とはいえ、わからないでもない

編集
このあいだラジオ番組で、元アメフトプレイヤーで元アナウンサーのスポーツ解説者という人が出演して、例の問題について解説していたのだが、そのなかで、やたらと加害選手を「すばらしい選手・優秀な選手」と評し、「ほんとうはすばらしい選手なのに、うんぬん」としていた。また、コーチの説明が右往左往していたことについて、「やっぱり長い時間接していた選手を嘘つき呼ばわりすることはできなかった」というような説明をし、暗に師弟の愛情はやはりあるのだ的なことを匂わせていたけれど、どちらも噴飯ものだった。
スポーツの世界では違うのかもしれないが、一般的・常識的見地に照らし合わせれば、そういうのを客観的解説とは言わない。浪花節なんていうふうに言うかもしれないけれど。

本人が元プレイヤーで、当該スポーツに対して非常な愛着を持っているのはわかるし、今回の件でアメフトに悪いイメージがつきまとうのを払拭したいという思いもわかる。
でも、「ほんとうは優秀な選手が、パワハラ的環境に置かれて悪質的行為に向かわざるを得なくなったという悲劇」や、「ほんとうは選手に対して愛情豊かなコーチが、勝利に徹する冷徹な監督の指導方針に従わざるを得なくなり自らの言動に正常な判断ができなくなった悲劇」みたいなことを、いま解説(?)する必要がどこにあるんだろう?
そういう物語、もっといえば「おはなし」は、すべて原因が究明され、ある程度の時間経過ののちに、やりたい人たちがそれぞれ自分の望むものをつくって、盛り上がればいいだけのもの。その程度のものでしかない。その真偽がどうこうということではなく、無関係な人間たちが各自勝手にやる程度の価値しかないということ。

トキオの山口の件でも似たようなことを思った。社会的に許されないことをした山口に、社会的立場からNOをつきつけたトキオと、しかし人間的立場から拒絶しきれないトキオ、みたいな構図が、誰が企図したかわからないがあのとき報道された。
そういう括弧つきの「美談」はさ、5年後、10年後に「じつはあのときこういうことがあったんです」的に扱えばいいんじゃないの?と思った。もっといえば、誰にも言わず、5人のなかだけで共有すればいいだけの話。それを、なぜ大々的に拡散しようとするのよ? 残った4人の「商品的価値」をこれ以上下げないための広報、と読み取ってもそれほど的外れでもないはずだ。

こういうことを喜ぶ思考法を、僕はエンタメ脳と呼んでいる。重度の再生産によって生まれた安直なエンターテインメントに接しすぎたがために、安っぽい予定調和にほいほいと飛びつく思考・嗜好のことだ。
エンタメ脳の好物は、上記のような美談。そういうのに触れて、ときに涙し、「いい話だ~」と拡散する。拡散することで自分が美談に直接関わっているような気分になれるから、SNSはエンタメ脳の増強装置という機能を果たしている。
僕も、アイドルに対してはエンタメ脳に徹してたのしむことがあるが、そういう画一的な視点が、ときに界隈の闇の部分――性暴力、パワハラ、労働搾取等――を、ほんとうはわかっているくせに看過してしまう原因となっていることは間違いない。よくないことだ。

なお、くだんのアメフト解説者はその番組出演の最後に、「今回の件ではじめてアメフトというスポーツを知り、その面白さに触れることができた」というファンの言葉を紹介していたが、なるほど、そういう人もいるのか。僕なんかはアメフトといえば、京大のアメフト部員が集団強姦したことをすぐに思い出しますけどね、そうですか。

コメント

編集
福田和也が、「入れ替わりもの」というテーマの裏で書きにくい父娘の淡いエロスを描いていて巧妙、と評価していたことを記憶していたので読んでみたが、その点は僕のなかであまり興味のない部分だったせいか、そうかなあという程度。
エンディングあたりで、「せ、せつねー」ってことになるんだろうけれど、たぶんそう思うのは男の読者のほうが多そう。ストーリーも、いちおうその視点で描かれているわけだし。
でも、女性の読者は心の底ではどう感じたのかな、ってことに興味ある。たぶん作者は、読者の感動する方向性として「せつねー」のほうに持っていきたいのだろうけれど、もうちょっと複層的に解釈すれば、奥さんの視点もあるはず。
そこから見ると、妻離れできない夫へのささやかな復讐のように見えなくもないのかなあ、なんて。
ずっと愛情がつづいている、という幻想のもとに生活をつづけている夫に対して、嫌いになったというわけではないけれど、関係性が再構築されているこの状態で、その愛情がつづいていると信じきっている夫の想いそのものが重い(シャレじゃなくて)、と妻は思っているのでは?
小説内でそのような両者の視点が巧みに描かれているということはなく、あくまでも夫視点だけなので、福田が言うほど巧妙な感じはしない。むしろ単純かと。すっかり内容は忘れてしまったけれど、安部公房の『他人の顔』のほうが、もっと面白かった記憶がある(全然テーマも違うのかもしれないが)。

ただ、単純な「入れ替わりもの」だけで終わらず、妻が死ぬきっかけとなった事故の加害者家族の問題(『手紙』に通ずる)や、被害者の真の救済についてにもちらと触れられているところが、この作者が誠実だと感じられるところ。特に後者。事故の賠償金によって焼け太りしたかのように見える遺族を揶揄するその部下に対して、主人公が心のなかでつぶやく言葉――目に見えるものだけが悲しみではない(文春文庫版 409p)――が全編を通じていちばん印象的だった。

……と、いま奥付を調べてみたらもう20年前の作品なのか。やけに舞台設定が古いなあ、と思ったし、とくに、主人公がほとんど料理しないで、娘の身体に憑依した妻に任せっきりという点がとても気にかかったが、当時は「家事は女性がするもの」という感覚がまだ一般的だったのかな? にわかに首肯しがたいが。
このように主人公があまりにも家事をしないもんだから、あまり感情移入できなかったんだよな。(別に逃げられる話ではないが)逃げられてあたりまえだよ、と。まあ、時代とともに価値観が変わったことで作者を責めることはできないが、20年前に読んだ人も、いまあらたに読み返してみると、また違う感慨を覚えるかもしれない。そういう感想を聞いてみたい。

コメント

コメント一覧

    • 1. きなこ
    • 2018年05月31日 08:19
    • 東野作品の中では、ハズレのほうに入れています(^_^;)
      なんであんなに売れて、映画化までされたのか、世間の評価と私の感覚がなかりズレているなぁと、当時は実感しました。

      せつなさなどすべての感動の根底に、近親相姦への本能的な嫌悪があり、他の入れ替わりもののようなギャップの妙を、素直に受け入れることができませんでした。

      男、女と一概に括るのはよくないのですが、全体の印象としては、男性の描いた世界だよなぁ〜と。
      無邪気でした。

      スマホからだとコメントできるかな?
    • 2. doroteki
    • 2018年06月01日 01:24
    • きなこさん

      やっぱりそうでしたか。

      そもそも近親相姦っていうネタが男の妄想という感があります。科学的根拠はわかりませんが、思春期の女の子は父親の臭いに対して過敏になるって話がありませんでしたっけ? インセスト・タブーを犯さないための本能的防御なのかなあ、なんて勝手に思っていましたけれど、もしそういう反応を多くの女性が持つのだとしたら、まあとてもじゃないけれど、そこにロマンみたいなものは見いだせないですよね。思春期どころか、三十を過ぎても自分の父親を「キモイ」という女性には何人も出会ったことありますし。

      ただ、「高校生くらいの女の子は父親を生理的に嫌がる」みたいな話もたしか小説に出てくるんですよね。そういう部分を読むにつけ、作者からある「サイン」が出ているような気もしないでもないんです。
      エンディングは男が泣いておしまい、でおっしゃるとおり無邪気な感じで終わってしまいますが、物語全体を通じて、「男の無邪気さ/女性への理解の浅さ」という批判になっているのかも、と深読みすることもできないのではないんじゃないか、とついつい考えてしまいます。
      ここらへん、東野圭吾作品をあまり読んだことのない人間としては、作者がどこまで考えて書いているのかが判断できないんですよね。

      「泣けるー」という感想で終わってしまう単純理解パターンか、あるいは、男の単純思考を批判する複雑パターンかのいづれにしても、結局あまり面白くはなかった、という印象は変わらないのですが。

編集
おっさんたちの方が常軌を逸したひどさだからといって、それにひきかえ学生のほうはきちんと謝っていて誠実だ、よろしい、っていう意見は誤っていると思う。
あのような実際の行動について、たとえどんな説明をしようと――それが虚偽だとは思わないけれど――許されるべきではない。謝罪とかなんとか口で言うのはたやすいが(それすらしない人間が多いけれど)、極論すればそれはたった一日の苦痛でしかない。やられた側にもし後遺症がのこった場合、たとえン百万円の賠償金を払われたって、それで麻痺やしびれが消えるわけではなく、とりかえしがつかない。すくなくとも現状では、被害者はそのような不安のもとにあるはずだ。翻って、加害者はひと月後くらいにはどうせみんなから忘れられているだろうから、大手を振ってあのすばらしい大学のすばらしいキャンパスを闊歩することだって可能だ。また、クソ気持ち悪いナチス礼讃野郎からご指名なんかいただいちゃって、よかったよかったと笑みさえこぼしているかもしれない。もちろんこれは想像でしかないが。
驚いたのは、あの卑劣で理不尽な暴力行動を起こした人間に対して、意外にも寛容な人間が多いということだ。すごいな日本。五・一五事件の実行犯たちが、殺人をおかしたのにもかかわらず、世間の同情からごくごく軽い刑で出てきてしまったというエピソードを思い出す。この一連の結果がその後の日本に悪影響を与えたのは明らか。いっときの感情に流され短絡的な思考に直結してしまう人たちって、いつの時代もいるんだね。
指導者たちはあたりまえの話だが、こういう話は、「組織の論理」に流されてしまう実行犯たちに対しても厳しい目を向けるべき。日本には組織大好きな連中が多すぎて、そういうやつらが、いじめという名の暴力や、セクハラという名の性暴力などを、たとえ消極的ではあるのかもしれないが容認している。「いじめ/セクハラは悪いことだけど、でも被害者だって、そうされるだけの理由があるんだよね」みたいなゴキブリ並のたわごとをいうやつは少なくない。そういうのを見聞きするとき、もう無理するなよっていつも思う。無理して人間のマネをしなくていいんだよ、ゴキブリはゴキブリでしかないんだから、物事を考えているフリなんかしなくていいんだ。はい、フマキラー。
なーんか、学生のスポーツマンっていうのを世間が信用しすぎな気もする。爽やか? スポーツマンシップ? 人それぞれなんだろうけれど、僕は運動部の連中がひどいいじめをやっていたのを知っているから、とてもじゃないけれど「ああいう連中」って見方を変えたことがない。で、ああいう連中の行動規範が、やっぱり組織の論理だったりする。

あるひとつの事件に対して簡単に意見を言いたくなる場合、自分あるいは自分のとても親しい人間が被害者になった場合を想定しても同じことが言えるか、を自問すべきだ。全治三週間のケガを負わされたのは誰だったのか。
五・一五のとき、犬養毅の遺族が「わたしたちのほうが被害者なのに、世間からは冷たい目で見られた」という証言を残しているそうだ。また、当時、決行者たちの親を訪ね、「どのようにしてあのような立派な国士を育てることができたのか」というインタビュー記事がつくられたこともあったらしい。これらは、いまの時代から見れば、大本末転倒だということが火を見るより明らかではあるが、当時の世論というか一般庶民たちは大真面目だったに違いない。自らを無辜であると盲信する一般庶民たちは。
話はちょっとずれてしまうが、二・二六事件で殺された渡辺錠太郎という当時の陸軍教育総監がいる。その人の娘が渡辺和子といって、ノートルダム清心学園理事長になった。NHKラジオの「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス 声でつづる昭和人物史」という番組で、今年の2月に3回にわたって彼女の特集がされたのだが、二・二六事件当時、9歳だった彼女の証言が非常に生々しく、また、聴いていてつらいものだった。父錠太郎は、彼女の目の前で惨殺されたのである。
二・二六もやはりその後に政治へ大きな影響を与えたのは間違いないのだが、いっぽう、昭和天皇が大激怒したせいか五・一五のような「同情の声」で罪が軽減されるということはなかったようだ。しかしあの事件の根底にある、目的のためなら手段の如何を問わないという姿勢・思想は、現代にも一部引き継がれているようで、このあいだの自衛官が国会議員を「国民の敵だ」と罵倒したという問題を、心情は理解できるといってけっして少なくない人間が共感を示したようだが、愚かである。それは自分たちがてっきり「国民」の側にいると信じきっているという愚かしさでもあるし、上に書いたように、目的主義的な愚かしさでもある。
まあいい。大事なのは、二・二六事件という歴史的問題にわれわれ一般人が接するとき、青年将校側の思想背景であるとか、あるいは鎮圧した政治側の視点などで総括されてしまい、被害者または被害者の家族側の視点が忘れ去られてしまいがち、ということだ。われわれの多くは、加害者や、加害者を裁く側に回ることより、被害者になる蓋然性のほうが高い、ということを銘記しておかなければいけない。
テレビであの信じられないほどの醜態をさらしつづけるおっさんたち(非常にアクロバティックな擁護をすれば、加害者学生から目を逸らすために愚行を重ねている、と思えなくもないという予感がちらと頭をかすめるかどうか、というところ)を裁いたり加害者側に同情したりすることよりも、まずは被害者側への支援や寄り添いが重要。加害者側を「赦せる」と思うのは勝手だが、いづれにせよおまえは「赦す」主体ではないし、たとえそうであっても、加害者が罪を償い贖ったあとからでもじゅうぶん遅くはないはずだ。その時点までおまえがこの事件を憶えているとしたうえでの話だが。

コメント

編集
ちょっと前、数年ぶりに観た『相棒』がたまたまスペシャル回で、テロ対策防止法みたいなのをより強固にすべく、そのため平和ボケしとる日本国民にテロの恐ろしさを教えたる、というモチベーションで政治家とか官僚とかの有志がテロを起す、みたいなストーリーがあって、おいおい、『相棒』もしばらく観ないうちになかなかトンデモ系に行ってしまったんだね、と大笑いしたのだが、最近、うーん、なかなか示唆的だったのかもな、なんてことを考えている。

いろいろと書きたいことはあって、下書きを量産しているんだけど、書いている途中にくだらなくなって放り投げてしまう。政治の現状についてのことだが。
たった2年前の5月末、当時の都知事だった舛添についての世論調査(FNN・産経合同調べ)で、「辞めるべきだ」と答えたのは8割近くあったらしい。いや、わかるよ。なんかやってることが情けねーなと思った記憶はあるし(なお、上記リンクの産経記事で、こんな短い文章のなかでも民主党鳩山の普天間基地の県外移設案を「迷走」と評しているところに、忠臣ぶりを感じるよ)。
けれども、現政権の「やってること」のあまりにものひどさに対しては、ものすごい不感症なのね。NHKの最新(2018/5/15)の世論調査でも、内閣支持率38%不支持率44%という結果。僕の憶えているかぎり支持率は絶対に35%を割らないんだけど、これは、この世の終わりが来たってトランプを支持しつづけるアメリカ人たちと同種の人たちがいるのだろうと想像するしかない。それより、不支持率の低さよ。これまた毎回のことながら、すげーなと感嘆するよりない。舛添に対して持っていた峻烈さは、この2年のあいだにどうして失われてしまったのか。
ここ数ヶ月の国会のやりとりを、いくらかでも見聞きしたことがないのかな、と思う。生の動画や音声でなくても、適切なメディアのまとめた情報などに接したことがないのかな。
ある弁護士たちへ懲戒請求が大量に送られた問題で、あそこでもいわゆる「ネットDE真実」の人たちが言及されていたわけだけど、そういう人たちってほんとうにいる。僕もリアルで目撃したことがあるんだけど、ネトウヨだけかと思いきや、(比率はどうあれ)実は右も左もどっちともいるんだよねえ。
なお、件の事件は、最近の起こったことのなかでは快事・慶事に属するもので、当事者たる弁護士の方々の労力を考えると喜んでばかりはいられないのかもしれないが、下世話に言えば「釣られたバカども」に適正な罰が与えられるというのは、被告予定者たちがよく口にしているであろう自己責任論にもぴったり当てはまるので、やはり愉快。

政治ってのはリアルの日常会話の材料として採り上げられることは少ないはずだから、自然、ネットで情報や意見のやりとりを目にすることが多くなるのだろう。だからますます自分が望んだ情報ばかりを取りに行ってしまう。SNSなんかやっていたら独特の空気に当てられまくりになっちゃうんだろうな。
悪趣味なのだが、僕はあるグループのヲタクたち(数人程度)のツイッターアカウントを定期的に覗いている。そこでは、もちろんいろいろな価値観が存在しているのだが、なぜか民主党批判だけはコンセンサスになっていて、その流れなのかなんなのかはっきりとはわからないが、ふだん政治的なことに興味はなさそうだし実際にないのであろうアカウントたちが唐突に「現政権批判」批判をしたりするのにびっくりする。たとえば、産経新聞を朝日新聞の子会社かなにかだと勘違いしているようなアカウントが、である。
サンプルとしては誤差程度のものだろうからここからなにかを帰納することはできないだろうが、ただ、仕事もあって収入も一定以上あってネットリテラシーというものにそれほど欠如しているわけではなかろう三十代前後の人間の一部のあいだに流れる、けっこう偏った「空気感」みたいなものはなんとなく僕にも感じられる。彼らのなかでは、政権批判はダサいらしい。だから批判している連中を攻撃することになんの躊躇もない。
ツイッターのヘビーユーザーともなればネットに接している時間も長いはずで、そこで得られる情報が、最近よく耳にするエコーチェンバー現象だとかフィルターバブルの影響を受けないはずがないわけで、ゆっくりと、しかし着実に、ある何者かの予備軍になっているのかなという気はする。まあ知ったこっちゃないけれど。

話を戻すと、現政権への信じられないほどの寛容さは、人をひとり殺すと殺人罪で、大勢殺せば英雄だ、みたいなアイロニーを容易に想起させる。
一例を挙げれば、安倍夫婦という頭の足りないふたりの軽はずみな行為や厚意(?)によって引き起こされた身贔屓が大事となり、その結果、謝罪したり辞任したりするかと思いきや、国家全体でそれを隠蔽する方向に持っていくという、フィクションとしても「いやーさすがにそんなリアリティのないものはダメでしょ」と言われるレベルの事態になっているわけだが、これ、当人たちは当初ほんとうに「だいじょうぶでしょ、いけるでしょ」程度の認識だったのではないかと僕は思っている。
政治家の縁故主義というか癒着みたいなものは大なり小なりあるとして、それがいいわけでは絶対にないが、それ以上に一連の事件でおそろしいのは、政治家がその気になれば官僚のやっていることが全部見えなくなってしまう、ということで、国会答弁でお手軽に発せられる「記録がないためわからない」という意見を聴くたびに、気が遠くなる思いがする。この状態をよしとできる有権者たちは、ふだんどういう仕事をしているのかと不思議になる。タイムカードを打刻したり、セキュリティカードをセンサーにかざしたりして、自分の労働時間を証明したことはないのだろうか。
それでも、ところどころで水漏れしたように、内部からの告発というか文書の「発掘」が起こり、なんとかここまで来たが、それでもこの一年間、支持率は上がることがあっても35%を下回ることはほぼなかった。「日本スゴイ」系の意見ってほとんど与する気にならないものだが、すくなくともこの点においてはスゴイというほかない。

もうひとつスゴイこと。最近、裁量労働制はあっけなく終わってしまったが、高度プロフェッショナル制度をやり抜こうと政府が頑張っている。「安倍首相ガンバレ」レベルの頑張りではあるが。
この制度の欠陥点が、僕のなかではさんざんに指摘されているという認識なのだが、それでも支持率は上に書いた通りなのである。
いやあね、この法案(一括だけど)、もう通ればいいんじゃないかと思っているのよ。このあまりにもめちゃくちゃな法案が通って、「これでみんなの働き方が改革される」とピュアな瞳で信じ切っている人たちの思い通りにさせてやろう(使用者側はもちろん口元が緩むだけだが)。そりゃすぐに結果は出ないけれど、いづれひとりふたりと人死にが出るでしょうよ。それを過労死と認定されないおそれがある、という過労死遺族の方々の会見もあった。
ね? もうここまで言われているのに、それを看過するわけなんだから、もう成立させてもらおう。で、経団連はホワイトカラー・エグゼンプション制度の提案時(2005年)に年収下限を400万としているから、ちょっとしてからこの高プロ制度も適用拡大を図ってもらおう。そうなれば、より多くの労働者がこの制度のもとで、文字通り死ぬほど苦しむことになる。そりゃあ何万何十万という数ではないのかもしれない。数百人、せいぜいが数千人というところかもしれない。じゃあ、誰がその数百人になる?って話。あそこで人が死んだのもそうだ、ここで亡くなったのもそうだ、というようにいくつかの事件が報道され、そこでやっとピュアな人たち、あるいは「消極的に支持する」という態度で罪悪感を払拭させようとしている人たちも「やっぱりおかしいかも」と思い直すのかもしれない。
ちなみに、前述したように過労死扱いではなくなるかもしれないので、報道されない可能性だって充分にある。現厚労相の加藤が野村不動産社員の過労死をぎりぎりまで隠蔽しようとしたことを見れば、その可能性を排除することはできない。やろうと思えばいくらでもやれるんだよ、ということを悪い意味で証明しつづけているのが現政権で、その政権を4割弱が支持しているのがこの国なのだ。スゴイでしょ。
でもまあ、「やっぱりおかしいかも」と思うことで、やっと世間が変わるのかもしれない。悪法ということで法改正がなされ、元の状態に戻る。当たり前だけど、「元の状態」っていま現在のことだけどね。さあ、いまからよりひどい状況に自分たちを追い込んで行くぞー、と認識しているならいざ知らず、そんなこともわからない蒙昧なままの国民を、いったん地獄に落としてそこで労働問題の重要性をひとりひとりに理解してもらうのだ。安倍・加藤ほかデータを捏造までした厚労省のみなさん方は、実はそのような正義の炎を心に燃やす憂国の士たちなんですかね? 『相棒』に出てきたテロリストたちみたいに?
「仕事が忙しいから」っていう中学生でも猿でも思いつくような言い訳でいまの政治状況を無視していれば、その仕事がさらに忙しくなってしかも補償なしってことになりかねない、っていうものすごくできのいいブラックジョークが、ほんのちょっと先の未来でわれわれを待ち受けている。

常日頃、「民主主義社会であるという条件において」という保留をつけるが、為政者というのは国民と同じ顔をしている、と思っている。もちろん造作のことではない。小心で、頭の回転が悪く、非論理的で、自分が追及されるとすぐになにかの権威に頼って逃げたりしどろもどろになったりして、褒められるとすぐにのぼせあがり、貶されると真っ赤になって怒る。アレはまさにわれわれの鏡なのだ。ぼく/おれ/わたしは入っていない、と思いたいかもしれないが、そういう人たちも含めて、アレはわれわれの姿そのものだと思ったほうがいいのだろう、彼らが否定されていない現状を見るからに。

コメント

編集
あと一年で平成も終わるとか。元号も一緒にやめてほしい。
あと、不謹慎なので誰も言わないのかもしれないが、いまの天皇、退位前に死んでしまったらそれこそ世の中じゅう引っくり返って大騒ぎするだろうな。なんとかそれまではもってくれよ、っていう気持ちを持っていない宮内庁の人間はいまい。おくびにも出しやしない思いだろうが。

新元号とかほんとどうでもいいんだけど、けれど保守趣味の方々なんぞは死ぬほどありがたがるんだろうな。ご苦労なこって。
「いやね、このあいだ時間が空いてしまってね、そのときに新元号かんがえちゃったんですよ」
「なになに? そんなヒマあったの? こっちはセクハラとかなんだとかでひどく忙しかったってのに」
「だって、自分から騒ぎを大きくしたんじゃないの、あれって?」
「だってさ、あまりにもマスコミのやつらが生意気だから、なにか言ってやろうって思うじゃない? そうしたら、それでまたやつら騒ぐんだもん、嫌ンなっちゃうよ」
「わたしも、このところ突かれっぱなしでくさくさしててね、それで気晴らしを、と思って」
「で、なに考えついちゃったの?」
「わたしとね、あなたの苗字から一文字ずつ」
「やっちゃったの?」
「ええ、中国の古典から採るとか、もうそういうの面倒じゃない? 第一、中国ってのが気に食わないでしょう」
「おれも前からそう思ってた。支那のなんてイヤだよな」
「だから、もっとわかりやすいのが、きっと国民にも受け容れやすいかと思って」
「で、なににしたの?」
「『安心して生きられる時代』ということで、安生(あんせい)っていうのはどうでしょう?」
「お、いいね。グーじゃない」
「でしょう。誰もわれわれの苗字から採ったなんて気づかないだろうし」
「閣議決定すればだいじょうぶだろうしな」
「ね、これでいきましょうよ。歴史に名前残せますし」
「そうだよな。これくらいやってもらったってバチはあたらねえだろう」


まあ天皇関連のこととなると、すくなくともテレビは口をつぐんじゃうよね。NHKのラジオでまとめて秩父宮、高松宮、三笠宮のラジオ音源を解説とともに聴く機会があった(実際には何回にもわたって放送された)が、実に面白かった。インタビューのものもあったが、インタビュアーもけっこう気さくで、言葉遣いは丁寧だが、いまよりよっぽど距離感は近かったように思う。
反対に、いまは言葉遣いはちんぷんかんぷんで、そのかわり距離は天文学的に遠いものだととらえる層も少なくないようだ。ときどきではあるけれど、そんな原始的な脳味噌が羨ましいこともあるよね。世の中、さぞ単純に見えることでしょうよ。

コメント

編集
ニュースのいちいちを気にしていたら、無意識に「ksg(クソが)」とつぶやいてしまうことしばしばである昨今だが、ふと、このk→gあるいはs→zの関係が気になった。
日本人であれば、「か」と「が」、あるいは「さ」と「ざ」の関係をとても深いものだと理解していることが多いと思うのだが、アルファベットで表示したときの子音である「k」と「g」、あるいは「s」と「z」の関係って、発声学(?)的見地からすると、どうなんでしょう?
つまり、k→g / s→zの「→」にあたる処理を日本人は当然のように、「だから『゛(濁点)』がそうでしょ」と認識しているわけだけど、他の外国人たちは、kとg、sとzの関係をどう認識しているのだろうか?
なんとなく、と前置きするけれど、無声音であるkを有声音にすると、gになるっぽい気はする。同様に、sも声帯を震わせればzになりそうな気はするけれど、でも、濁点の有無の関係をあらかじめ知っているためにかなり恣意的な操作をしているようにも感じてしまう。
また、「は」→「ぱ」の問題もあるが、奈良時代だったかでは、p音が普通で、そこから半濁音が抜け落ちてh音になった、というのはなにかで読んだことがある。より詳細に言うと、pa, pi, pu, pe, poがfa, fi, fu, fe, foになって、そこからha, hi, fu, he, hoになったみたい。「ふ」の音にだけ、fが残っているという話。そこから考えると、「ぱ」→「は」と捉えたほうがより正確なのかもしれないけれど。
ちなみに、幼児の最初期の発声においては、b, m, pの破裂音が先行してなされるという。だから、幼児語にはこれらの音の組み合わせでできたものが多いのかと納得したことがある。「パパ」「ママ」「まんま」「ぽんぽん」「ぶーぶー」などなど。

日本語しか遣えないので日本語の常識をすべての言語のそれとついつい考えてしまうけれど、だいたいからして「母音」という言葉を聞いてそれが5つしかないものと思い浮かべてしまうのも、日本人ならではなのかも。他の言語では、曖昧母音や二重母音もあって、「あ・え・い・う・え・お・あ・お・あ・お」の練習は、日本人だけしかやらないのかも? 英語圏の人間たちからすれば、「なんで日本人はlとrの区別がつかないんだよ!」って不思議がっているのかもしれない。いやいや、それを言うなら、舌を前歯で挟む英語のthとか、フランス語のr音なんて、なんでわざわざそんな難しい発音すんのよっていう反論もあるよね。
それに、日本国内にしたって方言という問題もある。ほんらい話し言葉というものは、書かれることを企図して生まれたものではないためどうしても記述が追っつかず、言語化が難しい部分もあるということ。
ところが最近は、コミュニケーションのなかでウェブ上での表記がかなりのウェイトを占めるようになったために、「書き」先行ということも少なくなくなった。たとえば笑いを意味する語尾の「w」ってなんて読んでるの? 「ワラ」と読まれることが多いような気がするけれど、違う読み方あるのかな。
ちょいと昔でいえば「orz」とか「ノシ」とか、ずっとなんて読むかわからなかったし、そもそも意味もわからなかったからなあ。「おーず」とか「のし」と頭のなかで読んでいた。

ちょっと前に友人と話していて、そのうちSNSもタイプやフリック入力という形から音声認識入力が主流になるだろう、そうなった場合、発声することが躊躇われるような表現は廃れていくのだろうか、ということが話題になった。
いま現在のわれわれはある程度の「乖離」というものはすでに織り込み済みでウェブ上のやりとりをしている。たとえばツイッターなんかでの「え、ちょっと待って」という文章は、じゅうぶんに「待たれた」状態で入力されている。入力までの数秒~数分のタイムラグというのは、いわば「ないもの」という共通理解のもとでコミュニケーションをしているわけだが、音声入力が中心となっていくと、この誤差はより埋まっていくに違いない。よりリアルタイムで「ちょっと待って」という言葉が入力され、その言葉に実感がより伴うということになる。
でもその先に当然予想されるのは、認識→入力という技術革命だろう。頭に針をぶっ刺すなんていう野蛮な解決方法ではなく、「耳のちょっと上あたりに小さなパッドをぺたっと貼るだけであとは微弱な電波を読み取ってうんぬんかんぬん」というSF的ブラックボックス・テクノロジーによってわれわれは「入力」という煩瑣な作業から解放されるに違いない。しかしまあそんなことになったら(僕の生きているうちに実装されることはないんじゃないかと思っているけれど)、われわれのやることはより増えることになるだろうね。よっぽど慎重にならない限り、構造的に意見や考えを簡単に「漏洩」させてしまうことになるだろうから、その事後処理に余計に時間をとられそう。あるいは、発信する前の推敲にものすごく時間がかかってしまうとか。
もっとイヤな未来は、「電波を読み取って」までは同じだとして、あとは膨大なビッグデータから採取されたテンプレートにAIが自動的にマッチングしてくれる、なんて技術の発展。つまり、「あなたの考えはたぶん次の文章に近いものではないですか? 『このあいだの合コンでの印象がとてもよかったので、今度ふたりで食事に行ったりしませんか?』」という提案に「OK」をタップするだけの未来。
まあAIの話題には、最近のケンブリッジ・アナリティカの疑惑に見られるような無意識領域への操作みたいな問題が現在においてさえ顕在化しているくらいだから、将来においてはより深刻な問題を孕むことになるんじゃないでしょうかね。かいつまんで言ってしまえば、ディストピアですよ。まさしく、「クソが」って感じ。

コメント

編集
副題が「メルカトル鮎最後の事件」となっているが、れっきとしたデビュー作。じゃあなんで「最後の事件」なんだっていうツッコミは当然起こるし、また、そもそもメルカトル鮎っていうネーミングがなあ、っていうツッコミも。
こういう隙をあえて見せてくるタイプはたいてい手強く、実際、まあいろいろと衒学的な記述が出てくるのだが、しかし僕みたいに質の悪い読者ともなれば、「どうせこんな情報、殺人やトリックと関係ないんでしょ」とはじめから高をくくってしまい、ほとんどを本気にとらないために、書き手の熱意以外はあまり伝わらなかった。それは、執筆当時、若干21歳で現役大学生だった作者に相当失礼な部分もあったと思うのだが。

かつて読んだ『隻眼の少女』のように、本作も最後らへんで話がやたらとひっくり返る。ただ、かなり技巧的というかあざとい部分があるので、ひっくり返される快感および驚きがほとんどなかった。というか、警察が出入りするなか10人ほどが殺されているという状況を、まず飲み込むことはできなかったし、「もう誰が犯人でもいいし、誰が謎解きしてもいいよ」って感じだった。これは、僕のミステリ読みとしての熟度不足のせいか、はたまた、作者の描いたキャラクターの魅力不足のせいか、どっちのせいだろう。
けっきょくこの作品についても、悪い意味での箱庭的感覚と、僕自身のミステリへの適応能力不足とが味わわれ、いまさらながら「なんかミステリが性に合っていないのかも」とちょっと自信をなくしてしまうほど。作者の労苦はよくよくわかっているつもりなのだが……たのしくないんだよねえ。

まあ、かなり当たりが少ないってことを実感しているため、しばらく麻耶作品は読まなくてもいいかな。

コメント

編集
たしか先週の金曜に佐川の辞職騒ぎがあって、「ああ、やっぱり金曜にするんだなあ」と思っていたら、すぐあとに読売と、日曜あたりにNHKが世論調査(こっちは確実に3/9~3/11が調査期間だったことを記憶している)の結果を出していて、なんで月曜以降(もっといえば火曜以降)にしないのかなあ、と思ったことを憶えている。土日のニュースにかじりつく、というよりはウィークデイにニュースを確認する、という人のほうが相対的に多いだろうに。
ネットの低脳連中が口汚くマスゴミと罵る対象に、フジもNHKも含まれていたりするが、これがふしぎ。いや、ここらへんはけっこういいアシストしているほうでしょ、むしろっていうね。
とにかく、上記NHKの調査で、「支持する」がまだ48%もいて、その半数近くが「ほかにいないから」をその理由として挙げていた。たぶんこれらの人たち(世の25%の人たち)は、他の候補者たちを綿密にリストアップ&チェックした挙げ句、「いやあ、やっぱり安倍さんしかいないなあ」という結論を得ているのだろう。いや、立派立派。僕のようにまったく怠惰でニュースにも疎く、性悪説を採っているという低能人間からすれば、いまの政権が一年間やってきた国会での振る舞いは、低劣で下劣で卑劣なものとしか見ることができなかったが、それは僕の「節穴」から見るごく狭い世界の話であって、世の炯眼の持ち主たちは、いろいろと見比べた結果、内閣が、ひいては与党が間違ったことを言うわけがないと確信しておられるわけだ。その眼力および寛大な心につくづく感服するわけだが、考えてみればそれくらいの寛容な精神を持っていなければ、7キロの窓や30キロのドアを落とす米軍ヘリを簡単に赦すことはできまいて。ただ一点だけ不思議なのが、それだけモノを落としている連中をいともたやすく見逃すのに、とりあえずはまだ一度も落としていないどこかのミサイルだけは異様におそれて周りに警戒を促すところ。南北の接触および米朝会談(実現するかどうか不透明だけれど)の報に接してこれまた僕なんかは、ほうれやっぱり蚊帳の外じゃんかと早計に思ってしまったのだが、世のご勉強なさっている方々は「ニッポンの強い立場」をいまだ強く信じておられ、「北」に対してなにかできるとこれまたいまだに強く信じておられるのだろう。この力強い忍耐力にも感心する次第である。
なお、「人が死んでるんだぞ」で進ませる議論はあまりよくないと思う。品がないとかそういうことではなく、いつ逆手にとられるかわからない手法だから、という点で。

コメント

編集
今回、意図的にほとんど観なかった五輪関係のニュースだが、ああいう盛り上がりがあると必ず裏で、というか国会で、なにがおこなわれているのかということが報道されなくなってしまう。たまたまNHKのプライムタイムのニュースを見ようとしたら、並んだヘッドラインがすべてオリンピック関係だったので、いくらなんでもひどいと思い、電源を消したことがあった。
羽生結弦とか藤井聡太とかカーリング女子とか、そういう誰からも批判が出てこない人気者たちを大きな看板に仕立ててその後ろでこそこそとなにかを通そうとしたんだけど、今回はあまりにもずさんなモノを土台にしようとしたから失敗した。でも、あのずさんさっていうのは、厚労省サイドの意趣返しみたいな意味合いもあったのかも。厚労側に立てば、長時間労働が増えるほうがデメリットなわけで企業側の言い分を聞き入れたいわけがないんだけど、それが政府の圧でとりあえず外形的にでも従うふりをして、法案が通ったら通ったで覚えがめでたくなるし、失敗すれば失敗したで「元からやりたくなかったからねー」という仕返しが成立するというような、そういう”どっちに行ってもアリ”という方法を採ったのでは?
なんてことを考えていたら、予想通り国民栄誉賞のニュース。さーて、「みんなだいすき」な東京五輪ではどんなことが決定しちまうんでしょうかね。個人的には、バカ騒ぎの裏でこんなバカげたことが決定された、と後世に大批判されるようなことが起こることを期待している。

コメント

編集
2018年2月24日は忘れられない日となった。正確には忘れられない夜となった。

あの夜、少なくない人たちが彼女たちの最高のパフォーマンスを観ていた。彼女たちの一挙手一投足に釘付けとなり、一瞬一瞬を見逃さないよう全身すべてを目にしていたはずだ。
その人たちの多くは、彼女たちを応援していた。応援しているつもりだった。けれども僕は、その応援という言葉に一種の虚しさを覚えながらPCのモニターを凝視していた。
彼女たちの4年間について、僕たちはいったいなにを知っているのだろうか。その疑念を頭からどうしても払拭できないのだった。
4年間、そこにはきっと”われわれの知らない物語”があったに違いない。彼女たちがそれぞれに抱えていた孤独や悔しさや辛さを僕たちは知らない。それにもかかわらず、最後の最後の瞬間が近づいたことによって勝手に感動を覚え、大きな熱狂の流れにタダ乗りしていただけではないか。
僕はきちんとしたファンであったのだろうか。ほんとうに短い期間を、ただミーハー的に騒いでいただけなのではないか。それを応援だなんて、僕には口が裂けても言えない。

「感動をありがとう」なんて言葉が、やっぱりその夜も飛び交っていたようだった。考えすぎなのかもしれないが、そのような言葉は、彼女たちの偉大な達成を矮小化させるような気がする。僕たちはけっして対等の位置に立っていないから。
ついつい勘違いしてしまいがちだが、彼女たちは僕らの思っているよりもっと高いところにいる。なにもできない僕――「応援している」ことがなにかの役に立っているはずだ、なんてことを自分で思えるほどおこがましくはなっていない、幸いにも――に対して、彼女たちはただただいろいろなものを与えてくれた。その「いろいろ」なもののなかに、「感動」はない。感動というのは、僕のなかに生起されるものであって、彼女たちが直接与えてくれたものではない。
その自己発生的なものについてありがとうと言うことは的外れというか、力点がむしろ「感動した自分」にあるようでいて気に食わない。どうしても言いたいのであれば、ただ「感動した」でいいではないか。
だが、そんなふうに思いながらも、やっぱり彼女たちに感謝の念がないわけがない。彼女たちの存在がどれほど毎日に輝きを与えてくれたことか。繰り返しになってしまうが、それはけっして長い期間ではなく、いまから振り返れば、ほんのちょっとのあいだのことだった。彼女たちになにか伝えることができるのであれば、やはりそれは「ありがとう」という言葉しかないのかもしれない。

そして、すべては終わった。あの昂揚はほとんど去りつつあり、いまはさみしい思いにひたすら沈み込んでいる。
さようならが上手ではない僕は、心のなかにぽっかりと穴が開いたのをたしかに感じていて、ふと思い浮かんだメロディなどを口ずさんでは胸苦しい思いにとらわれ、そんなことを日がな繰り返している。
彼女たちがあれほど昂奮やたのしさ、幸福感を与えてくれたというのに、僕は子どものようにめそめそしている。たぶんその「さみしさ」も僕の心のなかに生起したもので、彼女たちが直接与えたものではない。

彼女たちの名前はアイドルネッサンス。活動期間は2014年5月4日から2018年2月24日のたった4年間。
その最後の日は忘れられない日となった。正確には忘れられない夜となった。
そのとき、おそらく多くの日本人はまったく別のものに熱狂し、感動していたのだろう(むしろ僕はそれを知らない)が、そのほぼ同時刻に日本の片隅で、すばらしいアイドルグループがその歴史に幕を下ろしていたのだ。
『君の知らない物語』 - アイドルネッサンス
それは、まったくもって君の知らない物語なのかもしれない。
でも、知らない人たちは知らない人たちでもしかしたら幸せなのだと考えることもできる、こんなにも苦しい思いをせずに済むのだから。僕は僕で、「誰かの存在を特別に思っていたことに、あとから気づく」なんていう経験をまたできるとはまさか思っていなかった。間違いなく彼女たちは僕にとって特別な存在になっていて、彼女たちがもういないのだという現実にいまだに戸惑っている。
なお、僕がこの歌でいちばん好きな歌詞はここだ。
強がる私は臆病で
興味がないようなふりをしてた
だけど
胸を刺す痛みは増してく
ああそうか 好きになるって
こういう事なんだね
思えば彼女たちのカバーした数々の歌が、いろいろなことに共鳴している。上掲MVにしたって、まるで彼女たちの未来を予見していたかのようだし、彼女たちのオリジナル曲『前髪』(小出祐介による作詞作曲)には、
失った魔法のこと 消えてしまった光のこと
愛おしく思っても 何もあきらめないで
とか、
きこえなくなった音 もう会えなくなった子のこと
さみしく思っても 何もあきらめないで
なんていう歌詞まである。
実際に小出自身が、ナタリーの対談(ちなみに、この対談そのものがすばらしい内容となっている)において、アイドルを辞めたあとの彼女たちに「意味が出てくる曲になってくれればいい」という思いで同曲をつくったと語っている。ということは反対に、この対談の段階、すなわちはじめてのオリジナル曲を製作していた段階ですでに彼は、彼女たちのアイドルとしての存在の「向こう側」を意識していたということになる。
ずっとカバーだけを唄っていたグループがはじめてオリジナル曲をつくることになった、というのは明らかに上位ステージにあがったということで、終わりどころか、まさにこれから勢いをつけていくところだというのに、彼はその先の先、つまりアイドルとしての結末のその先を想像していたことになるのだ。
実をいえば僕も、ずっとつづいていくアイドルネッサンスというものがなかなか想像できなかった。消極的な意味においてすぐに売れなくなって終わるだろうなんていう予測ではけっしてない。それとはまったく反対の、こんなに最高のものがずっとつづいていくなんてことはとうてい想像できない、という自己防衛的な感慨だ。そんな「備え」をしていたはずなのに、そしてほぼひと月前には偉そうなことを言っていたのに、いま、僕はみっともないほどにおたおたしている。

もう繰り言はやめよう。
どうあれ、彼女たちのパフォーマンスや歌の一部は形を残すことになったのだ。それはつまり、後世の人間が、この時代を振り返ってすばらしいグループがあったということに絶対に気づくはずだということを意味する。評判が評判を呼び、ちょっとしたブームにさえなるかもしれない。当事者たちや熱烈なファンにとってはずいぶんとバカにしたブームで、なんにせよ、なにもかもが遅すぎるのだ。
しかしそれでも僕は、その最後の夜のことをやっぱり思い出す。現場にはいなかったけれども、PCのモニターを凝視して一曲一曲を、胸を詰まらせて視聴したことを思い出す。日本の片隅で、すばらしいアイドルグループがその歴史に幕を下ろしていた夜のことを。

コメント

このページのトップヘ