じように、きっとどこか遠いところから向島電機に働きに来ている女性だった、と描くことによって、よけいにその「ままならなさ」を際立たせているようにも感じられた。
もちろん、これらの不条理に対してなんらかの解決策が提示されているわけではないし、今後も提示されることはないだろう。
ドラマの表の部分、つまり陽の当たっている部分では「あなたのことは、きっと誰かが応援している」というのがテーマになっているはずだから、お母ちゃんに限らず、みね子や時子を助けてくれる人間は多い。われわれ視聴者はまず、その優しさや温かさを素直に受け取ろう。
けれども陽の当たっていない部分――より現実に近い部分――においては、有史以来ほとんどの人類が対峙してきた問題がこの時代のあちこちにもあり、残念ながらそれらに打ちのめされてしまった人間も少なからずいたはずで、そのことを忘れ去らないようにはしたい。なぜなら、このドラマにはそのヒントがたくさん隠されているのだから。

この週の最後の日、みね子がもらった給料ですずふり亭で食事をしようとする。シェフの佐々木蔵之介はなんでも好きなものを食べさせてやろうとするのだが、それを宮本信子が止める。
このとき、僕の頭のなかにはひとつの俳句が浮かんでいた……のだがとりあえずここに掲げておくだけにしておこう。たぶんあとでも言及するだろうから。
弁当を分けぬ友情雲に鳥  清水哲男
一ヶ月の生活費が1,000円のみね子にとっては、60円のビーフコロッケを註文するのがやっとなのだが、これを食べているとき、宮本信子と蔵之介の親子はもちろん、佐藤仁美(むかし大好きでした……いや、いまでも好きですけれど)やコックふたりもホールに出てきてみんなでそのみね子の様子を嬉しそうに眺めている。コックのうち、やついいちろうは、後輩にあたるヒデに対していつも小者っぷりを露呈しているような人物なのだが、この人間も、みね子が嬉しそうに食べているのを、嬉しそうに眺める。こういうシーンに、作者の平等な優しさみたいなものを感じる。セコくて小狡いところがあるかもしれないけれど、けっして悪人ではないのだ、とわざわざ視聴者に教えているのだ。
しかし、宮本信子はあたりまえだけど、佐々木蔵之介もめちゃくちゃ自然でうまいよなあ。ずっと観ていたい。
「ビーコロ」を食べたみね子が心の底から「うめえうめえ」と喜んでいるのを観られることに、心の底からの幸せを感じながら、翌週へ。

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feedlyをなんとなく眺めていたら、「米朝サイバー部隊」の文字に目を引かれた。
beicho
これは上方落語をちょっとでも聴いたことのある人間ならほとんどが知っている、というか、米朝本人がネタにしていたギャグで、対北朝鮮について「戦略的忍耐」を選択していたオバマ政権時代にはあまり見られなかったものの、トランプ政権に代わって最近やたらと目にすることが多くなった「米朝」の文字。
当該記事の内容になんて毫も興味はないのだが、それにしても「米朝サイバー部隊」というのは、胸踊る言葉である。きっと指揮官はこいつだ。
beicho
アンドロイド米朝大佐
趣味: 落語鑑賞。趣味が高じて実演することも。

一昨年だかにテレビで観た米團治の『地獄八景亡者戯』のことをちょっと思い出した。たしか「米朝、ついに来演!」というネタで、米朝のモノマネをするんだった。面白かったし、でもちょっとさみしかったんだよな。

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第5週は「乙女たち、ご安全に!」。
ちなみに、きょう現在(6/11)のところ、第8週まで観終えていて、そのときに観た予告編がなんだか悪い予感しかないのにくわえて、仕事が忙しいのでそのつづきを観られていない。

もともと、みね子たち3人が奥茨城を出た時点で、「まあこれでこのドラマのピークは過ぎたろうな。『あまちゃん』じゃないけれど、東京行ったらつまんなくなるんだよ、絶対」と予防線を張っていた。
「東京編」でのキャストもよく知らなかったし、もちろん展開もまったく知らなかった。のちに僕のなかでアイドル的存在となる藤野涼子という俳優のことも、もちろん知らなかった。

月曜日。
はじめの段階で、その藤野涼子の演じる豊子が登場したとき、その第一声である低い青森弁を聴いて「やけにうめぇな」と強烈な印象を与えられた。
実際の青森弁(少しだけ「ネイティヴ」の発音を聴いたことはあるけど)そのものかどうかはわからないけれど、もごもごした感じというのを怖れずに演じているところに、方言指導ももちろんあるのだろうが驚いてしまったのである。僕の拙い経験上、聴いたことのない方言というのは、だいたいにおいて「なにを言っているのか完璧にはわからないもの」であって、もごもご聞えることのほうがリアルに思えるのだが、非方言話者は、そのリアリティよりも「聞えない/伝わらない」ほうを怖れてしまい、わりあい明瞭な発音になりがち(≒あまり方言らしくない)、と僕は見ているのだが、豊子の場合は、一瞬この人は青森の人なんだろうな、と思えるくらいにはもごもごしていた。たぶん、実際の、しかも当時の青森弁というのはニュアンスさえもつかめないようなもっとキツいものだったろうけれど。
とにかくまあ、第一声で心がとらえられてしまったのである。

でね、愛子さん(和久井映見)に連れられて向島電機に着いて、荷物も置かないままにみね子たちが食堂に入った瞬間、乙女寮のみなさんが合唱で迎えるシーンで、もう大感激してしまいまして。
なにがどうとかうまく言えないのだけれど(言えるけれど)、北関東や東北の田舎からやってきた女の子たちを迎えるのに、こんなにすてきなシーンがほかに思いつくかいな、ということなのだ。
セリフではない。ストーリーやプロットなどでもない。そういうものとはまったく関係なく、ここには演劇的な感動そのものがあった。歌が、そして唄っている姿が、みね子たちの心を通して視聴者の心を揺さぶる。あらためて観返してみても、大名場面だと思う。
このシーンで、前述した僕の「予防線」は一瞬にして粉々になっていた。ヴァージニア・ウルフの『燈台へ』のなかに、誰だか登場人物が、ひよこを守るため雌鶏が大きく翼を広げるのを路上で見つけて、「すばらしいね、すばらしいね」というセリフがあったが、その言葉以上にそのときの僕の気持ちをあらわすものはなかった。

で、その後の歓迎会で「ごちそう」としてカレーライスを食べるんだよなあ。もちろんこれはみね子が実家できょうだいたちと食べたカレーとの対比という意味合いもあるんだけど、ごちそうをカレーライスで表現できてしまうこの時代に特別な感慨を覚える。
これよりも古い時代を描いていて、たったひとりのためにおにぎり32個を並べるという下品なドラマもあったけれどね。
gochi18
その下品なドラマについてはもう言及しないが(口にするだけ穢れる気がしてしまう)、興味深いのは『ひよっこ』ではけっこうものを食べるシーンが多くて、この後も折にふれて指摘するだろうとは思うが、それはきっと食べられることそのものに価値があった時代のためであり、あるいは脚本家がそのような時代として描きたいためなのかもしれない。これは『なんたらさん』への強烈なアンチテーゼだと個人的には思っている。
しかも、あとでわかることだが(そしてみね子たち自身はわからないままなのだが)、みね子たちがごちそうだと感じた歓迎会の日のカレーライス(肉多め)は、食堂のおじさんが無理をしてつくったものだということが愛子さんとの会話でわかり、そこらへんも丁寧な描写だなあと思う。ごちそうが当たり前のように毎日食卓に並ぶのではない時代に、みね子たちを応援するために、見えない努力によってごちそうを並べてくれていたのだ。
そして、涙を浮かべながらそのカレーライスを頬張るみね子、時子、豊子。で、「涙では終わらせないよ」というように、おかわりの列にいつのまにか並んでいる澄子(松本穂香)でサゲる。完璧。

火曜日。
いよいよ乙女寮での生活が始まるわけだが、みね子たちと一緒の部屋に暮らす山形出身の幸子(小島藤子)と秋田出身の優子(八木優希)にも、(僕が)すぐに馴染めた。彼女たちだけでなく、乙女寮の多くが地方出身者ということで、方言が飛び交い、とても耳が幸せなのである。
早朝、愛子さんが起床用に寮内にかける音楽が『いつでも夢を』なのに、やはり『あまちゃん』を思い出さないわけにはいかない。

水曜日。
ライン長の松下さんの話を聞きながら、みね子の「お父さん……」と呼びかけてのつぶやきが、いちいち面白いのだが、この週あたりから、彼女がこのモノローグを通じて狂言回しになっているのに気づく。
しかしそれにしても、みね子たち4人がラインに入ってくるときの緊張感もよく描かれているし、そもそも流れるライン上の作業だけで4人のキャラクターを描き分けていて、なおかつ面白さもあるのがすごい。聖火リレーのときもそうだったけれど、このドラマは、それほど派手ではない/日常的な題材をひとつひとつ興味のあるものに仕立て上げる手腕がピカイチだと思う。

木曜日。
ラインで作業ミスをしまくり、落ち込むみね子に、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と声をかける愛子さん。はじめは「無責任な」と逆恨みをするみね子だが、やがて傍からはわからない哀しみや苦しい経験を抱えている人だということを教えてもらい、その愛情の大きさを知る。
この愛子さんというキャラクターの、愛らしく、ちょっと間が抜けていて、でも底抜けに優しいところはもちろん脚本によるものだが、しかし観る者に感動を与えるという点では、和久井映見という俳優の技倆によるところ大なのは間違いない。
考えてみれば彼女は変わった声をしている。甲高く、いわゆる腹から出すような発声法は採っていないのだが、彼女が、それまでの明るい演技から一転して口を結んでなにか大事なことをしゃべると、その言葉には自然と魂がこもるのだ。
テレビドラマの視聴経験が圧倒的に少ない僕でさえ、和久井映見といえば、それぞれの役柄での好演がすぐさま思い出される。『ちりとてちん』での喜代美の母親も切ないところがキラリと光る役柄であったし、『デート』では、コミカルな亡霊として娘の杏を鬱陶しがらせていた。なお、両方のドラマにおいて和久井映見の夫役は松重豊が演じている。
ストーリー上では「おばさん」と自嘲し、みね子にお世辞を言ってもらうとものすごく喜ぶという設定になっているが、愛子さんは文字通り乙女寮の大事な乙女のひとりだと僕は思っている。

さあて、金曜日。
前日終わりに、豊子が時子に、みね子のためとはいえ、仕事でわざとミスをするというのは間違っていると指摘をし、そこで口論になり始めたのを承けたところから。
豊子が、仕事のできない澄子とみね子を分析し、みね子のミスの方が問題は大きいとダメ出しをすると、それに対して時子が怒る。「冷静ぶって、自分は他人とは違うって言いたいんでしょ。もうそういう言い方やめなよ!」
これを言われたときの藤野涼子の表情がすばらしかった。「え」とも「う」ともなんとも言わず、ただその表情と潤む目だけで、豊子の心のなかにある硬い殻が、やさしく溶けていくのではなくて、痛みをともなってひび割れていくのが手に取るようにわかったのだ。
たしかに、自分を見ているようだと強い口調で諭す時子のセリフによって、豊子がそれまで地元の青森でどういうふうな思いを抱えながら生きてきたのか、ということを間接的に知ることができたが、しかしもっと直接的に、豊子の表情がそれを伝えていた。
そして時子の、「東京に来たんだから、もう突っ張らなくていいんだよ、豊子。そんなふうにしてたら、かわいくないよ」というセリフに対して、「めんごぐなんか、もともとねえよ」と豊子が言ったとき、なぜだかわからないがこちらも涙が出てきた。
早熟な女の子が、ずっと恵まれない環境にあった自己を守るため必死に築き上げた壁を、それと指摘されたのだ。しかもそれを指摘したのは、彼女と同様に恵まれない環境に育ったのかもしれないが、すぐれた容姿のために他人から愛され、しかも同郷の友人が傍にいるという、豊子から見れば充分に恵まれている人間によるものだったため、単純に悔しかったのだろうと思う。わたしは独りでやっているんだ、誰の助けも借りずにやっているんだ、という思いだったのだろう。
しかし、一悶着あった後、周囲の予想に反してみね子に素直に謝り、再び泣く豊子の涙の、なんとまあ美しいことよ。出来すぎといえば出来すぎの脚本だが、そこはまあただの感動もの(充分に質の高いものではあるけれど!)に終わらせず、寝たふりをしていたみね子の嘘がバレるというコメディタッチにすぐさま移行していくところも含めて(話はみね子と時子との口論に移って、結果、謝り合い、最終的にみね子のことを好きと強い語調で言う時子に対して、ふざけた調子で「ありがとう」というみね子、というか有村架純を含めて!)、非常にすばらしい場面だった。「東京行ったらつまんなくなるんだよ、絶対」って言ったやつ誰だよ! めちゃくちゃいいよ!

藤野涼子だけではなく、佐久間由衣、そして有村架純と、この週の各人の演技を観ていて、正統な演技をまっとうに演じきるというのは非常に大事だということが強く思われた。
特別ななにかや誰かを想定して言っているのではないが(というかそういう体にしておくが)、激しく感情を爆発させたり、奇矯な役柄を演じたりすることはいっけん目立つし、それがすぐれた技術だと思われがちだが、案外それは役者本人の技倆とは別の部分にウェイトがあることも多い。たとえば脚本だったり演出だったり。
そういう「目立つ芝居」に対する、正統な芝居というものに最近は興味があって、地味かもしれないが、日常的な人物――われわれと地つづきの世界で呼吸をしているような人物――を緻密かつ丁寧に再現しようという意思を持った役者のほうを、できるだけ評価したい気分なのだ。
『ひよっこ』は、脚本だけでなく、俳優にも恵まれていると思う。僕は、みね子たちが東京に来たらさすがに奥茨城のような満足感は得られないだろうと思っていたが、それは大間違いだった(すくなくとも、現時点では)。ただただ、乙女寮を描いてくれるだけでいい。そう思うようになっていたのである。

なお、藤野涼子にもう少し触れておくが、彼女は、セリフ以外の部分でも、その表情によって饒舌に演技をしていた。月曜であれば、食堂でみながはじめてマヨネーズをかけるシーン。火曜日であれば、寮内で幸子の説明などを聴くときの様子。カメラのアップがあるカットでは、もちろん演出指示があったものと思われるが、画面の端っこの方に映っているときも、豊子の表情は豊かだ。気になって気になって、ずっとそこばかり観るようになってしまった。彼女の存在は、いまのところこのドラマの最大の発見だと思っている。

土曜日。
米屋に行った三男。この米屋の父娘がそっくりだし、やりとりがとてもコミカルなのでにやにやしてしまう。斉藤暁にそっくりと言われたら女の子がかわいそうかもしれないけれど、女の子もかわいいし、だいいち斉藤暁もキュートだよ。

乙女寮では入社してはじめての休日で、みながそれぞれにけっして明るくはない元の境遇を話す。そして愛子さんは戦争で亡くした恋人の話をする。
前もムネオさんのところで書いたが、こうやって戦争が間接的に描かれるという手法に、とても好ましいものを感じる。茶番だったりやけに都合のよかったりする「戦中」や、終わるとなにもなかったようになってしまう「戦後」の描写より、よっぽどまともで誠実な気がする。

そうして、最後に「すてきな人」として登場するのが、警官なんだよなあ……。この警官と、それからあとで出てくる指揮者が、全然ぼくの好みじゃなくてなあ……。男だからいいじゃん、なのかもしれないけれど、やっぱりよくないんだよなあ。芝居がうまいのなら全然かまわないんだけど、ねえ。

とにかくまあ、こうして傑作週の「乙女たち、ご安全に!」は終わるのだった。翌週分からはもっとまとめて簡潔に書くつもり。

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『パッチギ』にはきっと呪いがかかっているんじゃあ~。

まずこれまでに、この人たちがなんらかのスキャンダルを起こしたんだけど、これ、Wikipediaに載っているキャストの上から3人そのまんまだからね。
  • 塩谷瞬
  • 高岡蒼佑
  • 沢尻エリカ
この時点ですでに「『パッチギ』には呪いが?」みたいなジョークはたしかにあったのよ。けれどもね、いやいやいや、それでもまだ小出恵介が僕らにはいるよ、と大船に乗ったつもりで安心していたわけだ。
それがなんとまあ……。
(なお、実際になにがあったか知らないが、未成年となんちゃらかんちゃらって、だまくらかしたわけじゃなくて、かつその相手が18、19歳であれば、という場合において、なにが問題なのかって気がする。小出も相手と結婚しちゃえばいいじゃない。「妻っス。ちょっと若いうちからアレしちゃいましたけど、それ、いまの妻っス」とか言っておけばいいのよ。19歳だと活動休止で主演ドラマも全編中止、となって、20歳だと「熱愛!」ってなるの、どう考えてもおかしいよ)

まあいい。問題は呪いの次のターゲットだ。
ざっとキャストを見渡すと、現在『ひよっこ』の三男の兄ちゃん役をやっている尾上寛之と、バンホーソンベこと『火花』の波岡一喜が危ない。おっと、桐谷健太もマークしておこう。彼の名前と顔はこの映画で憶えたのだっけ。

どうでもいい記事は10分で書けるマン。

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もはや一週間前のことになってしまうが、13日のFMシアターのラジオドラマのできがよかった。
なんでもNHK名古屋の創作ラジオドラマ公募作品だったらしいのだが、実によくできているものだと感心した。まあたぶん作者はアマチュアということはなかろう。
「私事で恐縮であるが、ついにその夜、死ぬことにした」で始まり、とてもシリアスなものになるかと思いきや、蓋を開けてみれば田口トモロヲと佐藤二朗というふたりの芝居巧者が、テンポのよい滑稽なセリフの応酬を聴かせてくれて、あっというまに1時間弱の時が流れてしまう。
といって、完全なるコメディかというとそうではなくて……ネタバレはしたくないので詳しくは書かないが、音楽、構成、演技・演出等を含めてラジオドラマはかくあるべし、という見本のような作品だ。

ひとつだけ。いちばん心に残ったセリフは、田口トモロヲの「だけどね……きみのあの話はよかったな」というものだった。
おそらくこのドラマを聴いた多くの人は、これとは違うセリフやシーンを取り上げるとは思うし、それが当たり前のような気もする。
けれども、もう一度繰り返して聴いたときも、やはりこのセリフ回しにじいんとしてしまった。「あの話はよかったな」という文章が台本に書かれていたとして、いったいこのように発することができるのだろうか、と田口の表現の豊かさにしびれた。

毎回毎回が面白いなんてことはなくて、むしろ当たりの率は低いくらいだけれど、それでもときにはこのような佳品に出会えるので、やっぱりラジオドラマは面白い。

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    • 1. Go
    • 2017年06月05日 02:41
    • On your markの記事からきました。今もブログ更新し続けて驚きました。これからもがんばってください。

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きょう(5/17)、たまたまテレビをつけたところテレ朝の『9係』がやっていて、津田寛治と羽田美智子と朝倉伸二が同じ画面内にいて「あれ?」と思った、という話は記録に値すると思う。
朝倉はおそらくゲスト出演だと思い、念のため『9係』の公式サイトをあたってみたら、「あれ? 松尾諭もいるじゃん!」と昂奮したのだが、よくよく見たらまだ田口浩正だった。「田口浩正の枠はすべて松尾諭が奪っていく説」を唱えている僕としては、この仕事もやがて松尾のものとなるだろう。

それはともかく。
第4週「旅立ちのとき」。この一週間は泣きっぱなしだった。
前半からして、飛ばしすぎていた。

美代子が困っているのを知っている君子が、(最初はお金を持ってきたがそれは美代子に固辞されて)お歳暮だと言っていろいろな食物を持って来る。

美代子が、「『東京に行く』と言わせてしまって、ごめんね」とみね子に謝る。美代子の方からお願いしなくちゃいけなかったのだと言おうとすると、それを遮るみね子。お母ちゃんにそんなこと言わせたくねえから、自分から言ったんだよ、だからそんなこと言わねえで、と。

募集が終わってしまって東京に仕事があるかどうかと首を傾げる田神先生(津田寛治)に「どんな仕事でもすっから、なんでもいっから」と懇願するみね子。それに対して、「おめえは大切な教え子だ。『なんでもいい』とか言っちゃなんね」と本気で怒る先生。

で、仕事が決まったときの先生がみね子の家へ飛んでやってくるところとか、そのあと、みね子が時子の家に自転車でやって行くところとか、もうたまらなく面白くてわくわくしたし、時子がみね子が一緒の場所で働くことになったと聞いて泣き出してしまうところなんか、もうぜーんぶ、泣きながら観ていたもんなあ。

このドラマで中心となっている人物たちが活躍しているとき、誰かが誰を演じているとか、そんなふうに観ることができない。そりゃ部分的にはリアリティを逸脱してしまってある種のファンタジーの領域に足を突っ込んでいるところも(意図するとせざるとにかかわらず)あるだろうけれど、そういう些細なことを一足飛びに超越して、いつも僕は1964年、1965年の茨城や東京に連れて行かれてしまっている。
脚本のよさもあるだろうけれど、きっとそれだけじゃない。一カット一カットの撮影がきれいだったり、風景がよかったり、音楽がよかったり、そのうえにほとんどの役者が好演している。熱演というよりは、きちんと物語のなかの人物をそれぞれが生きているという感じがある。息遣いを感じる。仮想の人物たちだからこそ、魂を込めなければこちらの心にまでなにかを響かせることはできない。彼ら/彼女らがほんとうに心を震わせているからこそ、こちらの心にもその震えが伝わる。

で、卒業式。
特に三男の家の朝の描写がよかった。雪のちらつく中、家族みんなはわりあい素っ気なく三男を見送るのだが、道を曲がるその前くらいで三男が振り返り、大声で「きょうまで、ありがとうございました!」と挨拶し、深々と頭を下げるところなんか、ベタベタのベタな演出だとは思うのだが、やっぱりすごくいいところで、けれどもそこで三男の母ちゃん(柴田理恵)が泣き出すのかと思いきや、びっくりしたあまり、りんごの木から落っこちてしまって、三男の兄貴と父ちゃんが慌ててやってきて彼女を担ぎ運ぶ、というコメディ的展開でそのカットを〆るところが、前に指摘したような照れ隠し的演出で、とてもすてきだ。
じゃあ、このびっくりした母ちゃんが、びっくりするだけだったかというと、そうじゃねえんだよなあ。みね子たちが卒業式に出席しているころ、美代子のところへ君子と三男の母ちゃんが集まってきて、茶飲み話をする。そこで三男の母ちゃんが、なぜ三男にこれまでずっと冷たくしてきたのかということを明かす。
三男坊でいづれ出ていくことが決まっているのだから、清々する思いで家を出て行けるように生まれたときからずっと突き放してきて、ついに優しくしてやれずじまいだった、と。だから、こんな母ちゃんのことを嫌いに違いないと大泣きをするのだが、ここで思ったのは、柴田理恵って泣き上戸だから、この台本もらったとき泣けて泣けて仕方なかっただろうなあ、ということ。で、何度も何度も読み込んで、途中で泣き出してセリフを壊してしまわないように自制して、それで本番テイクに臨んだのではないかと思った。

ふつう、この卒業式の回が土曜日、つまりその週のクライマックスとなりそうなものを、『ひよっこ』はそんなケチなドラマではございません。そんなエピソードの出し惜しみというか、一週間につきワンアイデアの薄伸ばしみたいなことはいたしません。

みね子がついに家を出るというとき、妹・弟の手をつないでバス停までの道を行くみね子が振り返り、家の畑から見送る古谷一行に手を振り、そこに古谷が、悲しみ・さみしさを押し隠しているような表情でそっと手を振る。この場面、ほんとよかったなあ。『逃げる女』での古谷一行の演技をあらためて思い出した。
みね子・時子・三男の三人の家族がバス停にまで見送りに来ていて、そのとき時子の父ちゃんが持ってきていた聖火リレーのときの横断幕――助川時子ちゃん、がんばれ!――を見て、これが泣かずにいられようか。
みね子がバスの窓から顔を出してせいいっぱい手を振り、妹の名前を何度も呼び、「がんばろうね、がんばろうね!」と叫ぶところは、やっぱり方言のよさをしみじみと感じた。

上野駅に着いて、米屋のおじさんがやって来て三男をさっさと連れて行こうとするとき、みね子は「がんばろうね!」、時子は「負けんな。負けたら嫌いになっからね」と呼びかけるのにやっぱりじいんとしてしまった。きちんとしたおわかれの挨拶もなしに、奥茨城から一緒にやってきた友だちがあっという間にいなくなってしまうところに、なんだか僕までが心を引き裂かれるような思いをしてしまった。

やがて和久井映見演ずる「愛子さん」もやって来て、ひと騒動(※後述)あったのち、澄子をくわえた三人が連れて行かれる。そこを田神先生がひとり見送る。このカット、みね子たちの後景に田神先生がいるのではなく、田神先生の視点で、その向こうにみね子たちが描かれているところが重要。次いで、バストアップの田神先生が「がんばれ、がんばれ」とつぶやく。
このとき、僕は前回書いたようなことに気づいた。つまり、「あなたのことは、きっと誰かが応援している」というこのドラマのテーマだ。
愛子さんの手違いで、一瞬、みね子の働く場所がなくなるかもしれない、という可能性が出来するが、このときみね子が何度も何度も「(奥茨城には)帰れねーよ、帰れねーよ」と繰り返す。これは現在と違って、軽々に東京と地元を行き来できるわけじゃないし、簡単に仕事を転々と変えられるわけでもない、ということをあらわす意味があるのと同時に、みね子たちの状況が、簡単にお先真っ暗になってしまうような脆く頼りないものだということを暗に示してもいた。
そういう不安や危険に対し、本人たちには聞えずとも、「がんばれ」とつぶやき、応援してくれる大人がいる。その描写が、このシーンで最も大切なことであった。だから、田神先生のアップでなくてはいけなかったのだ。

実は、この何話分か前に戻って、残業していろいろな方面に電話をかけてみね子の仕事先を探す田神先生のところへ、化学の藤井先生がやってきて、一緒に手伝ってくれようとするシーンがあった。
けっきょく手伝いするまでもなく、愛子さんのところから電話がかかってみね子の就職先が決まるわけだが、しかし、みね子は藤井先生のこのときの善意・無償の親切を知らない。
(ちなみに、この場面で田神先生(男)は藤井先生(女)のために自らお茶を用意するのだが、この当時からすればめちゃくちゃ進歩的な男性だったに違いない!)

見えるところだけでなく、見えないところでも誰かの善意はある、というのがこのドラマの基底となっている価値観だ。あるいは、損得勘定のない善意、という言い換えをしてもよい。みね子の父親がはじめて赤坂のすずふり亭に行ったとき、宮本信子と佐々木蔵之介は、彼にこのうえない親切で応対した。そこに欲得の勘定はまったくなかった。
2017年を舞台にしたドラマでは、こんな「夢物語」を描くことはもしかしたらもう不可能なのかもしれない。みながみな、自分の裁量と才覚で自己責任でやり抜いていかなければならないし、仕事とか家族のことなんかは考えないようにするか、あるいはもう完全にほっぽりだしてしまって、それよりは承認欲求を中心とした自己肯定への模索が第一義にあって、きょうもきょうとて、リアルと仮想上の自分との乖離に悩んだり悩まなかったり。
誰かが助けてくれる、とか、誰かが応援している、なんてのはファンタジーで、「けっきょく人間は孤独なんだ」というその感覚はその感覚である種のファンタジーに耽溺している気もするのだが、すくなくともそっちのほうが流行りにあるらしい。
ま、それはそれでいいんだけれど、僕の子どもの頃から接していた価値観って、どちらかといえば、『ひよっこ』寄りのものなのだということを最近特に考えていて、だからこんなにも感動・感激しているのだと自分を納得させようとしている。

そもそも(※2017年5月、これからは「そもそも」の意味もすこし拡大されるようですよ)、このドラマを観て、しきりに感動した・感激した・泣けた、みたいなことをずっと書いていて、実際そのとおりなんだが、もしかしたらそれほどまでのものではないのかも、と疑いたくなることがときどきある。
僕が一種のノイローゼとか神経過敏の状態にあって、そのためにちょっとした刺戟でも心が過剰反応してしまい、ぼろぼろと涙を流しながら「すごくいい!」を連呼するというタイプの症状を呈しているだけなんじゃないか、とそういう疑いを我が身と心に向けざるを得ないほどに、やたらと心が動いてしまっている。
もし僕がそういう病的状態にないのであれば、このドラマは――すくなくとここまでは――大傑作だ。

そして、大傑作週のひとつである第5週「乙女たち、ご安全に!」のことが次こそやっと書けるのがたのしみで仕方ない。乙女寮のメンバー、特に藤野涼子さんのことが書きたくて書きたくてたまらないのだ。ご安全にーっ!

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第3週「明日に向かって走れ!」。

声を大にして言いたいのは、誰かを不幸にさせたり、病気にさせたり、あるいは殺したり、挙げ句の果てにはそれらのオンパレードを見せつけるためにわざわざ「戦争」を持って来たりしなくても感動を生み出すことはできるってことを、この「聖火リレーの週」は教えてくれたわけだ。
しかもその聖火リレーというのが、東京オリンピックといういわば権威づけられた行事の一部ではなく、そこから派生した村の行事――「オリジナル」からしてみれば「モノマネ」のようなもの――によって感動させる、というのが二重にすごいところなのだ。

もうこの週は奇蹟つづきというか、毎日毎日がスペシャルすぎて濃密。
月曜日。この日は、全部で4回のハグがあった。
  1. 東京から帰ってきた美代子が、みね子に本当のことを話しハグする。
  2. 畑仕事をしている美代子のところへ君子(羽田美智子)が手伝いに来るが、彼女の顔を見て泣き出す美代子を、君子がハグする。
  3. 元気づけるために盛り上げてくれる時子と三男を見て、感謝のあまり少し泣いてしまうみね子を時子がハグ。
  4. ついにリレーの計画書がガリ版であがり、それを見て感動したみね子をまた時子がハグ。
3.と4.とは意味合いが同じだから3回とカウントしていいとも思うのだが、いたわり、なぐさめ、共感、といろいろな感情を抱擁という行為であらわしていて面白いと思った。で、各ハグのシーンは感動的であるのだが、3.のところで、時子に抱かれたみね子が三男の方を見て「うらやましかっぺ?」と少しおどけるところがまた格別によい。「感動」を金看板にするのがまるで恥ずかしいとでも言うように、ここでまたユーモアに逃げるところが僕の好みなのである。

火曜日は、三男たちが青年団の集まりに出席し、聖火リレーの計画を打ち明けるところ。はじめ、三男の兄貴である団長たちが頑な態度で計画をすぐに却下しようとするところがリアル。
そこから先は、泉澤祐希の芝居の見せ所だった。というより、三男というキャラクターが泉澤という役者に取り憑いているように見えた。三男の言うところはつまりこうだ。村のことをいくら好きでもどうしても出ていかなければいけない人間だっているわけで、村というのは住んでいる人間たちだけのものではなく、遠く離れてしまっても村のことを思っている人間たちのものでもある、と。
しかし、ここで兄貴の太郎(団長)の返す言葉が辛辣なのもよかった。生まれたときから村を離れられないさだめにある人間だっている。
村を好きでも離れなくてはいけない人たち。村が嫌いでも住みつづけなくてはならない人たち。これらは対極にはあるものの等位の関係にあるのだ、と。
けっきょく青年団は手伝ってくれることとなり物語としてはハッピーな方向に進むわけだが、脚本が、村を離れられなかった人たちの心情を太郎に代弁させたのがよかった。
太郎たちは決して悪役なのではない。この場で和解したわけではなく、はじめから対立しているわけでもなかった。保守的という言葉が、当節流行っているような趣味としての態度ではなく、どうしても逃れがたい考えや習慣に基づいた態度をあらわす場合において、太郎たちは保守的なだけなのであった。そして、いまの僕にはこういう人たちのことが前よりは少しわかっている。
東京や横浜に住んでいたとき、周りにいた多くの人たちが「人間は自由でなければならない」という考えを持っていたように思うのだが、その人たちがそのような考え方にやはりとらわれていたのであったとすれば、そのとらわれ方においては――あるは保守的な考えをどうしても受け容れがたいという態度においては――同等に保守的なのだ。詭弁のようだがこれもまた事実で、たとえば信仰心が日常生活の基礎になっている人たちの近くで暮らしていると、迷信だとか前時代的だとかバカにする気にもなれないし、その人たちの理窟というのがそれなりに理解できるようになってくる(あくまでも理解どまりだが)。
だから、勇気を振り絞った三男の説得を聞き入れつつも、どうしてもひとこと言わずにはいられなかった太郎の気持ちにも共感できたのだった。

水曜日。みね子・時子・三男の計画が晴れて村中に周知されることとなり、各自の協力や「政治」の力によって大会実施にまでこぎつけ、あっけなくリレーはスタートしてしまう。
どこかで耳にした、というレベルの話で、本ドラマを「展開が遅い」と批判する向きがある(あった?)らしいのだが、全然そんなことないよ。だらだらしたところなんて本当になくて、つまらない朝ドラだったらリレーのスタートまでの準備回として一話分を使い切るのがあたりまえくらいなのに(たとえば『マッサン』のだらだらした展開は、いかにも時間稼ぎというのが見え透いていて酷かった)、リレーをスタートさせるどころか、ゴールまでしてしまうのだ(しかも回想が入るから実質はかなり短いと言える)。
僕などは、「ああ、リレーをもっと観たかったのに、きょうだけでおしまいなのかあ……」とがっかりしたくらいなのだが、まあそれは翌日、早とちりだったということが判明することになる。
リレーでは、三男が泣き、時子がよそいきの笑顔を見せ、みね子が内心に不安と希望を抱えながら、走る。
ただそれだけっていう言い方はないけれど、でも、この回のメインは登場人物たちが聖火を持ってただ走るだけ、なんだよね。ただそれだけだからつまらない、ではなくて、ただそれだけなのに、(月並な言い方だけど)ものすごく感動してしまったんだよな。
ひとりのランナーの後ろに何人もの子どもたちがわーわー言いながら追走し、また沿道でも大勢の人たちが立ち並び、拍手や旗を振ることでランナーを迎え、声援を送る。頑張れ
これは、もっとあとまで観たから気づいたことなんだけれども、この構図もこのドラマの重要なテーマで、「あなたのことは、きっと誰かが応援している」ってことなんだよな。熱心に前だけを向いて走っているから気づかないかもしれないけれど、あなたの後ろには大勢の人たちがいて、あなたを応援している。あなたは決してひとりじゃない、だから安心していい。
以下はみね子がゴール地点に戻ってきたところで妄想してしまったことなのだが、この大会に出てくる大勢のエキストラの中には撮影協力している撮影地の人たち(すげーアバウト!)もきっといたに違いないと勝手に決めつけていて、その人たちが撮影前に集合をかけられ、監督から大まかな段取りを聞かされ、各々の「演技」という名のたのしい時間を過ごした。
撮影が終わって、制作陣や出演者からの挨拶も聴き、みんなで和気藹々と帰り、それから何日も何日もその話を繰り返した。「有村架純ちゃん、かわいかったねえ。顔こんなに小さいんだもん。やっぱり女優さんだわあ」「佐久間由衣さんも、もんのすごいべっぴんさんだったなあ。サインもらっておけばよかった」「三男くんやってた子もハンサムだったし」「○○さんとこのばあちゃんなんかセリフまでもらって、有村架純ちゃんと話しているのがそのまんま放送されたんだから、うーらやーましーい!」とかなんとか。
それからだいぶ時間が経っていよいよテレビ放送の当日ということになって、「その回」を観てみたら、画面の隅に写った自分たち――あ、ほら! あそこにいた! え? どこどこ?――が、物語の一部になっているのに気づいて、唯々たのしかったという感想に、誇らしい気持ちまでもがくわわった。あ、なんかおれ/わたし、端っこのほうだけどちゃんとドラマん中にいる。おれ/わたしは、あのとき、ほんとうに三男くんや時子ちゃんやみね子ちゃんを応援していたんだ。ほんとうに、「頑張れ」って言っていたんだなあ。ああ、このドラマに出られて、ほんとうによかったなあ。
……というような妄想をしていたら、そこにもじいんとしてしまって、関わった人がみな誇らしく思えるドラマだよなこれは、と自分の妄想の自画自賛みたいなことまでしていた。
ところで、聖火リレーのイベントを案内するためにみね子たちが掲示板に手作りのポスターを貼るところがあったのだが、その隣には「リヤカー借します」と書かれた張り紙がしてあるのにたまたま気づき、「むむむ」と唸ってしまった。もちろん美術スタッフの誤記ではあるまい。ここらへんの文字遣いの大らかさが時代をうまくあらわしているように感じられた。
余談だが、小学生の頃、近所の図書館に冷水機(足でペダルを踏むか飲み口そばのボタンを押すと、冷えた水がピューッと出てくるやつ)が置いてあったのだが、そこの近くに「冷い水あります」の案内書きがあって、子ども心に「なんと読むんだろうなあ」と首をひねったものだ。それが間違いというわけじゃないけれども、当世なら「”正確”な送り仮名ではない!」とすぐツッコミが入るだろうし、表記の多様性もなかなか認められないだろうから、このような例はほとんどなくなっているかもしれない。

で、木曜日。「たった一話で終わってしまってさみしいなあ」と思っていた聖火リレーだが、結論から言うともう一度繰り返された。しかしそれは、ニュースの一部としてテレビ放映されたものをみね子・時子・三男の三人の家族たちが集まって観る、というもので、単なる繰り返しに堕さない、それどころか、田舎ではなく都会の視点からあらためてとらえなおすというところに、ユーモアとほんのちょっぴりとした毒気があって、このアイデアには参った。
しかしまあ、このお茶の間の風景が実にいいのだ。ナレーションによって持ち上げられたり貶されたりするのに対して喜んだり腹を立てたり。で、放送が終わってしまったら、さみしいような、なんだかものすごく期待していたものに対してあてがはずれたような、そんな放り出されてしまったよう気持ちをあらわす間(ま)が一瞬だけその場を支配して。
この記事のはじめの方に、奥茨城村の聖火リレーを「『オリジナル』からしてみれば『モノマネ』のようなもの」と書いたが、まさしく東京のテレビ局は「まがいもの」と見なしているわけだ。
これは、青年団を説得しようと三男が、自分たちの境遇を涙ながらに訴えたのに対し、兄貴の太郎に「ひとこと物申す」とやり返されたの構図と少し似ている。ただ、今回の「東京の視点」には当事者性がないので、等位ではない。むしろ、これから村を出て行こうという時子・三男(そして結果的にみね子もそうなのだが)を、東京がどのように迎えるかのひとつの象徴でもあるわけだ。自分たちが特別なもの・大切なものと思っていたものが、他者(=東京)から見ればそうとは限らないことを、東京に行く前から少しだけわからせる、そのような演出意図もあったように思う。
しかし――これが非常に重要なことだが――そのような無意識の悪意のようなものに村の人たちが打ちのめされるわけではなく、そんなもんだっぺ、東京から見たら、と軽々と割り切り、「でもたのしかったっぺ?」とたのしむべきをたのしむ、としたところが、やっぱり「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」の精神なのだと思う。
このあとみなで軽食をたのしむ場面まで含めて、ほんとうにすばらしかった。東京の人たちから見ればなんでもないものでも、やはり奥茨城村の人たちにとっては心から大切なものなのだ、と逆説的に描写されていたのだから。
そのあとは、ついに東京でのオリンピックが開催されるところまで描かれる。昭和39年のオリンピックのほうだ。
なお、朝ドラ『ごちそうさん』が放送されたとき、そのあまりにもありえない美食っぷりに対して「ありえなかったものを、さもあったかのように描き、みじめで貧しかった過去を理想化・修正しようとするプロパガンダ的意図があるのではないか」と書いたことがあって、それはいまでも疑っているところがあるけれど(そうでなければ脚本家の頭がお花畑なのだろうが、その脚本家とはいまの大河ドラマの脚本家なわけで、『直虎』において「過去」や「歴史」がどのように描かれているか、ということで間接的に判断することも可能なのかもしれない、僕はくだんのドラマは観ていないけれど)、実は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに対する気運を高め、ついでに家族やふるさとを大切にしようという伝統的保守主義によるプロパガンダ的意図は、むしろこの『ひよっこ』に見出すことのほうが容易なのだ。
いや、それだから否定しようというわけではもちろんない。反対に、仮にそのような制作背景があろうとも、こんなにいいドラマをつくってくれていることを感謝するだけだ。

金曜日。まさに三男じゃないけれど、聖火リレーの余韻に力が抜けてしまってなんとなくぼうっと観てしまう回。
ここらへんでついでに忘れないように書いておくけれど、オープニングもめちゃくちゃすばらしい。日常の細々とした雑貨をいろいろなものに見立てて、そのなかに聖火リレーがあったり、バスが走ったり、これまでドラマ内であった場面がさりげなく描かれている(ライン工場らしきものもちらっとある)。であるからして、銀座の服部時計店がライトアップされたりする場面やみね子(あるいは時子?)がネオンに彩られた夜の街に心を奪われるような場面も、今後出てくるのかもしれない。

土曜日。いい意味で垢抜けない雰囲気も持っているんだけど、なにせやたらと手足の長いところが現代的な千代子が家出をする。彼女が怒っているのは、子どもだからという理由で、自分の父親が失踪してしまったという重要な話題から、自分が疎外されてしまったことなのだろう。その態度を見たみね子が、自らが大人としてどのように振る舞うべきなのかということを決心し、母と祖父に対して東京に出稼ぎに行くことを告げる。
ただの気まぐれからではなく、家庭の経済状況を鑑みて出ていかざるを得ないという現実は、これまで丁寧に描かれてきたために視聴者にとっても重く響く。だから、みね子の「わたし、決めたんだ」という言葉のせつなさが、胸に刺さる。
というわけで、次週の「旅立ちのとき」につづく。

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第1週の感想について書いた「ん? これってかなりいいんじゃないの?」という予測というか期待は訂正する。かなり、じゃない。最高に、いい。

現在、第6週をリアルタイムで追っかけているところだが、とりあえず簡単に振り返りつつ記録しておこうと思った。
まず、第2週「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」。
三男の案で、奥茨城村で聖火リレーの企画をしている一方で、みね子の父ちゃんが行方不明になるという週。
次週、次々週……と展開を知っているいま観返してみても、やはりわくわく・どきどきしてしまう。ひとつひとつのシーンの描写が丁寧で、登場する人物がみな生き生きとしていて、ほぼすべての人たちに愛着が湧く。
正直に「ほぼすべて」の例外を書けば、松尾諭だけはまったくもってなんとも思わないし、できれば出てもらいたくないほど。それと、(録画の都合上、どうしてもチラと映ってしまう)次番組はじまりの有働由美子の、いかにも「いままで観ていました」みたいな表情にもうんざりしている。ここ数年とみに感じられるNHKの内輪感がすべてここに象徴されている気がする(別段きょうに始まったことではなく、ずーっとそれをウリにしていることも知っているが)。いやだねえ。

峯田和伸演じるムネオが、登場した当初はいかにも親父の古谷一行と確執がありそうなものを、それがまったくなくて、あるいは谷田部家にトラブルを持ち込んでくるかと思いきや、それもまったくなく、どころか、美代子(木村佳乃)が夫の実(沢村一樹)を探しに東京に行くということを相談する段には、ほんとうに親身になってくれるやさしい義弟を好演しており、そのやさしさにやはりぐっと来てしまうのだった。そして、その人生観というかやさしさの根拠がどうやら戦争帰りにあるらしい、というのが、なんというか、時代設定に対して誠実という気がする。
ここ最近の朝ドラで戦争を直接描写したものについても、脚本家たちが浩瀚な資料に当たったことは想像に難くないが(そうでなければ、「戦争を知らない」世代が軽々に戦争を描こうと思えるはずがないのだから!)、しかし、どうしても悲惨さを十倍二十倍に希釈したような括弧つきの「戦争」にいい加減さや底の浅さのようなものを感じてしまい、だったらそんな時代設定を避けりゃいいのに、と思うことがまことに多かったのだが、もしかしたら制作側には、「戦時中を描けば感動モノになりやすい」みたいな安っぽい打算があるのかもしれない。
そういう安直な手法で描出される「戦争」よりも、ムネオの背中の傷に無言で語らせる、というやり方のほうがずっとエレガントで実(じつ)があるように感じられる。

実が帰ってこないことをまずムネオに相談するところでは、木村佳乃の迫真の演技によって、谷田部家の抱える不安が文字通り真に迫ってくるのだが、けれどもそこでシリアスになりすぎず、ムネオが「(もし実が見つかったら)一発殴るよ、おれは」と美代子とじいちゃんを少しだけ笑わせるところが、好きだ。
このようなシリアスで終わらせずに、どこかユーモアを交えて場面を終える、という描き方がこのドラマでは(少なくとも第6週までは)通底しているようだ。これとよく似た演出方法につい最近接したことがある。こうの史代『この世界の片隅に』である。
あのマンガは、戦争そのものを描いているのにもかかわらず、その一方で戦時中の「生活」をも同時に描いているという点に特に優れた部分を見いだせるわけだが(本心を吐露すれば、それ以上に、作者の詩的表現があのマンガの最高で最良の部分だと思っている)、それを成り立たしめているのがユーモアであって、どれだけ辛く苦しいことがあっても、物語の軽重のバランスを取るように、ちょっとだけユーモアが用意されている。
戦争はそんなもんじゃないよ。誰かが傷つくってことは、誰かが死ぬってことは、そんな帳尻合わせがいくようなもんじゃ、決してないよ。と、そういう意見があろうことは理解できる。
けれども一方で、どこかに救いがなくては人間は生きてはいけない。それは作中人物とて同じことで、辛さ苦しさの底でのたうち回っているままでは彼/彼女は救われない。ちょっとした救いが、ちょっとした笑いが、生き残った者たちを明日に一歩だけ進ませる。あのマンガの最後の一ページが、ユーモアと希望に満ちていることに、僕は救われた。物語のなかの生きている人たちもまた救われたことだろう。

深刻であること・悲惨であることのみをもって良質のものとし、喜劇的要素が少しでも入ってこようものならそれは一段下がったところに置かれるべし、なんていうのは近代ブンガク的価値観であり、都市伝説みたいなものだと思っている。もはや現代においては、世俗性や諧謔と深刻さは同居しうるということは当たり前となっており、本作『ひよっこ』も、このまま行けば、その好例のひとつとして映像の歴史にその名が刻まれることだろう。
「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」というのは、きっとこの週だけのテーマだけではないはずだ。

ところで、この週のハイライトは、実を探しに東京に行った美代子が、警察署で泣きながら夫を探してくれと訴えるところだろう。こんな熱演を、朝ドラで観ることができるとは眼福の至りである。
そしてその後、美代子はすずふり亭を訪れて、やはり宮本信子と佐々木蔵之介の親切すぎるといっていいほどの応対を受け、挙げ句の果てには上野駅にまで追いかけてきて「せっかくのご縁じゃないですか」と言って一緒に夜食を食べるわけだが、ここでもぐっと来ないわけがない。
このすずふり亭のふたりのやさしさ・善意というものが、ある意味ではこのドラマの象徴でもあると思っていて、1週の感想のときにも書いたが、西岸良平『三丁目の夕日』と地つづきの世界なのだ。
気持ちのよい人物たちが幾人も出てきて、その人たちは、ただただやさしい。いろいろな物語に毒された現代の視聴者であれば、そういうものを一種の幻想と即断してしまいがちではあるが、それでも少なくない人たちが、このドラマを観て感動していると思う。
それは、安直にエピソードとエピソードを結びつけて強引に展開しようとは決してしない丁寧な脚本、および、手抜きが見られない細部や小道具に代表されるまったく弛緩していない制作陣の緻密な演出、また、役者たちのしっかりとした基礎の上に成り立っている演技力や、あるいは、古き良きアメリカンポップス・マナーを踏襲した桑田佳祐の主題歌(素人的私見として大滝詠一オマージュなのかな、なんて思ったりしている)などがあってのこと。それらのすばらしい複合藝術として、このドラマは存在しているのだ……などとかなり前のめりに高評価してしまっている、きょうこの頃なのであった。

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坂本慎太郎のアルバム『できれば愛を』を何度も何度も繰り返し聴いている。そのなかでも『ディスコって』の歌詞に打たれている。


(※坂本慎太郎のVer.はなく、オノシュンスケのカバーVer.しかYouTube上にはない)
今 男が 女に声をかけた
今 不思議な 沈黙が訪れた

ディスコは君を差別しない
ディスコは君を侮辱しない
ディスコは君を区別しない
ディスコは君を拒絶しない

今年も盆には みんな来る
さあ出迎えよう迎え火で

ディスコって 男や 女が 踊るところ
ディスコって 不思議な 音楽かかるところ

ディスコで君は何もしない
ディスコも君に何もしない
ディスコに君は期待しない
ディスコも君に何も求めない

たまらず先祖も 蘇る
まあ次の日の夜中まで

今 女が 男の肩に触れた
今 男が 男と腕をくんだ
今 女が 女とキスをしてた
今 男が 男と外に消えた

ディスコは君を差別しない
ディスコは君を侮辱しない
ディスコは君を区別しない
ディスコは君を拒絶しない
ディスコで君は何もしない
ディスコも君に何もしない
ディスコに君は期待しない
ディスコも君に何も求めない

ディスコって 男や 女が 踊るところ
ディスコって 不思議な 音楽かかるところ
ディスコって 男や 女が 出会うところ
ディスコって いつでも 一人になれるところ
ディスコ
上に掲げた歌詞を読み、あるいは耳にして、そしてこの曲がリリースされたのが2016年ということを考慮すると、どうしても米国フロリダのゲイナイトクラブ銃撃事件が想起してしまう。
何度も繰り返される「ディスコは君を差別しない/侮辱しない/区別しない/拒絶しない」。そして中盤には男と男、あるいは女と女という同性愛の関係性を連想させる歌詞もあり、ディスコというものが、そういう愛の形態をごく自然のものとして受け入れている場所なのだ、という宣言のようにも思えてくる。

この曲が収録されている『できれば愛を』は2016年7月26日にリリースされた。たとえば2016年6月9日CINRAのニュースではその情報が早くも公開されており、そこに掲載されたジャケットの画像にはside Bの4曲目に同曲の名前が印刷されていることがはっきりと確認できる。
しかし、上記のゲイナイトクラブ襲撃事件は、2016年6月12日未明に起きている。つまり、僕がはじめに思った、事件を発端として書かれた曲ではないということだ。
僕はこの事件を、CNNのレポーター(彼自身がゲイということらしい)が、犠牲者の名前とそのプロフィールをつぎつぎと読み上げながら、込み上げてきたために声が震えてしまう動画とともに憶えている。


菊地成孔が、自身のラジオ番組でポピュラーミュージックにはそのような偶然はよくあることだ、と言っていたことがある。
アントニオ・カルロス・ジョビンの『三月の水』について触れ、「三月の水」という言葉が日本人にとって特別な意味を持ってしまった、と。そのあとに、ポピュラーミュージックにはそのようなことはよくある、と継いだ。

それほどシリアスではない例として。
今年の2月26日に、リリカルスクールという5人組のアイドルグループのうち、オリジナルメンバー3人が卒業するということでその最後のライブがあった。
僕はそれをLINE LIVEで観たのだが、出てくる歌詞のいちいちに衝撃を受け、胸が詰まりっぱなしだった。
たとえば、「楽しもう今日は今日だけだから(『ワンダーグラウンド』)」、「1分1秒でも長く!(『マジックアワー』)」、「多分だけど絶対今日のことずっと忘れないと思うんだ(『サマーファンデーション』)」など。
もちろんこれらの曲は「卒業」を意識してつくられたものではなく、そしてつくられた時期もばらばらだ。
しかし、これらの言葉が耳に入ってきたとき、「ああ、これはまさしくきょうのこの瞬間のためにつくられた曲だったんだなあ……」と感慨の深い深いところにひたりきってしまった。


音楽には魔法があると思うことがよくある。僕自身は音楽は詳しいほうではないが、それでもたぶん、力はある。
たしかきのうとかおとといくらいに、東京レインボープライドがあったはずだけど、そのどこかで、『ディスコって』が爆音でかかっていたりしたら、とてもすてきな光景だったろうと思う。

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地方再生とか創生ってないよね、って実感している。
地域の魅力を、とか誰もが言うけれど、そんなもんがあるなら若い人は出ていかないよ。出て行っちゃったから移住者を招こうとしているわけなんだから。
地域活性化という目的で何百万円が注ぎ込まれたある実例を知っていて、それをある人に話したら、「あら、かわいいもんですよ、そんなの」と言って、その方の住んでいる地域での地域活性化事業の金額が二桁違うということを教えてくれた。
もうほとんどの人が利用しないであろう施設を大幅に改修してその金額。名目上は、その施設を再利用するということなのだが……億単位のお金をつぎ込んでやることではない、というのは余所者でも簡単にわかること。そして、その事業を推進したというムラの長の懐にはいったいなにが入ったのだろう、というところまで考えを巡らすのはごく自然のこと。
そういうのが、日本全国いたるところであるのだろうし、そういう事業を引っ張ってくる政治家が「えらい先生」ということになるのだろう(直接的には省庁経由だと思うけど)。
そういう「えらい先生方」のなかのさらにえらいやつが、たとえばデマ情報をもって学芸員批判をして、後日、曖昧模糊とした撤回・謝罪に終始することになる。
現閣僚たちほど仕事ができない、もう少し言葉を選べば任ぜられた職務にふさわしくない人間を、僕は実社会で出くわしたことがない。「あいつ、ほんとダメだなあ」と陰口を叩かれまくりの人間だって、もう少しまともだったように思う。
率直に言って、ああいう人たちを支持している人たちって、同様に無能なのかなと思う。自分たちと同じ程度だから安心できる。そういう理窟なのかな。で、そういう人たちってきっと多いのだろうな、と考えてしまう。そうでなきゃ、支持率が高いはずがない。
僕の知っている「まともな人たち」であれば、おれ/わたしだったら少なくともそんなことはしない、ということをいともたやすくやってのけてしまう人間たちを、支持するはずがない。支持どころか、軽蔑し、怒りを覚えるはずだ。
殊に最近は、専門家や研究者たちの意見と、なにも勉強していないただの素人の放言とを一緒くたにしてしまうタイプの「意見の平等性」という考えが、実際に言語化されていなくても、浸透してしまっている気がする。すごい自信に裏打ちされているのだろうな。僕にはとうていそんな考え方できないけど。

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