とはいえ、わからないでもない

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先週ぶんは最高だったなあ、と思っていたらこの週はそれを超えた。超えちゃったんだよなあ。

そもそも、ビートルズがやってくるっていうネタを、時代風俗の記号的に扱うっていうやり方なら容易に想像のつくところだが、『ひよっこ』においてはまったく違う角度から、しかも音楽性とはかなり遠いところから料理している、ってところにまずわれわれは驚かなくてはならないだろう。
「記号」で済ませるのなら、あの例のハッピ姿でタラップを降りてくるところに、ナレーションで「前座は、なんとあのドリフターズでした」とでも言わせておけばいっちょあがり、ってなもんである。けれども……違ったんだよなあ。

この週の、というか、先週から引きつづき今週も主人公はムネオである。
上滑りしつづけている印象の三宅裕司の店の手伝いで、商店街のみなさん&あかね荘のみなさんで、赤飯づくりをするわけだが、みんなの一服中、シェフの省吾が、「おい、ムネオ」と呼んで戦争中どこに行っていたのかを問い質すところからクライマックスは始まる。
まず、省吾に呼ばれたムネオが「なんですか、シェフさん?」と応答し、へらへらと近づいてくるところからして、もう違う。
このときの峯田に感じたのは、丸腰にもかかわらず、帯刀している人間に負けない武術の達人。

演劇の舞台っていうのはほとんどの場合、虚構であるし、また、たとえもともとが実話だとしてもそれを仮想の世界において再現するという意味で、やはり虚構である。
虚構の中にはその世界ならではのルールがあって、われわれはもはや何十何百というフィクションに接しているからそのいちいちに引っかかりはしないけれど、ときおり、違うルールが実験的に持ち込まれたり、あるいはもともと違うルールに則った表現などに接すると、そのルールを自分のなかで適用させるのに戸惑いを覚えたり、あるいは拒絶したりする(前者の例をこれまでのところで挙げるとすれば、乙女寮時代、『ウエストサイド物語』を観に行ったことを表現するのに、乙女寮のエキストラメンバーたちによって、当該映画をダイジェスト的に擬似再現したこともあった。後者の例としては、ミュージカルそのものだったり、あるいは舞台)。
で、ある役者について俗に「演技がうまい」と評価をするとき、多くの場合は「リアリティを感じさせる」ということを意味するのだと思うが、その「リアリティ」とて、現実世界におけるリアリティというよりは虚構内におけるそれのことを指し示している場合が多いだろう。
つまり、いわゆるうまい役者というのは、虚構内マナーに熟知し、かつそれを正確に再現できる者、と定義できる。反対に言えば、『ひよっこ』における有村架純はとても上手だと思うが、あのハキハキした調子でしゃべる女の子が現実世界にいたら、「あれ? なんでこの子、こんなに歯切れよく大きな声でしゃべるわけ?」ときっと違和感を持つに違いない。
長々と書いているが、『ひよっこ』には、もちろん有村以外にもフィクション内表現に長けた俳優は大勢おり、そのすぐれたやりとりをこれまで何度も観てこられたのだが、峯田が登場して以降、それらの上手なやりとりは非常にすぐれた剣道の試合のようだ、と意識するようになってしまった。竹刀を遣い、防具をつけて戦う、あの剣道である。

ところが、峯田がへらへら笑いながら歩いて省吾に近寄っているときに感じたのは、「これは真剣試合だぞ」ということだった。真剣を振ったことがある人がどれくらいいるか知らないが、僕は高校の剣道の授業中振らせてもらった。もしかしたら模造刀だったのかもしれないがすくなくとも先生に「真剣だ」と言われた。竹刀に較べてものすごく端正で細いのだがずっしりとした重さがあり、振ると「ひょうっ」というような独特の音がして、空気が冷えるような感じがあった。
その空気が変る感じを、峯田は持っている。ビギナーズラック的なものかという懸念がないわけではなかったが、この週になって初めに抱いた、「彼は違うぞ!」という直感は確信に変った。
佐々木蔵之介や宮本信子っていうのは、あの場では百戦錬磨の試合巧者であり、安定感のある技術を身にまとっているために揺るぎない強さを持っているが、峯田はまたそれらとは別種の剣術・戦法の持ち主であり、それだからこそ、観ていてドキドキしてしまう。平田弘史や白土三平のマンガに、よくこういう異形の剣士っていうのが登場するけれど、まさにあの雰囲気。「むむ、遣うぞ」と正統な剣士が冷や汗をかいて剣を構え直す感じ。

さて、そのムネオが省吾に問われて戦争中の話を語る。この独り語りはほんとうにすばらしかった。
ちょっと前に佐々木蔵之介も独り語りをしていたが、あれはまた種類が違っていて、蔵之介の場合は、戦時中の心象を語るというものであれはあれで凄みがあったのだが、峯田の場合は、そこに戦場での情景描写もくわわっていて、より難易度が高かったのではなかったか。
しかし、僕には真っ暗なジャングルの夜のふたりの兵士がはっきりと見えた。そのムネオが語っているシーンを何度目かに観直した際に、他のキャラクターたちの顔のアップなどが映っていることにやっと気づいたくらいなのだが、それに気づかないくらい、僕の頭のなかを、ムネオの語っている内容が映像化されたものが占めていた。
これは、すぐれた噺家や語り手(たとえば小沢昭一など)たちだけができる芸当であって、下手では観客にまったく貧弱なイメージしか喚起させることができない。
たとえば役者のせいだけではなかろうが、マンガ家コンビのうちのメガネを掛けたほうがなかなか実家から戻らなかったことを語った際に、結局「(惚れた女の子が似ていたのは)内藤洋子っちゃぞぉ?」みたいな話になって、内藤洋子のイラストを書いて、さらに島谷くんが「内藤洋子じゃしょうがないですね」みたいな話に持って行って、つまりいろいろゴテゴテとデコレーションしてうまくごまかしたことがあったが、ああしたのはおそらく、情景が見えにくく、かつ視聴者が退屈してしまっただろうから。おそらく脚本も力を入れておらず、うまく浮かび上がるようなものを書けなかったから飛び道具的な逃げ方をしたのだろうけれど、まあそれがふつうっていえばふつうかもね。再現映像みたいなのを挿入するパターンのほうが、もっとありきたりかもしれないしね。

あと、このシーンで特記すべきところは、いままでなにやらその影だけがちらちらと物語の背後に見え隠れしていた「戦争」が、たぶんこの場面ではじめて具体的な形をともなってあらわれた、ということ。
たしかに省吾の語りの部分も戦争について触れてはいたのだが、虐められたものはどこかでそれを返さなければやっていけないのだ、という人間全般についての語りにも昇華されていた(反対に言えば、戦争という異常な状態が、人間の醜い部分を先鋭化させてしまうのだ、というようにも読み取れた)のに対し、ムネオのジャングルで命を拾ったエピソードは、紛うことなき戦争体験で、しかしそれが、――ムネオも言っているように――必ずしも悲しい話で終わらないところが、すごい。
だからといって底抜けに明るい話なわけはないのだけれど、実際にインパールを歩き抜き、生き抜いた人間として話すムネオを、そう話すほか考えられないような話し方をもって、峯田和伸は演じる。いや、ムネオそのものだった
真剣の遣い手である彼がしゃべっているあいだ、僕は息を止めて耳を澄ませていた。語りの途中、彼がすこし笑えば、こちらも頬を崩し、彼が困ったような表情をすれば、こちらもできるだけ理解できるようテレビのほうに耳を傾けた。共鳴しているのだった。共感したいと思ってしまったのだった。
先週の感想において、峯田の演技の衝撃で、「頭の芯、身体の奥底からぐらぐらと揺らされた」と書いたが、やはり今回のムネオの演技にも、グサッと心臓を刺し貫かれるような思いをした。竹光のチャンバラだと思って油断していたのが、いつのまにか真剣で鎬を削り合っていたらしい、ということに肝を冷やしながら気づくのであった。

すぐれた演劇の前では、われわれは傍観者ではいられなくなる。登場人物になにか困ったことがあれば、自分のことや自分の大切な人間が困ったように感じ、反対に喜ばしいことがあれば、わが事のように喜べる。それが、演劇の醍醐味だ。
辛い体験の中から、それでも明るい部分を見出し、それを語るムネオ。だから彼が「笑って生きている」という言葉にはしっかりとした重みがある。
しかも、ムネオを救ってくれた英兵をわざとビートルズと混同させて、そのビートルズに「おれは笑って生きてっとう!」と言い、「おまえも笑って生きてっか!」と尋ねる、というこの構成が心憎すぎるほど。
このあとの展開がどうなるのか知らないし、そもそも1980年までやるのかどうかわからないのだが、僕にはジョン・レノンのことがどうしても頭に浮かんでしまって、「おまえも笑って生きてっか!」という問いかけは、若くして死んでしまったジョンへの「おまえは笑って生きていたのか?」という問いかけにしか聞えなくて、よけいに胸に迫るものがあった。
冒頭、ビートルズの扱いがすごいと書いたのは、こういう部分。ただの記号じゃない。作者独自の、ビートルズへの感謝なり哀悼なりが、心を込めて表現されており、だから、ムネオが武道館の裏手に回って、しずちゃんと並んで叫ぶ場面では、またしても不意の落涙を体験してしまうのだ。
ちなみに、ムネオが叫ぶ隣で、「ありがとう! ありがとう!」と泣きながら叫ぶしずちゃんの演技も、掛け値なしにすばらしかった。彼女、ほとんど出演していないのに、たぶん感覚だけで演技しているのだろうけれど、とても魅力的だった。にこっと笑うときは「満面の笑み」という言葉が指し示すものはどういうものかということを教えてくれたし、義理の姉である木村佳乃がときどき夫のことを忘れてしまいそうになる、と言うのを怒って諭す場面では、「この世にあってはならないものごと」があるということを一途に信じている人物が、本気で怒っているように見えた。演技というのは小手先のものではない、というのが心より実感できた。

話はちょっと戻って、ビートルズのチケットを持っていることをずっと言えずにいた島谷が、ムネオに渡そうとするところもよかった。
起き抜けにチケットを見せられて、「すげーなー、どうしたのこれ?」と子どもみたいに驚くムネオに、愛おしさを覚えない人間がいるのだろうか。
このとき、チケットを隠していた島谷が心情を吐露するところもなかなかよかった。彼なりの誠実さがあるし、そりゃあみね子も好きになるよなと納得できる。
でも、みね子のことを好きだとはじめて認めた島谷に、「へえー」と笑うヒデのほうがもっとキラキラしている感じがあってよかったけどね。
僕は『みをつくし』の小松原・源斉パターンがこのドラマでも再現されると固く信じているので、8/23のきょう現在、本放送がどうなっているのか全然知らないのだけれど、最終的にはみね子はヒデとくっつくと思っている。

そのチケットのゆくえだが、結局ムネオは受け取らず、街角でチケットを入手できずに泣いていた女の子にくれてやる。
この構図に、なんだか『文七元結』を想起してしまった。
父親の借金を返すために、自ら吉原に身を沈め金をつくる娘。その心意気を感じた店のおかみが左官の父親を呼び出し、期日までにきちんと金を返せたら娘は店に出さずに済ませる、と約束する。はじめは冗談や見栄や照れ隠しで逃げていた父も、しまいには泣きべそをかきながら娘に感謝し、店をあとにする。
その帰り道、身投げをしようとするどこかの手代にでくわし、慌ててそれを止める。訊けば店の掛け金を盗まれたとのことで、世話になった旦那に会わす顔がないので死んでお詫びをするのだと言う。
盗られた金は、と尋ねれば五十両。娘がそれこそ必死で拵えてくれた金も、ちょうど五十両。
ひと悶着もふた悶着もあった末に、左官屋は手代に金を渡そうとする。この金をおめえにやっちまえば、どうあったっておかみさんに金は返せなくなる。そうなると、娘は店に出て、そうしたら客をとらされて瘡にでもかかってしまうかもしれない。それでも、命がなくなるってわけじゃない。おめえはいますぐ死ぬってえじゃねえか。だからこの金をくれてやるってんだよ。店に帰ったらおめえの信心するお稲荷さんでも金毘羅さんでもなんでもいいから、毎日祈ってくれ。佐野槌という店にいる今年十七になるお久という娘がどうか病にかからねえように、と……そう祈ってくれ。
そう言って、五十両の入った包みを投げつけて左官屋はその場を走って逃げる。
まあ噺のゆくえは置いておくとして、たぶんここがいちばんのクライマックスであろう。しかしそれと同時に、はたして娘の身の安全を差し置いてまで一見の他人の命を救おうとするものか、という疑念は簡単には払拭できない。だからたぶん、演者は説得力のある演技や構成によって違和感を持たせないよう努力をしているはずだ。演技力については各人の技倆というものがあろうが、その動機については、それなりの数の『文七元結』を観た結果、たぶんいちばん単純な言い方をすれば、「江戸ッ子だから」なんだという認識に至った。江戸ッ子だから、抛るように手代に金をくれてやるのだ。もうちょっと言えば、江戸ッ子だから、心意気というものを見せつけているのだ。
ただしここで言う「江戸ッ子」というのは、ファンタジー内存在としての江戸ッ子であり、三代つづけて東京うんぬん、という血統的なものとは別物と考えたほうがよい。
落語というフィクションのなかに登場する江戸ッ子であれば、大事な大事な金をなげうってまで、見知らぬ他人を救うだろう。捨てる金は大切であればあるほどいいし、渡し相手については、知らなければ知らないほどいい。ああ、そうだ。あれでこそ江戸ッ子だ。おれたちの代表が、あんなに気持ちのいいことをやってくれたんだ。おそらくそうやって鑑賞者たちは気持ちのいいカタルシスを得、自己満足感に浸ったことだろう。

じゃあ、ムネオだ。なぜ彼は、島谷が持っていたビートルズの武道館ライブのチケットを受け取らず、見知らぬ女の子にやってしまったのか。江戸ッ子だからか?
んなわけねえっぺ! 決まってるじゃねえか、それが、ロックンロールってもんなんだっぺ!
音楽史的なことはまったくわからないし言えないが、ロックンロールという音楽は、いつのまにか反体制の象徴となっていった。いうなれば、反骨精神だ。そしてそこが、『文七元結』の左官屋にも通ずる。「まさか、そんな自分の損になるようなことはしないだろう」なんていう合理性や常識を飛び越えることこそ江戸ッ子の心意気だ。つまり、江戸ッ子というのはロックなんだ。

なんやかんやありまして、そのムネオが帰るという。
さみしい。それだけで、もうやたらとさみしい。別れのとき、すずふり亭のみなに頭を下げ、みね子のことをよろしく頼み、ひとりづつ挨拶をしていく。そして、最後にゲンジに「おれはさみしいよ」と伝える。もう泣けちゃうんだよな、ここが。げらげら笑っちゃいもするんだけど、でもほんとうに不思議なことに、泣けてしまうのだ。いや、不思議はないよな。それがムネオというキャラクターだから。その存在のかけがえのなさを、わづか2週間でこれでもかというくらいに見せつけた、ムネオなのだから。

父親の実との再会フラグはどうでもいいし、乙女寮の同窓会に関連して無理やりあかね荘の連中をからめようという人工的なプロットもどうでもいい。
けれども、そう! 乙女寮のメンバーが! ということで、この週は最後の日に僕にとってのスペシャルボーナスがあったのだ。彼女たちがいるだけで、なんかもう画面上がきらきらしている感じで、うれしい。
そして最後の最後に菅野美穂に登場して、どうなる、どうなる? ……と7週前の話題でいまさら盛り上がっているのだが、当然、つづく!

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久しぶりに警官の綿引がやってきて、みね子の父親情報が更新され、そのことについて、あかね荘の管理人室の電話をつかって実家の母ちゃんと会話をし、思わず泣いてしまうみね子。
それを聴いていた白石加代子が、みね子にずんだもちのようなものを「あーん」させて食べさせる。これはかつての乙女寮での愛子さんとのやりとりの、いわばリフレインである。つまり、乙女寮で愛子さんが甘いもの――たしか甘納豆だっけか――をみね子が「あーん」と開いた口に入れてやるシーンで、みね子が「実はここ(乙女寮)が、東京での”帰る場所”なんだ」と気づいたであろうのと同様に、あかね荘が、今後はそれに取って代わることを脚本は示唆しているのだろうが、いやはやなかなかどうして、観ている側としてはそう簡単には問屋が卸さない。
また、みね子が泣きながら電話するのを聴いていたアパートの住人たちとの会話で、いままでひた隠しにしていた父の行方不明ということをやっと打ち明けることになるのだが、打ち明けるまでに一悶着があり、そのユーモラスな悶着によってあかね荘住人たちとの心的障壁が取り除かれる……ということを描きたかったのだろうが、これまた観ている側としては軽々には問屋が卸さない。
いやいやむりむり。気にしない人は気にせずに、むしろ積極的に好感を抱いていくのだろうけれど、僕はまだこの時点ではあかね荘の連中に対してまったく親近感を持てないままでいた。僕からすれば書割がしゃべっているようなもので、そこに価値や愛着を見いだせなかった。いっそあかね荘なんてなくなってしまえばいいのに、とさえ思っていた。
なお、焼きうどんを食べながら、堰を切ったようにこれまでの身の上をしゃべるみね子は、僕の好きなみね子。大好きな側と、まったく興味の持てない側。このあいだに横たわる溝は深かった。

場面は変わって、奥茨城でみね子母(美代子)とムネオさんが話している。
夫の状況が少し知れたので呼んだムネオに、「ごめんなさいね、なんかあるたんびに来てもらって」と謝る美代子。それに対して「なに言ってんだって、ねえさん。もうやめよう、それ?」と制するムネオなのだが、なんかもうこのセリフひとことだけでグッときてしまう。
いったいなんなのだろうか。峯田和伸のこのセリフは、けっして”感動的”なそれではないのだが、しかし僕の心にはやけに響く。彼のセリフ――というか振る舞いすべて――はすべてそうだ。気にとめずに済むセリフを吐くことはなく、いつもどこかに引っかかるものを残す。たぶんそれは、彼のセリフなり振る舞いなりが、「この世で起こったたった一回のこと」のように感じられるから。
舞台演劇において最も重要なファクターと言っても過言ではないことに、「一回性」というのがある。けっして取り返しのつかないこと。舞台上では巻き戻しも、一時停止も、やり直しもきかないがゆえに、そこにある種の尊さが生まれる。それは、たった一回を生きているわれわれの生そのものの尊さに通じる。ひいては人間の尊さ。宇宙の尊さ。
峯田の演技は、おそらくはさまざまな演劇技術に裏打ちされていないがゆえの一回性に満ち満ちており、そこに当人の一所懸命さが加味され、類のない熱量が生まれる。ムネオはつねに本気であり、正直であり、必死である。だからこそ、愛すべき、非常に愛すべき人物としてわれわれの目に映る。
そのムネオが、ビートルが来日するといって狂喜する。だからこそわれわれは、それがものすごいことだと知る。ビートルズだからすごいのではない。この物語のなかでは、ムネオが認めるから、ビートルズはすごいのだ!

ムネオから「ビートルズ ガ ヤッテクル」の電報をもらって以降、ドラマは急激にまた面白さを取り戻す。ムネオ夫婦のやりとりや、すずふり亭でのみね子の歯磨き粉の押し売りなど、愛すべきキャラクターたちが、しかるべき立ち位置を取り戻し本領を発揮し始める。
特に、歯磨き粉の応募券でビートルズのチケットを当てようというみね子に、すずふり亭の人たちはもちろん、商店街の人たち、あかね荘の人たちまでもが協力する。そして、「当選の知らせ」が来るのを、みね子と一緒になって待ち望む。われわれが、ずっと観てきた構図だ。
そしてまた、応募に落選したことにしょげているみね子の目の前で、コネをつかって易々とチケットを手に入れた女性が喜ぶ。これは、向島電機での初給料時に、ほしいと思ったブラウスが高価すぎてみね子には買えずに、別の人に買われてしまったのと構造的には同じだ。
望んだものが手に入らない者。手に入る者。向島電機でブラウスを買った人は、おそらくは一所懸命働いた結果ほしいものを手に入れたのだろう。対して、サングラスをかけた”業界人”の恋人らしき女性は、指すら動かさずにビートルズのチケットを手に入れた。
世の中は不公平だとか不平等ということを描きたいのではなかろう。というより、世の中は不公平とか不平等ってことは、このドラマではずーっとあたりまえの大前提として描かれつづけてきたので、いまになってあらためて「発見」されるものではない。
かといって、みね子は諦念にとらわれてはいない。そしてこのドラマは、所与の不運や不遇を飛び越えようとするみね子サイドの人間たちを応援する。
これは次週分を先取りしてしまうが、自らの境遇を切り開こうと努力するみね子に、島谷は負い目を感じ、羞恥さえ覚える。島谷の口数が少ないのはその羞恥のためで、それはみね子だけに感じているものではない。彼にとっては、ほとんどの足掻く人物たち、自らの運命に抗おうとする者たちが羨ましいのだ。すずふり亭のヒデがちょっと言っていたような、生まれが裕福だからといってその人たちなりのさみしさがある、というようなことは、ほんとうはほとんど関係ない。島谷が羞ずかしさを覚えることが指し示すのはただひとつ、彼がそれくらいにはまともだってこと。
そしてもし、彼のキャラクターが大化けするのだとすれば、その殻をいかに彼が破るのか、そしてその破る様を役者がみごと演じられるのか、にかかっていると思う(現在、次週分までしか観ていない)。僕からすれば、ヒデのほうがよっぽどいいのだけれど、物語的にはすくなくともしばらくはこの島谷をキーマンにするだろうと見ている。

そして、ムネオがついに東京にやってくる!
彼があかね荘の連中とはじめて会ったとき、「東京の若者よ、世界を変えるのはきみたちだ!」と宣言するが、ほんとうにそう思っているんだろうな、と二回目を観ているときに思った。
しかしながら、彼らは平和や希望の象徴というよりも先に、対SNSへの撒き餌にしか見えない。
これがあかね荘編が始まって以来ずっと僕が感じていたことで、彼らの人工的で強引すぎるキャラクター主張は、「もうなんでもいいから、炎上でもなんでも、引っかかってくれればいいから」という制作側というか放送側(?)の浅ましい意図が透けて見えるようで、たとえばマンガ家の片割れが実家からひさしぶりに帰ってきたとき、増田ナレーションは、「どっちにせよ、みね子の人生にはたいして影響をあたえないようですが」てなふうに彼のことを紹介していて、なんじゃそりゃと思った。
現時点でも、マンガ家の話は笑い話のネタ、いわゆるオチにされているだけで、たとえばシシド・カフカがみね子に、「この広い東京で人探しをするなんて、見つかる可能性は相当低い」といういつもの意地悪を言ってしまい、「ま、(マンガ家を指して)この人たちが売れるよりは可能性高いでしょうけれど」とフォローをするためのネタにしてしまっていた。
マンガ家たちはそれを笑って受け止めるのだが、島谷が「彼にもさみしさはあると思いますよ」などといってめちゃくちゃ好意的に解釈されているのと、同じ地平にあるとは思えない扱われ方だよな。
とにかく、このあかね荘の人間関係が非常につくりものっぽく、物語上での必要性があまり感じられないし、上記のように、このドラマの持っている基本路線、つまり弱者をこそ応援し、救うというスタイルからはかなり逸脱した、非常に「らしくない」部分がいくつも見られるのだ。
あるいは、第1週で増田ナレーションがムネオの登場に際して、「朝ドラってヘンなおじさんがよく出ますよね。なんででしょうね?」みたいなことを言ったのに対し、そのようなメタ的な語りは、物語を矮小化することになるからやめたほうがいい、と指摘したが、むしろこういう、目先の笑いを拾ってりゃあとはどうでもいいよ的な姿勢のほうが、このドラマの基本路線だったのだろうか。そんなふうには考えたくないよな。

「ロックンロールだっぺ!」と華々しく東京に登場したムネオに話を戻す。
みね子の父、実が目撃されたという場所に、ムネオとみね子で訪れる場面。
ここで突然、ムネオが叫ぶ。いままでへらへらとにたついて、ふらふらと左右に揺れながらしゃべるようなムネオが、真剣な表情で、身体のなかにある思いをすべて絞り出すようなやり方で、「兄貴!」と大声で呼びかける。
胸が撃ち抜かれた。「うわっ」と実際に声が出た。なんだこれは? なんなんだ、これは!
不意打ちで、怒濤の演劇的感動にのみこまれた。
片肘ついて寝そべり、リラックスしたモードで画面を眺めていたところ、急に胸ぐらをつかまれ、頭の芯、身体の奥底からぐらぐらと揺らされた。一気に、予定調和やお定まりの領域の外へ抛り出された。
次になにが起こるのか予測がつかなかった。というか、いま画面のなかでなにが起こっているのかもにわかには理解できなかった。ムネオは兄であるミノルの姿を見かけたのだろうか。否。そこにはいないということがきちんとわかったうえでムネオは、ミノルの耳に入るような大声で叫んでいた。
100人中95人くらいの役者は、このような発声の仕方はしないだろう。叫んでいるように見え、大声に聞えるようなやり方で、セリフを吐くはずだ。しかし峯田和伸は、ほんとうにミノルに聞えるように、まちがっても聞き逃されないように、必死に叫んでいた。いや、吼えていた。
すぐさま理解できないことは不安を生む。しかし同時にムネオの咆哮は、昂揚感を生んだ。感情の混淆がざわめく震えとなってあらわれる。
人間は、感動して心が震えると涙が出てくるということをあらためて知る。単に悲しいとか嬉しいとかいうことではなく、身体が抱えきれなくなった感情を涙で外に放出することしかできなくなるのだ。
これだよ! これこそがおれの観たかったものだ!
思いもしなかったような表現。予想をはるかに超えるような表現。こういうときこそ、生きていてよかったと心の底から思う。つまらない現実生活のなかにも、ときおりではあるが価値観が書き換えられ拡張されていく瞬間があるのだ。捨てたもんじゃない。ぜんぜん捨てたもんじゃない。

けっして批難の意図はないが、隣にいた有村架純が峯田のあとに「父ちゃん!」と叫んだとき、その声は、あくまでもこちらの予想の範囲内にあった。下手とかそういうことではない。有村架純、ぜんぜん下手じゃないよ。すごく成長していると思う。
しかし、目の前にいない人に向かって叫ぶとき、そう叫ばざるを得ないような心境のとき、人はどのような声の出し方をするのだろうか? 「叫ぶ」という行為の非日常性がほんとうに考え抜かれれば、峯田和伸のやり方のほうが正しいように思えてくる。というより、峯田の演技を観て、これ以外にやり方があるとはとうてい思えなくなってしまったのだ。第9週の感想のところに書いた豊子の「非合理な行動」と同様、ムネオの行動も論理的ではない。そして論理的ではないがゆえに、そこには多大な説得力がある。
例によってとんちんかんな記憶違いの可能性大なのでタイトルを挙げるのを控えるが、あるアメリカ現代小説で、主人公が、誰かが亡くなったのを知って悲しみのあまりゴリラのようにドラミングする、という表現があった。左の文章だけを読めば「まさか」と思うだけだが、その小説を読んでいる最中では「きっとそういうものなんだろうな」としか思えなかった。

とにかく、峯田和伸が最近のクソ停滞した心持ちの暗雲をすべて吹き飛ばしてくれた。
僕は、彼の人物をまったく知らないので、もしかしたらファンからすれば「峯田っていっつもそんな感じじゃん」の話かもしれないのだが、それはそれで全然いい。
そしてそして、この週の最後で、ムネオの音頭であかね荘の連中と一緒に、夜中の空に向かって「ビートルズーっ!」と叫ぶエンディングはほんとうにすばらしかった。なぜって、あのシーンだけで、たったあのカットだけで、あかね荘の連中がゆるせるようになってしまったのだ。
無邪気に叫ぶマンガ家ふたり組も、声を張り上げるのが不得意そうながらもリンゴに呼びかける早苗さんも、声の全然でない島谷も、ゆるせてしまったのだ。その中心にはムネオがいて、ロックしていたから。
チケットが手に入ったのか、と島谷に訊かれて、「いや。いいんだよ、そんなもんなくても」と応えるムネオは、最高にロックで、最高に恰好よかった。
おそらく『ひよっこ』をあとになって思い出すとき、必ず思い返すことになる週のひとつになるだろう。

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たまには速報に乗っかってみる。
パッと見で誰も指摘していないのが不思議なくらいなのだが、当該ポストはやがて「人間革命大臣」と略称され、ゆくゆくは公明党議員のポストになる、っていう筋道が表参道のイルミネーション以上に明らかなんだけど。
しかしまあ、なんでこうも自民党って(政治家って?)頭の悪そうな名前をつぎつぎと思いつくのだろうか。

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次週と次々週を観て大感動したもんだから、僕にとっては「谷間」(本音を言えば「海溝」)にあたるこの週のぶんをさっさと終わらせる。

あかね荘の連中がまったく僕の関心を刺戟しないのは、ひとえに登場人物たちが「あー演技してるんだなあ」と眼前に展開されているのがお芝居であり虚構であると意識させてくれるからなのだが、それは各俳優の力量不足のため各人物の背景が見えず、きわめて底が浅く感じられるから。そのためにリアリティがますます希薄に感じられ、よけいに気持ちが離れる。
富山県から上京して藤子不二雄を目指して、とか、岩手出身でお見合いに40回弱失敗して、とか、そういうのはいわばカタログの文章みたいなもので、ただの言葉だ。その言葉がセリフとして吐かれたからといって、決してリアリティが強化されるわけではない。むしろ説明調の言葉というのは、観ているものをシラケさせる。そして、この週、前週分は、やけにそのような「説明ゼリフ」が頻発していたように感じられた。
この説明ゼリフの多さ、これまでほとんどなかったような気がするのだが、ここに来て急増。なぜ? 「事物を丁寧に描写して、視聴者自身に登場人物たちの心理を感得してもらおう」という方針から、「とにかくあほな視聴者でもわかりやすようにして数字あげようぜー」みたいな方針に変わってしまったのだろうか。

たとえばみね子ナレーションの、「島谷さん、とってもさみしい顔をするひとだなって思いました」というところ、観ていて「別にー」としか思えなかった。さみしいもなにも、たいして描かれてないじゃん。この役者、画面上を占めていることは何度かあるけれど、ただ立っているだけじゃん。実際に生きているものとしての呼吸をしていないじゃん。そういう役柄なのかもしれないけれど、きっと「そういう役柄」ってハナから決めつけてそれ以上の努力をしていないじゃん。自分が勝手に定めてしまった限界を超えようとしたことが、たとえ一回でも彼にあったのだろうか。
また、シシド・カフカ(演ずる人物)の性格が傍目とは違って実はやさしい、というのを大学生に言わせてしまうんだもんなあ。客(視聴者)が察するまえに「解説」してしまうんじゃ話にならん。
いちばんひどかったのが、鈴子さんが三宅裕司と一緒に終戦直後の思い出ばなしをするところ。もちろん宮本信子の語りは見応えあったが、それに対する三宅の「受け」がなんとも頼りなく、「『真剣に話を聴いている人間』を一所懸命に演じなければ」という思惑が透けて見えるようだった。
しかしそれは演技力の話で、もっとひどいのは、その三宅が古舘の息子(ヤスハル)を指して、「ヤスハルが言うんだから間違いない。あいつは最高だよ、おれは幸せもんだあ」と言うところ。この直前の回にふたりの血がつながっていないという事実がこれみよがしに明かされ、それに対応させてのこのセリフ。
実際は血がつながっていないのにほんとうの血のつながった親子のような関係を構築している、少なくとも親父のほうは息子にそのような愛情を抱いている、ってことをこんなにも短時間でこんなにもストレートで伝えるのって、あまりにも雑な脚本・演出なんじゃないだろうか。
それならば、ふたりが初めて登場したシーンで、増田明美のナレーションに「あらあら。こんなふうにケンカして、ふたりは親子みたいに見えますが、ほんとうは血がつながっていないんですよ。驚きですね。けれどもお父さん(三宅裕司)、ケンカしながらもなんか嬉しそう。よっぽど息子さんのことが好きなんですね」なんてことを言わせればよかったんじゃない?
それくらいに、三宅裕司のセリフは説明ゼリフすぎたし、実はそれと似たようなのが次週か次々週でも見られた。


あと、鈴子さんが、赤坂の小学校はいろいろなところから子どもたちがやってきて、親が偉いとか金持ちとか関係なく、みんな同じなの、みたいなことを言っていたのだが、これって本当のことなのかなと思った。
赤坂という土地の特殊性は知らないし、知っているといえば自分の小学校時代のことしか実際には知らないわけだが、一般論としていえば、子どもは「みんな同じ」なんてことは絶対に考えないと思うけどね。
親の威光を笠に着るやつは当然いただろうし、そういうガキに取り入って少しでも級内地位の向上を図るガキもいただろうと思う。子どもは聡い。暴力の匂いがすれば敬遠するのは当たり前だが、その子どもの暴力が、親の攻撃性を引き継いでいることも少なくないだろう。
また、子どもたち自身が同級生の家庭環境に対して鈍くとも、その親たちまでもが鈍いということにはならない。そしてしばしば、親は子どもによけいなことを耳打ちする。あそこの家はああだからこうだから、うんぬん。
さらにもう少し言ってしまうと、鈴子さんの意見っていうのは、いじめっ子や、あるいは「強い子」のそれであって、みんながみんな同じ視点を持っていた、なんてことはゆめゆめ思わないほうがよい。こういう意見の持ち主は多くのばあい弱者の視点を知らない。それが証拠とでもいうべきか、高子がみね子の入店を断るかもね、という話があった際に、「わたしはかわいかったから、『オンナの戦い』っていうの? そういうの、よくわからないのよ」と言っていた。
僕は鈴子さんのことが好きだし、こういう強いタイプの人間も好きだったりするが、けれども、言っていることの半分は間違っていると思う。
くわえて、そういう「気持ちのいい赤坂っ子」の感覚に照らし合わせてみれば、ますます大家の白石加代子みたいなタカリ性は許せないんじゃなくて? ここらへん、かなり矛盾していると思うんだけどな。


あと、あかね荘のマンガ家志望者が「マンガを描くのが好きで好きで仕方ない」みたいなことをさも”感動的”に言っているシーンがあったが、ものすごい貯金があるわけでも、ものすごい裕福な実家があるわけでもなかったら、当然のことながら仕事(というか描く時間を確保するためにアルバイトになるはず)をしないで描いているわけはなく、仕事をしていたら「もう3日間なにも食べていない」なんてこともありえない。マンガを描くために仕事の時間を削る(結果収入が減る)ということは実際ありうるが、水木しげるの時代ならともかく、飢えが恒常的になるほど働いていない、というのはちょっと考えにくい。
というか、この人間(たち)および脚本家は、マンガ誌にデビューすることを宝くじが当たることのように考えていやしないだろうか。
マンガ家は、デビューがスタートラインであって、そこからやっと勝負が始まる。完走できるかどうかさえわからないものすごく厳しいレースなのだが、あかね荘に住んでいるマンガ家志望の素人たちは、まだそのスタートラインにも到着していない。そこへ行くまで5年も足踏みしている現実を、彼らはほんとうに直視しているのだろうか。そのような現実認識さえ甘い連中が、ただマンガ家のコスプレをしているように見えてしまって、ほんとうに気分が悪い。これは僕が、まさにこの時代にマンガ家になった人間を直接知っているせいもあると思う。その人間にこのドラマの話をしたら、やはり「ありえない」と一笑に付された。

それはそうと、途中でもうひとり出てきたマンガ家を演っている浅香航大って誰だろうと調べてみると、『マッサン』で堤真一の息子をやっていたやつかあ(ただし途中で観るのはやめているけれど)、とちょっと懐かしくなった。相方の岡山天音は、『夜のせんせい』『家族狩り』と何回か観たことがあった。ふたりともキャラクターの単調さに流されてしまっていて、役者としての地力が見えないが。


でも役者の演技力についてのうんぬんかんぬんは、島崎遥香が出てきたらもうすべてが無効化されてしまった。『ロング・グッドバイ』の冨永愛もすごかったけれど、『ひよっこ』の島崎も相当なもの。
彼女、『ゆとりですがなにか』に出てきたんだけれど、かのドラマで唯一ゆるせなかったキャスティングなんだよなあ。プラス、女性アイドルに対してはほぼ絶対に批判的なことを言わないと決めている僕が、内心、「こいつだきゃあ」と「こいつ」呼ばわりする人。いやいや、役者やらなくていいじゃん。テンションあげて『ハイテンション』を唄っていればいいじゃないですか。後生ですから、内輪ウケの世界から出てこないでくださいよ。
もっと本気で役者を頑張っていてそれでテレビドラマに出演したい人なんて日本中に山ほどいて、そのなかにきっと脚光を浴びられる逸材だっているはずなんだけど、そういう新人やまだ無名の人を探すんじゃなくて、こういう客寄せパンダを選んじゃうんだよなあ。それでも、『ゆとりですが』のときに、ほんの一瞬だけ輝いた瞬間が彼女にもあったので、そのような奇蹟が再び起こることに期待(実際は奇蹟ではない、ということは次週あたりのところで書くかも)。

しかしこれに対して、このしょうもない娘(演技的な意味で)を思う親父役の佐々木蔵之介が実にいいんだよなあ。
みね子に封筒を渡す相手は誰かと尋ねられた蔵之介が、「娘なんだ」と応えた瞬間に、それまで希薄だった娘のイメージがはっきりとした輪郭をもってこの世にあらわれる。彼の表情から判断するにやや困難な状況を抱えた娘が。
でも、みね子が喫茶店に行くと、「あれ、おれなにかのオーディションの練習風景(オーディション本番ですらない)でも見ているのかなあ」と勘違いしちゃうくらい、その存在感や実在性というものを微塵も感じられない女の子(ぱるる)がいるだけで、蔵之介の言っていた娘は雲散霧消してしまう。
でも、そこで一悶着あってみね子がすずふり亭に戻り、蔵之介とアイコンタクトを取った瞬間に、「あれ? やっぱり娘はいたんだ」ということが会得される。
となるとこれは……とわれわれは急に量子力学的思考を強いられる。すずふり亭にいた瞬間には「娘」は存在し、そこを出発して喫茶店に入るとその「娘」は消えてしまう。けれども、またすずふり亭に戻ってくると「娘」はやはり存在しているということがわかる。さてこの「娘」は実在するのか否か。あるいは、実在すると同時に実在しない、シュレディンガーの猫的な存在ってことなのか?
冗談はともかく、その省吾(佐々木蔵之介)があとでみね子を誘ってバーへ行き、そこで過去をひとくさり打ち明け、その直後の「由香、元気そうだったか?」と尋ね、それから「かわいい顔してんだろ?」と言う、その間(ま)とユーモラスな響きのある言い方がすばらしかった。大袈裟な言い方をすれば、このセリフひとつで省吾がいかに娘を溺愛しているかがわかったし、しかもこのセリフを聴いた人間は、省吾はもちろん、娘の由香に対しても一瞬にして愛着を持ってしまうような、そのような力があった。

ちなみに、省吾に娘が元気そうだったかと質問されたみね子は、すぐには応じず、ちょっと間を置いてゆっくりと「はい」と応えていたのだけれど、なんか、こんなみね子、好きじゃない。こんな一歩引いた大人の間合いを知悉しているかのようなみね子なんて、みね子じゃない。気配りがありつつも、積極的で、一所懸命に自分を主張するみね子が好きなのに。やっぱりこの週は、あまりできがよくなかったな。

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率直に言って原作ファンは、「あーあ、主役を選ぶところまではよかったのに……」と嘆息をつきつづけた全八回だったのではないか、と感じたのはNHKの土曜時代ドラマ『みをつくし料理帖』。
いやたしかに、ヒロインに黒木華が選ばれたと知ったときには「こりゃあいいドラマになるに違いない」と思い、そしてさらに脚本が藤本有紀になったと知ったときには「傑作の予感しかない!」と思ったのだが、まあ予感は予感で終わることもありますわな。
といって、すべてがだめだめドラマだったかというとそんなことはなく、よかったところを1行であらわすとすれば、
黒木華かわいい。森山未來かっこいい。音楽いい。

黒木華は、たぶん僕が観てきたなか(それほど観ていないけれど)ではじめて「かわいい」だけで終始するキャラクターを演じられたのではないか。今回のドラマは彼女のPVだと思ってよい。
ただ、うまいかって訊かれると判断しかねるってのが正直なところ。
「下がり眉」っぷりは原作どおりなのだが、怒ると愛染明王だか不動明王だかどっちか忘れたが、まあそれくらい眉を吊り上げて怒るのだ、という設定と演出とそして実際の演技がちょっと漫符的(=マンガ記号的)で、こういうところにこのドラマがいまいちピリッとしなかったところがよくあらわれていると思う。

森山未來の芝居はまともに観たのがセカチュー以来だけれど、ダンスをやっているせいか体幹がしっかりしていて、たとえばお稲荷さんの前で拝むところなどではピシッと一本筋の通った姿勢が美しく、「これぞ武士」という感じがしたものだ。人間、造作じゃないね。あまり顔立ちが整っていると思ったことはなかったけれど、第1話を観終えるまでにはすっかり好きになってしまい、かっこいいとさえ思えるようになった。そういう意味では、彼のPVでもあった。

あと、音楽が非常によい。特にメインテーマがすばらしく、当初は公式サイトのFAQにもサントラが出る予定はない、みたいなことが書かれていて、「NHKはあほか! 『64』と同じ轍をここでも踏むというのか!」と腹が立った記憶があるが、来月出ることになったらしい。
ほんとによかった。

で、悪かったところ・不満なところを以下に思いつくまま列挙すると、
  • 小日向文世の江戸弁がいかにもとってつけたようだった
  • ご寮さん(ごりょんさん)の安田成美の芝居がかなりくどく、おりょう役を演じた麻生祐未にさせればよかったのに、と思った
  • といって、おりょう役は麻生が適任と思えたので、いっそ一人二役にすれば画面上の面白さが得られたのではなかったか(名前も、「ごりょんさん」と「おりょうさん」で似ているし)
  • 源斉役の永山絢斗は最近NHKでやたらと起用されているように思うが、まったく期待に応えていないように思うし、すくなくとも源斉は棒読み過ぎて最悪だった
  • 絶世の美女ということになっているあさひ太夫(=野江ちゃん)を演じた成海璃子はかわいそうなくらいにミスキャストだった(雰囲気からして暗い)
  • 一話分の放映時間が三十数分しかないというのがそもそもおかしく、その大切な時間のなかでスタッフロールの最後に江戸料理研究家とかいう肩書の男が出てきてシラケる(そのエンディングで、澪が毎回現代風のキッチンでレシピを説明して料理していく、という趣向までは純粋にたのしめるのだが、本来裏方であるべき人間がひとこと言うためだけに登場する意味がまったくわからない)
  • 映像に凝っている部分もあったけれど、エキストラ(厳密には、セリフがひとつでもあればエキストラとは言わないのかな)がへたくそで、これまたシラけた
  • 好きな登場人物である清右衛門を木村祐一が演じていたのだが、まったく別のキャラクターとなっており、芸人としてあまり活躍しているようには見受けない彼の役者キャリアを重ねるために事務所が注力した配役だったのであろうが(根拠なし)、なんともなあ……とやるせない思いだった(ただ、後半になると、このドラマにはこのドラマなりの清右衛門がいる、と考えられるようになって、そうなると赦せないわけではなかった)
とまあ、完全に原作とは別物となっていた。
もしこのドラマを観て「おもしろい!」と思える人がいれば(藤本有紀の脚本がそれほどひどいというわけではなかったので、いてもおかしくはないと思う)、ぜひ原作に当たることをオススメする。100倍面白いよ。
時代劇は人気ないのかもしれないけれど、このドラマはほんとは朝ドラでやってほしかったんだよなあ。『あさが来た』みたいなコスプレドラマじゃなくて、きちんと丁寧に描く価値が充分にあったと思う。たぶん続篇はあると思うけれど、別物として観ることにする。つくづく、残念。


【2017.07.27 追記】
そうそう、森山未來の妹役を演じたのが、懐かしの佐藤めぐみで、これまた懐かしの『用心棒日月抄』の小田茜(坂上二郎のところの娘か孫娘)を思い出させるような溌剌とした可愛らしさを見せてくれた。藤本作品だからの起用ということもあったのかもしれないが(藤本女史は情に厚いところがあるように勝手に思っている)、NHKは『ちりとてちん』で重要な役を担った彼女をもっとつかうべし。

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世の中で、食べものについていろいろと難癖つける輩は大っ嫌いなのだが、それと同じくらいに、食べものを他人にたかるような輩も嫌いだ。
で、新たに登場人物にくわわった大家の白石加代子は、その演技のワンパターンも相俟って、見ていられないってくらいに気持ち悪い。赤坂の売れっ子芸者って設定なはずだが、東京者は見栄が身上、しかも芸者・芸人ってのは見栄の商売だろうに。それがタカリ屋のように田舎から出てきた女の子の荷物にいちいち口出しするっていう行動がまったくリアリティを感じさせない。
同じ観点から、みね子のお土産をひったくるように持って行ったマンガ家も見ていて気持ち悪い。なら働いて稼げよ、と。
そもそも、このマンガ家がどうやって食べていっているのかが不明。いちおうこの翌週分くらいまでは観ているのだが、稼ぎがどこらへんにあるのかわからない。相方とのいづれかの家が金持ちで仕送りしてもらっている? アルバイトしているようには見えないのだが、そのくせ夢だなんだとうるさい。この当時、そんな人がいたのかな。細かいことを設定せず「新キャラありき」で登場させて、富山だという田舎の部分をブラックボックスにして辻褄合わせをしようとしているんじゃなかろうか。
もちろん、演出上ある種のブラックボックスは存在せざるを得ないし、それを役者の語りによって視聴者があたかも実際に観たような気分にさせるっていうのも重要な演出方法だと思うが、この役者がなあ……。知らない役者じゃないけれど、なんかキャラクター優先で現実感ゼロなんだよな。
このあかね荘の連中もみんなそう。いままで昭和39年~40年という舞台に生きている登場人物たちを間近に観ている気分だったのが、先週分あたりから途端に「そういう設定のお芝居」を見させられている気分に早変わり。
みね子も一歩引いた立ち位置の「紹介者」となってしまって、ほとんど主張がなくなってしまい、さみしい限り。紹介された連中は学芸会のお遊戯で大忙しだ。
ちなみに、若い役者や役者候補生たちがチャンスを与えられる、ということについてはあまり文句を言わないことにしている。誰だってデビュー作あるいはメジャーデビュー作はあるはずだし、それが本人が思ったほどにはたいしたものにならない、ということについて彼/彼女に責を負わせるのはかわいそうだ。批判すべきは制作サイドだろう。きちんと演出つけりゃいいのに、とか、脚本が雑だよ、とか。

なお、みね子が初仕事としてホールに呼ばれるとき、みんなに「がんばれ」と言われる。なので、僕が個人的に設定している「あなたのことは、きっと誰かが応援している」というテーマはまだ踏襲されているようで、ちょっとほっとした。もう全然違うドラマだと思って観ることにしたけど。

気になったのが2点ほど。
ひとつは、みね子の「手」がすげー止まること。これはこの週に限ったことではないのだが、なにかというとみね子の「手」が止まっている。これが、ほんとうに許せない。
仕事って大事、とか、仕事のありがたみ、とか言っているくせに、その手が止まっていてどうするんだよ。仕事場で大事なのは手を動かすことで、口を動かすことじゃない。口を動かしていても手は決して止めない。なんでそんな簡単なことがこのドラマのなかでは無視されているのだろう。
みね子が働き出した初日、鈴子さんが仕事のときには上下関係なんてない、と説明したり、みね子が勉強のためにメニューを持って帰ろうとすると「仕事は時間内だけにしなくちゃ、いい仕事はできないよ」みたいなことを言ったときに、「あ、これってまさにプロパガンダだな」と思った。つまり、いまの政府が建前上主張している「働き方改革」の広報の一環じゃないか。
現在においても、日本では長時間労働によってかえって生産効率性を落としている点が指摘されているし、あるいはそれによってもたらされる労働者たちの深刻な過労が社会の重大な問題になっている。そしておそらくその源流は高度経済成長期にあって、みね子たちが働いているまさにこの時代に端を発しているはずだ。
ああそれなのに、それなのに。そんな時代の経営者がめちゃくちゃ「ホワイト」な労働観を披露し、あるいは、考え事などをしてぼうっとしがちなみね子に対して「こら! 手ぇ止まってるぞ」と叱る人間が出てこない。
これってあれですか、あとで厚労大臣とかが「朝ドラに出てくるすずふり亭のような、いい職場になるようにしましょう」みたいなことを言うつもりなのかね。
いやたしかに、そういう経営者がやさしくてすばらしい労働環境は当時にしたってあったでしょうよ。ないとは言わない。けれども、それは絶対にレアなケースであって、過去を描くときにそんなレアなケースを以てするというのは、表現者としていちばんやってはいけないことだと思っている。
みね子に対してやさしく気を遣うのはいい。けれどもそのことと、仕事の厳しさ(ときには理不尽さ)を伝えることは、決して矛盾しない。厳しくたいへんな時間を共有することではじめて互いに信頼感を持てるということは実際によくあることだ。なぜそういうきわめて現実的なプロセスが描かれなかったのだろうか。そのことに、非常な違和感を覚えた。プロパガンダというのは、半分冗談で、半分本気だ。

で、もうひとつは、食事のときに手を合わせる問題。
みね子の実家、奥茨城での食事のときは、たぶんみんな手を合わせて「いただきます!」としていたのだが、鈴子さん、高子、みね子、中華屋の奥さんの4人であんみつを食べに行ったときも、4人ともが手を合わせていた。まあ宮本信子はちょこんと下のほうで手をおざなりに合わせていただけだったので、「ああ、ほんとはやりたくないんだろうな」ということが察せられた。
この問題、けっこう前から感じていて、なぜあまり問われていないのかがむしろ不思議なくらいだ(問われているのかもしれないが、「ネットでの議論」みたいなくだらないことには興味がないので知らない)。
僕は少なくとも20代後半くらいまで東京に住んでいたが、それまで生きていて、誰ひとり食事のときに手を合わせる人間に出くわしたことがなかった。誰ひとり、だ。
東京生まれの父に訊いてみても、「家でそんなことはしていなかったし、友だちの家に行ったときもそんなことをしている人はいなかったし、もしそういう人間を見たら珍しいから記憶に残ったはずだけど、見たことがない」という答えを得たし、それは北海道生まれの母も同様だった。
そんな父が加えたのは、古い日本映画で手を合わせているシーンなんて目にした記憶にないけどなあ、ということだったが、それはもちろん検証したわけではないのでたしかなことは言えない。でも調べる価値はありそうだ。
僕は、手を合わせるのがおかしいと言いたいわけではない。現に関西生まれの同年代の人間がそういうふうにして育った、と言うのを聞いたことがあるので、おおまかにいって、西日本ならそういうことがあったかもしれないと思っている。すごく直観的な話になってしまうが、西日本のほうが関東とくに東京より信心深い人たちが多そうで、まだいろいろな習慣が残っている可能性が高いと思っている。それだから、当該地域において手を合わせることはごくごく当たり前のことのようにも思えるのだ。
僕が奇妙に感じているのは、そのような一部の地域にはあって一部の地域にはなかった習慣が、日本全国、過去からずっとあったように描くというその単純さだ。
卑近な例を採れば、戦後直後の東京の子どもたちが、節分に「きょうは恵方巻きを食べなくちゃね。なんたらの方角へ向かってうんぬん」とやっていたらおかしいだろう。あるいは、10月末に「わーい、きょうはハロウィン、たのしいなあ」などとは言わないだろう。
恵方巻きやハロウィンなどのマーケティングによって広まった新しいカルチャーについてならすぐに理解できそうなものを、手を合わせる習慣における地域分布性(?)についてなかなか理解が得られなさそうなのは、たぶん「合わせたほうがよりよさそうだから」という直感があるからではないか。
食べられることに感謝して別の生物の生命を「いただく」という行為に合掌を伴わせるというのは、たしかに理にかなっていそうだ。それまでそのような習慣がなくても、「大人になってはじめて知ったことだけど、それからはずっと手を合わせることにしています」という人がいたら、それはそれで大いに結構だと思う。なんの不思議もない。
でもそれは、「手を合わせない人がいたらその人は野蛮である」とか「手を合わせない人の家庭はきっと躾がなっていなかったのだ」なんていう価値観や一方的な批難を導くものではない。雑煮の餅が丸いとか四角いとかその種の話題と同じで、優劣はないし、地域によって差異があるというだけなのだ。
僕は、東京のすべての場所において手を合わせなかったはずだ、と主張するわけではない。手を合わせたところも当然あったろうと思っている。ただ、みんながみんな手を合わせたわけではないということが重要であって、どうかその時代を描くのであれば、手を合わせる人がいたり、あるいは手を合わせない人がいたり、というばらばらの状況を正確に描いてほしいのだ。
僕の勝手な妄想だが、宮本信子はずっと手を合わせて来なかった人間で、「ここは絶対に手を合わせてくださいね」という具体的な演出指示があったとは思えないが、彼女よりずっと年若い周りの出演者がみな手を合わせるのを見て、内心「そんなことなかったんだけどねえ」と思いながらも、妥協の産物としてちょこっとだけ手を合わせたのではないか。
とにかく、ここらへんはきちんと時代考証をやってほしいもんだ。ここらへんの地域は合わせていた、ここらへんはない、などと。

この週でとても(という副詞じゃ足りないな、とってもとっても)よかったのは、佐々木蔵之介の過去語り。やはり、このドラマの後景には戦争が影を落としている。そしてこれこそがはじめのほうに書いたブラックボックスを語りで済ませる部分で、非常にうまく行った例。
蔵之介の芝居は非常にナチュラルで、かつきちんとした演劇性をともなっている。しゃべりのテンポの緩急がスリリングなほどで、観ていて飽きない。一点を見つめ、深いところから記憶を掘り出し、それを聴かせている人間の前に現出させるようなやり方に、一瞬、渡辺謙の姿を重ねてしまった。これを傍で見聴きしている有村架純やヒデ役の男の子は成長の糧としてほしいものだ。
安定したコメディエンヌとして佐藤仁美は頼もしいし、ときおり彼女やヒデと掛け合うやついいちろうもいい味を感じる。ということはつまり、まだまだすずふり亭にはたのしみを見いだせるってことで、これはとても嬉しいことだ。

そうそう、手が止まっちゃうみね子については少しイヤだけど、ポニーテールにした有村架純はまだ好きなままですよ。

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半分、だな。

先週ぶんが終わって、たぶんもうこれ以上の感動は得られないだろうなという予感があって、だから期待はしていなかった。
乙女寮の残務処理というべきか、みね子と澄子の話がちょっと残っていて、募集人数が減った石鹸工場には澄子が行くことになって、週タイトルからすればまあ当然というか、みね子はすずふり亭で働くことになる。で、このときだけど、オーナーの鈴子さんもコック連中も、みね子が店で働くことは大賛成なんだけど、佐藤仁美演ずる高子が若いみね子のことを「女の敵」と見なすんじゃないかと懸念する、っていう構図がなあ……。
「高子は薹が立っているから嫉妬深く思うんじゃないか」みたいな意味を当人のいないところでみんなでわいわい話している感じがしてさ、なんだか女性をそうふうに扱うのって、すくなくともこのドラマの雰囲気にはそぐわないように感じられた。
たとえば、これまでに佐藤仁美が意地悪な人間と窺える部分があったのなら、懲罰的な意味合いでそう扱うのもわからないでもないのだが、彼女、いままでだってみね子に優しかったじゃん。そういう人物に、そういう仕打ちをするわけ? まあ1、2話でその話が済んだからいいようなものだけど。
いやたしかに佐藤仁美、『ママさんバレーでつかまえて』(2009)のときよりだいぶふっくらとしちゃったけれどさ、なんか一定の年齢や一定の容姿だと一定のキャラクターになる、みたいな単純さってものすごく嫌いなんだよな。

mamasan

(上段右から二人目が佐藤。ちなみにその下が向井理。若い!)

まあ当時(昭和40年頃)は現代と違う感覚だったといえば違うんだろうけれど、一方で現代製作されているドラマでもあるし、そういう現代的感覚をもとにして感動を創出している部分もあるわけで、都合の悪いところだけ「時代ですから」というのはちょっと言い訳が立たない。僕が細かすぎるのかな。


また、「新キャラ」なるものにも、たいそう失望させられそうだ。

慶應ボーイ(KOB)の登場シーンで「なんだかすてきな男の子ですね」という増田明美のナレーションが、もうちょっとお腹いっぱい。いいかげん空回りにしか聞えない。

以前にもちょっとは出てきた光石研も、視聴者に強い印象を植え付けるがために無理して頑張っている感じがあって、苦しい。最近はいいおじさん役が多いというイメージだが、やっぱり笑いながら人を殺すようなのが光石芝居の身上よ。『Nのために』で、愛人と一緒に暮らすためにいきなり笑いながら子どもたちに「さあおまえたち、ここから出て行け!」みたいに言ってのけた、あの感じがいちばん好き。

和菓子屋の親子はもっときつかったな。
古舘伊知郎の息子は、演技下手(というか初心者?)特有のうるさい芝居をしていた。いまどき高校演劇でもそんな力みすぎはいないよって思った。
親父の三宅裕司も、観ていて辛かった。
SETを一回テレビで観たときはものすごく面白くて、舞台上でもともと半分アドリブみたいな場面を仕切り、お客さんの盛り上がりをうまくコントロールして必要とあらばアドリブをどんどん引き伸ばしていくやり方に、さすがの役者・演出家としての年輪を感じたものだが、劇団の主宰って他人の演出を受けるとあんがい面白くないっていうのが僕の持論(野田秀樹がよそで芝居をして、驚くほど魅力を失ったのを観たことがある)で、三宅は今回のドラマでそれを証明してくれそうだ。そうそう、松尾スズキは例外ね。

で、最悪はアパート大家の白石加代子な。つらすぎた。
彼女をはじめて観たのはテレビかDVDで観た蜷川版の『天保十二年のシェイクスピア』で、「読売演劇大賞を獲っているらしい」みたいな情報つきだったのだが、案に相違して「あれ? こんなもん?」と肩透かしを食らって、それ以来、食らいっぱなしですよ。まあ、顔をがちゃがちゃ動かしたり、聞こえづらいひとりよがりのくどすぎるしゃべりを聞いて、「わーおもしろい」とか「個性だね」とか「味がある」なんてことを簡単に言えちゃう人たち向けとしては、たいへん便利な役者なのかな。
個人的嗜好として、こういうキャラクター芝居っていうのはあまり好きではなく、若い役者が演っていると「もったいないことしているなあ」という気分になるし、年とった役者が演っていると「まだそんなことやってるんだ」って気分になる。
それまで漠然と感じていた不安が、最終的にはこのキャラクターが出てきたことで具体化し、それまでのドラマとの耐えがたい断絶を感じた。深い溝。


時間的には前後するのだが、振り返ると横たわっているその溝の向こう側にはまだ乙女寮が、ほとんどの登場人物たちがいなくなりながらも残っていた。
みね子の就職と住むところが決まってから、自分の職探しをする、なんていう愛子さんのやさしさよ。すずふり亭というかすずふり亭周辺の人物たちにがっかりしていたのでなおさら、がらんとしてしまった乙女寮での愛子さんとみね子のやりとりに、僕がたのしんでいた物語の残滓を見つけ、その名残を愛おしんだ。
紅白を観終えて、みね子の寝顔に自分が持っていたかもしれない家族の面影を見いだす愛子さん。けれども同時に彼女は、寝ているみね子に「つきあわせてしまったね」と謝る。つねに明るく振る舞う彼女の、ふだんは見せない遠慮。きっと傷を抱えている人間のやさしさということなんだろうな。
明けて元旦、みね子に「おかあちゃん代わりじゃなくて、東京のおねえちゃん」と言われて、ほんの一瞬だけ愛子さんが複雑な表情を見せた気がした。これはほんとうに「気がした」程度の動きなのだが、自分の仮想の家族を投影していたことを、みね子自身に指摘されたように感じ戸惑う気持ち半分と、母ではないにせよ姉として、つまり家族として見てくれているのだということに対する嬉しい気持ち半分、といったものが彼女にはあったのではないか。
その彼女にお年玉として田舎に帰る切符をプレゼントしてもらい(このときに「ありがとう、愛子ねえちゃん」と言うところもものすごくよかった!)、急遽、奥茨城の家に飛び込んで来るみね子。あまりにも突然に帰ってきた娘/孫娘/おねえちゃんを、驚きながらも大喜びで迎える家族たち。
第1話からずっとつづいてきた物語に愛着を持っている僕としては、これらのシーンを格別の思いをもって観ることができた。たとえば古谷一行のじいちゃんは目元をゆるませっぱなしでみね子を見ていたのだが、それは彼女がまだ家にいたときには見せなかった表情だ。
みね子が寝つづけているところへ、ムネオや時子の母や三男母子や田神先生たちが戻ってくるあのにぎやかな感じにも、懐かしさを覚えながらたのしめた。


またまた時間的に前後するのだが、すずふり亭のほうでも、いいシーンがあった。みね子に付き添って愛子さんがはじめてすずふり亭を訪れる場面。
これからみね子が住むことになるアパートのほうへ案内しようというところ、鈴子さんが愛子さんに思い出したように呼びかけ、彼女が東京生まれ東京育ちだということがわかると、急に表情を変えて、「じゃあ、あの?」と尋ねる。「はい、戦争中もずっと東京におりました」「たいへんでしたねえ、お互いに」「はい」「よく頑張って、生きたね」「はい、ありがとうございます」
東京で罹災した人たちのなかに、この感慨っていうのはほんとうにあったのではないかと思う。このあいだ半藤一利の『昭和史』を読んでいて東京大空襲の被害が甚大だった(たしか犠牲者は10万人近く?)というのをあらためて知って、広島や長崎や沖縄というのは、太平洋戦争という歴史的出来事には必ずセットになっている地名だが、東京はもしかしたら忘れられてしまいがちなのかもしれない。もちろん、犠牲者の数で程度の大小を測れるものではないが。
この鈴子さんと愛子さんのやりとりはちょっと不思議で、前後とあまり脈絡がない。この会話が終わるとすぐに鈴子さんは話がどんどん飛んでしまって……という言い訳をするのだが、もしかしたらこの会話の唐突さをカヴァーするために、話が脱線しがち、という設定を鈴子さんに与えたのではないかと勘繰ってしまうほどだ。

なんでもかんでも『金八』に結びつけるのは悪い癖だが、くだんの第2シリーズ、文化祭の催しものが終わって有志によるサプライズで特攻服に身を包んだ3Bの生徒がちょっとしたパフォーマンスをするのだが、それについて校長役の赤木春恵が、涙を流して神風特攻隊をかっこいいだなんて、どうか思わないでください、というようなスピーチをする。彼女は兄を特攻で亡くしたという設定になっているのだ。
はじめて観たとき(もちろんリアルタイムではない)には、そのあまりの唐突さにちょっと違和感があった。しかし、時間が経って自分が歳を重ねるにつれ、きっとこれは脚本家の小山内美江子がなんとしても書きたかったことなんだろうなあと思えるようになった。

翻って鈴子さんと愛子さんとのやりとりも、明るく笑っていて高度成長期にある日本だけど、ちょっと心の蓋を開ければみんな戦争によってもたらされた暗いところ(いまの若い人たちが抱えているものとは種類が違う)があるんだよ、というのを、突飛な形でも描きたかったのかもしれない。まあいづれ愛子さんの過去についてはもう少し掘られるのかもしれない、と思っている。


「乙女寮後」に対する失望・幻滅を強く感じた週でもあったが、「乙女寮とそれ以前」の部分が描かれたことに対して驚き・嬉しく感じた週でもあったので、がっかり半分・よろこび半分の週といったところだった。
願わくは、この先にまた愛着を持てるような人物やエピソードが出てきますように。
まあしばらくは適当に済ませられそうなので、録り溜めたものをどんどんと消化していく予定。

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予想通りこの週の放送は、心が引き裂かれるような思いで観ることとなった。

まず、昭和40年は高度成長期唯一の不況の年、というのは興味深い情報だった。
松下さんが向島電機が倒産する旨をみなに告げたとき、涙を流していた幸子さんなどと比較してみね子の表情があんがい呆けて見えたのがリアルだなと思った。そういう予感がない限りは、涙すら出てこないものかもしれない。
いつもの6人がばらばらになってしまう。幸子さんがへたっぴ雄大先生と一緒の工場へ。時子が喫茶店。で、われらが豊子は食品会社に就職し、かつ定時制高校にも通えることとなったという。みね子と澄子は石鹸工場。そして、優子さんは秋田の田舎に帰ることとなった。
優子さんがそれを打ち明ける場面も辛かったなあ。訥々とお故郷言葉で心情を吐露されると、ああ、秋田もこんた小っちぇくて病弱なおなごに出稼ぎすでもらわねどなんねがったんだなあ、と言葉以上の背景を読み取らざるを得ず、よけいに悲しくなった。

で、乙女寮最後のコーラス。なにを唄うか……っていうのはこの週のタイトルからしてもうわかっていたよね。倒産にショックを受けているみんなに愛子さんが「下を向くのはやめよう」と言っていたのもこの歌(『見上げてごらん夜の星を』)にかかっている。
この歌をバックにした回想シーンは、視聴期間に直せばわづかひと月ちょっとでしかないはずなのに、やはり泣けてしまった。合唱しながら各メンバーが涙を浮かべているのは、もちろんそういう演出であるからなんだろうが、きっとそれだけではない。
ドラマの撮影というのはわれわれが思っている以上にタイトで、そしてシステマティックにこなされていくものなのだろうが、それでも、お馴染みとなった役者たちの表情、スタジオのセット、それぞれの衣装、くわえて撮影時にあった些細なエピソード、個人的な感慨等々の集積が、この乙女寮という空間とそこで共有した時間とを特別なものへと強化したであろう、と想像することは難くない。
すぐれた歌のメロディと歌詞であれば、引き伸ばされた時間のなかに点在する感情を、つなぎ、圧縮して目の前に差し出してくれる。だからわれわれは、歌を聴いて/唄って、涙を流す。

歌が終わって、これはまあ予想通りだったけどへたっぴ雄大が幸子さんに、へたっぴにプロポーズする。雄大のしゃべりのいちいちに澄子がツッコミを入れるくらいここはコミカルな場面で、緊張した様子で下手くそなりに頑張って演技してはいたものの、しかしほんとうに雄大だけが同じ場所にいるように見えてなんだかひとつかふたつ次元のずれたところに存在しているんじゃないかっていうくらいに場違いであったから、幸子さんも下手したら断るか、もしそうでなくても喜劇調にサゲてうやむやにするんじゃないかとさえ思った。
ところがさにあらず、幸子さん、というか小島藤子は、感に堪えない様子で涙を流しながら承諾をする。話の展開というより、その演技に感動してしまった。あまりにも下手くそでまるで人間ではないような芝居に対しても、きちんとした芝居で応答できるものなのだなあ。

そして、優子さんは去っていく。この頃はもちろん携帯電話もなかったし、電話そのものがすべての個人宅にあったかどうかは怪しい(みね子のところにはなかった)。もしあったとしても、長距離電話は相当に高い料金だったはずだ。
そのため、戦中戦前よりはさすがにマシであろうが、「今生の別れ」とはならないまでもかなりの覚悟を必要とした別れだったに違いない。反対に言えば、そういう場所からみなが独りで東京にやってきた、ということでもある。だからこそやっと根付くことができた職場や寮を失ってしまうことが、現代以上に辛く悲しく、また不安でもあったのだろう。

工場の最終日。ラインが最後の基盤をゆっくりと流していく様子が美しかった。ひとりひとりが組み立て、調整して、検品したトランジスタラジオは、大げさに言えば彼女たちの魂の結晶だ。
その結晶が、退職時にひとつひとつ渡されるというのを聞いたら、たぶんここまできちんと視聴してきた人なら「うわー、なんてすごいことなんだろう!」とみね子たちと一緒に驚き、心はずませることだろう。
松下さんの最後の挨拶は「ご安全にー!」だった。この言葉は当初は、向島電機のラインが動きつづけるという前提をもとにした、そこで働く彼女たちに向けられた安全管理の掛け声でしかなかったが、それがいまや、工場での仕事が完全に終わったという宣言でもあり、仲間たちを互いに送り出し合うための声援ともなっていた。非常に、なんていう形容じゃまったく間に合わないほど、さみしいことである。

で、豊子が工場内に立てこもってしまう。
ここはもう、兼平豊子というか藤野涼子の独擅場だったので、彼女の行動の詳細は書かずに、その周りのことを書く。たぶんあの演技のことを文章で伝えることは相当難しい。
セリフというのはもともと文章であって、ただそれだけなのであれば、文章によって再現することは論理的に可能だ。しかし実際は、ただそれだけではない。ただそれだけなわけがないのだ。
人間の声で発せられることによって、文字は言葉となる。と同時に、表情がつくられ、動く。周囲にまた別の役者が配されていれば、彼/彼女たちがそれを聴き、間が生まれ、距離が生まれる。空間が広がる。大きな意味で、時間が動き出す。生きている。
僕もたしかに1965年の12月末のあの場所にいて、閉じこもった室内で兼平豊子が切々と訴えるのを聴いていた。

藤野涼子の演技に圧倒され感動に打ちのめされてしまったのだが、すこし冷静になって考えてみた。なぜこのような心情の吐露をするのが豊子でなければいけなかったのか。
寮長である幸子さんや舎監である愛子さんが言ってしまえば、みね子や時子の視点と同化してしまっている視聴者からすると、「まあ、長く働いているからそんなものなのかなあ、ちょっと想像するしかないけれど」と多少の置いてけぼりを食らってしまう感覚になるだろう。
ルーキー4人組のうち、時子の目的は乙女寮を出て少しでも早く女優の仕事に就くことであるから(もちろん乙女寮のことを二の次にしているというわけでもなかろうが)、最も適任とは言えないだろう。
澄子は、中卒でやはり豊子と同様に家庭環境が決して豊かではないと推測されるが、彼女自身が楽観的でのんびりしているという設定なので、「ここじゃなければだめなんだ」と声を上げても、「食事がおかわりできるから?」とか「休日は好きなだけ寝られるから?」なんていう彼女にとってきわめて実利的な動機が観ている側に思い浮かんでしまうので、これも適任とは言えまい。
となるとみね子が候補の最右翼のように感じるのだが、しかし向島電機が倒産すると知ったときからみね子の態度というのはけっこうニュートラルなところがあって、倒産によってもたらされる同僚との離別については強く悲しんでいる様子は見受けられたが、倒産そのものについての拒絶の意思が強く感じられる場面は少なかったように思う。
これはやはり、一人称のヒロインとして基本的には「目撃者」に徹するという立場上、さらに言えば豊子を説得する最後の要となる立場上によるものなのだろう。また、もうちょっとひねくれた見方をすれば、朝ドラのヒロインに、今回の豊子のような激情型の振る舞いというのはあまり期待されていないようにも思う。
いや、そもそも、倒産そのものへの拒絶というものがいったいどれほどの意味を持つのだろうか。同じような出来事に遭遇した場合、僕を含めほとんどの人は仕方ないなと思い、次のこと(就職など)を考えるに違いない。己がどうやったってコントロールできない事実は、それがいかに自分の望まないものであったとしても受け入れざるを得ない、というのがたいていの大人が採る振る舞いと言えよう。

それでは、豊子は消去法で「籠城者」の役に選ばれたのだろうか。
ふだんは合理性に重きを置く彼女だが、このときは非合理的で自分でも利口だと思えない行動に走り、そしてその思いをみなに伝える。生まれてはじめていやだと言いたい。この場所が好きだ。はじめて自分自身でいられるようになったこの場所が。バカだってことはわかっている。バカでいいじゃ。
この誰に対してとも言えない叫びは、まさに彼女が別の場所でつぶやいた「人間ってそったに簡単なものでねぇ」を体現するものだった。
彼女は、時子との諍い(第5週)のなか「もういいでしょ」と言われたことが「嬉しかったんだ」と自ら告白する。そのように見えないよう振る舞っていたが――そして視聴者は絶対に気づいていたと思うが――、彼女は乙女寮での生活によっていちばん変わった人物なのだ。だから、「いやだ」と叫ぶのは彼女でなければならなかった。

しかし彼女の拒否に対して、僕は、愛子さんの、そしてみね子の説得すらも弱いと感じられた。もし豊子が論理に説得されるのであれば、たとえば「回収業者との板挟みになっている松下さんに迷惑がかかるから」とか「みんなにとっての最後の日を台無しにしてしまう」とか、様々な理由によりすぐに部屋から出てくるだろう。
けれども、彼女自身が無意味だと知っている行動=非合理の強さは、論理(=合理)では克服できないはずなのだ。
みね子の言う、「わたしたちが忘れなければ工場はなくならない」というのはそれだけをとってみれば非合理的であって非合理な言説/行動に対抗する力は持ちうるものの、この場合ではいかにも合目的的な言説であり、頭のいい豊子であれば「ん?」と感づいたのではないか。ましてやそのあとの「泣かないって決めたじゃない」というのはとってつけたような言葉で、非力どころか(誤用ではない意味においての)姑息にも感じられた。

つまり、説得という観点からは、僕はカタルシスを得ることができなかった。ドラマとしては形式上の答えを見つけそれによって解決させはするものの、実際には、「なぜこの場所がなくなるのだ」というのは不条理に対する問いであって、簡単には答えを得ることはできないのではないか。
けれども、「不条理なるが故に我信ず」ではないが、ときに非合理であるからこそ言葉は説得力を持つ。豊子の言葉/振る舞いは、現実面では、奇しくも回収業者の主任格の人物が言ったように「そう言われても困る」と受け止められがちが、感情面では、理解され、共感される。
だから彼女の言葉は、意味の有無で言えば、それが発せられた時点ですでに意味を為している。彼女の訴えが、特に同室のメンバーたちに一瞬にして共有され、同じ悲しみや苦しさ、切なさを味わったのだ。

なお、この一連の場面から、『金八先生』の第2シリーズのクライマックス、加藤優と松浦悟が荒谷二中に行き、その放送室に他の不良生徒と一緒に立てこもるという場面を思い出した。
加藤たちは荒谷二中の校長と体育教師を軟禁しているし、彼らから謝罪を引き出したいという確たる目的を持っていたが、しかし、思春期にある若者が、密室にこもり、その中から懸命になにかを主張し、しかもそれを、理解のある大人たちが忍耐づよく見守り、いっぽう職務に従順な大人たちが排除しようという構図はとても似ている気がした。
乗り込んで強制排除しようと目論む警察を必死に止める坂本金八のごとく、『ひよっこ』では主任の松下さんが業者に頭を下げて押しとどめ、ときに涙を流して豊子の気持ちを察してくれと言い、愛子さんに言われた「男だろ、松下明」の「男」をこの場面で上げていた。いやあ、よくこんな(いい意味で)古臭い顔の人を見つけてきたもんだな、と好ましく思っていたキャラクターが土壇場で大活躍したことにも感動した。

まあ、どんな理窟を書き並べようと、藤野涼子の演技はそれを易々と飛び越え、感動をもたらしてくれたことは間違いようがない事実だ。上にだらだらと書いたのは、何度も繰り返したあと、やっと落ち着いて観ることができてからひねくりだした考えをもとにしたものであり、1回目~3回目くらいまでは、頭をぶっ叩かれ、心を撃ち抜かれ、身体に震えを感じながら観た。

回収業者の主任格の人物についても少し触れておきたい。
この人は出演時間はきわめて短時間なのになかなか印象的で、はじめ乙女寮の人間たちが工場から出てくるのを「ごくろうさまでした」といちいち声をかけていて、けっして悪い人物ではない、ということが示されていた。そのうえで、豊子が立てこもり、松下さんとの交渉においても「わかるけれど」という前置きを何度も繰り返し、それでも時間がないこともわかってくれという論理的な応対をしているところが、(ほんとのことをいえば現実的ではないものの)相当に心ある人で、最終的には突破を試みようと実力行使に出てしまったが、ぶじ豊子が自ら部屋を出てきてからは穏当に仕事を済ませ、最後、向島電機の人間と対して挨拶されたときも、なにか文句を言うでもなく、むしろ帽子をとり少し頭を下げ、そしてなにも言わないまま己になにか言い聞かせるようにして頷き、そこを去っていった。
このやりとりが、非常に魅力的に感じた。
彼はなぜなにも言わなかったのか。彼はなにも言うべきことがなかったのだろうか。
「ほんと頼むよ、こういうことをやられちゃ困るんだから」なのか。それとも、「まあわかりますよ、あなたたちも仕事を失ってたいへんでしょうから」なのか。それとも。
相手を詰るのは論外として、相手に安易に理解を示すのもまた失礼と感じたのだろう。松下さんが言ったように彼らは「働く人間」であり、彼女たちもまた「働く人間」なのである。その立場や矜持が理解できるからこそ、軽はずみな慰めをするべきではない、と彼は判断したのではないか。
しかしそれにしても、脚本家はよくぞここで「なにも言わせないこと」を選択できたものだと感心してしまう。

豊子への説得ではちょっと首を傾げるものがあったみね子(有村架純が、ではない)だったが、この回の最後のナレーションはとてもすてきだった。
「豊子の小さな反乱」は「歴史に残るようなことではない」のかもしれないが、わたしにとっては非常に重要である、ということを語っていて、また、乙女寮にいるひとりひとりが、それぞれに物語を持っていて、その物語の集積が東京なのだ、と。ほんとうにそのとおりだと思う。

泣き疲れて土曜日。真知子巻きした米屋の娘にちょっとほっとする。それでも、豊子が寮を出ていってしまうときは、つらくてつらくて……。澄子との友情の確認、「まだな」「達者でな」「ありがとう」「ありがとう」では、やっぱり笑って、泣いたな。卑近な例でいえば、ドルヲタが推しのアイドルグループを失うとこんな感じなんだろうな、と思った。みね子の東京篇はまだまだつづくのだろうが、同時に豊子篇も観つづけたいよ。
そして時子ががらんとした工場で泣いていて、そこでみね子との別れを惜しむシーンもさみしかったなあ。そもそもこのドラマを「よし、観よう」と思えたのは、第1週、みね子が時子の家にやってくるとき、自転車を漕ぎながら、満面の笑みでおーいと手を振り、それを見た時子が「毎朝会ってるのに、なーにがそんなに嬉しいんだか」みたいなこと(けっこう不正確)を言いつつ嬉しそうな表情をしている、っていうカットがきっかけだったのだ。
工場内で抱擁し合うふたりは、役柄上、離れてしまうのだろうけれど(まったく登場しなくなる、というのは考えにくいが)、それだけではない、演技というものを超えた現実の佐久間由衣と有村架純との関係性における喪失感、みたいなものも感じられ、二重にさみしかったのだ。

というわけで、みごと乙女寮は解体。そして、予告編を見て、今度は文字通りの意味において悪い予感しかしない。「新キャラ」とか、話の流れ上しょうがないのだろうが、いらねーんだよって感じだし、そもそも増田明美の(ふつうのものはともかく)メタナレーションがいよいよ鼻についてきた。これははじめの頃から指摘していることだけどさ。
あーあ、とりあえず東京篇のピークが終わったという感じ。これからの下り坂の勾配がどうかゆるいものでありますように。急落、は哀しいから。

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いろいろな病気や症状というものの名前が、おそらくはいろいろな理由(差別の解消や認識の一新など)から変わっていて、アル中っていう昔はよく聞かれた言葉も、いまはアルコール依存症と呼ぶことによってより病気という認識を強めることとなった……などという話ではない。

人の名前がいよいよ思い出せなくなってきた。
50代、あるいは60代に突入した人たちが、口を揃えて俳優や有名人の名前が思い出せなくなるということを話すが、たぶんそれが僕にも徐々にもやってきている。物忘れとか、シナプスが切れるとか、その現象をどう呼ぶにせよ、特に名前を思い出すのが(以前から得意ではなかったが)さらに苦手になりつつあるというのは事実だ。
このあいだは、香川照之の名前が思い出せなかった。あの顔は思い出す。亀治郎(と書いて、ここでタイプする指が止まる……いまは名前が変わったよなあ。ええとなんだっけ、いまの猿翁がむかし名乗っていたやつで……猿之助か! とGoogle日本語入力の予測変換でその答えを確認←この間、3分はかかった)に似ていてさ、そうそう、いまは中車(これはすぐにパッと浮かんだ)でもあって……だけど肝腎の名前が思い出せない……うーむ。
亀治郎がすぐに出てくるのに「猿之助」が思い出せないっていうのは、三遊亭圓歌を「歌奴」と言ったり、あるいは橘家圓蔵を「円鏡」と言ったり、林家こぶ平を「こぶ平」と言ったりするのとちょっと似ている気がするが、しかし香川そのものが出てこないっていうのは、ちょっと問題。若年性のアルツハイマーが発症したのかと疑ってしまう。

ツールを使えば、たしかにその名前なんていうのは簡単に思い出せる。Wikipediaで出演したドラマなんかから逆に引いたりして。でも、それだからいいって問題でもない気がする。いちばんいいのは、なにも利用せずにパッと思い出せることだからね。
先にちょっと触れたように、予測変換もそうだが、そのようなツールの発達が記憶の機能レベルを低下させているのかもしれないし、あるいは単純に香川照之の作品に最近はそれほど触れていないってだけの話なのかもしれないけれど、ちょっとショックだった。

作品に触れていない、で思い出したのだが、このまえは島崎藤村の名前が思い出せなかった。まあそもそもこの人は名前を知っているというだけで、その作品を読んだことがない。それだからか、「藤村(とうそん)」だけがパッと浮かんで、そのあと必死に名字を思い出すという作業をすることとなった。
で、「あれ……? トウソンの名字って、『ふじむら』だった気がする」と思って、それから頭のなかで漢字変換したら、それって藤村藤村じゃんってことに気づいて、またやり直し。島崎だということに気づいたのは、それから数日後、何気なく『破戒』って……と思い出したらポッと出てきた。
さまぁ~ずがやっているマイナスターズってバンドがあって、そのコミックソングのなかに「斉藤にしお」という名前が出てくるのがあるのだが、それに対して三村が「名字みたいな名前だな!」ってツッコミをするんだけど(←こういうのはやけに憶えている)、この島崎藤村にも同じことを感じる。似たようなところで言うと、三遊亭圓生の本名、山崎松尾ね(←これも憶えていた)。

で、最近もうひとつ「これを忘れるのかよ!」と大ショックを受けた事案があったのだが……いま、それがなんだったのか必死に思い出しているところだ。

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警官と指揮者がラーメンの屋台で話すシーンが週のなかで2回出てくる。
セリフ回しや表情が拙いもんだから、以前にも書いたように悪い意味で意識が引っかかってしまう。せっかく乙女寮のやりとりに没入していたというのに……。
それでも観ていくと、「あれ、もしかしたら」と気づいてしまった。もしかしたらこのふたりの役って、このふたりの役者じゃなかったらもっと好きになれていたかもしれない、と。
綿引と雄大。なんとなく間が抜けていて、それでも愛しくなるような、そんなふうな思いを込めて作者はこのふたりのキャラクターを設定したんだろうなと考えた。

お盆休み、たのしみにしていた海水浴はどしゃぶりで流れてしまい、かわりに映画『ウェストサイド・ストーリー』(劇中では『ウエストサイド物語』)をいつもの6人組と警官・指揮者とで観に行く。
そのあいだに乙女寮の他の同僚たちによるちょっとしたダンスの披露があったりして、こういう演出はとっても好き。
あと、『ウェストサイド~』のインパクトは相当大きかったようで、小林信彦の自伝的小説『夢の砦』のなかでも触れられていた記憶がある。たしか「何回観たか?」というのが挨拶になるほど業界で大いに話題になった、みたいな書き方だったような。

映画から帰ってきてなんとなく時間を過ごしているうちに雨が晴れて、みんなで海岸に行き、セピア色の色調を背景に大きく波が浜辺を打つなか、綿引が大声をあげてへたっぴな歌を思い切り唄うところがとてもよかった。このとき、この綿引という警官だけでなく、竜星涼という役者のことをすこしゆるせるようになった。好きになった、とは言えないけれど、でも「ま、いいか」と思えるくらいにはなった。そんな、いいシーンだった。

三男が奥茨城に帰省するというほほえましい話がちょっとだけ挿入され、それから向島電機の売上不振というシリアスな話になる。
それまでに、みね子たちの給料がいかほどなのかというのが具体的数字をもって描写され、さらに当時の日用品の価格などもその都度表示されていただけに、生産調整のために給与が一割減じられたということがどれほどの影響があるのか、というのが視聴者にもより共感できるようになっていた。
このドラマが案外ふわんふわんせず地に足がついているように感じられるのは、生活というリアリティをもっとも直接的にあらわす記号――お金について何度も何度も触れられるからである。
乏しい鑑賞経験からでしか言えないが、主人公や他の登場人物が貧困であるということを特に訴えるものでなければ、なんとなくドラマ内で金銭について触れられることは少ないように思う。ファンタジーというフィルターが、排泄やセックスなどと同様、財布という概念をその世界から払拭してしまうことが多いのではないか。
しかし当然のことだが現実世界では、金銭は最大と言っても過言ではないモチベーションのひとつだ。われわれはそのために住むところや買うものを決定し、それらの積み重ねが将来の行動を規定している。
あらためて書くのもマヌケなことだが、賃金が下がることを聞かされ、部屋に帰った豊子が腹を立て、周りのみなが不安に駆られるというのは至極まっとうな描写だ。
これと好対照なのが、たとえば現代を舞台にした『逃げ恥』。当該ドラマでは、リストラの対象となったことを告げられた星野源が、再就職に一所懸命画策しているかと思いきや実はガッキーと一緒に食べに行くレストランを探していた、という、まあもちろんかなり意図的であるということは強調に強調を重ねておくが、あの表現にはやはり時代性を感じないではいられない。
(けれどももう少し深く読み解けば、「きっと再就職先を必死に探しているのであろうな」と視聴者に期待させる前提を採っているということは、すなわち2016年現在は「再就職先を必死に探すのはあたりまえ」の時代だからで、これがもう少し前のドラマであれば、「あーあ、リストラされちゃった。すこしのんびりでもしてみようかなあ」などとノンキなことを言いつつ、わけのわからないほど広い部屋で一人暮らしをして外食ばかりしている主人公がいたかもしれない)。
思えばみね子が(本来の希望とは別に)上京したのも家族のために稼がなければならないからだし、その仕送りの額を維持するために自分の自由になる小遣いの額が減り、結果、すずふり亭で毎月あたらしいメニューを註文するという目標が怪しくなってしまう、というこの流れは実に説得力のあるもので、その脚本の巧みさに感心する一方、ひと皿60円のビーフコロッケを食べながら涙をこぼしてしまうみね子の気持ちを推し量ると、視聴しているこちらの胸も苦しくなってしまうのである。

ここでもう一度あの俳句を書き記しておく。
弁当を分けぬ友情雲に鳥 清水哲男
また、今回は作者による解説を、作者の高名なサイト『増殖する俳句歳時記』より引用する。
どこかに書いたことだが、もう一度書いておきたい。三十代の半ばころ、久しぶりに田舎の小学校の同窓会に出席した。にぎやかに飲んでいるうちに、隣りの男が低い声でぼそっと言った。「君の弁当ね……」と、ちょっと口ごもってから「見たんだよ、俺。イモが一つ、ごろんと入ってた」。はっとして、そいつの横顔をまじまじと見てしまった。彼は私から目をそらしたままで、つづけた。「あのときね、俺のをよっぽど分けてやろうかと思ったけど、でも、やめたんだ。そんなことしたら、君がどんな気持ちになるかと思ってね。……つまんないこと言って、ごめんな」。食料難の時代だった。私も含めて、農家の子供でも満足に弁当を持たせてもらえない子が、クラスに何人かいた。イモがごろんみたいな弁当は、私一人じゃなかったはずだ。当時の子供はみな弁当箱の蓋を立て、覆いかぶさるよにして、周囲から中身が見えないように食べたものである。粗末な弁当の子はそれを恥じ、そうでない子は逆に自分だけが良いものを食べることを恥じたのである。だから、弁当の時間はちっとも楽しくなく、むしろ重苦しかった。食欲が無いとか腹痛だとかと言って、さっさと校庭に出てしまう子もいた。私も、ときどきそうした。粗末な弁当どころか、食べるものを何も持ってこられなかったからだ。何人かで校庭に出て、お互いに弁当の無いことを知りながら、知らん顔をして鉄棒にぶら下がったりしていたっけ。そんなときに、北に帰る渡り鳥が雲に入っていった様子が見えていたのかもしれないが、実は知らない。でも、私の弁当のことを気遣ってくれた彼の友情を知ったときに、ふっと見えていたような気になったのである。『打つや太鼓』(2003)所収。(清水哲男)
みね子が自分だけが取り残されているような思いをいだきながらひと皿の料理と向かい合っているのを見て、声をかけないのもやさしさである。「どんな気持ちになるか」と想像し、声をかけないのである。
しかし「隣の男」が――三十代半ばになってからではあるが――「私」に声をかけたように、いつかその気持を打ち明けてしまうときがあるのかもしれない。
鈴子(宮本信子)が「みね子、ちょっとおいで」と声をかけたとき、泣いているみね子の身体に手を触れるのかどうか注意深く観ていたが、ついに触れずじまいだった。触れても不思議はない場面だと思うが、しかし触れないのが正解だと思えた。宮本信子のたたずまいが、この距離感に正当性を与えているようにも思う。
そして、そのような距離感を持っている人間が、いとも簡単に「あんたのお父さんとお母さんのことが好きなのよ」と言ってのけてしまう。それぞれたった一度づつしか会っていないというのに、だ。
それじゃあ、いかにも口から出まかせを言っているかといえばもちろんそんなことはなくて、彼女の言葉にはきちんとした重みがあり、だから説得力がある。その彼女が「なにか、辛いことがあったんでしょ?」とみね子に尋ねる。
この場面での宮本信子と有村架純のやりとりはほんとうにすばらしかった。今後このふたりの並びを見るとき、「『あまちゃん』のふたり」でもあると同時に「『ひよっこ』のふたり」と言われることにもなるだろう。
なお、鈴子に店外に連れ出されたみね子を心配する厨房の若手コックに、「任しとけば大丈夫だ」と声をかける鈴子の息子・省吾(佐々木蔵之介)には省吾のやさしさがある。それは「弁当を分けぬ友情」のほうだ。

綿引が故郷(くに)に帰るという。親が怪我をして、一人息子の彼が帰らなければいけなくなったのだという。
「お互い親で人生が急に変わっちまった」とみね子に同意を求め、みね子の長い逡巡の末の首肯ののち、「でもイヤなだけじゃないよね、子どもとして嬉しいことでもあるよね」と不器用に、しかし切々と訴える綿引には感動すら覚えた。そして、クリームソーダのアイスが溶けたのを見て、「えらいなあ。頑張んなあクリームソーダ。働きもんだなあ」と一所懸命に言うのを含め、たぶんこの瞬間、僕は役者の力量がその限界を超えるのを見ることができた。綿引という役柄とそして演者の必死さが、彼の演技力を一段上に引き上げたのだと思う。
舞台だけでなく、ドラマや映画を観ていてもこういう瞬間にはときどき出会うことができる。だからといって彼がものすごくうまくなるかどうかはまた別の話で、間断のない努力が今後も必要なわけだが、すくなくともいまこの場面で、彼の演技にはすこしだけ光がともった。そのように感じられたのである。

今週2回目、都合3回目となる屋台での綿引と雄大先生のやりとりで、その会話を耳に入れているラーメン屋主人の頬を緩めるような表情がすこしだけ映る。
また、綿引が帰る直前まで例の場所でみね子の父を探している場面で、その姿をじっと見ている商店街の店の人間の後ろ姿があり、綿引がその人に会釈をすると、彼が後ろ姿のまま、「わかってるよ」とでも言うように大きく頷くのが映る。
これらの物言わぬ人たちの姿にもまた、僕は「応援」を感じてしまう。田舎から出てきて、そして結局はふたたび田舎に帰ってしまう青年が、たしかにいっときであったかもしれないが東京にいたこと、そのことを記憶しているのは、なにもみね子や乙女寮のみんなや雄大だけではない。
毎日すれ違う顔でも、その名前まではとても知らない。都会は、そのような関係性を無数に結ばなくてはいけない場所でもあるが、しかし同時にそのなかで、ほんの小さな好意もまた無数に生まれつづけている。
タイムリミットとなり荷物を持って帰ってゆく綿引の後ろ姿を、とてもさみしい思いで観た。石田波郷に名句「雁や残るものみな美しき」があるが、去りゆく者もまた、美しい。

さて、この次の週の予告を見て、「あれ、乙女寮編が終わってしまうの?」と、そこからいっさい録画分を観る気が起こらなくなってしまったのだが、いよいよ腹を決めて観なければなるまい。

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