とはいえ、わからないでもない

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選挙の前日になって、あらためて思ったこと。

僕がふだんから聴いているラジオ番組ではこの2週間ほどを選挙関連情報に注力していて、その内容は、主に各党のマニフェストに掲げられた政策を取り上げるものだった。
番組のMCやゲストたちはなるほど専門家と呼ぶにふさわしい人たち(すくなくとも付け焼き刃ではない人たち)で、各自が重要とする論点をそれぞれの観点からとらえていた。
はじめに断っておくと、僕はこの番組をおおむねのところ気に入っていて、この期間の選挙に対する態度もとてもいいものだと感じている。しかし手放しでよいと思っているわけでもない。

番組では、自公から、はては社民、日本の心まで八つの政党の主張をとりあげ、その是々非々を論じていたが、聴いていて、「眠たいことを言っているな」という思いがないわけではなかった。
ふだんの政治を是々非々で論じるというのならわかる。現政権の悪いところがあれば指弾し、あるいは国会での追及などに手ぬるい場面があれば野党を叱咤し、とやりようはある。もちろん、称賛を送る場合においても。
しかし、こと選挙となれば、是々非々などと言っている場合なのかな、とも思う。僕は、物事を慎重に考え行動する、ということは重要だと思っているが、世の中には、「慎重に考えなければならない」というフレーズを日頃から多用する人が、えてして、「慎重に考えたその結果」に行動を移せないことの多いことを経験的に知っている。この場合、「慎重に考える」ことだけが目的になってしまっているように見える。

「正しい」という言葉をまさしく括弧つきで遣うことが前提となっているような世の中だとして、だからといって自分の心のなかにまで両論併記を持ち込む必要はないだろう。
大西巨人『未完結の問い』という本のなかでの以下の語りが、僕のなかでは非常に強く印象に残っている。
最近は、たとえば「Aがいい」と思っても、それをまっすぐには言わない方がいいという論調があるね。「AでもないBでもない」というふうに言っておく方がいい。本当は、「世の中はAじゃなきゃいかん」という「A」を探り求めていかなければいけない。むろん、なかなか不動のものに到達しないということもあろうが、それを見つけて、言わなきゃいかんわけ。ところが今は、どうもみんなが、「AでもなければBでもない」というようことを言う。わかりやすく世の中に当てはめたら、「右翼でなければいかん」という奴がいて、一方に「左翼でなければいかん」という奴がいる、そうではない「右翼でも左翼でもないのがいい」という論調がいっぱい出てきているように思うがね。その右翼でもない、左翼でもない、AでもないBでもないという言い方が、実は戦争やらファシズムやらを呼び招くんだと思うが。でも、一所懸命「不動のA」を追究して、そのことを言う人間がいなきゃいかんな。
(84p)
このなかで重要なのは、どっちつかずの態度が「実は戦争やらファシズムやらを呼び招く」という部分だろう。この文章に行き当たったとき、心の底から合点が行く思いだった。
いまの言葉に直すと、「俯瞰」になるのかな。おれ/わたしは当事者ではなく、あくまで観察者としてものごとを冷静にウォッチしているのだ、と。そういう態度を恰好いいと思っているような人たちをネットで見つけるのはそう難しいことではない。

で、話は戻って、くだんのラジオ番組のその態度は、公正な情報をリスナーに提供するという意味においては理解できなくもないが、しかしリスナー自身は、端から端まで熱心に聴く必要もあるまいと率直に感じた。
すごくわかりやすい例で言うと、なにかというとすぐにナチスを引き合いに出す副総理を抱えた内閣にそう簡単に信任を与えてよいのだろうか、とか、関東大震災の朝鮮人虐殺についていまさら疑義を唱えるような人間が党首の政党に野党第一党を任じるのか、とか、その政策がどうのこうの以前の人間が簡単に見つかる――強調しておくけれどこれらはすべて表面的なことで、ちょいと調べれば「最低基準」に満たないようなひどい連中はダース単位で見つかるだろう――ようなところで、なおも「公正さ」を保とうとし、その政策をきわめてフラットに銓衡するというのであれば、その危機意識のなさこそ国難なのではないか。いや、国難という言葉をむりやり遣うとすればだけど。

一週間ほどまえ、その番組内で最高裁裁判官の国民審査についての特集がおこなわれたのだが、その際、番組のリスナーから「毎回、判断材料がないために苦しんでいます」という内容のメッセージが送られてきた。聴いていてむかむかした。
ああおれは、ネトウヨ系のアホどももそうだけれど、こういう「イイ子ちゃん」たちも大っ嫌いなんだな、と感じた。
「苦しむ」とはまた大仰な表現をするものだ。「困る」とか「悩む」ではなく、「苦しむ」だ。すごいな。
この言葉を聴いたときに、「迫害に苦しむロヒンギャ難民」というフレーズをすぐに連想した。あるいは、「大病になり、苦しむ生活困窮者」だとか。苦しむというのは、そういう言葉だと思う。
簡単にツッコむと、苦しむくらいなのに、公報見てないのかよ。各家庭に送られ来るはずのそれを見れば、すくなくともまったく判断する材料がないということは言えまい。現に、前回の国民審査の際には、僕はひととおりそれに目を通していた。
あるいは現代のことだ、ちょっとネットで「国民審査 裁判官」とでもやれば情報はたくさん出てくる。それを見ればいいじゃないか、苦しむくらいなら。その人が目が見えない人なら全面的に謝るけれど、そうじゃなければ、大げさな言い方で、さも自分が一所懸命に考えていることをアピールするのはもうやめたらどうだろうか。

極論かもしれないけれどその番組の、すべての政党の政策を吟味するというようなやり方は、AでもないしBでもない、というある種の「冷静」で「公正」な観察者的態度というものをどこか助長させるところがあるのではないか、と思っている。これはなにも今回に限ったことではなく、ずっと感じていたこと。歴史的にも、「冷静」で「公正」だった人たちが戦争やファシズムを追認したってことは実際に多かったろうと思う。
そして、メディアに出てくる専門家というのは、われわれ一般人とはまた違うということを強く意識しなければならない。彼らは、意図して対象と距離をとり、そうやって観察・比較し、研究している。その研究結果を参考にするのならまだしも、なにかを決定しなければならないという場面にいるわれわれ自身――なんといっても当事者であるわれわれ自身――がそのやり方まで模倣しなくてもよいのではないか。過程をすっ飛ばして手法だけを真似できると考えているのであれば、それはある種の思い上がりなのではないか。あるいは、稚拙な猿真似か。

政治を批判するときの、「野党は野党でだらしない」というのはものすごくよくできた言葉で、与党の批判者で、かつ冷静な観察者を自認する人たちにとってはこれ以上ないというくらいに便利な免罪符だ。だからこそ、そういう言葉を聴くと僕はげんなりする。いじめはよくないけれど、いじめられる方にも原因がある、という言葉にかなり近いものを感じるからだ。そういう歪んだバランス感覚が生むものは、発言者の自己満足以外になにがあるというのか。心のどこかに疚しいものを感じてはいないのだろうか。
現政権の熱狂的な信者たちの過激な発言には、その点いささかの曇りもない。ストレートに、しかもしつこいくらいに主張を重ねる。応援する対象がフェイクニュースやデマ、下品な誹謗中傷を撒き散らすことがあっても、彼らにとってはそれは些細なことで、かまわないのだ。「小さなこと」とか「それをいうなら」なんていう言葉を繰り返し繰り返し重ね、敵対する側への攻撃はやめない。冷静さなんていう言葉の無意味さ・無力さを彼らは熟知している。愚かしさも、ある点を超えれば強さに変わる。気取った、照れと気恥ずかしさに隠れて慎ましく発せられる言葉は、それらによって簡単に掻き消されてしまうのだ。

今回の選挙の結果を知ってもきっと失望はしないだろう。へたな希望を持てば失望するだけということを体験的に知っているから。むしろ、その先――もしかしたらすぐそこ?――にあるであろう絶望をたのしみにしておく。そのときになっていったいどれくらいの人間が、そんなはずじゃなかったと慌てふためくのか、それだけをたのしみにしておく。われながら悪い趣味だとは思うが。

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図書館の書架にぽんと置いてあったのをたまたま見つけ、そういやこれ話題になっていたよなということを思い出し、その安直なタイトルの本を手にとってカウンターにまで持って行った。

まず、この一見ストレートにストレートを上塗りしたようなタイトルがどれほどの意味を持つのか、田中角栄という人間をリアルタイムで知らない僕には最終的に判断できないかもしれない、というおそれはあったが、しかしまた慎重に考えてみるに、おそらくこの天才というのは、われわれがその単語について簡単に思い浮かべがちなイメージとはまったく別種の相当なメタファーなりアナロジーなりを内包する言葉であろうから(なんといっても彼は「作家」なんだから!)、読了後にきっと味わえるはずの意外性をたのしみにすることも可能だ、と思い直してページを開くと、その行間のスペースの広さや文字のフォントの大きさに驚かされる羽目になった。

都の百条委員会に呼び出しを食らったときだったか、マスコミの前で威勢のいいことをぶちまけてそれから車に乗り込んでいこうという場面でのその後姿や歩く恰好のあまりにも年老いた様子を、おそらくは彼が若い頃からずっと嘲笑してきたであろう存在に彼自身がなってしまったのだという皮肉な思いで眺めたが、あの印象の強さのためか、これはもしや口述筆記による「角さん」の追憶記かと思って奥付あたりをぱらぱらと調べると、
この作品は現実の人物・事件・団体等を素材にしておりますが、すべては筆者によるフィクションであることをお断りしておきます。
という但し書きがあって、やはり小説なのかと再認識した。
ほんとうは、小説でもエッセイでもドキュメンタリーでもジャンルはなんでもよいのだが、しかし実際の人物を描くというとき、そこに含まれる真実味がどの程度のものなのか、というのはその対象人物をほとんど知らない読者にとってはとても重要な問題なのは間違いない。
小説というのは非常に自由な表現藝術なので、いかように描くこともできる。高橋源一郎はその初期作品において伊藤整や金子光晴という名前のキャラクターを登場させ、(これまた「おそらく」となってしまうのだが)実在の人物がしなかったであろう振る舞いをさせたりした。
また小島信夫は、その小説に「保坂和志という小説家」という人物を登場させ、これはいかにも当人と思えるような言動をさせるのだが、保坂自身によれば「そんなことやっていない/していないのに」みたいなこともあるという。というかそもそも小島信夫の作品には、一人称で書かれ始めたのに「小島信夫という作家」が登場することもあり、三人称に移ったのか、はたまた「わたし」とは別の人物なのか判然としない、と読者が混乱を来すものもあるのだが、石原慎太郎は十中八九そんな「文学的」なことは考えていないだろうから、そうなるとフィクションという言葉を頭の片隅に置きつつ、かの人物のいわば人物伝を、小説の形で読むのだなと自分に言い聞かせた。

しかしそうなると僕としては、ますますどう読み、どう感じてよいのかがわからなくなった。この「小説」に描かれているうち、はじめの五分の一ほどは田中が東京に出てくるまでの話なのだが、面白いのはここだけだった。彼の生い立ちや家族、そして淡い恋愛感情などがたぶん虚実綯い交ぜで書かれているのだろうが、その真偽などはどうでもよく、それなりに面白い。それは、その立志伝の一過程が、現在となってはなかなか想像しにくいことによるものであり、その想像のしづらさは、日本人の生育環境や経済環境というものが表面的にはより画一的になったことに由来するものだろう。

けれどもそのあとの五分の四は政治家になってからの記述が主で、事実が、そのときの田中の感慨(という体)をもって描写されていくのだが、ここに物足りなさを感じた。というより、なにかの弁明のようにも感じられてしまい、それが石原の弁明なのか、あるいは最後のページに三十も挙げられている参考文献に依拠したものなのかはわからないのだが、これまたわかってもわからなくても、そのいづれにしても面白くない。はあ、そういうものなのかなあという感想で終わってしまうのだ。

ある政治的に困難な状況や重要な課題に直面したときだけをピックアップして、そのときの人間模様を大胆に描くというのであれば、これはこれで面白さはあったはずだろう。しかし回顧録みたいな体裁なものだからどうしても記述は淡白なものとなっており、物足りなさだけが残る。
それではドキュメンタリーとしての興味深さはあるのかというと、たぶん事実に即しているのであろうということくらいは判断できるのだが、それにしては記述量が圧倒的に不足しており、やはりこちらでも不足感が残る。結局、どっちつかずなのだ。

200ページの本文に対する15ページのあとがきには、本人もわざわざ「長い後書き」と題しているのだが、このなかに出てくる石原の田中との対話は魅力的だった。石原がまっこうから田中の金権政治批判をしていたとき、テニスのクラブハウスで彼とたまたま出会ってしまうのだが、そのときのやりとりに石原は特に強い印象を持ちつづけているようで、その昂奮を隠していない。
”これは何という人だろうか”と思わぬ訳にはいかなかった。私にとってあれは他人との関わりに関して生まれて初めての、そして恐らくたった一度の経験だったろう。
一礼して別れ、仲間たちと食堂で合流した後も、私はたった今味わった出来事の余韻を何度となく嚙みしめていたものだった。

(214p)
本文にこのような種類のものがまったくないかといえば嘘になる。たとえば毛沢東と対話する場面などにほんのちょっと人間の面白さというものが描かれているようにも感じるのだが、しかしそれにしたって分量がすくなく、あっという間に印象が過ぎ去ってしまう。

文体についてすこし言及すれば、石原節みたいなものは随所に感じられた。
たとえば、「○○についての調査はなかった」というようなことを言う場合、石原は「○○についての調査はありはしなかった」とよく書く。「いなかった」を「いはしなかった」と書くし、「~していて、」というところを「~してい、」と書く。これはたぶん彼のこだわりなんだろう。
余談だが、「味わう」という言葉の使役形を「味わわす」とはっきり表記しているのを見たのは、彼の文章(本書ではないけれど)が初めてだった。これは音だけを聴いていると、「あじわわせる」なのか「あじあわせる」なのかがいまいちわからなく、発話者もそこらへんを曖昧に認識しているということが多いのだが、文章でそのようにはっきりと書いているのを見ることもなかった。おそらくその理由は、「苦労を味わわす」と書いて自分でも不確かな思いをするよりは、「苦労させる」と別の表現を遣ったほうがよいとした文筆家のほうが多いからではないか、と愚察する。
話を戻すと、上記のような石原の文体は読者に引っ掛かりを与えることも少なくないだろう。悪文という人もいるかもしれない。その指摘を間違いとは思わないまでも、しかし僕自身はあまり悪くは受け取らなかった。この直前にライトノベルをたまたま読んでいて、その引っ掛かりのあまりのなさに物足りなさを感じていたということもある。
現在ネットにあふれている文章のほとんどが引っ掛かりのなさに注力されており、僕はそういう文章を好まない。書かれている内容も陳腐なうえにその書かれ方も陳腐であれば、なにも残らない。おそらく数年以内には、AIがそういう文章をわれわれに提供するようになる。なので、わざわざ人間が書く必要がないのだ。

数行で終わらせるつもりだった感想は、結局まとまらない。
しかし、「長い後書き」のなかに、「田中角栄という未曾有の天才」とか「田中角栄という天才の人生」などという箇所を見つけ、「相当なメタファーなりアナロジーなり」はおそらくないということを確認することはできた。
繰り返しになるが、参考文献の量は多いようだ。その「まとめ」を簡単に読めるという点以外でこの本の興味深い箇所を強いて探すとするならば、「三番クン」という名前で登場する女性と青年田中との恋愛未満のようなエピソードに、石原慎太郎という人間がそれなりの重きを置いているというところかもしれない。
あのように無神経で傲慢で、愚かしい言動に事欠かない人物も、わりあい純粋なものを信じているふしが見られるのである。もちろんこれを指差して嘲笑する気はない。ただ、純粋なものを信じる人間が必ずしもやさしく心のこもった行動をするわけではない、という新たな例証――けっして新奇なものではないが――がわれわれの知識にくわわるのみである。

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先週末から登場した川本世津子という大女優を菅野美穂が演じている。
菅野にもともと大女優――という言葉が尊大なイメージを多少なりとも含むのであれば――の雰囲気はないのだが、けれども清潔感があって、どことなくかわいらしさもあり、そのかわいらしさに深く関連していると思うだのが気さくなところも感じさせる、という点を併せて考えるに、そのときすずふり亭にいたみんなが好きになってしまうというのは非常によくわかる。しかしまあ、菅野美穂というとびきり旬というわけではないけれど好演が非常に期待できる俳優をよくキャスティングをしたよなあ、とここは感心しきり。『坂の上の雲』での子規の妹役では大感動させられたが、それ以降すっかり忘れていた。僕などしょせんこの程度である。

乙女寮のメンバーだった優子さんが玉の輿に乗れるらしいとのことで、ほっと胸をなでおろす。向島電機での初登場時に咳をこほんこほんとやっているのが死亡フラグにしか見えなくて、座敷わらし薄命というか、そういう悲しい結末はイヤだなと思っていたのだ。
前にも書いたことがあると思うけどこのドラマは『あまちゃん』のカウンタードラマだと思っているので、だからこそ同じルールに則っている部分があって(と勝手に思っているだけなのだが)、そのひとつがドラマ中に登場人物が死ぬということはしないようにしているはず、というのが優子さんがとりあえず一段落ついたところで確信できた。

幸子さんが指揮者をくさしているのが面白い。なんかこの人は途中でキャラクターがタフになったというか、より人間くさくなった気がする。そりゃ、あんなやつと一緒にいたら人間くさくもなるわな。そしてその反動か、ちょこっと嬉しそうに、または恥ずかしそうに笑ったりするとよけいに愛らしく見えるのは乙女寮時代と変わらない。

ひさしぶりに見た時子。演じている佐久間由衣という人物が実際どういう人なのかわからないが、けれども時子役のときの、けっこうあけすけなしゃべり方や気取りのない振る舞いにあらためて感心する。「女優を目指しているんだけど田舎っぽさが抜けない女の子」という設定を非常にうまく演じているからだ。たぶんこの人は、声に恵まれていない。発声の仕方なんかにもよるのかもしれないけれど、散らかって聞える声というか、いわゆる「通る声」とは正反対の声質なんだと思う。そこが期せずして垢抜けない雰囲気に一役買っているのだと思う(本人にとっては嬉しいことではないのかもしれないけれど)。
冷静に見たら、みね子のほうが、よっぽど女の子らしさをまとっているんだよね。まあこの「女の子らしさ」なんて評価や言葉も、現在ではなかなか遣いづらくなった言葉だけれども。
なにかとすぐに比較するのは悪い癖だが、時子の役は、いまや彼女以外に考えられない。反対に言えば、佐久間由衣という俳優が助川時子をつくったといえる。

澄子が石鹸工場の社長夫婦にかわいがられているというのを聞いてこれまた安心。彼女の実の家族の話が描かれることはもうないのかもしれないが、新しい場所で新しい家族を得られたというのは幸せな話。なにも「血」にこだわる必要はないだろう(これは今後言及する問題)。

豊子については……せっかくひさしぶりに登場したというのに、「役者のことがあまりにも好きすぎて直視できない問題」が勃発。そのため、耳はセリフに集中して、視覚においてはちょっと視界に入れる感じで見たのだが、もうそれだけで充分。なにも言うまい。

みね子に絡んでちょっとした冗談があったのち、「みんなうまくやっているようです」なんていうみね子のナレーションの後ろでは、乙女寮のメンバーがまだ談笑をつづけていて、けれどもそのセリフは聞えなくて。
こういうカットが『ひよっこ』には多いのだが、これらはものすごく重要で、すばらしいシーンばかり。われわれ視聴者が見聞きしている以外のことでも、つまりカメラに映っていないところでも、物語のなかの彼/彼女たちはしゃべったり行動したりしているはずで、それって現実の世界では当たり前のことなんだけど、フィクションになった途端に忘れられてしまうのだ。
『あまちゃん』で、まだアキとユイが北三陸にいた頃だったと思うが、お座敷列車でアイドルとして歌を唄うとき、たしかふたりのうちどちらかが画面から見切れてしまうところがあって、それに感動したことがある。
いまから考えれば、たぶん列車だか汽車を動かしているためにスケジュールを変更することができず、ちょっとしたミスなどであればそのままOKテイクにしたってことなのかもしれないけれど、重要な登場人物が見切れてしまうっていうことは、その見切れた先に世界が広がっているということを図らずも示唆したわけで、画面の外の、先の先のその先にまで地つづきで人々の営みがあり、それらを感じられるというのは非常に豊かで贅沢な体験だ、ということで感動したのだった。
『ひよっこ』のナレーションの後ろで、登場人物たちがジョークなんかを持ち寄って語らい笑っている場面にも、似たような生活の厚み、世界の手触りの確かさが感じられる。僕の思い入れが日増しに深くなっていく理由のひとつだ。

……って、いまふつうに「見切れる」って言葉を遣ったが、これは辞書を引くと本義としては「テレビ放送や演劇で、本来見えてはいけないものが見えてしまう」ことのようで、派生語(というか誤用っぽい)として、「写真や映像で、フレームに人物などの全体が収まらず、一部が切れている」ことを指すようになったみたいだ。つまり正反対。
僕がこの言葉を実際に耳にしたのは、勝村政信とか筧利夫なんかが再演した第三舞台の『朝日のような夕日をつれて』のなか、舞台出身の役者はオーバーアクション過ぎてよくスタッフに「○○さん、見切れてます!」と怒鳴られる、という場面でのことだった。

それにしても、乙女寮の同窓会の料理を任されたヒデとゲンジがかわいすぎた。
あと、同窓会がお開きになって時子を除いた4人が帰るというとき、「がんばろうね」という言葉が口にされるが、こういう小さなささやきやつぶやきが、ぐっとくる。みね子たちが奥茨城から出てくるとき、バスのなかから千代子に向かって叫んだあのセリフ、それから上野駅で先に米屋の主人に連れられていく三男に向かって呼びかけたあのセリフ、がそれぞれ共鳴している。

みね子のアパートに一緒に行った時子の口から出た劇団での近況説明は、「ああ、演劇やってると、そしてハマった人になればなるほど、道を外れちゃうもんだよなあ」としみじみ感じさせるものがあった。
時子が演劇への愛を語る。その愛が本物であればあるほど、実生活がたいへんなことになっていくというのはよくある話。彼女はたまたま水商売勤めを選ばなかったけれど、その時代はともかく現代ではない話ではないし、だからといって学校を卒業してちゃんと就職するような、いわゆるまともな人たちが思うような、俗に言う「堕ちた」みたいな感覚はそこにあまりないのではないか。むしろ、身も心もなにごとかに捧げているという感覚に満ち溢れている時期こそが、病膏肓に入っている状態だと思う。そしてまた、その様子を間近に見ている人間ほど、その美しさを感じられることもあるのだ。

さてここらへんからみね子の恋愛モードが加速されていくのだが、みね子のかわいさ――有村架純のかわいさ、ではなくて――ってのが並のアイドルの比じゃなくて、あらためて女優というものはすごいなあと思い知らされる。
偶然というか、うまいプロットのおかげで島谷がチケットを隠していたことがみね子に知られることとなり、バーで説明がなされる。このときの島谷の説明や、その前に島谷に感謝を告げるチケットをもらった女の子への対応もそうなのだが、彼はいっさいの人間を責めない。嘘もつかないし、すべて誠実に対処する。
そしてそれがゆえに、島谷とみね子の恋はやがて終わるなと思った。終わらざるをえないのである。こんな完璧超人、しかも環境が非常に恵まれているときている輩は、短命でなくてはならない。もちろん死ぬ必要はないが、どこかで退場してもらわなくてはならない。
僕は現時点でその結末は知ってしまっているが、上記予測は、この週をリアルタイムで観ているときにすでに頭に浮かんでいたことであった。

それはそうと、時子があかね荘にやってきてから途端に物語にドライブがかかり始める。もちろん脚本がそうなっているということがあるのだが、たぶん書き手にとって時子やムネオは、ストーリーを前進させることができるエネルギーを持っているのだ。
ひとつには、出演している時間数が相対的に多いということもあろう。けれども、きっとそれだけじゃない。
繰り返しになってしまうし、そして多分に僕の先入観がそうさせているとも思うのだが、奥茨城の人たちおよび向島電機やすずふり亭の人たち、と、あかね荘およびすずふり亭周辺の人たち、とではなんだかキャラクターの描かれ方がまったく別次元のように感じられて仕方がない。
どこかでリアリティの話に触れたが、そこにいなければならない、という必然性もまた、登場人物の重要なリアリティである。物語の進行においてその存在がどうしても必要である、ということもさることながら、演技や演出のためにあまりにも存在感が大きくなって、そのためにドラマにとって欠くべからざる存在になってしまった、という場合もあるだろう。
いづれにせよ、そのような人物たちは独特のエネルギーを持っており、そういうキャラクターが複数いるだけで、「面白いドラマ」になる可能性は高くなる。
その反対が、数合わせというか賑やかしというか、なんとなく配置されている人物たち。僕はその存在じたいに反対するわけじゃないけれど、無理やりメインの連中と絡ませないでくれよな、とは思う。光石研とか三宅裕司の存在はもともとかなり浮いているのだが、けれども直接の接点は少ないから、まだまともだ。
それに対して、あかね荘の連中はみね子にものすごく絡んでくる。絡んで露出時間が多いわりには、島谷を除けば内容が薄っぺらい。そしてその島谷も、ムネオと時子の登場によって、やっとみね子と直面できるような流れになっていて、ストーリーを強引に引っ張っていける力がないことを反対に証明しているようにも感じられた。

とはいえ、今週のいちばんのハイライトは、みね子と島谷の初デートのとき、周りのエキストラがダンスしているシーンで、あれはすばらしかった!
先行作品に同様の演出はたぶんいくつかあって、僕がぱっと思いつくだけでも、テレビドラマ版か映画版か知らないけれど、『モテキ』で森山未來がダンスしている映像は観たことがあるし、阿部サダヲ主演の映画『舞妓Haaaan!!!』でもミュージカル仕立てのシーンはあった。
でも、いいものはやっぱりいい! こういう現実と空想が交錯する場面ってのは大好きで、もっといろいろなドラマでも適用してもらいたい演出(……ってことをかつてどこかで書いた記憶があるんだけど、思い出せない)。
あとちょっと思ったのは、このときにみね子がかぶっていた帽子がかわいいなあってこと。当時のファッションがどんなものだったかわからないけれど、とてもおしゃれに感じたなあ。というか、ぜんぜん田舎娘じゃないよ。垢抜けすぎ!

デートが終わって、部屋に帰ってきた時子にその日あったこと(島谷が実は高いところが苦手で東京タワーで怯えていた、という話)をいちいち実演して見せるのだが、有村架純、こういうひとり芝居がものすごくうまいな。ほんとうに見てきたことを演じているようで、観ているこちら側も自然と頬がゆるむ。文字通り、演技が自然だからだろう。個性派なんて評されながらワンパターンに陥っているどこぞの役者より数百倍はすぐれた俳優だよなあ。
「おつきあい」を始めたふたりのそんな初々しさの余韻に浸りながら、つづく。なお、最後の最後に愛子さんが登場し、また三男と時子の兄ちゃんたちも登場。

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わたくし、馬齢を重ねてことし四十になる者ですが、1996年あたり(忘れもしない、大学附近で0円携帯というものが頒布されておりました)から薄ぼんやりとあった「時代」というものから遅れ離れている感覚/実感が、十五年近くを経たあたりからいよいよ目を背けていられない次元に突入し、またそのスピードも等比級数的に速くなっている、という認識をけっして見誤っていないつもりでおりましたが、なんたらという知らない女性芸人さんの名前を、マラソンをしている(していた?)という情報とともにたまたま目にし、自身の旬のお笑い芸人の知識がたぶんスギちゃん(もうちょっといえば、ラッスンゴレライはわかる)あたりで止まっていることに、思わず「思えば遠くに来たもんだ」というフレーズを口ずさんでみたくなり、思わず思えば、って相当な矛盾だなと思いつつも、スギちゃんのギャグでいちばん笑ったのが、彼当人のものではなく、松尾スズキがラジオでやっていた「きれいな顔だろう? 死んでるんだぜ」という『タッチ』に寄せたモノマネヴァージョンだった、ということを書いてもなかなか多くの人には共感してもらえないのは非常に残念なことで、しかし話を本筋に戻してこうなってみると、定年間際の男性が会社でPC操作にまったく慣れることができず他の若い社員たちから「おっさん、少しは順応しろよ」と陰口を叩かれまくる、というあのシチュエーションを想起するとき、叩く方ではなく、もはやとっくのとうに叩かれる側に移行してしまったのだ、ということもじんわりと理解できるようになってきて、あらためて、若いうちに年長者に石を投げるような真似をしてこないでよかったなと思うきょうこの頃、石といえば、「石」という人物が主人公のマンガ『バンデット』が『モーニング』に連載されているのをここ数ヶ月で知り、これがなかなかに面白く、その影響で岩波文庫で『太平記』をゆっくりと読み始めたところ、「悪事千里を走る」というあの俚諺の前に「善事は囲みを越えず」という言葉がくっついているのを知り、なるほどそうなると逆説的に、大々的に行われている善というのには(本来は「囲みを越え」ないわけだから)なにか不自然なところがあるはずだ、という一種の真理にも到達するわけで、「地球を救う」などという気宇壮大な言葉の陰に当然のように隠れてしまうものを(まさか「隠されている」なんてことはないだろうけれど)考えるのに、きょうはぴったりの日なんではないかと愚考する次第です。

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(全然知識がないくせに知ったかぶりをしてしまうのだが)ことしのTIFでベビレが『夜明け』を解禁したのってほんと感動的だったよなあなんて思うのだけれども、アイドルの話題がすこしでも盛り上がるとよそからなにも知らないやつがやってきて、「え? これが人気あるの? 歌へたなのに? かわいくないのに?」などとコメントするのを見ると、文脈も知らないやつが口出しすんじゃねーよ(ベビレは歌うまいし、かわいいけどな!)、などという文句と一緒に一生さかまつげに苦しむ呪いをかけたくなるのだが、いまからそれと似たようなことをしようと思っている。「それ」というのは、呪うほうではなく、「え? なにこれ?」とトンチンカンなコメントをするほうである。

といって、いままで8ヶ月ものあいだ毎週45分の時間と持ちうる限りの忍耐力とあるいはネット社会で研鑽してきたスルー力とを総動員させて観つづけてきた人たちに対して相当の敬意を抱いている僕は、その対象を直接名指す勇気も持てず、ただ『Nトラ』とその名前の一部を匿さずには書けない。大河ドラマ、『Nトラ』。新型の燃費効率のいいトラックみたい。
今週、弟からの勧めがあって、ものすごくひさーしぶりに当該ドラマを観る機会があったのだが、あらためて「すごいな」と感じた。

まず、どこの国の誰の話をしているのかがぴんとこない。観ていないから、だけが理由ではないはずだ。公式サイトの「登場人物」のトップのところを見たら、信玄、信長、家康は除けば、あとは誰ひとり知らない人物だった。いや、今川氏真がいた。義元ならともかく、氏真! 『信長の野望』で使ったことないよ、このキャラ!
ゆえあって囚えられた高橋一生を「かしら」と呼ばれる柳楽優弥が助けに行ったら(行けちゃうんだ……)、案の定というか、高橋一生がそれを拒む。まあ、今回死ぬってわかっているので、「よし、一緒に出よう」とか言われると困ってしまうのだが、そのときそのかしらに、あんたが死んだら柴崎が困るよ、と伝えられると、高橋が「(おれが死んでも)おしょうさんがいる」みたいなことをい言っていて、「おしょうさん!」って思った。反対に、和尚さんひとりが頑張ってどうにかなってしまうくらい、ちっちゃい家ってことなんだろうか。そのうえ高橋、「それに、」とつけくわえる。「かしらもいる」と。「かしら!」
おしょうさんとかしらのふたりがいるから、だいじょうぶ。
もう平仮名で書いちゃうよね。坊主と盗賊が盛り立てる戦国武将。そりゃ、聞いたことないはずだよ。『信長の野望』にも出てこないか、出ているのかもしれないけれど、雑魚キャラだよ(たぶん)。すなおに井伊直政(赤備え)を主人公にすりゃあよかったのに。

そしてひとりひとりのキャラクター性が薄いうえに全体の登場人物数も少ないためか、各個人が長々としゃべっている印象を受けた。その内容が面白ければよいのだが、これまた、なーんかぴんとこない。あとから振り返ってみると、たぶん史実としては高橋はほんとうの裏切り者なのだろうが、ドラマ内では、罠に嵌められて裏切り者になってしまう、という体をつくるために四苦八苦しているようで、まあそれは脚本家の仕事なのだからけっして悪いとは思わないけれど、柴崎がずっと同じことを言っているような気がしてしまって、間延びを感じたのは事実。それが単調な演技技術のせいなのか、脚本のせいなのかはわからない。あるいは、背景がずっと同じような印象を受けた、ということにも一因があるのかも。しょっちゅう、お寺にいるよね。

あと、今回は全体的に言って、高橋一生のプロモーションビデオの感があったな。山口紗弥加の膝のうえでにかっと爽やかに笑うところとか、なんか「サーヴィスしていますよ」なショットだった。そういうところに、あらためて高橋一生が「ブレイク」したのだという事実を痛感することとなり、非常に感慨深い。ちょっと前の官兵衛にも出ていたんだけどねー。

その高橋の死ぬところ、たしかに見応えはあった。よりこけたように感じられた頬などが、まだほっそりとしていた時代の上川隆也を彷彿とさせるところがあった。もちろん、声の出し方や迫力なども。
彼のセリフがいちいち反語になっていて柴崎への最期のエールになっていた、ということくらいは一見の僕にでもわかって、ここは実にいい場面だなあとも思ったのだが、いかんせん彼の胸を突いているのが尼さんでありまして、こちらも一所懸命にやってはいるのだろうけれど、格があまりにも違いすぎて、非常にもったいなくも感じられた。
といって、「じゃあ、柴崎じゃなかったら誰がよかったのか」問題というのもあって、主演とはいえ、このクソマイナーな武将(ともいえない人物)を演じるというのは火中の栗を拾うようなもので、たかだか2年前なのにもうなかったことにされている(と個人的に感じている)井上真央の主演および作品などは、「あれはひどかった」的な仕方でしか回顧されないってのもかわいそうな話。実際は、まったく観ていないから批難すらできないのだけれども。いや、観てみたら名作なのかもしれないけどね。

というわけで、ハヴ・ア・ブレイク的な感じで『Nトラ』をひさしぶりに観たことを書いておいた。ファンのみなさまにおかれましては、今後はなにをよすがに今ドラマを観つづけていくのかをぜひお訊きしたいところですが、たぶん僕などがまったくあずかり知らない傑作キャラクターたちが幾人もいて、それらが物語を盛り上げていくのだろうと思います。これは本当に皮肉抜きで書くのだけれど、どんなドラマにだっていいところはあるもんだからね。
僕は今後の展開にあまり興味が持てなかったので、このままリタイアします。

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先週ぶんは最高だったなあ、と思っていたらこの週はそれを超えた。超えちゃったんだよなあ。

そもそも、ビートルズがやってくるっていうネタを、時代風俗の記号的に扱うっていうやり方なら容易に想像のつくところだが、『ひよっこ』においてはまったく違う角度から、しかも音楽性とはかなり遠いところから料理している、ってところにまずわれわれは驚かなくてはならないだろう。
「記号」で済ませるのなら、あの例のハッピ姿でタラップを降りてくるところに、ナレーションで「前座は、なんとあのドリフターズでした」とでも言わせておけばいっちょあがり、ってなもんである。けれども……違ったんだよなあ。

この週の、というか、先週から引きつづき今週も主人公はムネオである。
上滑りしつづけている印象の三宅裕司の店の手伝いで、商店街のみなさん&あかね荘のみなさんで、赤飯づくりをするわけだが、みんなの一服中、シェフの省吾が、「おい、ムネオ」と呼んで戦争中どこに行っていたのかを問い質すところからクライマックスは始まる。
まず、省吾に呼ばれたムネオが「なんですか、シェフさん?」と応答し、へらへらと近づいてくるところからして、もう違う。
このときの峯田に感じたのは、丸腰にもかかわらず、帯刀している人間に負けない武術の達人。

演劇の舞台っていうのはほとんどの場合、虚構であるし、また、たとえもともとが実話だとしてもそれを仮想の世界において再現するという意味で、やはり虚構である。
虚構の中にはその世界ならではのルールがあって、われわれはもはや何十何百というフィクションに接しているからそのいちいちに引っかかりはしないけれど、ときおり、違うルールが実験的に持ち込まれたり、あるいはもともと違うルールに則った表現などに接すると、そのルールを自分のなかで適用させるのに戸惑いを覚えたり、あるいは拒絶したりする(前者の例をこれまでのところで挙げるとすれば、乙女寮時代、『ウエストサイド物語』を観に行ったことを表現するのに、乙女寮のエキストラメンバーたちによって、当該映画をダイジェスト的に擬似再現したこともあった。後者の例としては、ミュージカルそのものだったり、あるいは舞台)。
で、ある役者について俗に「演技がうまい」と評価をするとき、多くの場合は「リアリティを感じさせる」ということを意味するのだと思うが、その「リアリティ」とて、現実世界におけるリアリティというよりは虚構内におけるそれのことを指し示している場合が多いだろう。
つまり、いわゆるうまい役者というのは、虚構内マナーに熟知し、かつそれを正確に再現できる者、と定義できる。反対に言えば、『ひよっこ』における有村架純はとても上手だと思うが、あのハキハキした調子でしゃべる女の子が現実世界にいたら、「あれ? なんでこの子、こんなに歯切れよく大きな声でしゃべるわけ?」ときっと違和感を持つに違いない。
長々と書いているが、『ひよっこ』には、もちろん有村以外にもフィクション内表現に長けた俳優は大勢おり、そのすぐれたやりとりをこれまで何度も観てこられたのだが、峯田が登場して以降、それらの上手なやりとりは非常にすぐれた剣道の試合のようだ、と意識するようになってしまった。竹刀を遣い、防具をつけて戦う、あの剣道である。

ところが、峯田がへらへら笑いながら歩いて省吾に近寄っているときに感じたのは、「これは真剣試合だぞ」ということだった。真剣を振ったことがある人がどれくらいいるか知らないが、僕は高校の剣道の授業中振らせてもらった。もしかしたら模造刀だったのかもしれないがすくなくとも先生に「真剣だ」と言われた。竹刀に較べてものすごく端正で細いのだがずっしりとした重さがあり、振ると「ひょうっ」というような独特の音がして、空気が冷えるような感じがあった。
その空気が変る感じを、峯田は持っている。ビギナーズラック的なものかという懸念がないわけではなかったが、この週になって初めに抱いた、「彼は違うぞ!」という直感は確信に変った。
佐々木蔵之介や宮本信子っていうのは、あの場では百戦錬磨の試合巧者であり、安定感のある技術を身にまとっているために揺るぎない強さを持っているが、峯田はまたそれらとは別種の剣術・戦法の持ち主であり、それだからこそ、観ていてドキドキしてしまう。平田弘史や白土三平のマンガに、よくこういう異形の剣士っていうのが登場するけれど、まさにあの雰囲気。「むむ、遣うぞ」と正統な剣士が冷や汗をかいて剣を構え直す感じ。

さて、そのムネオが省吾に問われて戦争中の話を語る。この独り語りはほんとうにすばらしかった。
ちょっと前に佐々木蔵之介も独り語りをしていたが、あれはまた種類が違っていて、蔵之介の場合は、戦時中の心象を語るというものであれはあれで凄みがあったのだが、峯田の場合は、そこに戦場での情景描写もくわわっていて、より難易度が高かったのではなかったか。
しかし、僕には真っ暗なジャングルの夜のふたりの兵士がはっきりと見えた。そのムネオが語っているシーンを何度目かに観直した際に、他のキャラクターたちの顔のアップなどが映っていることにやっと気づいたくらいなのだが、それに気づかないくらい、僕の頭のなかを、ムネオの語っている内容が映像化されたものが占めていた。
これは、すぐれた噺家や語り手(たとえば小沢昭一など)たちだけができる芸当であって、下手では観客にまったく貧弱なイメージしか喚起させることができない。
たとえば役者のせいだけではなかろうが、マンガ家コンビのうちのメガネを掛けたほうがなかなか実家から戻らなかったことを語った際に、結局「(惚れた女の子が似ていたのは)内藤洋子っちゃぞぉ?」みたいな話になって、内藤洋子のイラストを書いて、さらに島谷くんが「内藤洋子じゃしょうがないですね」みたいな話に持って行って、つまりいろいろゴテゴテとデコレーションしてうまくごまかしたことがあったが、ああしたのはおそらく、情景が見えにくく、かつ視聴者が退屈してしまっただろうから。おそらく脚本も力を入れておらず、うまく浮かび上がるようなものを書けなかったから飛び道具的な逃げ方をしたのだろうけれど、まあそれがふつうっていえばふつうかもね。再現映像みたいなのを挿入するパターンのほうが、もっとありきたりかもしれないしね。

あと、このシーンで特記すべきところは、いままでなにやらその影だけがちらちらと物語の背後に見え隠れしていた「戦争」が、たぶんこの場面ではじめて具体的な形をともなってあらわれた、ということ。
たしかに省吾の語りの部分も戦争について触れてはいたのだが、虐められたものはどこかでそれを返さなければやっていけないのだ、という人間全般についての語りにも昇華されていた(反対に言えば、戦争という異常な状態が、人間の醜い部分を先鋭化させてしまうのだ、というようにも読み取れた)のに対し、ムネオのジャングルで命を拾ったエピソードは、紛うことなき戦争体験で、しかしそれが、――ムネオも言っているように――必ずしも悲しい話で終わらないところが、すごい。
だからといって底抜けに明るい話なわけはないのだけれど、実際にインパールを歩き抜き、生き抜いた人間として話すムネオを、そう話すほか考えられないような話し方をもって、峯田和伸は演じる。いや、ムネオそのものだった
真剣の遣い手である彼がしゃべっているあいだ、僕は息を止めて耳を澄ませていた。語りの途中、彼がすこし笑えば、こちらも頬を崩し、彼が困ったような表情をすれば、こちらもできるだけ理解できるようテレビのほうに耳を傾けた。共鳴しているのだった。共感したいと思ってしまったのだった。
先週の感想において、峯田の演技の衝撃で、「頭の芯、身体の奥底からぐらぐらと揺らされた」と書いたが、やはり今回のムネオの演技にも、グサッと心臓を刺し貫かれるような思いをした。竹光のチャンバラだと思って油断していたのが、いつのまにか真剣で鎬を削り合っていたらしい、ということに肝を冷やしながら気づくのであった。

すぐれた演劇の前では、われわれは傍観者ではいられなくなる。登場人物になにか困ったことがあれば、自分のことや自分の大切な人間が困ったように感じ、反対に喜ばしいことがあれば、わが事のように喜べる。それが、演劇の醍醐味だ。
辛い体験の中から、それでも明るい部分を見出し、それを語るムネオ。だから彼が「笑って生きている」という言葉にはしっかりとした重みがある。
しかも、ムネオを救ってくれた英兵をわざとビートルズと混同させて、そのビートルズに「おれは笑って生きてっとう!」と言い、「おまえも笑って生きてっか!」と尋ねる、というこの構成が心憎すぎるほど。
このあとの展開がどうなるのか知らないし、そもそも1980年までやるのかどうかわからないのだが、僕にはジョン・レノンのことがどうしても頭に浮かんでしまって、「おまえも笑って生きてっか!」という問いかけは、若くして死んでしまったジョンへの「おまえは笑って生きていたのか?」という問いかけにしか聞えなくて、よけいに胸に迫るものがあった。
冒頭、ビートルズの扱いがすごいと書いたのは、こういう部分。ただの記号じゃない。作者独自の、ビートルズへの感謝なり哀悼なりが、心を込めて表現されており、だから、ムネオが武道館の裏手に回って、しずちゃんと並んで叫ぶ場面では、またしても不意の落涙を体験してしまうのだ。
ちなみに、ムネオが叫ぶ隣で、「ありがとう! ありがとう!」と泣きながら叫ぶしずちゃんの演技も、掛け値なしにすばらしかった。彼女、ほとんど出演していないのに、たぶん感覚だけで演技しているのだろうけれど、とても魅力的だった。にこっと笑うときは「満面の笑み」という言葉が指し示すものはどういうものかということを教えてくれたし、義理の姉である木村佳乃がときどき夫のことを忘れてしまいそうになる、と言うのを怒って諭す場面では、「この世にあってはならないものごと」があるということを一途に信じている人物が、本気で怒っているように見えた。演技というのは小手先のものではない、というのが心より実感できた。

話はちょっと戻って、ビートルズのチケットを持っていることをずっと言えずにいた島谷が、ムネオに渡そうとするところもよかった。
起き抜けにチケットを見せられて、「すげーなー、どうしたのこれ?」と子どもみたいに驚くムネオに、愛おしさを覚えない人間がいるのだろうか。
このとき、チケットを隠していた島谷が心情を吐露するところもなかなかよかった。彼なりの誠実さがあるし、そりゃあみね子も好きになるよなと納得できる。
でも、みね子のことを好きだとはじめて認めた島谷に、「へえー」と笑うヒデのほうがもっとキラキラしている感じがあってよかったけどね。
僕は『みをつくし』の小松原・源斉パターンがこのドラマでも再現されると固く信じているので、8/23のきょう現在、本放送がどうなっているのか全然知らないのだけれど、最終的にはみね子はヒデとくっつくと思っている。

そのチケットのゆくえだが、結局ムネオは受け取らず、街角でチケットを入手できずに泣いていた女の子にくれてやる。
この構図に、なんだか『文七元結』を想起してしまった。
父親の借金を返すために、自ら吉原に身を沈め金をつくる娘。その心意気を感じた店のおかみが左官の父親を呼び出し、期日までにきちんと金を返せたら娘は店に出さずに済ませる、と約束する。はじめは冗談や見栄や照れ隠しで逃げていた父も、しまいには泣きべそをかきながら娘に感謝し、店をあとにする。
その帰り道、身投げをしようとするどこかの手代にでくわし、慌ててそれを止める。訊けば店の掛け金を盗まれたとのことで、世話になった旦那に会わす顔がないので死んでお詫びをするのだと言う。
盗られた金は、と尋ねれば五十両。娘がそれこそ必死で拵えてくれた金も、ちょうど五十両。
ひと悶着もふた悶着もあった末に、左官屋は手代に金を渡そうとする。この金をおめえにやっちまえば、どうあったっておかみさんに金は返せなくなる。そうなると、娘は店に出て、そうしたら客をとらされて瘡にでもかかってしまうかもしれない。それでも、命がなくなるってわけじゃない。おめえはいますぐ死ぬってえじゃねえか。だからこの金をくれてやるってんだよ。店に帰ったらおめえの信心するお稲荷さんでも金毘羅さんでもなんでもいいから、毎日祈ってくれ。佐野槌という店にいる今年十七になるお久という娘がどうか病にかからねえように、と……そう祈ってくれ。
そう言って、五十両の入った包みを投げつけて左官屋はその場を走って逃げる。
まあ噺のゆくえは置いておくとして、たぶんここがいちばんのクライマックスであろう。しかしそれと同時に、はたして娘の身の安全を差し置いてまで一見の他人の命を救おうとするものか、という疑念は簡単には払拭できない。だからたぶん、演者は説得力のある演技や構成によって違和感を持たせないよう努力をしているはずだ。演技力については各人の技倆というものがあろうが、その動機については、それなりの数の『文七元結』を観た結果、たぶんいちばん単純な言い方をすれば、「江戸ッ子だから」なんだという認識に至った。江戸ッ子だから、抛るように手代に金をくれてやるのだ。もうちょっと言えば、江戸ッ子だから、心意気というものを見せつけているのだ。
ただしここで言う「江戸ッ子」というのは、ファンタジー内存在としての江戸ッ子であり、三代つづけて東京うんぬん、という血統的なものとは別物と考えたほうがよい。
落語というフィクションのなかに登場する江戸ッ子であれば、大事な大事な金をなげうってまで、見知らぬ他人を救うだろう。捨てる金は大切であればあるほどいいし、渡し相手については、知らなければ知らないほどいい。ああ、そうだ。あれでこそ江戸ッ子だ。おれたちの代表が、あんなに気持ちのいいことをやってくれたんだ。おそらくそうやって鑑賞者たちは気持ちのいいカタルシスを得、自己満足感に浸ったことだろう。

じゃあ、ムネオだ。なぜ彼は、島谷が持っていたビートルズの武道館ライブのチケットを受け取らず、見知らぬ女の子にやってしまったのか。江戸ッ子だからか?
んなわけねえっぺ! 決まってるじゃねえか、それが、ロックンロールってもんなんだっぺ!
音楽史的なことはまったくわからないし言えないが、ロックンロールという音楽は、いつのまにか反体制の象徴となっていった。いうなれば、反骨精神だ。そしてそこが、『文七元結』の左官屋にも通ずる。「まさか、そんな自分の損になるようなことはしないだろう」なんていう合理性や常識を飛び越えることこそ江戸ッ子の心意気だ。つまり、江戸ッ子というのはロックなんだ。

なんやかんやありまして、そのムネオが帰るという。
さみしい。それだけで、もうやたらとさみしい。別れのとき、すずふり亭のみなに頭を下げ、みね子のことをよろしく頼み、ひとりづつ挨拶をしていく。そして、最後にゲンジに「おれはさみしいよ」と伝える。もう泣けちゃうんだよな、ここが。げらげら笑っちゃいもするんだけど、でもほんとうに不思議なことに、泣けてしまうのだ。いや、不思議はないよな。それがムネオというキャラクターだから。その存在のかけがえのなさを、わづか2週間でこれでもかというくらいに見せつけた、ムネオなのだから。

父親の実との再会フラグはどうでもいいし、乙女寮の同窓会に関連して無理やりあかね荘の連中をからめようという人工的なプロットもどうでもいい。
けれども、そう! 乙女寮のメンバーが! ということで、この週は最後の日に僕にとってのスペシャルボーナスがあったのだ。彼女たちがいるだけで、なんかもう画面上がきらきらしている感じで、うれしい。
そして最後の最後に菅野美穂に登場して、どうなる、どうなる? ……と7週前の話題でいまさら盛り上がっているのだが、当然、つづく!

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久しぶりに警官の綿引がやってきて、みね子の父親情報が更新され、そのことについて、あかね荘の管理人室の電話をつかって実家の母ちゃんと会話をし、思わず泣いてしまうみね子。
それを聴いていた白石加代子が、みね子にずんだもちのようなものを「あーん」させて食べさせる。これはかつての乙女寮での愛子さんとのやりとりの、いわばリフレインである。つまり、乙女寮で愛子さんが甘いもの――たしか甘納豆だっけか――をみね子が「あーん」と開いた口に入れてやるシーンで、みね子が「実はここ(乙女寮)が、東京での”帰る場所”なんだ」と気づいたであろうのと同様に、あかね荘が、今後はそれに取って代わることを脚本は示唆しているのだろうが、いやはやなかなかどうして、観ている側としてはそう簡単には問屋が卸さない。
また、みね子が泣きながら電話するのを聴いていたアパートの住人たちとの会話で、いままでひた隠しにしていた父の行方不明ということをやっと打ち明けることになるのだが、打ち明けるまでに一悶着があり、そのユーモラスな悶着によってあかね荘住人たちとの心的障壁が取り除かれる……ということを描きたかったのだろうが、これまた観ている側としては軽々には問屋が卸さない。
いやいやむりむり。気にしない人は気にせずに、むしろ積極的に好感を抱いていくのだろうけれど、僕はまだこの時点ではあかね荘の連中に対してまったく親近感を持てないままでいた。僕からすれば書割がしゃべっているようなもので、そこに価値や愛着を見いだせなかった。いっそあかね荘なんてなくなってしまえばいいのに、とさえ思っていた。
なお、焼きうどんを食べながら、堰を切ったようにこれまでの身の上をしゃべるみね子は、僕の好きなみね子。大好きな側と、まったく興味の持てない側。このあいだに横たわる溝は深かった。

場面は変わって、奥茨城でみね子母(美代子)とムネオさんが話している。
夫の状況が少し知れたので呼んだムネオに、「ごめんなさいね、なんかあるたんびに来てもらって」と謝る美代子。それに対して「なに言ってんだって、ねえさん。もうやめよう、それ?」と制するムネオなのだが、なんかもうこのセリフひとことだけでグッときてしまう。
いったいなんなのだろうか。峯田和伸のこのセリフは、けっして”感動的”なそれではないのだが、しかし僕の心にはやけに響く。彼のセリフ――というか振る舞いすべて――はすべてそうだ。気にとめずに済むセリフを吐くことはなく、いつもどこかに引っかかるものを残す。たぶんそれは、彼のセリフなり振る舞いなりが、「この世で起こったたった一回のこと」のように感じられるから。
舞台演劇において最も重要なファクターと言っても過言ではないことに、「一回性」というのがある。けっして取り返しのつかないこと。舞台上では巻き戻しも、一時停止も、やり直しもきかないがゆえに、そこにある種の尊さが生まれる。それは、たった一回を生きているわれわれの生そのものの尊さに通じる。ひいては人間の尊さ。宇宙の尊さ。
峯田の演技は、おそらくはさまざまな演劇技術に裏打ちされていないがゆえの一回性に満ち満ちており、そこに当人の一所懸命さが加味され、類のない熱量が生まれる。ムネオはつねに本気であり、正直であり、必死である。だからこそ、愛すべき、非常に愛すべき人物としてわれわれの目に映る。
そのムネオが、ビートルが来日するといって狂喜する。だからこそわれわれは、それがものすごいことだと知る。ビートルズだからすごいのではない。この物語のなかでは、ムネオが認めるから、ビートルズはすごいのだ!

ムネオから「ビートルズ ガ ヤッテクル」の電報をもらって以降、ドラマは急激にまた面白さを取り戻す。ムネオ夫婦のやりとりや、すずふり亭でのみね子の歯磨き粉の押し売りなど、愛すべきキャラクターたちが、しかるべき立ち位置を取り戻し本領を発揮し始める。
特に、歯磨き粉の応募券でビートルズのチケットを当てようというみね子に、すずふり亭の人たちはもちろん、商店街の人たち、あかね荘の人たちまでもが協力する。そして、「当選の知らせ」が来るのを、みね子と一緒になって待ち望む。われわれが、ずっと観てきた構図だ。
そしてまた、応募に落選したことにしょげているみね子の目の前で、コネをつかって易々とチケットを手に入れた女性が喜ぶ。これは、向島電機での初給料時に、ほしいと思ったブラウスが高価すぎてみね子には買えずに、別の人に買われてしまったのと構造的には同じだ。
望んだものが手に入らない者。手に入る者。向島電機でブラウスを買った人は、おそらくは一所懸命働いた結果ほしいものを手に入れたのだろう。対して、サングラスをかけた”業界人”の恋人らしき女性は、指すら動かさずにビートルズのチケットを手に入れた。
世の中は不公平だとか不平等ということを描きたいのではなかろう。というより、世の中は不公平とか不平等ってことは、このドラマではずーっとあたりまえの大前提として描かれつづけてきたので、いまになってあらためて「発見」されるものではない。
かといって、みね子は諦念にとらわれてはいない。そしてこのドラマは、所与の不運や不遇を飛び越えようとするみね子サイドの人間たちを応援する。
これは次週分を先取りしてしまうが、自らの境遇を切り開こうと努力するみね子に、島谷は負い目を感じ、羞恥さえ覚える。島谷の口数が少ないのはその羞恥のためで、それはみね子だけに感じているものではない。彼にとっては、ほとんどの足掻く人物たち、自らの運命に抗おうとする者たちが羨ましいのだ。すずふり亭のヒデがちょっと言っていたような、生まれが裕福だからといってその人たちなりのさみしさがある、というようなことは、ほんとうはほとんど関係ない。島谷が羞ずかしさを覚えることが指し示すのはただひとつ、彼がそれくらいにはまともだってこと。
そしてもし、彼のキャラクターが大化けするのだとすれば、その殻をいかに彼が破るのか、そしてその破る様を役者がみごと演じられるのか、にかかっていると思う(現在、次週分までしか観ていない)。僕からすれば、ヒデのほうがよっぽどいいのだけれど、物語的にはすくなくともしばらくはこの島谷をキーマンにするだろうと見ている。

そして、ムネオがついに東京にやってくる!
彼があかね荘の連中とはじめて会ったとき、「東京の若者よ、世界を変えるのはきみたちだ!」と宣言するが、ほんとうにそう思っているんだろうな、と二回目を観ているときに思った。
しかしながら、彼らは平和や希望の象徴というよりも先に、対SNSへの撒き餌にしか見えない。
これがあかね荘編が始まって以来ずっと僕が感じていたことで、彼らの人工的で強引すぎるキャラクター主張は、「もうなんでもいいから、炎上でもなんでも、引っかかってくれればいいから」という制作側というか放送側(?)の浅ましい意図が透けて見えるようで、たとえばマンガ家の片割れが実家からひさしぶりに帰ってきたとき、増田ナレーションは、「どっちにせよ、みね子の人生にはたいして影響をあたえないようですが」てなふうに彼のことを紹介していて、なんじゃそりゃと思った。
現時点でも、マンガ家の話は笑い話のネタ、いわゆるオチにされているだけで、たとえばシシド・カフカがみね子に、「この広い東京で人探しをするなんて、見つかる可能性は相当低い」といういつもの意地悪を言ってしまい、「ま、(マンガ家を指して)この人たちが売れるよりは可能性高いでしょうけれど」とフォローをするためのネタにしてしまっていた。
マンガ家たちはそれを笑って受け止めるのだが、島谷が「彼にもさみしさはあると思いますよ」などといってめちゃくちゃ好意的に解釈されているのと、同じ地平にあるとは思えない扱われ方だよな。
とにかく、このあかね荘の人間関係が非常につくりものっぽく、物語上での必要性があまり感じられないし、上記のように、このドラマの持っている基本路線、つまり弱者をこそ応援し、救うというスタイルからはかなり逸脱した、非常に「らしくない」部分がいくつも見られるのだ。
あるいは、第1週で増田ナレーションがムネオの登場に際して、「朝ドラってヘンなおじさんがよく出ますよね。なんででしょうね?」みたいなことを言ったのに対し、そのようなメタ的な語りは、物語を矮小化することになるからやめたほうがいい、と指摘したが、むしろこういう、目先の笑いを拾ってりゃあとはどうでもいいよ的な姿勢のほうが、このドラマの基本路線だったのだろうか。そんなふうには考えたくないよな。

「ロックンロールだっぺ!」と華々しく東京に登場したムネオに話を戻す。
みね子の父、実が目撃されたという場所に、ムネオとみね子で訪れる場面。
ここで突然、ムネオが叫ぶ。いままでへらへらとにたついて、ふらふらと左右に揺れながらしゃべるようなムネオが、真剣な表情で、身体のなかにある思いをすべて絞り出すようなやり方で、「兄貴!」と大声で呼びかける。
胸が撃ち抜かれた。「うわっ」と実際に声が出た。なんだこれは? なんなんだ、これは!
不意打ちで、怒濤の演劇的感動にのみこまれた。
片肘ついて寝そべり、リラックスしたモードで画面を眺めていたところ、急に胸ぐらをつかまれ、頭の芯、身体の奥底からぐらぐらと揺らされた。一気に、予定調和やお定まりの領域の外へ抛り出された。
次になにが起こるのか予測がつかなかった。というか、いま画面のなかでなにが起こっているのかもにわかには理解できなかった。ムネオは兄であるミノルの姿を見かけたのだろうか。否。そこにはいないということがきちんとわかったうえでムネオは、ミノルの耳に入るような大声で叫んでいた。
100人中95人くらいの役者は、このような発声の仕方はしないだろう。叫んでいるように見え、大声に聞えるようなやり方で、セリフを吐くはずだ。しかし峯田和伸は、ほんとうにミノルに聞えるように、まちがっても聞き逃されないように、必死に叫んでいた。いや、吼えていた。
すぐさま理解できないことは不安を生む。しかし同時にムネオの咆哮は、昂揚感を生んだ。感情の混淆がざわめく震えとなってあらわれる。
人間は、感動して心が震えると涙が出てくるということをあらためて知る。単に悲しいとか嬉しいとかいうことではなく、身体が抱えきれなくなった感情を涙で外に放出することしかできなくなるのだ。
これだよ! これこそがおれの観たかったものだ!
思いもしなかったような表現。予想をはるかに超えるような表現。こういうときこそ、生きていてよかったと心の底から思う。つまらない現実生活のなかにも、ときおりではあるが価値観が書き換えられ拡張されていく瞬間があるのだ。捨てたもんじゃない。ぜんぜん捨てたもんじゃない。

けっして批難の意図はないが、隣にいた有村架純が峯田のあとに「父ちゃん!」と叫んだとき、その声は、あくまでもこちらの予想の範囲内にあった。下手とかそういうことではない。有村架純、ぜんぜん下手じゃないよ。すごく成長していると思う。
しかし、目の前にいない人に向かって叫ぶとき、そう叫ばざるを得ないような心境のとき、人はどのような声の出し方をするのだろうか? 「叫ぶ」という行為の非日常性がほんとうに考え抜かれれば、峯田和伸のやり方のほうが正しいように思えてくる。というより、峯田の演技を観て、これ以外にやり方があるとはとうてい思えなくなってしまったのだ。第9週の感想のところに書いた豊子の「非合理な行動」と同様、ムネオの行動も論理的ではない。そして論理的ではないがゆえに、そこには多大な説得力がある。
例によってとんちんかんな記憶違いの可能性大なのでタイトルを挙げるのを控えるが、あるアメリカ現代小説で、主人公が、誰かが亡くなったのを知って悲しみのあまりゴリラのようにドラミングする、という表現があった。左の文章だけを読めば「まさか」と思うだけだが、その小説を読んでいる最中では「きっとそういうものなんだろうな」としか思えなかった。

とにかく、峯田和伸が最近のクソ停滞した心持ちの暗雲をすべて吹き飛ばしてくれた。
僕は、彼の人物をまったく知らないので、もしかしたらファンからすれば「峯田っていっつもそんな感じじゃん」の話かもしれないのだが、それはそれで全然いい。
そしてそして、この週の最後で、ムネオの音頭であかね荘の連中と一緒に、夜中の空に向かって「ビートルズーっ!」と叫ぶエンディングはほんとうにすばらしかった。なぜって、あのシーンだけで、たったあのカットだけで、あかね荘の連中がゆるせるようになってしまったのだ。
無邪気に叫ぶマンガ家ふたり組も、声を張り上げるのが不得意そうながらもリンゴに呼びかける早苗さんも、声の全然でない島谷も、ゆるせてしまったのだ。その中心にはムネオがいて、ロックしていたから。
チケットが手に入ったのか、と島谷に訊かれて、「いや。いいんだよ、そんなもんなくても」と応えるムネオは、最高にロックで、最高に恰好よかった。
おそらく『ひよっこ』をあとになって思い出すとき、必ず思い返すことになる週のひとつになるだろう。

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たまには速報に乗っかってみる。
パッと見で誰も指摘していないのが不思議なくらいなのだが、当該ポストはやがて「人間革命大臣」と略称され、ゆくゆくは公明党議員のポストになる、っていう筋道が表参道のイルミネーション以上に明らかなんだけど。
しかしまあ、なんでこうも自民党って(政治家って?)頭の悪そうな名前をつぎつぎと思いつくのだろうか。

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次週と次々週を観て大感動したもんだから、僕にとっては「谷間」(本音を言えば「海溝」)にあたるこの週のぶんをさっさと終わらせる。

あかね荘の連中がまったく僕の関心を刺戟しないのは、ひとえに登場人物たちが「あー演技してるんだなあ」と眼前に展開されているのがお芝居であり虚構であると意識させてくれるからなのだが、それは各俳優の力量不足のため各人物の背景が見えず、きわめて底が浅く感じられるから。そのためにリアリティがますます希薄に感じられ、よけいに気持ちが離れる。
富山県から上京して藤子不二雄を目指して、とか、岩手出身でお見合いに40回弱失敗して、とか、そういうのはいわばカタログの文章みたいなもので、ただの言葉だ。その言葉がセリフとして吐かれたからといって、決してリアリティが強化されるわけではない。むしろ説明調の言葉というのは、観ているものをシラケさせる。そして、この週、前週分は、やけにそのような「説明ゼリフ」が頻発していたように感じられた。
この説明ゼリフの多さ、これまでほとんどなかったような気がするのだが、ここに来て急増。なぜ? 「事物を丁寧に描写して、視聴者自身に登場人物たちの心理を感得してもらおう」という方針から、「とにかくあほな視聴者でもわかりやすようにして数字あげようぜー」みたいな方針に変わってしまったのだろうか。

たとえばみね子ナレーションの、「島谷さん、とってもさみしい顔をするひとだなって思いました」というところ、観ていて「別にー」としか思えなかった。さみしいもなにも、たいして描かれてないじゃん。この役者、画面上を占めていることは何度かあるけれど、ただ立っているだけじゃん。実際に生きているものとしての呼吸をしていないじゃん。そういう役柄なのかもしれないけれど、きっと「そういう役柄」ってハナから決めつけてそれ以上の努力をしていないじゃん。自分が勝手に定めてしまった限界を超えようとしたことが、たとえ一回でも彼にあったのだろうか。
また、シシド・カフカ(演ずる人物)の性格が傍目とは違って実はやさしい、というのを大学生に言わせてしまうんだもんなあ。客(視聴者)が察するまえに「解説」してしまうんじゃ話にならん。
いちばんひどかったのが、鈴子さんが三宅裕司と一緒に終戦直後の思い出ばなしをするところ。もちろん宮本信子の語りは見応えあったが、それに対する三宅の「受け」がなんとも頼りなく、「『真剣に話を聴いている人間』を一所懸命に演じなければ」という思惑が透けて見えるようだった。
しかしそれは演技力の話で、もっとひどいのは、その三宅が古舘の息子(ヤスハル)を指して、「ヤスハルが言うんだから間違いない。あいつは最高だよ、おれは幸せもんだあ」と言うところ。この直前の回にふたりの血がつながっていないという事実がこれみよがしに明かされ、それに対応させてのこのセリフ。
実際は血がつながっていないのにほんとうの血のつながった親子のような関係を構築している、少なくとも親父のほうは息子にそのような愛情を抱いている、ってことをこんなにも短時間でこんなにもストレートで伝えるのって、あまりにも雑な脚本・演出なんじゃないだろうか。
それならば、ふたりが初めて登場したシーンで、増田明美のナレーションに「あらあら。こんなふうにケンカして、ふたりは親子みたいに見えますが、ほんとうは血がつながっていないんですよ。驚きですね。けれどもお父さん(三宅裕司)、ケンカしながらもなんか嬉しそう。よっぽど息子さんのことが好きなんですね」なんてことを言わせればよかったんじゃない?
それくらいに、三宅裕司のセリフは説明ゼリフすぎたし、実はそれと似たようなのが次週か次々週でも見られた。


あと、鈴子さんが、赤坂の小学校はいろいろなところから子どもたちがやってきて、親が偉いとか金持ちとか関係なく、みんな同じなの、みたいなことを言っていたのだが、これって本当のことなのかなと思った。
赤坂という土地の特殊性は知らないし、知っているといえば自分の小学校時代のことしか実際には知らないわけだが、一般論としていえば、子どもは「みんな同じ」なんてことは絶対に考えないと思うけどね。
親の威光を笠に着るやつは当然いただろうし、そういうガキに取り入って少しでも級内地位の向上を図るガキもいただろうと思う。子どもは聡い。暴力の匂いがすれば敬遠するのは当たり前だが、その子どもの暴力が、親の攻撃性を引き継いでいることも少なくないだろう。
また、子どもたち自身が同級生の家庭環境に対して鈍くとも、その親たちまでもが鈍いということにはならない。そしてしばしば、親は子どもによけいなことを耳打ちする。あそこの家はああだからこうだから、うんぬん。
さらにもう少し言ってしまうと、鈴子さんの意見っていうのは、いじめっ子や、あるいは「強い子」のそれであって、みんながみんな同じ視点を持っていた、なんてことはゆめゆめ思わないほうがよい。こういう意見の持ち主は多くのばあい弱者の視点を知らない。それが証拠とでもいうべきか、高子がみね子の入店を断るかもね、という話があった際に、「わたしはかわいかったから、『オンナの戦い』っていうの? そういうの、よくわからないのよ」と言っていた。
僕は鈴子さんのことが好きだし、こういう強いタイプの人間も好きだったりするが、けれども、言っていることの半分は間違っていると思う。
くわえて、そういう「気持ちのいい赤坂っ子」の感覚に照らし合わせてみれば、ますます大家の白石加代子みたいなタカリ性は許せないんじゃなくて? ここらへん、かなり矛盾していると思うんだけどな。


あと、あかね荘のマンガ家志望者が「マンガを描くのが好きで好きで仕方ない」みたいなことをさも”感動的”に言っているシーンがあったが、ものすごい貯金があるわけでも、ものすごい裕福な実家があるわけでもなかったら、当然のことながら仕事(というか描く時間を確保するためにアルバイトになるはず)をしないで描いているわけはなく、仕事をしていたら「もう3日間なにも食べていない」なんてこともありえない。マンガを描くために仕事の時間を削る(結果収入が減る)ということは実際ありうるが、水木しげるの時代ならともかく、飢えが恒常的になるほど働いていない、というのはちょっと考えにくい。
というか、この人間(たち)および脚本家は、マンガ誌にデビューすることを宝くじが当たることのように考えていやしないだろうか。
マンガ家は、デビューがスタートラインであって、そこからやっと勝負が始まる。完走できるかどうかさえわからないものすごく厳しいレースなのだが、あかね荘に住んでいるマンガ家志望の素人たちは、まだそのスタートラインにも到着していない。そこへ行くまで5年も足踏みしている現実を、彼らはほんとうに直視しているのだろうか。そのような現実認識さえ甘い連中が、ただマンガ家のコスプレをしているように見えてしまって、ほんとうに気分が悪い。これは僕が、まさにこの時代にマンガ家になった人間を直接知っているせいもあると思う。その人間にこのドラマの話をしたら、やはり「ありえない」と一笑に付された。

それはそうと、途中でもうひとり出てきたマンガ家を演っている浅香航大って誰だろうと調べてみると、『マッサン』で堤真一の息子をやっていたやつかあ(ただし途中で観るのはやめているけれど)、とちょっと懐かしくなった。相方の岡山天音は、『夜のせんせい』『家族狩り』と何回か観たことがあった。ふたりともキャラクターの単調さに流されてしまっていて、役者としての地力が見えないが。


でも役者の演技力についてのうんぬんかんぬんは、島崎遥香が出てきたらもうすべてが無効化されてしまった。『ロング・グッドバイ』の冨永愛もすごかったけれど、『ひよっこ』の島崎も相当なもの。
彼女、『ゆとりですがなにか』に出てきたんだけれど、かのドラマで唯一ゆるせなかったキャスティングなんだよなあ。プラス、女性アイドルに対してはほぼ絶対に批判的なことを言わないと決めている僕が、内心、「こいつだきゃあ」と「こいつ」呼ばわりする人。いやいや、役者やらなくていいじゃん。テンションあげて『ハイテンション』を唄っていればいいじゃないですか。後生ですから、内輪ウケの世界から出てこないでくださいよ。
もっと本気で役者を頑張っていてそれでテレビドラマに出演したい人なんて日本中に山ほどいて、そのなかにきっと脚光を浴びられる逸材だっているはずなんだけど、そういう新人やまだ無名の人を探すんじゃなくて、こういう客寄せパンダを選んじゃうんだよなあ。それでも、『ゆとりですが』のときに、ほんの一瞬だけ輝いた瞬間が彼女にもあったので、そのような奇蹟が再び起こることに期待(実際は奇蹟ではない、ということは次週あたりのところで書くかも)。

しかしこれに対して、このしょうもない娘(演技的な意味で)を思う親父役の佐々木蔵之介が実にいいんだよなあ。
みね子に封筒を渡す相手は誰かと尋ねられた蔵之介が、「娘なんだ」と応えた瞬間に、それまで希薄だった娘のイメージがはっきりとした輪郭をもってこの世にあらわれる。彼の表情から判断するにやや困難な状況を抱えた娘が。
でも、みね子が喫茶店に行くと、「あれ、おれなにかのオーディションの練習風景(オーディション本番ですらない)でも見ているのかなあ」と勘違いしちゃうくらい、その存在感や実在性というものを微塵も感じられない女の子(ぱるる)がいるだけで、蔵之介の言っていた娘は雲散霧消してしまう。
でも、そこで一悶着あってみね子がすずふり亭に戻り、蔵之介とアイコンタクトを取った瞬間に、「あれ? やっぱり娘はいたんだ」ということが会得される。
となるとこれは……とわれわれは急に量子力学的思考を強いられる。すずふり亭にいた瞬間には「娘」は存在し、そこを出発して喫茶店に入るとその「娘」は消えてしまう。けれども、またすずふり亭に戻ってくると「娘」はやはり存在しているということがわかる。さてこの「娘」は実在するのか否か。あるいは、実在すると同時に実在しない、シュレディンガーの猫的な存在ってことなのか?
冗談はともかく、その省吾(佐々木蔵之介)があとでみね子を誘ってバーへ行き、そこで過去をひとくさり打ち明け、その直後の「由香、元気そうだったか?」と尋ね、それから「かわいい顔してんだろ?」と言う、その間(ま)とユーモラスな響きのある言い方がすばらしかった。大袈裟な言い方をすれば、このセリフひとつで省吾がいかに娘を溺愛しているかがわかったし、しかもこのセリフを聴いた人間は、省吾はもちろん、娘の由香に対しても一瞬にして愛着を持ってしまうような、そのような力があった。

ちなみに、省吾に娘が元気そうだったかと質問されたみね子は、すぐには応じず、ちょっと間を置いてゆっくりと「はい」と応えていたのだけれど、なんか、こんなみね子、好きじゃない。こんな一歩引いた大人の間合いを知悉しているかのようなみね子なんて、みね子じゃない。気配りがありつつも、積極的で、一所懸命に自分を主張するみね子が好きなのに。やっぱりこの週は、あまりできがよくなかったな。

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率直に言って原作ファンは、「あーあ、主役を選ぶところまではよかったのに……」と嘆息をつきつづけた全八回だったのではないか、と感じたのはNHKの土曜時代ドラマ『みをつくし料理帖』。
いやたしかに、ヒロインに黒木華が選ばれたと知ったときには「こりゃあいいドラマになるに違いない」と思い、そしてさらに脚本が藤本有紀になったと知ったときには「傑作の予感しかない!」と思ったのだが、まあ予感は予感で終わることもありますわな。
といって、すべてがだめだめドラマだったかというとそんなことはなく、よかったところを1行であらわすとすれば、
黒木華かわいい。森山未來かっこいい。音楽いい。

黒木華は、たぶん僕が観てきたなか(それほど観ていないけれど)ではじめて「かわいい」だけで終始するキャラクターを演じられたのではないか。今回のドラマは彼女のPVだと思ってよい。
ただ、うまいかって訊かれると判断しかねるってのが正直なところ。
「下がり眉」っぷりは原作どおりなのだが、怒ると愛染明王だか不動明王だかどっちか忘れたが、まあそれくらい眉を吊り上げて怒るのだ、という設定と演出とそして実際の演技がちょっと漫符的(=マンガ記号的)で、こういうところにこのドラマがいまいちピリッとしなかったところがよくあらわれていると思う。

森山未來の芝居はまともに観たのがセカチュー以来だけれど、ダンスをやっているせいか体幹がしっかりしていて、たとえばお稲荷さんの前で拝むところなどではピシッと一本筋の通った姿勢が美しく、「これぞ武士」という感じがしたものだ。人間、造作じゃないね。あまり顔立ちが整っていると思ったことはなかったけれど、第1話を観終えるまでにはすっかり好きになってしまい、かっこいいとさえ思えるようになった。そういう意味では、彼のPVでもあった。

あと、音楽が非常によい。特にメインテーマがすばらしく、当初は公式サイトのFAQにもサントラが出る予定はない、みたいなことが書かれていて、「NHKはあほか! 『64』と同じ轍をここでも踏むというのか!」と腹が立った記憶があるが、来月出ることになったらしい。
ほんとによかった。

で、悪かったところ・不満なところを以下に思いつくまま列挙すると、
  • 小日向文世の江戸弁がいかにもとってつけたようだった
  • ご寮さん(ごりょんさん)の安田成美の芝居がかなりくどく、おりょう役を演じた麻生祐未にさせればよかったのに、と思った
  • といって、おりょう役は麻生が適任と思えたので、いっそ一人二役にすれば画面上の面白さが得られたのではなかったか(名前も、「ごりょんさん」と「おりょうさん」で似ているし)
  • 源斉役の永山絢斗は最近NHKでやたらと起用されているように思うが、まったく期待に応えていないように思うし、すくなくとも源斉は棒読み過ぎて最悪だった
  • 絶世の美女ということになっているあさひ太夫(=野江ちゃん)を演じた成海璃子はかわいそうなくらいにミスキャストだった(雰囲気からして暗い)
  • 一話分の放映時間が三十数分しかないというのがそもそもおかしく、その大切な時間のなかでスタッフロールの最後に江戸料理研究家とかいう肩書の男が出てきてシラケる(そのエンディングで、澪が毎回現代風のキッチンでレシピを説明して料理していく、という趣向までは純粋にたのしめるのだが、本来裏方であるべき人間がひとこと言うためだけに登場する意味がまったくわからない)
  • 映像に凝っている部分もあったけれど、エキストラ(厳密には、セリフがひとつでもあればエキストラとは言わないのかな)がへたくそで、これまたシラけた
  • 好きな登場人物である清右衛門を木村祐一が演じていたのだが、まったく別のキャラクターとなっており、芸人としてあまり活躍しているようには見受けない彼の役者キャリアを重ねるために事務所が注力した配役だったのであろうが(根拠なし)、なんともなあ……とやるせない思いだった(ただ、後半になると、このドラマにはこのドラマなりの清右衛門がいる、と考えられるようになって、そうなると赦せないわけではなかった)
とまあ、完全に原作とは別物となっていた。
もしこのドラマを観て「おもしろい!」と思える人がいれば(藤本有紀の脚本がそれほどひどいというわけではなかったので、いてもおかしくはないと思う)、ぜひ原作に当たることをオススメする。100倍面白いよ。
時代劇は人気ないのかもしれないけれど、このドラマはほんとは朝ドラでやってほしかったんだよなあ。『あさが来た』みたいなコスプレドラマじゃなくて、きちんと丁寧に描く価値が充分にあったと思う。たぶん続篇はあると思うけれど、別物として観ることにする。つくづく、残念。


【2017.07.27 追記】
そうそう、森山未來の妹役を演じたのが、懐かしの佐藤めぐみで、これまた懐かしの『用心棒日月抄』の小田茜(坂上二郎のところの娘か孫娘)を思い出させるような溌剌とした可愛らしさを見せてくれた。藤本作品だからの起用ということもあったのかもしれないが(藤本女史は情に厚いところがあるように勝手に思っている)、NHKは『ちりとてちん』で重要な役を担った彼女をもっとつかうべし。

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