とはいえ、わからないでもない

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※はじめ、このブログ記事は「今年の夏もアイドルによって救われた、という話」にする予定だった。

ひと月ほど前、いや、もしかしたらもう何ヶ月も経ってしまっているのかもしれないけれど、菊地成孔がそのラジオ番組でジャニーズアイドル(キンプリというらしい、初耳だった)を取り上げ、くわえてそのファンの動向も追っている、というようなことを話していた。いわく、インスタグラムにキンプリのチケットの画像をアップし、「#これで生きていける」というような彼女たちのコメントが宗教告白のように感じられた、というような。彼の当該アイドルに対する分析――音楽というよりむしろダンスや歌の歌詞部分についてのものがメイン――はいつもながら華麗なものではあったが、しかしファンに対するそれはなにも目新しいものではない、というのが僕の率直な感想だ。アイドルファンなんて前々からそういうものだよ、と。むろん彼は、いままでほとんどスルーされてきた(であろう)中高年世代の女性ファンがその歌詞のなかではじめて承認されたということが感動的なのだという説明をしていて、たしかにそれはそうなのかもしれないが、しかしだからといってそのことが、僕の価値観を揺るがすということはまったくなかった――つまり、ファンたちの献身性やひいてはそこから見えてくるアイドルそのものが持っている宗教性および偶像性などについてはずっと以前から認識しており、それらは確固たる事実としてこれまでも存在してきたし、またこれからも存在していくだろうということだ。これは、僕なんかよりもっとこの界隈を体験し味わっているアイドルオタク(ドルヲタ)の人たちの実感の総体でもあろうと思う。日頃あまりアイドルについて興味がないというかむしろ小馬鹿にするのをマナーだと思っているような人たちは「菊地さんがまたすごいことを言っている!」という驚きとともに新たな「発見」として捉えのるかもしれないけれど、日常からアイドルに慣れ親しんでいる人たちにとっては「なにをいまさら」の一言で終わってしまうようなことにも感じられた。アイドルそのものに対する「尊い……」というジャーゴンはあるし、すくなくとも僕はそれをファンに対して何十回使ったかしれない。ちょっと正確ではないかもしれないけれど、でんぱ組.incの夢眠ねむ(=ねむきゅん)だって、ヲタクへの愛着からアイドルそのものへ興味を持ったというような経緯があったという記憶がある(どうでもいいけれど、夢眠って「むーみん」って読めることにいまさら気づいた)。そのような「視点」は、目新しいどころかむしろとても古典的だということだ。
まあ、いいんだ。誰かがいまさら発見したり指摘したりしたくなるのがアイドルのすばらしさというもので、これまでもずっとそういう「新発見」や「価値観の大転換」というものはあったし、これからもずっとある。いや、それはアイドルに限らないことなのだ、ほんとうは。僕はこの世の中に野球がなくたってまったく構わない人間なのだが、そのファンたちが熱く思いを語るのは大好きでいくらでも聴いていられる。実際、去年観た多くのミュージックビデオのなかで最も感動したものは、難解で前衛的なミュージシャンのものでもなければ、マニアックでエッジの効いたアイドルのものでもなく、オジロザウルスの『OUR TIME IS N.O.W.』だった。

これを、何十回再生したかわからないってくらいに時間さえあれば観ていた。去年はまったくの0回、この数年間あわせてみてもたぶん一試合すらまともに観たことがないくらいだから、もしかしたら野球というものは誰か大勢の人たちが時間と手間をかけてそういうものがあるのだというふうに見せかけているだけの壮大なフィクションなのではないかと思えることもしばしばあって、たとえそうであっても、前述したように僕は一向に気にしない。そうでしたか、野球っていうのは実在しない想像上のスポーツだったんですね、へー、というふうに。そんな、村瀬秀信『4522敗の記憶』を耽読したとはいえ横浜ベイスターズに対してはほとんど感情移入もない僕だったけれど、上掲動画0:54に登場する女性の祈る姿、この一瞬が、去年観た他のすべての動画を圧倒した。これこれこれだよ、と。この姿によって、野球というものがやはり実際にあるらしいということが確信される。大阪ローカルラジオ局を聴いていた時代によく耳にした六甲おろしも、架空の楽曲ではなく実在の球団への実在の応援歌なのだということも確信される。さらには、そのファンたちの自分の人生の一部を惜しみなく捧げる美しい姿を見てはじめて、その対象の尊さを知ることができる。もしこんなふうに人間を本気で怒らせたり笑わせたり泣かせたり悲しませたりするようなものがあるのなら、それはきっと尊いものに違いないと。
アイドルもそういうものなのである。僕の現在のアイドルへの関心が生じたのは3回ほどきっかけがあって、軽いものでいえば、AKB48の『大声ダイヤモンド』を地元の中学生たちが一所懸命フリコピしているのを見かけて「こんなに男子女子とも本気になれるAKBってどんなのよ?(実はインディーズデビューシングル『桜の花びらたち』はそのリリース当時にCDレンタルしていた、彼女たちが有名になるずっとずっと前のことだ)」と気になったことがまずひとつ。もうひとつは知人の薦めで観たももクロの『Z女戦争』のライブ動画で、彼女たちがかなりキーを外しながらダンスしていることに衝撃を受けそこから気になりだしたのだが、やはり最終的な沼に落ちた瞬間は、でんぱ組の『くちづけキボンヌ』の動画で、間奏明けのねむきゅんパート(3:15~)のケチャの美しさを観たときだった。
これはいままでに何度か書いてきたことがあるのだが、このときはもちろん「サイリウム」とか「ケチャ」なんて言葉も知らず、ただ「ミントグリーンに光る棒」としか認識できないもの、それを何本も持った客席の男性の文字通り捧げるように振る姿に、「おれはいま、ものすごいものを目の当たりにしている!」という謎の感動を覚え、涙が出そうになった。実際、泣いたのかもしれない。余談だが、島本和彦のマンガ『アオイホノオ』第1巻の第2章の最後で、マンガ家を目指してはいるもののまだ何者でもない大学生のホノオが、ふと入ったうどん屋でマンガ雑誌を手に取り、そこに載っていた高橋留美子の『うる星やつら』を読んで「いかん、俺の心の何かが持っていかれる!?」と衝撃を受ける。この回の最後のコマは、無理言ってうどん店主に譲ってもらったその雑誌を片手に、彼が泣きながらうどんをすするシーンなのだが、この回を僕はリアルタイムで読んでいた。コンビニで今はなき『ヤングサンデー』をたまたま立ち読みしたとき、たしか今のような連載という形式ではなく、何回連続だかの読み切り短編ということで掲載されていたと記憶するのだが、このシーンを読んで、まさに僕自身が主人公のホノオのように感動を覚え、やはり「おれの心の何かが持っていかれる!」という気持ちに陥った。それを別の言葉で言い換えれば、「おれはいま、ものすごいものを目の当たりにしている!」というものだ。人生のなかで、そういう瞬間はときどきある。意図せぬ方面から、また期待などまったくなかった方角からそれは、予兆なしに刹那的に暴力的に一方的にやってきて人を襲う。それを知る前と後では、人生がちょっとだけ、あるいは大幅に変ってしまう。ねむきゅんに捧げられたケチャの美しさ・尊さによって僕は、アイドルというより、アイドルファンに興味を覚え、爾後、YouTube上ででんぱ組ヲタたちのコール動画というものを漁った。彼女たちのオリジナルMVはそっちのけで。そういうものを何十回と再生していくうちに、大学生と思しきヲタたちのたのしく踊っている様子を見て「ああ、おれが大学生のときにもしでんぱ組がいたら、こういうサークルに入ってみんなと踊っていたかなあ」と夢想することもまたたのしみのひとつとなっていた。もちろん、「いや、やっぱり踊っていなかっただろうな」という結論でその夢想は毎度打ち破られるのであるが。しかし、ファンをずっと観察していくとそのうち、上述した野球の例のように、そのファンたちが尊敬し愛してやまないアイドルそのものに対しても興味を抱くようになる。全通することなどまったくいとわないおまいつと呼ばれるようなディープなファンたちが、人生のかなりの部分を割くことにまったく躊躇しない対象というものはいったいどういうものなのか、それが知りたくなってくるのである。結論からいえば、これでもかってくらいにめちゃくちゃ言い訳をつくって遠回りした挙げ句、問題に正対し直視した瞬間に簡単に恋に落ちちゃったっていうそういう話。
ここでまた話は変るのだが、僕の仕事は春先から秋にかけてだいたい忙しい。忙しい自慢というわけじゃないけれど、「自慢するわけじゃないけれど」という言葉につづくのはだいたい自慢話であって、そりゃあ失業している人からすれば自慢みたいな内容になってしまうのかもしれないが休みなんてまったくとれない。忙しさのピークに入ってしまえば連休どころか半日休みをとることすら難しく、毎朝毎朝4時に起きて5時くらいにはもう車をぶっ飛ばす日々が最低2ヶ月間はつづく。しかも(これはもう100%自己責任で仕事とはまったく無関係なのだが)夜遅くまで起きているせいで、朝は眠い。脳味噌が半分以上夢の世界に浸かって半液状化しているようなこんなとき、いったいどうすればガードレールを突き破って谷川に落ちて行かずに済むのであろうか。きついメンソール系のガム? 強烈な炭酸飲料? あるいは覚醒するためのおクスリ? Creepy Nutsじゃないけれど合法的なクスリは、やっぱり音楽だろう。それもBMPの速い。となると途端にアイドルソングがプレイリストの上位に並んでくる。激しいリズムと、エモーショナルなリリック。そして、それを唄っているカッコいい女の子たちの映像が付随してイメージされる。2018年の夏ってどんなだった?という問いがあったとする。ヘビに喰われた四羽のツバメの雛たち、旱天の八月に長雨の九月、一件の葬儀と、大きなふたつの台風の直撃、およびそのうちのひとつによってもたらされた七十二時間の停電と二十四時間の断水など、それなりの小さな出来事があったが、それらのことはほとんど忘れ去ってしまった。ただひとつ、この曲に僕の記憶のすべてが詰まっている。今年の夏のすべてが。
やっぱり今年の夏は虹のコンキスタドールの『ずっとサマーで恋してる』が最もすばらしかった。いまだに、いまだにこの曲のDメロを聴くと涙が出てきてしまうのだが、これはきっと「夏のおセンチな気分」によるものなんかでは決してなく、この歌詞の持っている力強さによるものなのだと信じている。
生まれた意味が"キミに逢う事"
ただそれだけだったとしても最高じゃないかっ!
今を生きる わたしたちは 無敵だっ!!
勝手な推測だがもともとこの歌は、虹コンの夏ソング、『THE☆有頂天サマー!!(2015)』『限りなく冒険に近いサマー(2016)』『キミは無邪気な夏の女王〜This Summer Girl Is an Innocent Mistress〜(2017)』につづく4作目というふうに位置づけられるもので、ひとりの女の子の成長のようなものが感じ取れる。『有頂天サマー』では、「人生は欲張って いいのだ」「青春は胸張って いいのだ」として、けれども最後に「ぜんぶ ユメでも いいのだ」とサゲる。オチといってしまうと言い過ぎで、これはもちろん積極的になりたい女の子の自己防衛本能みたいなもの。それが、翌年の『限りなく冒険に近いサマー』のなかでは「去年みたいに全部が  夢でいいなんて思えない」という歌詞がでてきて、前曲にあった保険みたいなものも取っ払ってより積極的になるという宣言をしているが、その一方で「少し背伸びな 女の子でもいいよね?/なんたって 夏が悪いんです♪」と、自分の積極性を「夏のせい」にしている。夏を理由にしてちょっと頑張っちゃいますよ、という歌ね。それが、その翌年の『キミは無邪気な夏の女王』のはじめのほうでは、「パリピになりたいなーーーっ!!!/なんちゃって♪」とか「ギャルならモテるかなーーーっ!!!/なんつって♪」などと韜晦しつつ、最後の最後でひっくり返す。
わたしは わたしを生きてくんだ! わたしは わたしで生まれたんだし!
わたしは わたしを生きてくんだ! もうっ!(夏のせいじゃない)
わたしは わたしを生きてくんだ! わたしは わたしで生まれたんだし!
わたしは わたしを生きてくんだ! もう…
(夏のせいにも 恋のせいにも 誰のせいにもしないっ!!)
これ、毎年一曲づつ聴いてきた人間からすると、グッときちゃうんだよね。ただのラブソングっていう言い方もないけれど、彼氏がほしいとかたのしい夏を送りたいなんていう牧歌的なところから一段高次の話になっていて、人生肯定の歌、まさしく人生讃歌になっている。それが今年の歌でどうなったのか。
『ずっとサマーで恋してる』では、ヒロインの好きな男の子が別れた過去の彼女のことを引きずっていて、それをもどかしく思っているところから始まる。ここにいるぞ、と。あなたはそこでまだウジウジしているけれど、ここに、「思い出の中のあの子」なんかじゃなく、「リアルすぎるくらいにリアルなわたし」がいるぞ、と。と言いつつも、それじゃあ自信満々なのかというと、ほんとうはそうじゃない。「あの子」との比較のなかでヘコむこともあるし、ムリと思ってしまうこともある。けれども、それでも、「夏を一緒にはじめよう」「どうかミライを探そう」という。そこで先述したDメロになる。
生まれた意味が"キミに逢う事"
ただそれだけだったとしても最高じゃないかっ!
今を生きる わたしたちは 無敵だっ!!
上の2行だけでも最高。まごう方なき人生讃歌であるし、これ以上ない自己肯定感に満ち溢れている。けれども、最後の行で「わたしたち」と出てくる。単なる「わたし」ひとりの肯定だけではなく、「わたし」と「キミ」ふたりだけの肯定でもないのだ。僕はこれを、「”現在”を生きている」と実感しているすべての同時代人たちへの讃歌、エールだと受け取った。言うなれば人類讃歌である。なので、何度聴いてもこの部分が流れるたびに感動してしまう。まだ気の遠くなるほどの暑さの予感はないとはいえ、泥のように重たい頭を抱えた早朝に聴けばなおさらだ。また、「無敵」という言葉もいい。でんぱ組.incの『Future Diver』のなにがいいかって、「無敵だもん」という歌詞。無敵という単語のこのような遣い方というのは、たぶん、スーパーマリオなどのゲーム界から来たものだという実感があるのだが、この単語を非常にうまく作中で扱ったものに、松本大洋のマンガ『ピンポン』がある。ふたりいる主人公のうちのひとりがもうひとりに「(卓球が)強いんだ?」と訊くと、「無敵だよ」と答えるシーンがあって、ドキドキした。すくなくとも僕がそれまでに見聞きしていた無敵という言葉は、ゲーム中やごっこ遊びの中にしか出てこず、幼稚で言葉足らずな世界でしか通じないという印象だったのが、『ピンポン』の上記セリフによって市民権を得たというか、シリアスな場面でも通用しうるもの、という認識を得たはじめての体験だった。つまり、言葉の意味がアップデートされた瞬間だった。そのような僕の個人的な経験に照らしてみるとさらに、「今を生きるわたしたちは無敵だ」というフレーズは響く。そしてさらに歌はつづき、最後に「この夏が過ぎ去っても歌い続けようぜ」と出てくる。形式的にいえば、この部分はそのあとの「わたしの声よ届け」にかかっていくわけだが、けれども独立してとらえることも可能で、この歌の持っているテーマ「人類讃歌」は、夏が終わっても響きつづけるという宣言のようにも聞えるのだ。
こうして夏のあいだ、この曲が僕を励ましつづけてくれた。YouTubeからモニョモニョした音源をウォークマンに入れ、何十回何百回とリピートした(もちろん9月12日リリースと同時に盤は入手したのだが、それにしてもサマーソングだというのにこのリリースの遅さよ!)。ちなみにオススメはライブ版で、アイドル横丁のVer.も、TIFのものもいい。ところどころ息が切れ、多少の音ズレがあろうと、いや、それだからこそこの歌は心を打つ。つまり今年の夏も僕は、アイドルの曲によって救われたのだった。いかに音楽史的・藝術的価値があるとはいえ、もしもジョン・ケージの『4:33』がウォークマンのイヤフォンから流れていたとしたら、確実に僕の軽トラは僕を載せたままガードレール――それは9月4日の台風による倒木で縦方向にぺしゃんこになる運命を同時に有していた――を突き破っていただろう。静寂と眠りとが渾然一体となり、形而上学的な死と、時速80kmで迎える物理的な死を同時に経験したに違いなかった。
虹コンについて蛇足を二、三点。個人的に水着モノのMVが苦手で敬遠しがちだったが、YouTube上にアップされているライブの動画などはほんとうにすばらしく、これはぜひ盤で発売してほしいもの。また、必ず盛り上がる名曲『トライアングル・ドリーマー』はレズビアンとストレートとの思いのすれ違いを描いた意欲作ではあるものの、その同性愛の扱い方がネタ的というか、いわゆる「百合モノ」の範疇に収めているところが非常に残念。友人だと思って恋バナ相談をしていた女の子に思いもよらず告白され困惑している、という内容だが、
普通の恋 夢みてたのに
ノーマル設定のわたしじゃちょっと無理ゲーすぎます!
という歌詞は、リリース当時(2015年)にはどうにかこうにか通用したかもしれないが、2018年ではどうしても周回遅れな印象。「ノーマル設定」なんていうキーワードは、いかにもゲーム好きへの目配せとしてかなり気の利いているリリック(もちろんその直後の「無理ゲー」にかかっている)だとは思うが、「普通」とか「ノーマル」という価値観の再考・再認識が問われているのが現在。唄っているアイドルたちには毫も文句はないけれど、歌詞の一部をちょっとでも変更してくれれば、より多くの人間が愛唱できるいい歌だと思うので、実現可能性は低いけれども運営に期待したい。虹コンって、上述したとおり水着モノのアピールでなんとなく男性向けみたいなイメージを作り上げようとしているのかもしれないが、めちゃくちゃカッコいいので、異性愛・同性愛にかかわらず女の子にこそ聴いてもらいたいと個人的には思っている。あと最後に、「虹コンって、12人もいますけどみんな憶えるんですか?」という無邪気な質問には、上條恒彦の声真似でこう答えよう、「仲間はずれをつくっちゃかわいそうじゃねえか!」 

……なんてことを書いてきたところで、偶然だが、夢眠ねむが来年はじめにでんぱ組卒業&芸能界引退をするというニュースが飛び込んできて、衝撃を受けた。今年は、2月にアイドルネッサンスの解散があって、それ以上に心に傷を受けることはないと思っていたし、アイドルに心を奪われるなんてこともきっともうないのだろうと思っていたところ、その傷を癒やしてくれたのが、3月にYouTube上で公開された、でんぱ組.incの『ギラメタスでんぱスターズ』だったのだ。
これは嘘偽りなく本当のことで、「このタイミングで青春してんだな」とか「新しいって最高だ」なんていう歌詞のいちいちが、僕のようなアイドル初学者にもグッと響いた。以前にも書いたことがあるとおり、アイドルは文脈を消費するコンテンツ。彼女たちが唄うからこそ、この歌詞にはものすごく大きな意味が付与される。だから、僕の今年のベストはすでにこの歌に決定していた(ちなみに、2位が『ずっとサマーで恋してる』)。しかも3:53あたりの彼女のパート、「いち に さん し ご ろく しち」がとても気に入っていて、彼女の、いつもどおりのアニメ声ではなく、ときたま出るこのような芯のあるしっかりとした声がとてもいいなあ、とうっとりしていたくらいで、それだけに、きょうのニュースは辛く、苦しい。11月にソロアルバムがリリースされ、また、来年はじめにはでんぱ組のニューアルバムがリリースされるというニュースが出たばかりだった。いやあ嬉しいなあ、今年のアイドル業界は暗いニュースばかりだったけれど、でんぱだけは希望の光を感じるよなんて思っていたところだったので、当然のことながら、まだ心の整理はついていないし、きっとつかないままなんだろうと思う。すでに書いたとおり、彼女こそが、僕がアイドルに興味を持つ大きなきっかけとなった張本人であり、彼女は僕のなかではとても大きな象徴的存在だった。彼女が自身を「夢眠ねむの中の人」と呼ぶことからわかるようにとてもクールなメタ視線を持つアーティストという側面も含めて。
いつもどおり、悲しみはなかなかやってこない。ショックや驚きがあるだけで、これからやってくるであろう大いなる喪失感の準備すらできていない。彼女がいなくなるということで、成瀬瑛美(えいたそ)までもがいなくなってしまうのではないか――新メンバーの根本凪、鹿目凛のカラーはグリーンとたまご色で、オリジナルメンバーである夢眠ねむのミントグリーン、成瀬瑛美のイエローと酷似している、というのが気になっていたので、今回ねむきゅんが辞めてしまうということは、えいたそまでもが?とつまらぬ予想をしてしまったのである。つまり、混乱しているのだ。けれども、時間は止まることはないし、彼女だけに限らず、一度アイドルたちが決定したことを、他の人間たちは快く見守っていくしかない。われわれにはそうすることしかできない。とても無力なのだ。
これから5年後、あるいは10年後となって、いまの時代を振り返ることがあるだろう。もしかしたらそのときも僕はアイドルに興味を持ちつづけているかもしれないが、あるいは、すっかり遠ざかっているかもしれない。けれども、たったひとつのことだけはきっと憶えているに違いない。狭く小さなステージで唄う彼女に向けられた、あの美しい手振りと、その手に握られたサイリウムのミントグリーンの光のことを。それはもちろん、いまの僕の心のなかにもあるし、5年後、10年後にも光りつづけていることだろう。彼女の明るい未来を照らすために。
夢眠ねむさん、ありがとう。

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きのうの朝5時くらいに初報(?)を見てびっくりしたんだけど、来年8月でGoogle+のサービスが終了するらしい。
めちゃくちゃ使ってるよ。「ユーザーの90%のセッションは5秒以下」という報告があるみたいだけど、めちゃくちゃ使ってるよ。僕は完全に家族専用にしていて、それらの記録なりなんなりがなくなってしまうのは、ほんと困るんだよな。
Googleのこういうときの頼りなさとかドライさってのはあらかじめ知っていたけれど、でも、ほんと困る。
ほかのSNSのコンセプトを知らないからなんとも言えないんだけど、「広がりたい・つながりたい」みたいな価値観とは隔絶したコミュニケーションツールがほしい。機能がどうとか言わないよ、G+のユーザーなら。いいねとかも要らないし、「この人も知り合いでは?」みたいなサジェスチョンも要らない。
総体的に言っていまのネットでは、そういう閉鎖的志向のユーザーに対するサービスが欠如していると思う。

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たしか米朝の芸談にあった逸話だと思うのだが、ある紙切りの芸人が楽屋で、芸に使う目的で何十匹分ものネズミの形(かた)を切り抜いていた。一区切りついて、彼はちょっと席を外した。
しばらく経ってから楽屋に戻ってくると、さきほどまで机のうえに置いておいた、何十匹というネズミの形がなくなっていて、その代りにネコの形がひとつだけ置いてあった。これを前にしてその紙切り、「これを怒ったら……洒落のわからんやつゆうことになるんやろなあ」と苦笑したという。
かなりキツイ洒落だとは思うが、こういう悪ふざけも消化して、できれば芸談のひとつに昇華させて飯のタネにする、ってのが芸人の世界の一部ということでもあるのだろう。

バンクシーの作品が、オークションで落札された直後にシュレッダーされた、というのがニュースになっている。文章だけ読めば「は? なに言ってんの?」な話だが、まあこんな感じ。
この映像を見たとき、冒頭のエピソードを思い出した。
この「行為」が法的にどういう扱いを受けるのかそれはわからないが、藝術・アートという世界にも「これを怒ったら……洒落のわからんやつゆうことになるんやろなあ」という考え方は通用しそう。というか、これを業界の人間が本気で怒ってしまったら、藝術だとかアートというもの全体の価値を下げることになると思う。もちろん、創れないし買えないし、鑑賞すらしない人間はなにを言おうと勝手だけどね。

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 コメント一覧 (2)

    • 1. あき
    • 2018年10月13日 22:29
    • 絶対怒ってはいけない悪ふざけですよね^_^

      一片の詩や、即興の絵がカッコイイと思う、そういう軽やかさを忘れてはいけないと思う。
    • 2. doroteki
    • 2018年10月14日 05:47
    • 落札者がこの「行為」を認めたらしく、とりあえず一件落着したようですね。シュレッダーにかけられた直後から評価というか、この作品の価値もより上がったのではないか、みたいな見立てもあるみたいですが、こうなるともう、作者と落札者(あるいはこれから所有者になっていくであろう人々)とのあいだにしか通じないゲームというかコミュニケーションの一種みたいなもので、そういう外野連の憶測があまり意味をなさない領域に入ったはず。または作者は、そういう金持ちとのゲームすら貶し否定しようとした、というふうにも見えます。
      いづれにせよ今回の件で現代美術がまた別のフェイズを見つけたのであろうというのは、僕のような素人の目にも明らかで、ただし同時にこれは、ジョン・ケージの『4:33』と似て表現の可能性の「余地」みたいなものを自ら塗りつぶす部分もきっとあって、バンクシー自身はきっとそこからもう自由になっているのでしょうけれど、他のアーティストたちはけっこう衝撃を受けたんじゃないか、なんて。まあボロが出そうなんでいいかげんなことを言うのはここらへんまでにしておきます。

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サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は原題が『The Catcher in the Rye』で、村上春樹訳ではタイトルものそのまま『キャッチャー・イン・ザ・ライ』としている。
これは主人公のホールデン君が自分の夢だか理想を語っている部分で出てくる言葉で、ライ麦畑で遊んでいる子どもたちが崖から落ちないよう自分はそれを救ってやる(=キャッチする)のだ、という意味。要は、イノセントな存在である子どもたちが道を誤り、薄汚い大人にならないよう僕が守ってやるんだ、というとてもセンチメンタルな話なんだよね。大人になってから読むと「ふうん」で終わってしまうかもしれないけれど、二十歳前後くらいに読むと、いまでも感銘を受ける人は多いんじゃないかな。


話は変るけれど、『西郷どん』を例によってまーったく身を入れずに観ているというか視界の端に入れているのだが、最近の西郷は慶喜打倒の鬼になっている。それが視聴者にあまりにも共感を得られないと製作側が察知したのか、関ジャニ(従道だっけ?)の視点を第一人称的に入れて「兄さ兄さ」言わせてなんとか興味・関心を引き延ばそうとしているようだけど、なんかもうちょっと違うやり方なかったのかなと思わないでもない。つまり歴史的事実はともかく、いままで「敬天愛人」を実践してきた「吉之助さ」が人が変わってしまったかのように見えるのには実はのっぴきならない理由があってうんぬん、みたいな近年大河でも採り入れられている手法をすりゃよかったのではないか。もしかしたらすでにやっているのかもしれないが、きちんと観ていないのでわからない。でもファンは毎週毎週殺気立った鈴木西郷を観ていてたのしいのかな。
ほかにもいろいろな点で不満があるのだが、なにかあると鰻が出てくるのにも食傷気味。家族への愛情の象徴としての鰻、郷里の幼馴染たちとの思い出の象徴としての鰻、江戸から遠く離れた薩摩の象徴としての鰻、命からがら逃げてきた旧体制の権力者がすがりつく栄光の象徴としての鰻等々、これらがまったくくどいように出てくるのだが、ここで伝えたいのはつまり……絶滅危惧種とかなんとか言われてるウナギだけど、われわれ日本人はこうやって昔から食べてきたんじゃい! よそから文句言われる筋合いあるかい! ということなのかもしれない。
桜田門外の変が死ぬほどちゃちかったとか、風間俊介の扱いがひどすぎるなとか、いろいろと言いたいことはあるけれど、松田翔太(慶喜)と高梨臨(ふき)の芝居のひどさが何物にもまさってしまうので、ついつい興味はその学芸会っぷりに集中してしまう。
以前、西郷と仲違いする直前に、慶喜が腹に一物を隠しながら西郷ににっこりと笑うみたいな場面があったのだが、ふつうに考えれば慶喜はなにか企んでいるんだなと視聴者にわからせる、ある意味では記号的説明シーンであるはずなのに、松田が下手すぎて、「いや待てよ、この表情はさらに裏の裏の意味があるのかもしれない、ということは……本心で笑っているのか、いやでもやけに不自然な笑いのような……いやでも、松田は以前から不自然な演技だったし……うーん、この慶喜、頭がおかしくなったのか?」みたいに深読みの泥沼にハマってしまった。ふきどんも、子役があんなにうまかったのになあ。
弟と電話で話すたび、このふたりのひどさで盛り上がっていたものだが、あるとき、その二強体制を崩そうという猛者が出てきた。エンケン海舟である。『氷川清話』をたのしく読んだ者としては、イメージがまったく違っている。江戸弁らしきものをしゃべっているつもりらしいが、そう聞えない。と思って調べてみると遠藤が東京の品川出身ということで二度驚いた。エセ関西弁をしゃべるなこいつ、と思っていたらホンモノの関西人だった、みたいな驚きよ。でも江戸弁というのは、すくなくともだいぶ耳にしていないと話すことはできないのではないか。
ということで、いまのところの西郷どんは二強+α体制が中心に据えられてあって、そこにしょうもない鶴瓶がちらほらするという形かな。

同じNHKでいえば新しい朝ドラが始まって、安藤サクラが痛い演出をつけられているのを確認した。まだ2話目くらいしか観ていないのが、まず、NHKが松坂慶子になにか借りがあるのかってくらい重用していることにそろそろ腹が立ってきた。貧しいという設定のはずなのにどうにもそう見えない原因の半分くらいは彼女の肥え具合――お上品に言えばふくよかさ――にあるし、どの時代の誰をやろうと金太郎飴みたいに松坂慶子をやっているだけであって、いっそ、もう誰かが背中におぶって桜島に連れて行ってほしい。内田有紀も「またおまえか」みたいな状態で、同じ年のなかで大河と朝ドラを掛け持ちする意味ってなんなの?って思う。そんなに役者足りてないのかね。
あと全体的に「これは、こういう意味なんですよ、わかりましたかー、それじゃあ次は、こういう意味ですよー、わかりますかー」といちいち噛んで含めるようなカットが多くてまだるっこしい。バカにしているのかと腹が立ったが、実際バカにしているんだろう。
また、安藤サクラが同僚のコックに缶詰もらったときに、「なんで、うちにくれたんだろう?」みたいな独白をしたのだが、こういう、朝ドラのヒロインゆうたらうぶでっせ、おぼこでっせ、どや、かわいやろ?みたいな演出(しかも、それを強調するために、この部分はとてもゆっくりと発声させていた)はいいかげんやめたらどうか。
20年近く生きてきて、たとえ女子校だったとはいえ、異性にものをタダでもらったのなら、「うちに気があるんかな?」くらい考えないのだろうか。もしそう思えなかったら反対に、「お、なんやわからんけど、もうけたわ」じゃないか? そのいづれでもなく、「なんで、うちにくれたんだろう?(ゆっくり)」って、これ、壊れかけのポンコツ機械並の反応で、うぶとかおぼことかじゃなくて、人並みの働きができるかどうか心配になるレベル。そいつが家に帰ればよく肥えた金太郎飴がでーんといて、いまのところ腹を痛がっているんだが、これ、どこをどうやって「あしたも観よう」と思えるのだろうか。土曜日分まではなんとか観てみようと思うのだが、いまのところは苦行でしかない。

ついこのあいだまで、今年の演技力ワーストは松田翔太と高梨臨とで決まりだな、なんて思っていたのだが、さにあらず、『この世界の片隅に』の古舘息子が易々と彼らを上回って……いや下回ってしまった。彼の榮倉奈々との会話での第一声で、「あれ? これが本番テイク?」と不思議に思わなかった人がはたしてどれくらいいただろうか。いままで、けっこうな下手くそな芝居というものを目にしてきたつもりで、実際、西郷どんにおける松田も高梨も「これほどひどいのはそうそう観られんなあ」と却って嬉しかったくらいなのだが、実はその芝居というものがそれなりに演技として成立していたということを、古舘の存在をもって認識するはめになった。
下手ということは実はどういうことなのか。そもそも、セリフとはなにか。表情とはなにか。演技とは、いったいどういうものだったのか。古舘の存在がわれわれ視聴者に突きつけた問いは、非常に大きい。もちろん、小さな問いもあった。われわれは、贅沢を言い過ぎてはいなかっただろうか。まずい料理に対して「こんなの食えないよ」とブーイングしたことがあったかもしれないが、食卓に昆虫が並べられたとき、「ああ、あのときの料理はたしかに『料理』だったのだなあ」と懐かしむことに似ている。そのような再認識を促す異次元の演技(?)を見せてくれたのが古舘息子なのであって、われわれはある意味では彼に感謝しなければいけないのかもしれない。
そしてまた同時にこうも思ったのである。「ああ、彼は2018年第3クールのキャッチャーなのだ」と。今季のあらゆる役者たちが崖に落ちそうになっても、古舘息子がそれを救ってくれる。だいじょうぶだ、おれより下に行くことはない。おれが、ここで、このいちばん低いところで踏ん張っているから。だからきみたちは、すくなくとも『いちばん下手』の汚名を受けなくてもいい。おれが、ぜんぶ引き受けるから。おれが、ここにいて、みんなをきちんとキャッチするから。J・D・サリンジャーの1951年の比喩は、現在でも通用したのだった!
と、むしろ古舘の登場をたのしみにしながら、それでもまーったく身を入れずに視界の端に入れていたのだが、そのドラマの終わり間近で、いきなり松坂桃李の同僚がしゃべりだした。近所の者を呼び集め、その前で伊藤沙莉の兄貴が死んだという話と、伊藤沙莉と婚約したという話を同時にする、みたいなかなりシリアスな場面でのセリフが彼の初回(たぶん)のメインカット(それまでモブ的には出演していた)だったのだが、彼の第一声によってそれまでの緊迫したムードがぶち壊しになり、それどころか悲劇が喜劇になってしまって、画面上の人物たちの嬉し泣きの様子が、純粋な笑い泣きにしか見えなくなった。もし、それ以前に松坂の同僚として話すシーンがいっさい放送されていなかったら、カメラテストのためだけにしゃべらされたスタッフ(国民服は着ていたものの)のシーンをそのまま放映したのかと訝しむくらいで、芝居の上手/下手という概念が、これまた瓦解することになった。そして、あらためて松田・高梨(そしてエンケンも)の演技が、まだ演技の形態を保っていたことに気づかされたのである。あれでもまだましなのだ、と。
つまり、キャッチャーはふたりいたのである。

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台風がまた去っていった。

災害がすっかり年中行事化してしまったものだから「被災地」も全国に点在するようになった。本心から信じているかどうかはわからないが、「日本全国、どこでも『被災地』になる可能性がある」なんて言説がそれなりの説得力をもって流布されてもいる。
なもんだから、災害の範囲外の人たちも被災地に気を遣うというのがある種のネットマナーになってしまっているみたいだが、僕はこれにあまり賛成しない。
たとえば雪が珍しい地域であれば雪降りは素直に嬉しいものであるが、「大雪で困っている地域もあるかもしれないから不謹慎なんだけど」みたいな前置きをしてから喜ぶ、みたいなのを見るたび、そんなに気を回さなくていいのにと思ってしまう。いやまあいいじゃん、配慮しておけばよけいな衝突を防げるんだから、という人もいるかもしれないが、そういう妙なマナーが広まってしまうと、そういう前置きをしない人間がマイノリティになってしまって、彼ら/彼女らを不謹慎だと詰る風潮が広まってしまう。日本のネット空間に特徴的なのかもしれないが、なにか大きなことが起こると「不謹慎」批判の大合唱がよく起こるでしょ。ただでさえ息苦しいのに。
そもそもね、どこまでを配慮の範囲とするのか、だ。日本国内で天災が起こっていなくたって、地球規模でみれば、自然災害から戦争まで悪いことが起こっていない瞬間はただの一度もないと言ったっていい。バカのひとつおぼえで「不謹慎」と弾劾する人たちは、この先ひとつも歯を見せることはできない覚悟で生きているのだろうか。「きょうも一日しあわせでした」みたいな何気ないツイートに対して「シリア難民はいまだに故郷に戻れないというのに!」とか「ロヒンギャの人たちが受けた苦しみを考えてみれば!」なんていうコメントが大量に投げかけられる、そういう世界をあなたはお望み? わしはイヤじゃよ。
せめて同じ日本人として、みたいなことを言う人もいるかもしれないが、そういう「きずな」系のストーリーもさすがに色褪せているんじゃない? ネットが身近になったせいでいろいろな情報が望むと望まざるとに関わらず入ってくる。そのせいで、隣人のことはあまり知らないのに何百kmと離れた場所の情報を必死になって集めているなんて事態があたりまえになってしまっている、悪いことばかりではないけれど。でもさ、そういう「同じ日本人として」みたいな幻想だってそろそろ捨てたっていいんじゃないか、という幻想もその代替品として検討され始めてもいいのではないか。他者に対して、ときにシンパシーを感じることもあるし、そうでないときもある。でもそれは不謹慎だとか無関心を意味するわけではなく、われわれが知りうることや意識の範囲には限界があるということしか意味しない。
それに、日本日本とおっしゃいますが、日本といったって相当広い。どこまで想定した上での日本なのか。


唐突に話は変って、ヤフコメがたのしい。
2ちゃんとかはてブとか小町とかにかまけている場合ではない。やっぱりヤフー。
先月の27日にいよいよ週末に台風24号が来るというニュースが出たとき、そのニュースに以下のコメントがついた。
週末には舞浜の施設に行くつもりでしたが、台風上陸との事なので、延期するしかありません。子供達も久々に舞浜の施設に行く事を楽しみにしていましたが残念です。
この「だからどうした感」あふれるコメントにひっかかってはいけない。僕はまだヤフコメ素人なので、このコメが釣りなのか素なのか判別できないのだが、この時点ではとりあえず反撥せずにそのまま受け止めて、その反応(他のユーザーによるこのコメントへの返信)をチェックする。これがヤフコメをたのしむコツ。
そうすると、こんな反応が見られた(以下、すべて原文ママ)。
遊びが中止にことなんて大したことことはない。生きることが中止になる人がいるんだから。
いきなり怒られてしまった。これは「だからどうした」という感情を率直にあらわし、かつ大上段から説教をくわえるというパターン。書いている本人は「また名言を残してしまった……」と自己満足していそう。
その次がこれ。
ディズニーランドって言っちゃいけないの?
なるほど。たしかにコメ主は婉曲表現をしていて、それが気に食わないという反応は一定数起こるものなのかもしれないが、なにか思ったことがあったらすぐに言ってしまおう・書いてしまおうというのがヤフコメ民のルールなので、間合いなしでいきなり斬りつける。
金があるん羨ましいわ。俺にくれ
これまたストレート。ヤフコメ民に遠慮はない。説教やきついツッコミのみならず、いきなりせびるという方法もある。嫉妬から無心までノーモーションというこのスピード感こそヤフコメの醍醐味。さらに面白いのは、このコメントがけっこう支持を得ているという事実(そう思う: 21 そう思わない: 6)! まるで「せびられる隙を見せたコメ主が悪い!」と言わんばかりの空気感。そうそう、ヤフコメは基本、自己責任論者の溜まり場でもある。
おまえの予定なんかどーでもええわ。
生活にまだ苦しんでる人がおること考えろボケ
わかりやすい直の罵倒。いちおう被災者に寄り添っている体を装っているが、おそらく言いたいのは1行目だけ。
関東にも台風の影響あるでしょうが直撃する地域は行楽どこではない。
まさか1年にその日しか行けないの?
これも上と似ているやり方。被災者をだしに使い、かつ批難は婉曲表現。こんな見ず知らずのやつにスケジュールのことまでうんぬん言われたかないだろうが、逆にいえば、ここまでのコメントを引き出す元コメントの釣り力もなかなかのもの。
また、こういうのもあった。
舞浜の施設って(笑)
老人ホーム?
あるいは、
施設って?刑務所?(笑)
はじめはちょっと意味がわからなかったのだが、どうやらこの人たちは「施設(facility)」という言葉を、介護施設や刑事施設、あるいは児童養護施設などというなにか特定の場所のことだけを指していると思っているらしい。もっとフラットな意味での「施設(これ以上言い換えようがないのだが)」という言葉を知らないようなのだ。インターネットというのはこの種の基本語彙の覚束ない人たちが結構いて、たとえば「性癖」を「性的嗜好」の意味だと思っている人は実に多く、本来ならそんな意味はないということを聞いたらびっくりするんじゃないかと思うのだが、けれども指摘されたら指摘されたで、「言葉っていうのは流動的で、変化していくもんなんだよ」みたいなことをほざきそう。
……などなど、どのようなクリエイターでも、元コメからこのような多種多様の反応が導き出されるとは想像もできまい。興味深いのは、彼ら/彼女らのほとんどが、俯瞰の立場などではなく同じ地平・土俵でかつ全力でコメントし合っているというさま。そこらへんがはてブなどの、マウント目的のコメントや自称「大喜利」などという寒いコメント群に較べて100倍面白い。


話はまた戻る。
すくなくとも、ヤフコメに常駐している人たちも「同じ日本人」なわけで、「同じ日本人として」うんぬんというのならば、ここまでシンパシーの領域を拡張しなければ嘘になる。というか、「同じ日本人」発言って、ヤフコメ民こそ言いがちな気がする。
軽々に「同じ日本人」みたいなことを言う人は、日本人ならみな善良で慎ましくて、同情や憐憫に値する人たちばかりというイメージを持っているのかもしれないが、そういう発想の根本には人種差別的感情や自己民族優越感情のニュアンスが少し漂う。
昨今は小池百合子でさえ多様性を口にする社会ではあるが、その多様性を実現するためには、上記ヤフーコメントに見られるような、素朴で単純で想像力をあまり期待できない連中にも、その外部があるということを知らしめ、なおかつそこに参加させなければならないし、また一方で、自身を「そういう連中」とはまったく一線を劃していると認識している人たちも、「そういう連中」に対してある程度の歩み寄りをしなければいけないということでもある。
けれども、スポーツで活躍した人たちや藝術や科学などで表彰を受けた人たちを、簡単に「同じ日本人」として誇らしくなれるという羨ましいほどに単純なマインドをもってすれば、そのまったく逆方向に位置する人たちに対しても理解や折り合いをつけることは可能だろう。僕自身は、日本人というステータスにそれほど重要なものを見出だせないので、どちらに対してもフラットな感情しか持てないけれども、多様性という意識の訓練には積極的になろうとは思っている。

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『新潮45』が休刊を決めたらしい。直観的にちょっと気になる終わり方だと思った。

かつて麻生とかいう人間が首相をしていたときに「未曾有」という漢字を「みぞうゆう」と読んで失笑を買った。あの頃はまだマスコミも元気がよかった印象で、こんな愚かな人間を頭にしているんだよわれわれは、みたいな空気感を漂わせてご満悦という感じだったし、それを嘲弄してネタにするという例もいくつもあったように記憶している。
かくいう僕も「おいおい」と笑ったものだったが、けれどもいま冷静に考えてみれば、「未曾有」という漢字を読める/読めないということは、(あたりまえのことだけど)政治家の能力あるいは個人の人格とは無関係だ。そして、「未曾有」という漢字をパッとは読めない人間はこの日本に麻生しかいないわけではない。
あのとき、「へー、未曾有って『みぞう』って読むんだ」とか「へー、『みぞう』って『未曾有』って書くんだ」と思った人たちは世間のあの空気をどう感じたのだろうか。たしかに「総理大臣のくせに」という前提条件が必ずつく嘲笑ではあったものの、読めない人たちはいちはやくから「別にそんなもの読めなくたって人生、生きていけるし、仕事だってできるよ」と程度の差こそあれ反感を持ったのではないか。
それとはちょっと種類が異なるのだが、最近の話。安倍とかいう人間が自らを「立法府の長」と発言したことがあって、呆れられたことがあった。ただしこのときはマスコミもだいぶ穏やかに扱っていたように感じられたが、その穏やかさが、「教養のなさ」や「言い間違い」をあげつらうのはもうやめようという理性的な判断に基づいているのか、はたまた別の理窟によるものなのかはわからない。
ちなみにこのとき僕は、「内閣総理大臣は行政の長であるし、立法の長ではないのは簡単にわかるけれど、じゃあ立法の長って誰なんだろう。国会議員全員ということなのかな? でも『長』が複数っていうのはピンとこないしなあ……」と自らの不勉強を恥じることになった。調べると、衆院議長、参院議長のふたりで、なるほど「長」はふたりいるのである(同時に、議長ってそんなに重要な仕事してたっけ?と思わないではなかったが)。
自らの不勉強を棚に上げて指摘すれば、たしかに総理大臣という、ある意味政治家のトップに立つ人間がその仕事の根幹に関わる重要な政治システムを理解していないのは致命的だが、けれどもそんな人間でもトップに任ぜられたりするのは、国民の側に「そんなことたいして問題ないじゃん?」という思いが強まったからではないか。より正確にいえば、その種の知識や教養、言う人に言わせれば常識の欠如をたいした問題ではないとする国民が相対的に増えていて、結果彼のような人物が支持されているということ。もちろん、日本では総理大臣を直接選挙で選ぶことはできないし、彼の「立法府の長」発言は選挙後ではあったが、しかし、あの発言で著しく支持率が低下することはきっとなかったろうし、このあいだの自民党総裁選でもなんなく三選を果たしてしまった。おそらく支持率の劇的な低下というのはここしばらくはちょっと見られないだろう。

ここで僕の立場を鮮明にしておくと、麻生の「未曾有」も安倍の「立法府の長」も、総理大臣としてはありえない発言であるし、致命的に常識が欠如していると考えている。けれども、「そんなことも知らないのか」という指摘はそれほど効果をもたらすものではない、むしろ逆効果であるとさえ思っているので、批判は違う場面の違う文脈でやったほうがよかった。前者については漢字を読めない人たち全体への侮辱につながりやすかったし、後者については、そもそもそういう政治的知識の欠如を問題とする人たちが支持しているわけではないからである。
後者についてさらにもう少し考えるに、医者が内臓の位置を正しく把握していない、くらいの無知を露呈してしまった現首相への根強い支持というものがいったいどこからきているのか。
上に書いたような有権者側の姿勢を掘り下げていくと、知性に対する強烈なカウンターというものが見えてくる。麻生の「未曾有」のときに「みぞうゆう」側の抱いた、読めなかったからってどうってことない、むしろ読めたからってなんか偉いのか、という知的階層・エリート層に対する鬱屈した感情が、いままさに爆発しているように感じられる。そういう面も、すべてとは言えないが一部にあるのではないか。もちろんこれは、米大統領選におけるドナルド・トランプの支持者たちの一部の傾向から得られた知見である。ポピュリズムのエネルギー源は、エリート・エスタブリッシュメントたちに対する積年の怨嗟なのであるから。

で、件の『新潮45』である。
まず、いまさらああいう雑誌に驚いたとか、杉田水脈雑文に驚いたなんていう、カマトトなリアクションはやめてくれよなってことは思う。なにも『新潮45』に限らず、ひどい出版社のひどい出版物ってのはあるし、伝説的な『ガロ』を出版していた青林堂は、いまや悲しいことにネトウヨ出版社に成り下がってしまっている(ガロ系の編集者はみな青林工藝舎に行ったはず)。もともと『カムイ伝』の発表の場として創刊された雑誌であったことを考えれば、現在はまったく正反対の態度である。また、そこでの執筆陣というのは、きちんとしたウォッチャー(僕は違うけれど)からすれば「いつものみなさん方」だったりするし、そういう連中はインターネット、テレビ、新聞、雑誌なんかでそれぞれ大活躍なさっているよ。それにまったく気づかなかったというなら、はじめにそのアンテナの鈍さを疑ってかかったほうがいい。
そのうえで、ああいう雑誌の愛読者層というのはやはり一定数いて、そのことは動かしがたい事実。その場所を一気になくしてしまうというのがリベラル側の勝利、なんていうふうにはなかなかとらえられない。
ツイッターやウェブメディアを中心とした言論でひとつの紙媒体のメディアを潰したことがもし成功体験となってしまうのであれば、その逆のアクションも起こりうる。この場合の「逆」は、思想や価値観の逆転Ver.ってことで、もしネトウヨ的な価値観がほんとうのマジョリティとなったとき、マイノリティな立場にある人たちの社会的地位をすこしでもよくしていこうという運動――そういう運動は往々にしてゆっくりと長くつづけられてきたものであるのだが――を、「ネットの運動」で簡単に潰しにいくということがありうるということだ。
そもそも、今回の休刊はほんとうに「リベラルの勝利」なんだろうか。冷静に考えれば違うだろう。新潮社の単純なリスクヘッジであろうし、臭いものにふた的処理の結果に過ぎない。その理由はどうあれ、今回「弾圧された」などと考えている連中は、この恨み晴らさでおくべきかと思っているよきっと。「『みぞうゆう』ぐらい読めないからってなんだ」という思いをずっと持っていたのと同様に、今回の件を親の仇のようにしっかりと記憶に刻みつけることだろう。もちろんここで挙げた「みぞうゆう」の例は象徴的なものに過ぎず、自分と価値観を異にする人たちが寄って集って自分たちの側を攻撃した、と記憶するすべての案件こそが彼らのモチベーションである。
そういう人たちが愛読する雑誌を急になくすということは、不満や恨みを抱えたまま彼らが、おそらくはよりひどい吹き溜まり、もっと濃度の濃い悪所へと移動することを意味し、それは彼らの攻撃をより先鋭化させることにつながると思う。
僕がなんとなく思い描いていたのは、
  1. 杉田批判特集をメインに置いた紙媒体の雑誌を出版し、徹底的に論戦の構えを見せる
  2. 1. の批判に対する応答が『新潮45』から出た場合、さらなるカウンターを1. 側が出版
  3. 2. の批判に対する応答が『新潮45』から出た場合、さらなるカウンターを1. 側が出版
  4. 以下つづく……
というように、何回もの議論を以て『新潮45』側の「全然お話にならない感」を炙り出して、その読者に「なんかおれ/わたしの読んでいる雑誌って言われっぱなしじゃん、ちょっとカッコ悪いな……」と思わせ離れさせていき、またそのファン自身の考えも少しづつマイルド化させていくという流れだった。2.以降は、テレビやラジオ、新聞などその論戦の場を違うところに移してもよいと思うが、ネットだけというのは悪手、避けるべき。長く、手間のかかるやり方かもしれないが、それが言論というものだと僕は思う。

あと、新潮社の看板に「あのヘイト本」という落書きをくわえ、「あのヘイト本、Yonda?」と読ませようとする愚かしい行為があったらしい。あのクソ忌々しいChim↑Pomのやり口を想起させるけれど(彼らは渋谷の岡本太郎の作品に原発事故の絵?みたいなものをくわえたという例がある)、まあ同一人物でなければ、手垢にまみれすぎた手法で藝術性のかけらもないが(Chim↑Pomにすら感じられないのだからなおさら)、それでもアートなんて持て囃すバカがいるもんだから始末が悪い。絶対安全地帯でやっている限りは表現でもなんでもないと僕は考えているので、実行した人物が特定され、新潮社に賠償請求されたり、器物損壊で実刑食らったりすれば面白いなと思っている。いざとなって「そういうことになるなんてまさか思いませんでした」なんて泣いて詫びを入れたら、例の弁護士たちへの大量懲戒請求をやったネットDE真実のみなさん方とおんなじだから、まさかそんなことはなかろうけれど、クラウドファンディングで賠償金を集めようなんていう「運動」にも発展したりしそう。そうなりゃなんだかんだで結局売名行為に加担させられるだけなんだろうけれど、加担する方は加担する方で、「おれたち/わたしたち、正義やってます!」みたいな自己満足感も得られるから、まあ利害は一致しているのかな? よくわかんねーけど。

ついでの蛇足ではあるが、新潮社を批判していたツイートのなかで、「新潮文庫に育ててもらったぼく/わたしだけど、」と前置きしたうえで、いまの新潮社の出版態度は度し難いみたいなものをいくつか見たんだけど、こういう連中の火事場泥棒的態度も見逃さないようにしような。
「度し難い」という意見の表明だけでよいはずなのに、なぜか「新潮文庫で育てられた」みたいな文言をつけくわえる。みぞうゆう側(僕も大別すればこっち)にいればなかなかわからないのだけれど、ある種の文系コミュニティにはウケがよいからではないか。
僕みたいに本をあまり読まない人間からすれば、国書刊行会、みすず、白水社なんていうところならともかく、新潮社ってけっこう大手でそんな名前を出してもむしろ「それほどでもない感」を感じてしまうくらいだし、またそれ以上に大切なのは本の作者と中身である。でもまあ、ある種のクラスタにはそういうちっちゃな(ちゃちな)コメントが訴えるものがなにかあるんでしょう。僕がひっかかるのは、いまそれを言う必要ある?ってことで、火事場に来て「たいへんだーたいへんだー」と大声出して人を集めて、それから自分の商売を始めているって感じがするんだよね。まあ、みんなビョーキですから当人も含めそんなの気にならなくなってしまっているんだろうけれど。

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前に書いたことがあるかもしれないが、「ブログ、まだ書いているんですね。がんばってください」みたいなコメントをもらったことがある。
どうもその人は、検索で飛んできてなにかの記事を読んで、トップページを見たら「お、こいつ最近また更新してんじゃん。まだブログなんてやってんだ。珍しいじゃん」みたいに思ったようで、上のようなコメントをしてくれたのだろうと思う。
「まだブログをやっている」の言葉の裏には、「SNSじゃなくて」という価値観が隠れており、さらにその後ろには「そっちのほうが人多いし、盛り上がってるのに」という価値観が潜んでいるのではないか。いまどき盛り上がっていないブログなんてまだ書いているんですね偉いですね、みたいな意味での応援をもらったのであれば、次のような返答をしたい。
ちがうちがう、盛り上がっていないからこそブログに書いているんだよ、と。別に誰かに読んでもらいたくて書いているわけじゃないんだ。


「新潮社出版部文芸」の公式アカウントが例の『新潮45』の批判ツイートをRTしていることが注目を浴びているらしいんだけど、まあなんというか、その界隈すべての反応がばからしい。
なにかやらないよりはマシ、の話ではあるんだけど、それ以前にそのSNS脳をなんとかしたらどうなんですかねって思う。ツイッターやフェイスブックなんかで変えられる世界、なんてものを頭っから信じてしまうような価値観を文学は与えたのかね? むしろ逆に、そういう甘ったれた安物エンターテインメント的な価値観に対して疑いを持つ目を与えてくれるもの、それが文学だったのではないか。
リツイートがなにかの意見の表明だなんて勘違いを素人がするのならまだしも、出版界の人間ですらそう思っていてしかも実行しちゃうんだっていうのが、しょぼい話だよな。てめえの責任でてめえの言葉でてめえの会社の批判をしないってのを、どうやって応援するの? どこに応援する要素あるの? まさかあれ? 組織に属する人間のその苦しい事情を汲めっていうの? 生活を捨てるわけにいかないじゃない、そういうぎりぎりのところで彼/彼女はがんばっているのよ、なんていうそういうクソみたいな日本的察しみたいなのを求めるの、こんな重要な場面でさえも? これ、政治家(特に小泉進次郎)がやったら確実に「出た! ガス抜き要員!」って大笑いされる案件だと思うんだけど、ブンガクの愛好家のみなさんは、美談にしちゃうの? そんなにエンタメ脳なの?
「応援ツイート」なるものをしている人たちも、そのプラットフォームの脆弱性に対して目を瞑っているという点において、やはりエンタメ脳、SNS脳の持ち主だと判断せざるを得ない。言論というのはSNSの中にあるだけではないのに、なぜかヘビーユーザーたちは、そこが世界のすべてだと勘違いしてしまっている。そんなのものからまったく隔絶した世界に住んでいる人間だって山ほどいるというのに。『新潮45』が紙媒体で発信した以上、もし「心ある人」なるものが「中」にいるのであれば、(オピニオン誌ではないけれど、だからこそ)『新潮』を使って一大展開をして反論すべし。そのなかで、文学ならではの実験や皮肉も織り込むことができるだろう。そこまでやってこそ、言論だと僕は思う。SNSで済ませるのはつまり、RTをするのにも「応援」するのにも、コストがかからないからだ。言葉に関わる世界の人間のそういう安直な姿勢を、僕はほんとうに情けないと思う。情けないというより、卑怯にすら感じる。

このあいだの台風・地震のときに「情報がなくて不安、情報がないから困った」なんていう意見がよく聞かれた。僕からするとまったく意味不明で、水が切れた・電気が来ない、なんてことが不安になる理由だと思うのだが、どうもその人たちは違うらしい。しかもよくよく聞いてみると、情報ってのはつまりスマホと同義のようで、スマホの電池が切れたとかつながらないってことがその人たちの「困ったこと」ということのようだ。しかも僕がラジオで聞いた例では、たかだか数時間つながらなかったことをもってして、いつつながるのかがわからないから不安だったと言っている人がいた。言っちゃあ悪いが、僕はその札幌のリスナーの話を大笑いして聴いた。ラジオ局も、もうちょっとまともなメッセージを読んでくれよ。
うちの近所で、高齢の家族が自宅で人工呼吸器を使っているところがあって、停電したときにその機械が止まってしまうということで緊急に行政が発電機を供給するという対応をし事なきを得た、ということを後から聞いた。われわれが直面する/した深刻な問題というのは、つまりこの種のものではないだろうか。
これに対し、スマホがなくて/使えなくて不安というのだって立派な困難じゃないか、不幸や災難は相対化されるべきではなく、みなそれぞれのフェイズで苦しんだのだ、という批判もあろう。それはそうだ。決して相対化なんてされるべきじゃない。けれども、ほんとうに苦しんだ、悩んだ、困ったなんていうのなら、一旦落着したのちにでもいいから、心療内科行って、スマホ依存症なのかどうかを調べたほうがいいと思う。
僕が上のリスナーの話で興味深く感じられたのは、「(SNS上で)自分の安否の状態を伝えられない」という点に特に困っていたことだ。情報うんぬんといって、自分の家族なり友人なり恋人なりの安否が確認できずに不安だ、とこう言うのならものすごくよく理解できる。大きな災害があったらそんなことをすぐに確認できることのほうが少ないよという冷静なツッコミもあろうが、心情はよくわかる。けれどもその人は、自分の安否を(おそらくはSNS上の知り合いに)伝えたいのにそれがかなわなかった、という点に拘泥していた。まあこれは僕にもそう言う資格があると思うから言うのだけれども、自分のことを心配している人がきっといる、なんていう前提がSNS脳のなせる業というかもうかなりおかしくて、そんなことねーよって言いたい。というか、実際ラジオを聴いていてそうつぶやいた。
(地震ではなく台風のせいで)停電したおかげで自宅からは電話もできず、PCのメールもできなかったので僕の場合、誰かに連絡するなんてことを考えるのはすぐにやめた。実家の家族はもしかしたら心配しているのかもしれないけれど、その心配や不安は僕のものではないので、僕がわざわざ積極的に抱えようとするものではないし、家族のほうはやきもきしているかもしれないけれど僕が技術的にどうこうできる問題でもないので、しょうがないけどやきもきしていてくれ、という思いだった。それだけだった。結果的に面白かったのは、やがて連絡ができるようになって、家族のうち両親は心配していて、弟は心配していなかった(「え? 停電してたの?」って感じだった)、ということが判明した。家族ですら確率50%よ。また、知り合いでも停電中に心配のメールをくれた人たちが幾人かいて、電気が復旧したのちその方々に返信したが、その反応を見ても、体裁だけの確認メールと、ほんとうに心配してくれたメールとで半分半分という感じだった。ま、こういう場面で「ありがたいことだなあ、心配してくれたんだなあ」と100%感謝するという姿勢にならず「うーむ半分か」なんて生意気な感想を持ってしまうこの僕の人間性と、あまり心配してもらえないという結果との相関性は大いにあると思うのだが、けれども、他人はけっきょく他人でしかなく、「その人のいちばんの関心が自分の安否にあるとは限らない」という前提くらいは、緊急時の飲料水やラジオ、懐中電灯なんかと一緒に、持っておいたほうがいいと思うよ、ほんとに。そうしたら、SNSに投稿しなくちゃなんてよけいな不安も抱えずに済む。なにかあったらすぐにポストしなきゃみたいな思考は、病気だと思う。病気だから悪いとかそういう話ではなく、せめて病識くらい持っておけば不安も軽減されるでしょって話。こういうけっこう親身なアドヴァイスをたとえ耳にしても、「情報がなくて不安」なんていう人たちはたぶん聞き入れないんだよな。「いやいや、この情報化社会においてね、スマホがない/使えないとかマジでありえないから」みたいな話でシャットアウトしちゃうのよ。たとえば誰かが、物流がぜんぶ止まってしまったおかげで酒が飲めない不安がずっとつきまとっていた、なんて言ったら、「あー、そりゃまず、依存症に向き合ったほうがいいかもね」って思うでしょ。それとおんなじよ。

話は新潮社に戻って。
実存と仮想のうち、われわれが実際に生きているのは実存の世界だし、社会問題――杉田アホとかそのサポーターとかバックの全員を含めたクソみたいな価値観の持ち主たちは立派な社会問題だし、僕の望む社会にとっては害悪でしかない――もまた、実存の世界の問題だ。上で書いたとおりそっちで応答すべきなのだ。
「内部からの批判ツイートRT(※繰り返すが、直接の批判ツイートですらない)」や「応援ツイート」なるものは、「正義」のツイッターユーザーたちの夕飯前のちょっとした前菜にすぎない。指先ちょちょいで得られたちょっとした達成感や爽快感を肴に、「きょうのメシ/酒もうまい!」ってしたいだけでしょ。ちょっと意地が悪すぎる言い方だろうか。けれども、喉元過ぎれば熱さを忘れるし、TL流れりゃ話題も変る。一瞬のうちに得られた熱狂はまた次の熱狂に取って代わられ、病的に主張を繰り返す連中の醜い呪詛だけが結果的に残ってしまう。それがあの界隈の特徴なんじゃないかと僕は思っている。だから、そんなプラットフォームでなにかした気になってんじゃねえよって僕はずっと主張している。
せめて応援ツイートなるものをしていたクリエイターたちは、紙媒体で杉田水脈批判批判批判特集が組まれた際には、ぜひ寄稿してくれよな! 後世にきちんと形を残そうぜ。

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弟に薦められて読んだ。
ワイオミング州というアメリカでも大自然と保守的な価値観や文化がいまだ残っている地域――いわゆる「男の世界」とエルクやムースやプロングホーンといったわれわれ日本人にはなかなか訊き馴染みのない動物たちとが同居する場所――が舞台で、主人公はそこの猟区管理官。ハンターたちの違法な行為を取り締まる仕事である。
……などと丁寧に書いていくのも面倒。そんな世界において主人公はいったいどういう人物でどういう振る舞いをするのかというと、自己を貫き、愛すべき家族を守るという、言ってみりゃただそれだけ。これを、都市部に住む人間が見れば「ほう」と目新しいものに出会うような感覚になれるのかもしれないが、現にそういう「古い世界」に住んでいる者からすりゃあ、日頃、見慣れ耳慣れているようなことが多い。エルクやムースやプロングホーンの代わりにいるのが、イノシシ、シカ、カモシカ、タヌキ、イタチ、ハクビシン、アライグマ、アナグマ、キツネ、ヘビ、サギ、ウズラ、キジ……等々なだけで。
「自己を通して家族を守る」といった正義漢にはついぞお目にかかったことがないが、こっちは「カウボーイ」の概念を持ち出してくりゃ事足りる。なんというか、この主人公の人物像じたいが古く保守的なものである、というその皮肉な構造みたいなのを作者が理解して書いているのかどうか、そこは気になるところ。
こういうのって、都会の人がいわゆる「スローライフ」をたのしむのと似たようなものを感じる。ビジネス田舎暮らし、農業コスプレ、等々。まあ人間なにをしようと他人にとやかく言われる筋合いなんてないんだけれども、間違っても「ホンモノ」とか言ってなにかを批判する材料に使わないでくれよなって思う。
けれども本書が決定的に魅力に欠けるいちばんの理由は、主人公のマヌケ具合だった。はじめから彼についての凡庸とか真面目などという形容詞はいくつか出てくるのだが、そういう人間が、我慢に我慢を重ねて最後に爆発するってのは非常に既視感あふれるパターン。ただ、「不器用」なんて言葉をまるで美徳みたいに扱う風潮のある日本ならともかく、こういうのがアメリカの作品で見られることについてはちょっと驚いた。合目的的あるいは合理的に振る舞うことをスマート(文字通り賢いということだが)とし、それを最上とするお国柄だと思っていたもので。ドナルド・トランプですら、ディールなどと言ってさも賢くやり手のように見せたがっているくらいなものだから。
主人公の判断の遅れによって、狡猾に振る舞うキャラクターにいいように利用され、結果、家族がめちゃくちゃ重いダメージを受けるっていう、このラストのどこに救いを見出せるというのか。ルメートル作品のようにあらかじめ悲劇が待ち受けているということが運命づけられているものならともかく、本作は、そこまでシリアスな結末が必要だとは思えない。となると、幼い娘のトラウマや妻の一生消えないであろう心の傷を作者自身がそれほど重いものだとは考えていないということなのかもしれない。ちょっと考えにくいが、もしそうだとしたら、それこそ「男の世界」の感覚ではないか、なんて首を傾げたくなったのだ。

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いやなにがってこんな情報ゼロ人間の目にすら飛び込んできたここ数日の「安室ちゃん」情報ですよ。
同い年の彼女が早々に引退を決めてしまうということにショックを受けた、なんてことはまったくなくて「へー、そうなんだー」と思っただけだが、といって彼女の「すばらしい功績(?)」だとか「憧れとなる徹底したスタイル(?)」を貶めるなんてつもりもまったくない。気になるのは、(?)をつけた「功績」やら「徹底したスタイル」なんてものを褒めそやしている連中はほんとうにずっと長いあいだ彼女を追いかけ憧れつづけてきたのかなってこと。世の中には尊敬すべきほんとうの意味でのファンという人たちは大勢いて、新作を出せばシングル・アルバムに限らず購入し、ライブへ行って、ツアーを追っかけ、その都度グッズを購入し、家へ帰ってきても「あー、安室ちゃん、やっぱすごいわー」と独りごとを言うっていう、そういう人たちが言うのならわかるし、納得もする。けれども、「どーこーへでーもー」とか「キャンニュセレブレイー」とか「スイースイーナインティーンブルーウーウー」みたいなところで止まっているやつ(なんて言ったって僕自身がここに含まれる)も一緒になって騒いじゃいませんか、ってこと。え? ツイッターチェックしてますよって? YouTubeで新作毎回チェックしてますよって? おめー、一銭もつかわねーくせに偉そうにファンとか抜かすなよバカヤロー、なんてわたくしはお上品にも思ってしまいますのよ、おほほほほ。

すっごく不確かな記憶なので相手さんの選手の名前を伏せておくけれど、何年か前のなんらかの代表選考会のとき、ある選手の選考がかなり危うく「もう代表には選ばれないかな?」なんて思っていたのが、競っていた相手の演技が思いのほか低く評価されたため、結果、代表に選ばれたというときのその瞬間、観客席ででっかいフラッグというか幟というか垂れ幕というか、とにかくそのなにがしかを一所懸命ひろげて、いまにも大声で泣かんばかりの形相の女性ファンたちがいたのが目に映った。そこにはバーンとでっかい手書き風の文字で「高橋大輔」と書かれてあった。
あーあ、そんなことしちゃったら代表になれなかった○○選手やその家族やファンの人たちがかわいそーじゃん、もうちょっと高橋ファンも気を遣えばいいのに……と思わないでもなかったが、けれども高橋ファンたちの気持ちを考えてみたら「そんな『相手選手の気持ち』なんて考えてられっかい! わしらは大輔命なんじゃ! 大輔が代表に選ばれたのを心から喜んどるんじゃ!」と思うのは当然であるということにすぐに気づき、それこそが誠のファンの姿勢かもしれないと思い直したのである。
なんにしたって、現地に足を運ぶファンというのがいちばん「正しい」のである。相手選手に野次を飛ばすとかSNSで本人宛てにクソリプを飛ばしまくるとか、そういった非道徳的な行為に手を染めない限りは、彼女らの行動はそれぞれに価値を有する。「武士の情け」でそのとき垂れ幕を広げなかった人もいたかもしれないし、相手選手のことなんぞ一向に構わずきゃーきゃーと絶叫した人もいたかもしれない。仕事を休んで、宿泊するホテルを予約して、電車代・飛行機代を捻出して、観客席――もちろんその競技会場の入場料だって払っているのだ――にすわっているその彼女たちの反応は、みなそれぞれに意味を持っている。そういう意味で「正しい」のだ。
反対に、「いやあ、ファンも相手方の気持ちを汲み取るべきだよなあ、すくなくともおれ/わたしだったらそうする」なんて一歩引いたいかにも冷静な意見を、テレビやスマホの画面の向こう側で偉そうに抜かすやつらのことは無視してよい。彼ら/彼女らの意見はただのノイズでしかない。彼ら/彼女らは永遠に現場に行かない。それなのに、ときどき自身を「ファンだ」なんて自称する。すげーあつかましい。そういうやつらがいま、「安室ちゃん、お疲れ様でした」みたいなことをFBとかツイッターとかインスタで投稿してるんじゃない? さすがにここ最近では目立たないと思うけれど(でも確実にいるはず)、安室奈美恵が引退するってのが決まったというニュースが報じられたとき、ヤフコメで「昔の曲はよく聴いていましたが、最近のはあまり聴いていませんでした……。けれども、ほんとうにお疲れ様でした」みたいな謎のコメントがちょくちょく見られて、さすがヤフコメと笑いが止まらなかった記憶がある。そういう人たちの自己認識も、あんがい高い確率で「ファン」だったりして。
(余談だが、ヤフコメでは誰かの訃報のときでも「まったく知らない方ですが……ご冥福をお祈りします」みたいなコメントが載ることもちょくちょくあって、このなんにでもコメントせずにはいられない種族こそヤフコメ民だよなあ、と文字から溢れ出てくるその素朴性を微笑ましく眺めること頻にして繁。この場合の「素朴」という言葉に込めたせっかくの悪意のニュアンスも、「不器用」という言葉を褒め言葉だと受け取ってしまう人たちには通用しないので、まあ通用しないんだろうなあ。それはそれでいいんだけど)

そんなことを考えていると、毎年毎年、5次元だか7次元だかというカフェに集まって村上春樹のノーベル賞受賞のニュースを待っている人たちのことがなんかかわいらしく思えてきた。以前、村上春樹に質問しようみたいな企画があったとき、村上自身が賞レースの候補として見られることに「馬じゃないんだから」辟易していると発言している。当然、コアなファンであればその発言を承知しているのだろうが、それでも彼ら/彼女らは5次元だか7次元だかに集まってしまう(文字だけを読めばなんかものすごいSFみたいだ!)。村上発言を聴いた直後くらいは、「おいおい、御本尊がそう言ってるんだから、あんたたちもすこし理解してやれよ」なんて思っていたものだが、いまじゃ受け止め方が180度変ってしまった。薄暗い店内で、マヌケなマスコミ(この話題でいちばんマヌケなプレイヤーはマスコミだと断言できる)に「今年もだめでしたね?」と訊かれ、静かに照れた感じで「はい……また来年に期待します」なんてぼそっとつぶやく感じが、男女問わず、なんか愛らしく思えてきた。いやーいいよ、あれこそファンって気がする。ちなみに、ボブ・ディラン、カズオ・イシグロと来て、村上春樹はいづれ受賞するんだと確信するようになった。ノーベル賞には程遠いよ、なんて思っていたのだが、なんとノーベル賞のほうが近づいてきた、というのが僕の印象。これはけっして悪い意味ばかりではなく。
なお、このあいだ、村上ラジオが放送されて、きっと5次元だか7次元だかに集まってファンたちが聴いているに違いないとニュースをすこし探してみたら、やはり集まっていたみたいだ。映像や画像は見ることができなかったが、小さな新興宗教(この場合まったく悪意はない)の小さな集会みたいなものを想像し、なんだかすこしだけ嬉しかった。

「安室ちゃん」問題に戻る。
活躍して注目を浴びるってんならわかるけれど、引退が決まってから盛り上がるってのもどうなのよって思う。最盛期と較べりゃすこしは落ち着いたのかもしれないがそれでも安室奈美恵なんて最前線で活躍していたほうだと思うんだけど、アイドルなんかでも解散が決まると似たような問題が起こる。今年、アイドルネッサンスというアイドルグループの解散が発表されたとき、彼女たちとは無関係の音楽プロデューサーがすこしきつめのツイートをしたことが話題になった。本人がのちに謝罪しているくらいなのでほじくり返すつもりはないのだが、「解散を残念がる前に、できる”応援”はあったのだ」という自称「ファン」に自問を促すような内容に僕は100%同意で、そういう意味で僕はファンではないということも強く意識させられた(アイルネに関して盤はすべて入手しているけれど、それでも「ファンである」なんてそんな傲慢なことはもともと思ってもいなかったけれど)。
最近じゃ、音楽でも映像でも、けっこうなものがけっこうな割合で無料で鑑賞できる。それはそれでほんとうにすばらしいことなんだけど、いっぽうで、なにかに対する感覚が相当に麻痺してしまっているのだとも思う。「なにか」なんてもったいをつけずに言えば、正当な対価ということだ。ついこのあいだまでマンガを無料で読めるところがあった、なんてことは僕は例のブロッキングの問題としてニュースで知ったくらいなんだけど、そういうところに入り浸っていて、かつ自称「マンガ好き」の人たち(ここが重要)は、それと同じこと、つまり表現者自身が認めていないタダ読みやタダ聴きみたいなことを、自分がやっている仕事に対してされても平気でいられるのだろうか。僕はイヤだけどね。
闇市でモノを買うな、たとい餓死してでも、とそういうことじゃない。技術的に可能であれば、それに手を出してしまうのが人間。けれども、自分がそのつづきを見たいというものであれば、やはりどこかで応援しなければならないというのも、事実として存在するのだ。観念ではなく、事実。
たまたまだが、僕のいま気に入っているアイドルグループのリーダーが興味深いことを言っていた。長いリリースイベントがようやく終わったという段で次のリリースイベントを発表したとき、苦笑い(※たぶん、「またか……」とか「もう次?」みたいなことだと思う)という反応もあるのだという。それについて、「それぞれの想いがあると思うのでどうこういうものじゃないとは思う」ときちんと前置きしたうえで、「次が約束されてる事ほど安心するものはないと私は思ってます、この活動をするにあたって」とコメントしていた。これ、ほんとうのことなんだよな。ファンにとっても、またアイドル自身ひいてはクリエイターたち自身にとっても、次があるというのはほんとうにすばらしいことなんだよ。たとえいまは気づかないとしても、次がない、というときになって気づくはず。そのときになって泣いたって遅いのよ、ほんとうは。いちばんいいのは、17歳のリーダー(!)にこういうことを言わせないことだけど、まあ人間はなにか痛い目を見ないと気づかないということがいっぱいあるから。
いちおう註記しておくけれど、上に書いた「こういうことを言わせない」っていうのは、アイドルに不用意にブログなんかに書かせてはいけない、ということではもちろんなく、ファンなら苦笑しない、あるいはスタッフなり運営なりがすげー頑張ってメンバー自身に要らぬ心配をかけさせないってことだから。というよりむしろ、17歳がこれほど気を遣いつつ、世の中の実相をきちんと見極め、なおかつエンターテインメントに従事しているっていうこの事実に驚愕してくれよ、諸君。ときどき大企業の広報がクソみたいなSNS発信で炎上するけれど、いい年こいて頭が腐ってんじゃねえのかって思う。結局は脳味噌のできの違いってことになるんだろうけれど、すこしはアイドル界隈を注視して勉強しやがれって思います、ほんとに。
基本的にアイドルは活動期間が短いものだけど、ミュージシャンならもうちょっとスパンが長い。だからってけっこう気を抜いてしまうこともある。そりゃそうだよ。みんながみんな上記のような尊敬すべきファンたれなんて思わない。だったらせめて、「ずっとトップを走っていましたね、(ほんとうはしていないくせに)応援していましたよ」みたいな感動のタダ乗りはやめろよと思う。現代ほど、口をつぐむというマナーが求められている時代もないのだ。

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なんだかトースターのタイマーがやけに長く感じられたので、キッチンタイマーをつかって計測してみたら、トースターの10分が、実時間では12分だということを知った。

さて。この時期になるとこんな過疎ブログへのアクセスがやや増える傾向にある、ということは毎年言っていることかもしれないけれど、たったきのう、自分のブログのURLがdoroteki2.blog.jpではなくて、doteki2.blog.jpであることに気づいたという、つまり自分のURLを決定するときに誤タイプしてしまい、かつ数年ものあいだそれに気づかないままでいた程度のブログになぜアクセスが増えるのかというと、おそらく宿題かなにかになっているのであろう読書感想文をつくるためのコピペや参照元としてネットを渉猟するアホどもが大発生し、そのサーチに当ブログもすこし引っかかってしまった、というのがその原因だと僕は見ている。
まあ、「○○(書名) 感想」みたいな感じで検索し、ダイレクトにそのページにアクセスするものだろうからこの記事を読むはずもないのだが、せめてもの抵抗で当記事に「読書」のタグをつけておいたので、「うーん、ほかにないかなあ」と探した人間の目に引っかかれば僕の試みの半分は成功だ。

こういうとき、「いやまあ、そういう読書感想文みたいなものは、他人のコピペなんかをするんじゃなくてね、自分で読書して、自分の頭で考えて、自分で書いたほうがいいよ、そのほうが身のためだよ」みたいな注意をする人は少なくないのではないかと思うが、僕はそういう言い方は嫌いだ。「身のため」の心配をするというのは、前述の大量発生しているアホどもに寄り添い、親身になってやるということじゃないか。そんな大海原みたいな心の持ち主なんかじゃないんじゃ、こちとら。はっきりと、「そういうコピペするやつら、一生苦労しろ!」って言ったほうがはるかにマシ。
でも、実際のところは、そういう括弧つきの「要領のいいやつ」ってのは社会的にもうまく行ったりする輩が多いんだと思う。そりゃそうだろう、抜け目がないため効率的なやり方を見つけるのが誰よりも早く、バレなければ規定外のことも簡単にやってのけるという胆力と実行力も持っている。人格がどうのこうのと陰口を叩くやつもいるかもしれないが、そんなのはしょせん負け犬の僻み。勝てば官軍、負ければ宦官。人生、勝ったもん勝ちですよ。
その結果、上司のお覚えめでたいてなことになる。
「おまえ、同期の連中より頭ひとつ抜けてるな」
「あざーす!」
「よし、会社はおまえを高度にプロフェッショナルな人材として認定することにしよう」
「あざーす!」

数ヶ月後。

ああ、つらい。電車。連れてかれる先は地獄だってのに、地獄でしかないってのに、待ってる。終わらない仕事がたくさんあって。ずーっと、ずーっと、ずーっと、目の前にはなんかある。塊。大量の。仕事の山。やらなきゃいけない、山。動かせない。消えない。なくならない。なくせない。ずーっと、そこには山。休めない。とてもじゃないけど、休めない。休日なんて、連休なんて、あったんだなあ。はは。考えられない。なにしてたっけ。2日も休んで、なにしてたんだっけおれ? ああ、つらい。もう足を前に動かせない。電車に乗りたくない。会社に着いちゃうから。そうだ、飛び込んじゃおうか。電車にぶつかっちゃえば、会社に行かなくてすむ。寝れる。かなり寝れる。もう死んでもいい。死んだらラクだ。死んだら寝れる。怒られないまま、寝れる。気にせず、寝れるんだから……。ああ、やってきた。もうほんとうにそうしてしまおうか。一歩。どうせ足を出すなら、ラクなほうへ……。
ああ……いったい、どこでどうなって、こうなっちゃったのかなあ……。

それが、このページの呪いだ!
こうならないうちに、改悛するのだ。おまえの、合理化や効率化の行く先は、実はたいしたことじゃない。どころか、おまえの寿命を縮めることだってある。だいじょうぶ、人生はやり直せる。おれだって、むかし過ちを犯した。そのために、ものすごく重い呪いがかけられ、しかもそれはいまだに解かれていない。その呪いのためにおれは、2分余計に焦げたトーストを毎日喰っているのだ。

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