とはいえ、わからないでもない

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きっと麻耶雄嵩の作品ってのは、「これはあのトリックのアンチテーゼだな」なんてことを察せられるミステリ素養と、「ハッハッハッ」と笑い飛ばせるような大きな度量がないとダメなんだろう。
ちょっとしか読んでいないが、清涼院流水のトンデモと言ってもあながち言い過ぎではない作品(犯人は誰でもいい、みたいな結論のもたしかあった)はまったく受け容れられるというのに、麻耶になるとちょっと辛い、というのは好悪の問題なのかなとも思う。
清涼院のほうはキャラクターがめちゃくちゃ立っている(正確にはキャラクターの「設定」が立っている)けれど、麻耶のほうはそれすらもなく、文章もどうでもいいレベルだし、笑うこともできなければ相当な苦行にもなってしまうし、実際なりかけていたのだが、ただ、この短篇集のなかにひとつだけ叙述トリックで驚かされたものがあったので、「最悪」という評価はしなくて済んだ。
そのやり方がフェアとかアンフェアだとかいうのはもう二の次で、目新しさを獲得できればとりあえず元はとれたという気がした。最後の数ページで読者を「えっ、えっ、えっ?」とびっくりさせるために、作者はあの手この手をいろいろとひねくりだしたんだろうなと考えると、そこに敬意の萌芽のようなものを感じざるを得ないしね。
なお、この作品(と他の作品とのミックス?)はテレビドラマ化されたらしい。観ていないで言うのもなんだが、絶対成功しなかっただろうなって思う。テレビドラマ業界、そんなにネタがないのかね?

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図書館の優れているのは、いまでは本屋に並んでいない小説を簡単に手に取ることができるところ。
源氏鶏太って名前は聞いたことがあったけれど、いまは昔の人だよねえ、というつもりだったが、どこかの出版社が復刻していた気もする。そういえば獅子文六も最近ちくまが復刊していたっけ?
とにかくサラリーマン小説として有名な作家だそうだが、この小説はタイトルどおり、漱石『坊っちゃん』のストーリーにその骨格をなぞらえている。
なので、文庫本の後ろに書かれたあらすじにある「痛快小説」という説明は、本家と同様、いまいち当たらない。痛快な部分はあるにはあるのだが、それが最終的に苦さをともなって終わる、というところまでがひとつのセットになっているから。

読み始めは、なんともつまらん、という感想しか生まれなかったが、次第になんとか体裁をなしていくというか、こちらの感情もやや乗ってくるところがあり、とりあえず最後まで辿りつけた。
昭和二十年代半ばごろ、大学を出た青年が就職早々に田舎の工場に出向となる。東京の人間らしく主人公は田舎での日常をただでさえ面白く思わず、そこへ来てホワイトカラー特有(?)の組織内処世術のあれこれに嫌気を覚える。そこでまあてんやわんやの大騒ぎをするのだが、登場人物も意外に多く、それらが適度に、というかほとんど戯画化された造形をもってあらわれるので、飽きないようにはなっている。
しかし、なにしろ主人公が女性にモテすぎなのがこの小説のいちばんの瑕疵だ。また、腕っ節も立つときている。この二点が漱石『坊っちゃん』の「おれ」にはなかったところで、僕も読んでいて、ご都合主義にもほどがある、と鼻息を荒くしたものだ。
特にモテる部分。いまのマンガやアニメでいうハーレムものというか、主人公の男がやたらと多くの女性キャラにちやほやされるというジャンルがあるが、その源流ともいえるような(すくなくとも上流であろう。古くは西鶴とか?)設定で、こういうものがウケる素地みたいなものはいまも昔も変わらないのかなあとも思った。

ちょっと話題は逸れるかもしれないが。去年の秋、小沢昭一のCDボックス10枚組というものをまとめて聴いていた。全体的にいえば話芸とすれば超がつく一流で耳に流しているだけでも非常に心地よかったのであるが、けれど一点だけ、なかなか手放しで喜べなかったのがいわゆるお色気話に属するものが多かったところで、「一皮剥けば男も女も好き者ですよね。ねえ旦那! そうでしょ奥さん?」みたいな価値観で語られ、そしてそれらが当時は(?)広く受け容れられていたのであろうが、これが聴いていてなかなか辛いのである。なお、「すじがき」は小沢本人がつくっているものではない。
林家じゃないけれど、下ネタと楽屋オチってのは僕のなかでは芸として認めたくないところがあって、小沢昭一はたいへんすばらしい芸人だし、その考え方にも非常に同意するところは多いのだけれど、その「下ネタ多し」の点だけは非常に聴き心地が悪かった。
ここ数年、関西のローカルAMラジオを聴かなくなったのも、ほかに聴くものが増えたということもあるけれど、それ以上に下ネタが多すぎるってのが理由だ。なーんか、いやなんだよね。
「ハーレムもの」についてだって、結局はそれに付随するエロシーンがウリなわけであって、そういうのって急激に醒めてしまう。「下ネタは万国共通だから」みたいなことを言う芸人がときどきいたりするけれど、自分の無芸を棚に上げてなに言ってんだって思う。落語の艶笑噺はまあ笑えるものもあるけれど、あれもまたそれだけしか演らない人間に名人はいないでしょ。
「万国共通」で思い出したけれど、あのクソ漫画『こち亀』にもそんなことが書かれていた気がする。あのマンガは、当初は括弧つきの「女子供」を見下して、趣味(プラモとかサバイバルゲームとか)に走るのが男の道よ、という括弧つきの「硬派」なギャグ漫画だったのにも関わらず、長期連載がつづくようになってから、転向。やたらと女性キャラが出てくるようにもなったし、それに、当初はバカにしていた関西がいつのまにか一目置かれるような存在に変わっており、しんそこ八方美人マンガになってしまったんだよな。

『坊っちゃん社員』のほうに話を戻すと、主人公がやけにモテるという部分が描かれるのはやっぱり読者にそういう設定なり展開なりを喜ぶ向きが多かったからではないか。モテりゃその先があって……ムフフと読者が先を読んでくれるだろう、そういう目算があったのではないか。そういう底意が見えるようで情けなくなってしまうのである。
ただ、会社に隠れて取引先からマージンを取っていたという男が、その責を負って辞めさせられたときの顛末などにはなかなかにリアルと思われる点もあって、カリカチュアライズされたなかにも、本音をすこし加味しているようで、ゆえに多くの読者を得た(?)のではないだろうか。

まあ最終的には章題にもあるように「青春悔多し」といった展開になる。
はっきり言って青年は敗北するわけだが、その敗北感はなにも青年だけにではなく、当時のサラリーマン社会全体がなんとなく担っていたものなのかもしれない。
作者は本家『坊っちゃん』の「おれ」のような無鉄砲な人間を(当時の)現代に呼び戻し、くさくさするような因果なその稼業を一時的にでも破茶目茶に掻き回そうとしたのではないか、読んだ人たちの一服の清涼剤となるように。
ただし、総体の感想としては、二十一世紀となった現代で風俗的資料価値を認めない限りは、あまり読む必要のない小説だと思う。だからといって、図書館の書架からはずされる必要もないと思うが。

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前の記事とはあえて独立して書く。
当該書には、自殺未遂に至った経緯として、自分を特別な存在と考えて、それが実現されないことへのフラストレーションからそうなった(かなり簡略しているけれど)、という人が登場していた。
また、著者自身は「表現者」としての自負があったみたいで(彼は自殺未遂は起こしていなかったはず)、また、親の遺体の前で笑ったという女子高生も、表現に興味があって、みたいな記述があった。はっきり言ってしまうと、こういうくその役にも立たない自意識を自分でコントロールできない人たちにわざわざ近寄りたいと思わないのだ。当然、興味も湧かない。

ちょっと曖昧に書くのだけれど、自意識の暴走からいろいろなものが手詰まりになってしまって心身不調を起こしていた人を近くで見ていたことがある。そのときは、話を徹底して聞いてみたり、あるいはアドバイスしたりしてみたんだけど、その人自身が閉じてしまっているというか自分の信じ込んでいるループの中から出て来ようとはしなかった。そこで僕も閉じてしまって、いやいや、家族でも友だちでもないんだし、もう放っておいていいだろうという気持ちになった。というか、友だちでも限度がある。その人が自分のなかにとことん沈み込んでいるのであれば、おれだっておれの好悪にとことん沈み込んでしまおうと考えてしまうと、結局突き放すしかない。それを諦めずに何年もかかって彼/彼女を救うことができた、みたいな話は他人から聴けば美談かもしれないけれど、僕の場合は、僕自身が自己中心的にできているので、他人のために自分の人生を費やすみたいなことはとうていできなかった。その人間にかつて救われたことがある、というのであれば話は別だけれど。

『自殺』の作者は、恋愛関係もめちゃくちゃだ。結婚しながら愛人関係をいくつも(!)持っていて、そのうちひとりは自殺未遂して重傷を負ったりしているようだ。作者はそれを心の底から反省しているみたいなのだが、そういう反省をしたとかどうとかは別に、こういう人たちっていうのは、自分を「弱い」とか「不器用だ」とかいうことを言い訳にして周囲を傷つけまわる人間だと僕は思っているので、いま現在は幸福みたいだけれど、いつ破壊マシーンに変容するかわからない。言い方は悪いが、そういう症状を起す病気を持っているのだと考えている。
そういう人が、他人の自殺を止めるために本を書く、というのはたぶん嘘偽りのない本心からのことで、それはそれでいいことだと思うが、それによって救われるのは、もしかしたら同じ症状を抱えた人たちだけなのではないか、とも思ってしまう。同病相憐れむというか。
また、かなり深刻に自殺をしようかどうか迷っている、という人はこのような本を読んで「当たるも八卦当たらぬも八卦」に賭けるよりは、心療内科なり精神科なりに行ってきちんと治療を心がけるほうがよっぽどよいのではないだろうか。素人の体験記みたいなのを読んで「救われた!」みたいに思える人は、それほどシリアスな状況じゃないのかもしれないし、そういう人だって、医療にかかることが悪いことだとは思えない。たぶん医療従事者のほうが数多くの人を診ているはずで、そういう人たちの知見やアドヴァイスはバカにしたものではないはずだ。
専門家を頼るのがいちばんの近道で、素人のもっともらしいご託宣(「おれ/わたしのときはこうだった」話)を盲信するのがたぶんいちばんの遠回りだと思う。でも、だいたい逆を選びがちなんだよね。

人ってわりと簡単に死ぬことを考えがちだと思う。それは上から下までっていう言い方はおかしいかもしれないが、さまざまな理由から「もういいや」っていう気持ちにすぐ振れてしまうものなのではないか。
そういう「病んでいる」状態を誇る人たちっていうのが昔からいて、僕はそういうのが大っ嫌いなんだよなあ。嫌いだと言うと、それは強いからだ、みたいな批判がそういう自称弱者さんたちから返ってくるのだけれど、じゃあ反対に訊きたくなるのは、(僕のことではないけれど)死にたいという気持ちを振り切って社会に勇気をもって関わっていく人たちの大変さ・苦労ってものを斟酌したことはあるのか、ということだ。
たとえば、自分は不器用なのだ、とか、人見知りするので、というのを言い訳にしていつまでも黙っている人たち(このあいだの場面緘黙であるとか吃音症の人たち、あるいは失語症だってあるだろうけれど、そういう人たちのことではもちろんない)は、けっきょく誰かが話しかけてくれるのを待っているわけだけど、その話しかけてくれる誰かっていうのは、「いつまでもしゃべり始めない人たちに対して話したくてたまらない人」とは限らない。その人たちだって、ほんとは話しかけてくれたらそれに越したことはないとは思っているのだけれど、それだといつまでも事が進まないので、その人たちなりの勇気を振り絞って話しかけてくれているのかもしれない。
自分はつまらないやつだ、という自己嫌悪に陥っていると、他者の大変さまでは見えなくなって、あるいは見えたとしても、その大変さ・苦労を比較して自分の自己嫌悪のスパイラルをより深めていくというだけで、まあ結局は自己中心になるだけなのだ。そういう人が「もういい! 死にたい!」と思っているのを、僕は無理に止めようとは思えないんだよな。めちゃくちゃ迷惑になる死に方さえしなければ、どうぞお気の済むままにすればよろしいのでは?と思ってしまう。

『自殺』の作者であるスエイさんは、いまはもう鬱から抜け出て幸せを感じているのだと思う。不倫の末の結婚もうまくいっているようで、そりゃよかったですねと思う。
本をひとつの区切りとして読んでしまうと、「作者はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」というふうについ感じてしまうが、これで終わりだというのでは予定調和で面白くないでしょ。「表現者」や「特別な人」たちには、やっぱり特別な展開がふさわしいと思うんだ。
僕がストーリーをつくるのであれば、自殺に失敗して一生癒えることのない傷を負ったという昔の愛人がここでやってきて、「幸せなふたり」に刃物を振りかざすっていうのはどうだろう。
冗談じゃねえやな。好き勝手やったあげく、やっぱりてめえ勝手で後悔して悪かったって泣いて反省して、それから改心して幸せになって、誰かの救いになれれば、だなんて。あんたに不幸にされたわたしはどうなんだよ。このわたしを救ったのかよ、あんたは。このわたしの憎しみをあんたは受け止める必要があるんだ。この憎しみは愛なんだ。愛を受け止めろよ。死ぬほどの愛だ。
こんな台詞はどうかな。陳腐だねえ。月並だねえ。心底凡庸だ。けれども、安っぽい台詞で因果の輪が閉じるのなら、それこそ予定調和で、同じ予定調和ならバッドエンディングも悪くないでしょ。
もちろんふたりのあいだになにがあったか全然わからないし上の「台詞」はフィクションでしかない。しかし僕は、愛人とのやりとり、つまり個人間のプライバシーを勝手に書き晒している部分を読んでいて、腹が立って仕方なかった。こういうことを藝術だと称していとも簡単にやってしまう連中がいつの時代もいて、僕はそういう人間をクズとしか思えない。
この本を褒める人間は、その自殺に失敗した人がいまどういう気持ちでいるのかということを少しでも考えたことがあるのだろうか。そういうことを、少なくとも本の中では忘れたふり(いまどうなっているかまでは書いていなかった)をしている作者と同様に、賞賛者たちも気がつかないふりをしつづけていられるものなのだろうか。
本に書き残した以上は忘れているわけはなく、もちろん悔いているであろう作者のその悔いは、簡単に言ってみれば自己満足でしかない。「表現」という名を騙ったそのちんけな自慰行為と、(もしあるとするならば、だが)相手に残っている復讐心とはまったく無関係・別問題であって、その報復行為がたとえどんなものでも成就すればいいと僕は思っている。そういう連環が完成したときこそ、本当の作品となるんじゃないですかねえ。凡庸なおれはそう考えるのだ。

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うーん、めちゃくちゃつまらないというのが率直な感想。
いろいろなところで称讃されているのを目にしたような気がして、ついに購入し読んでみたのだけれど、いまの時代で金を払って読むようなものなのかは甚だ疑問。この手のものは(という言い方はひどいかもしれないけれど、実際そう感じた)ネットで探していけばいくつも辿りつけるようなものなのではないか、個人ブログ等で。

文章は平易であるが、その背景にある思考の骨格みたいなものも、また平易に感じられる。平易だから悪いということではなく、書かれていること以外に書かれていない、ということに不満を感じている。
書かれていること以外になにかを感じたり読み取ったりすることが文章のたのしみであるとするならば、ここにその余地や余白みたいなものは受け取れなかった(断っておくが、より複雑であればいいという難解至上主義ではけっしてない)。哲学や文学じゃないんだから、といわれればそれまでだけど、よろしい、それじゃあなに? エッセイ? 日記?

私小説のように、実在の人物が幾人も登場し、なかには悲惨な自殺の場面なども描かれてはいるので、簡単に切り捨てるのが忍ばれる気もするが、いちおう著作物だし、対価は払っているのだからあえて書くと、好みとして、まずここに描かれているような人たちが好きではないということに尽きるのかもしれない。
それは、僕がイヤな人間で、子どもじみていて、狭量だということに大きく起因するのだろうけれど、好きではない人たちの自己肯定観というものは、否定することはしないけれど、肯定も、また共感もできないので、「ふうん」で終わってしまう。
たとえば自分の両親が心中した女子高生がその遺体の前で笑っていた、という体験談が出てくるが、それについては、ああ、それってこれこれこういう理由があっての反応なのかな、ということくらいは考えたりするけれど、不謹慎だ、とは思わない。しかし不謹慎と思わないと同時に、肯定もできない。めんどくせえな、ってのが偽りない本音だ。僕は、そういう感じの言動を見聞きすると、「嫌い」とか「むかつく」などと思うのではなく、めんどくせえと思うのだ。排除するわけでもないから、否定しているわけではない。ただ、めんどくせえから好きになれないと思うだけで。

だから、価値観がまったく違うところで生きている人たちが、自殺せずに頑張って生きていこうとするのは、他人事として、いいんじゃないでしょうか、と思うだけ。また、「ほんとうに死ぬ!」となったって、それはそれで、ま、いいんじゃないでしょうか、と思うだけ(ただしこれは突き放しているわけではなく、自殺したいと思っている人が死ねたというのはある意味で希望を実現できたことなんだから、そこを否定したくないとは思っていて、その点だけは著者と意見が一致する)。
お互いがお互いに関心ないんですから、好き好きにやっていきましょうよ、というのが読後の感想かな。それが、「自殺」というタイトルの本を読んだ感想だとしたら、さみしいもんだよな。つまり、それくらい、得るものがなかったってことになるわけだけど。

【2018/2/2追記】
補足記事を書いた。

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役者はいい。
西郷役の鈴木亮平は、いまの若い人にはあまりない柄の大きな芝居を期待しているし、実際いい。ここはだいたいこういうくらいの芝居だよな、とこちらが想定しているものの1.5倍くらいの熱量で演じてくれたりするもんだから(調所に直接たのみこんだところとか)、思わぬところでじいんとしてしまったりする。
大久保役の瑛太も、とても爽やかで、鈴木との対比も鮮やかでよい配役だと思う。
そして、同郷幼馴染組に、わが北村有起哉が出演していて、これだけでメシが喰えるよ! あと、高橋光臣な。これも、嬉しい。
ナレーションに西田敏行がいると思ったら(ただし、声だけで聴くとまるで「老人」だ)、斉彬の先代を鹿賀丈史がやっている。翔ぶが如く!
なお、西郷親父が風間杜夫なら、大久保親父が平田満ってのは、もはやギャグだな。
斉彬の渡辺謙がいいのはわかりきっていることだったが、しかしこうやってあらためて観ると、渡辺は、その迫力のある芝居と同時に、軽みも見せられることができて、そこらへんのコントラストが実にうまいと感心する。たとえば調所広郷に、「おまえは藩の500万の借金を返して、そのうえ100万ほど儲けて懐に入れたそうではないか」と重々しく伝えたあと、「それをちょっとわしに貸してくれんか」と軽く頼み込むところとか、または、最新回の最後あたり、馬上から笠をちょいとあげて「新しい藩主の顏はこうだ」と馬の周りに集まった子どもたちに自分の顔を見せるところとか。
その斉彬の異母弟を青木崇高が演じていることも、嬉しい。現在の青木の役はひ弱で頼りないボンボン息子だが、実母と親父がむりやり隠居させられたことで豹変し、残忍な性格となって斉彬と対決する、みたいな展開になったら、もっと嬉しい。史実をまったく知らないので、勝手な予想なのだが。
黒木華については、僕のなかで「時代劇の黒木華ちゃんかわいすぎるだろ問題」があるので、演技の上手下手はハッキリ言って論じられない。あと、西郷家には桜庭ななみがいるんだぜー。僕は一発で気づいたけどね!

……ただ、ちゃべえ感じがするのよ、最近は。
いかに「ドラマ」とはいえ、ロシアンルーレットはないだろ。これで、「林真理子原作」という言葉にまつわりついていた嫌な予感が、いよいよ本物であることが証明された。脚本家はまた別にいるが(中園ミホは『花子とアン』で知っている)、これはかなり原作がひどいのではないかと確信させてくれた。
鹿賀丈史の斉興が、老中の隠居勧告に対してあれだけ老獪に突っぱね、「お、こいつはなかなか骨があるな、おもしろい」と思わせてくれたのに、いざ息子と対峙となったらロシアンルーレットにビビっておしまいっていう筋は、なにか別のヤクザ映画でもつくるときにやってください。わざわざ歴史ものでやる必要はないだろうに。
僕は、斉彬が43歳になるまで藩主となれなかった、というような史実をまったく知らなかったので、斉興・斉彬の対決はものすごくたのしみにしていたのだ。
それが、あんなふうに安っぽいドラマ的演出で解決されてしまうだなんて、ほんとがっかりした。ま、このあとも斉興は出てくるのかもしれないけれど。
そうなるとだな、いろいろな点がやっぱり気になってくる。観ている瞬間に「ん?」と引っ掛かりはするのだが、すぐさま「いやいや、気のせいだろう」と自分で打ち消していた疑問がけっこうあるのだ。
まず第四回だけに限っていえば、遠島扱いとなる平田満が、風間杜夫と相撲をとるところ。ここが、ちょっとちゃばい。平田の奥さんの泣いている姿は真に迫っていたのだが、松坂慶子がなあ……。
松坂慶子は、どこへ行っても松坂慶子の芝居をしていて、彼女が平田に声援を送ろうとも、そこに寂しさや悲しさみたいなものはまったく感じられなかったので、相撲そのもののちゃばさが際立ってしまったのだ。「ちゃばい」ってのは、「茶番でヤバい」っていう造語ね。
ほんと、もったいないと思うのだ。せっかく、風間杜夫は前回、鈴木亮平との面白親子っぷりを好演していたのに(それが赤山切腹のシリアスさとうまく対照的だった)、そういう悲喜劇のうまいバランスが、ああいう安っぽい演出(とひとりの演技)によってもう一段低いところに落ちてしまうんだよなあ……。
あと、やはり最後あたりに、斉彬が凱旋してくるところで、藩のみなが諸手を挙げて大歓迎している、というようなシーン。
こんなこと、実際にあったのかね、ということではなく、そんなに単純なのかなあというのが率直な感想。
43歳まで藩の実権を握れなかった人物が、退けたとはいえ存命している父の影響がまだ残っているであろう城中で、着任したと同時に好き放題ふるまえるなんてことが想像できないんだよな。
民たちはそういう政治的なことはまったくわからず、ただ斉彬が来たことによって薩摩が変わるということを期待してあのような大歓声をあげた、みたいな見方もできるかもしれないけれど、それこそ、民衆をバカにしているような。
むしろ、斉興の息のかかった者たちがまだ大勢いるであろうし、斉彬が実際どれだけできるかわからないから、とりあえずは静観するという態度をとったのではないか。ひたすら平伏し、そのなかで一部の武士たち――迫害されていた組であろう――が、ところどころで気炎を揚げた、というほうが僕にはわかりやすい。
そうしないで、「民衆大喜びの図」にしてしまったのはちょっと単純化しすぎのように思えたし、そのような単純化はえてしてご都合主義にも結びつきやすいというおそれがある。

そうなると、過去のことも思い出しちゃったのだ。
ふきちゃんが売られていく回があった。ふきちゃんは熱演でものすごくよかったが、ただし、あのとき、隠し田(うちの地域でもその名残は見られます)を見逃してくれと懇願していた百姓たちに対して吉之助は、「しかし曲がったことは曲がったことじゃし……」とそれを咎めるかどうか逡巡していた。
で、結局どうしたの? というのがわからない。咎めたのか、あるいは、見逃したのか。
斉彬に報告した、という設定になってはいたので、とりあえず保留したのかな? そこらへんが、いまいちわからない。
わからないといえば、調所に直訴して年貢の取り立てを定免法から検見法に変えさせたようだが(よくわからないけれど、定額法から定率法というようにとらえた)、それって隠し田問題でうやむやになってしまったが、どうなったの?
西郷という下っ端役人にだけ(?)認められた特例が、実施されたのか、それとも西郷自身が頓挫してしまったのか、そこらへんが結局は曖昧なままだ。次回以降に触れられるのかもしれないけれど、きわめて怪しい。

映像はきれい。陰影に凝ったシーンも多いし、ところどころの描写がやけにリアル。ふきの家は、家とも呼べないような壁も満足にないあばら家であったし、北村有起哉の服もやけにぼろっとしている。介錯の用を命じられ、赤山切腹の前日に一心不乱に剣を振る吉之助の父の、襟首のほつれ。ここらへんに、美術スタッフや衣装スタッフの並々ならぬ仕事を感じた。
そしてさんざん述べたように、役者の芝居はだいたいすばらしい。しかし肝腎要の脚本が……かなり心配な『西郷どん』なのである。
まあ、きょうはここらでよかろうかい。

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ちょうど十日前、アイドルネッサンスの解散が発表された。その時期は2月の末あたりになるとのことだが、来年の2月じゃない。なんと今年の2月だというのだ。なんとも唐突なニュースだった。


ボブ・ディランがノーベル賞を受賞したというニュースが世界中を駆け巡り、ノーベルのアカデミーが連絡を取ろうとしても当の本人が居留守を決め込んでいたさなか、あるミュージシャンがその受賞を、「エベレストに対して、『世界一高い山です』といって表彰するようなものだ」と評した。
その意味はつまり、「ボブがすごいってこと、もうみんなとっくにわかっていただろう?」ということだ。
けれども、誰もがボブ・ディランになれるわけではない。
アイルネ解散の報を受けて動揺を隠せない人たち――簡単に「お疲れ様でした。みなさんの今後の活躍を期待しています」の一文で終わらせられない人たち――はみな一様に、まだじゃないか、という思いに駆られ、場合によっては憤っているのではないか。まだ、彼女たちにふさわしいステージや、功績、栄誉が与えられていないじゃないか、と。
あるアイドルについて、認識したその瞬間から、将来やってくるであろう解散や卒業を山頂としてあらかじめ設定し、そこに至るまでの彼女たちのステップアップをよろこびをもって追っかける、という愉しみ方がある。ひねくれすぎてしまっているとは思うけれど、このアイドル飽和・爛熟時代における多様化しつつある「消費」の一手段としてはしょうがない部分もある。
そういう意味では、アイルネの初期メンバーたちがはじめて自分たちのMVを観て感激していた動画を観た日から僕は、彼女たちの解散というものを避けがたい宿命として覚悟していた。覚悟してはいたが、やはりそれにしても、早すぎである。

思い入れのない人たちであれば、アイドル解散や卒業のニュースは「あらら……やっぱりアイドルブーム終わってんだな」のひとことで済ませられるだろうけれど、残念ながら今回の僕は、そうは済ませられない。ファンともいえないし、ましてやヲタクだなんて口が裂けてもいえないけれど、それでも強く関心を持ってきた者としては、辛い。
「いつまでも同じものはないのだ」という人類史上何億回繰り返されたかわからない慰めだか諦めのための言葉があるということは知っていた。けれどもそれは、ただの聞き飽きた格言として知っていただけであり、なんの実感もともなわない文章でしかなかった。それがいま、深い含蓄と意義とをともなってこの僕の前に立ち現れている。
それでは、その言葉によってすこしくらい気分がスッとすることでもあっただろうか。すんなりと事実を受け容れられるようになったか。答えはノーだ。そんな言葉なんかではとうてい慰撫されることのない荒れた心のままで、いまこの文章を書いている。憤怒の矛先をどこに向けるべきか、いまだにわからないままでいる。

解散の第一報を知ったときまずまっさきに、彼女たちを急にほっぽり出すような運営側のやり方に猛烈に腹が立った。憶測を書いても仕方ないし思い浮かびもしないので、解散の理由を深読みすることはしないしできないが、メンバーだって相当に悔しいし悲しい想いをしているのだと思う。たしか受験を控えているメンバーだっていたはずだ。大学受験じゃない。高校受験の、だ。そういう時期に、こういう決定をくだすなんて。というかそもそも、メンバー個人個人の非常に大切な時間を預かっている、という意識が運営側には欠落していたんじゃないのか。
ビジネスの観点に立てばアイドルというのは、彼ら彼女らのその貴重な人生の一部を切り取って売ることによって商売を成り立たせている。これは認識の仕方によっては、という問題でなく、れっきとした事実だ。
その残酷な現実をきちんと理解したうえで、だからこそ彼ら彼女らには、その行為にふさわしい栄誉が与えられるべきだと多くのファンたちが思っている。そして、見返りという言葉は適当ではないかもしれないが、アイドルネッサンスのパフォーマンスや努力に対してなにがしかがあってしかるべきだ、と僕も思っていた。
それがどうだ。繰返しになってしまうが、ことアイドルネッサンスに関しては、いよいよこれからだという段階で捨てられてしまった。言い方は悪いが、「大人のビジネス」の実験台になっただけじゃないのか。当初の意図とは別に、結果としてそう映ってしまうところに、この怒りの原因はある。
けれども、第一報のすぐあとに出た制作スタッフの方のinformationを読んだとき、「この人だって、この文章を苦しみながら書いているのではないか?」と感じられた。「ブレイクスルーさせることが出来ませんでした」だなんてことを無表情・無感動で書ける人間なら、そのあとにつづく、いちいちのライブでの感動場面を詳細に書くだろうか。

結局、もやもやとした思いをどこにぶつけることもできず、消化不良のまま解散の日を迎えることになるのだろう。そしてその日でさえ、ほかの一日と同じように過ぎ去っていくのだろう。
それは、ある程度年齢を経た人間ならけっこう身に染みついている感覚であって、もうちょっと年若い人からすれば「冷てえなあ」ということになるのかもしれない。たぶん僕だって、二十代の頃にそんなことを耳にしたらまっさきに批難していたと思う。
でも、そもそも現場に行っていないということを考えれば、冷たいもなにも論ずる資格すらないのだ、ほんとうは。
ただ、年をとることにはいい面もあって、それは、若い頃よりもう少しだけ視野が広くなることだ。
アイドルネッサンスというグループが解散する日は、メンバーそれぞれがあらたなステージへと移行する日でもある。詭弁ではなく、ほんとうに言葉のとおりそうなのだ、ということをこれまた感覚的に知っているのだ。
勝手に「終わったこと」にしようとするのはむしろファン――それも特別な思い入れを抱えている熱烈なファンだったりする――のほうで、彼女たちの生活はもちろん終わらない。むしろこれからの人生のなんと長いことか!
ファンは、彼女たちの不在をいまから案じても仕方がない。その胸苦しさは、不在が現実のものになったときにはじめてやってくるのだろう。彼女たちのいない夏。彼女たちのいない冬。そして、彼女たちのいない一年間。そういうものに出会ったときに、はじめて自分たちのなかにあるほんとうの空虚さに気づくのだ。
門出の日にさみしさや悲しさはつきものだが、けれども同時に、晴れがましさや華やかさだってあるはずだ。進水式にシャンパンのボトルを割るように、彼女たちには派手なお祝いこそがふさわしい。彼女たちのあらたな航路が幸多からんことを祈る。そう祈ることくらいしか、われわれにできることはないのだ……。

彼女たちのカバーによってBase Ball Bearの『17才』をはじめて知った。詞曲の小出祐介は、「自分が17才のときにこういうことを唄ってほしかった、というつもりでつくった」ということを発言していて、この発言をもとにして、自分が過ごしてこなかった17歳の短歌をいくつかつくってきた。こんなことがあったのかもしれない。もしかしたら、こんな振る舞いをすることができたのかもしれない。そういう想像は、現実よりずっと面白かった。
教科書も電線も眠る薄明の朝 ネコがいたら抱きしめたのに
不意打ちの映画のようなサボタージュ -1℃の鼻がしらに触(ふ)る 
7.9(7コンマ9)秒を切る恋があり 動悸も怯えも置き去りにして
年明けてぎこちないふたりに戻り 粉雪のなみだミトンに滲みて 
境内の砂利道 振り向きざまのいま リンドグレーンの少年おぼゆ
近くても斥力感じる美術室 「できる子」「よい子」じゃなくたっていい
本棚の陰で心のコイントス 図鑑広げて「きみは、なに好き?」
新しくした髪留めに込めた暗喩 「めかし込みすぎ?」鏡に問うて
新井乃亜(あらい・のあ)さん、南端まいな(みなみばた・まいな)さん、比嘉奈菜子(ひが・ななこ)さん、石野理子(いしの・りこ)さん、宮本茉凜(みやもと・まりん)さん、百岡古宵(ももおか・こよい)さん、原田珠々華(はらだ・すずか)さん、野本ゆめか(のもと・ゆめか)さんに、それぞれの歌を捧げます。
単なる修辞としてではなく、心の底から、みなさんの今後がこれまで以上のすばらしいものになることを願っています。


ちょうど十日前、アイドルネッサンスの解散が発表された。唐突なニュースだった。僕はまだ、この現実をはっきりと受け止めることができていない。喪失の予感が空虚さの輪郭みたいなものを生み出し、いまはそれが薄ぼんやりと感じとれるだけだ。

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……はちょっと書けないな。どう感じたか、を書いてしまうだけで、未読の人にバイアスを与えてしまうような気がするし、それってひとつのネタバレでしょって思っちゃうから。
ただ、グロい。
猟奇的描写の背景として、あの宮崎勤事件(1989年)が小説中に実名で出てくるのだが、いやちょっと古いよなあ……と奥付を見たら1992年の作品らしい。いやー四半世紀以上前かあ。そりゃあ登場する歌手が岡村孝子なわけだよ、と納得。
それにしても、僕がグロ描写にそれほど衝撃を受けなかったのは、四半世紀前に較べていろいろな表現が過激化していったことも理由としてあるのではないか。最近日本でもヒットしたピエール・ルメートル作品もかなりグロかったし、たぶん国内でもグロを得意とする作家なんているんじゃないかと思う(僕自身はそういう表現は好きではないので、もしそうだとわかったら読まない)。
あと、講談社文庫版の笠井潔の解説も併読するとより理解が深まるだろうと思う。ただし、必ず読了後にすべきだ。

綾辻作品なんかでも感じたことなんだけれど、小説そのものが非常によくできた箱庭という感じで、感心するくらいに細部にまで手入れがなされている。
その反面、なーんか感動がないのよねえ、という贅沢な不満も残る。小説そのものへの感動はもちろんあるし、本作品は傑作だとは思うものの、率直に言って「ちょっと泣けちゃうよな」、そういうエピソードなんかはないことが多い気がする。そういうのがあったらなあ……。

あと、こういう小説を、「○○な小説ベスト10」みたいなランキングで知るのではなく、本屋でたまたま手にとって購入→読む、みたいな流れが読者にとっていちばん幸福だと思う。
そういう意味では僕も非常に幸福な出逢いができたので、まだ読んでいない人の幸福まで奪わないように、ここらへんで擱筆しておく。

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読んでからずいぶんと経っているのに、きょうのきょうまで感想を書けなかった。
というか、このマンガを読んでいるあいだに浮かんだ言葉を、まとめ・要約することに意味を見いだせなかった。そのままにしておこうとも思っていた。
それがきょう、机の引き出しの整理をしていたらしまいっぱなしの本書を見つけてしまい、深呼吸してから読み直す。

……やっぱり、自分の魂の一部が殺されたように感じた。特に「夕凪の街」のほうを初回に読んだときもそうだった。心がすうっと冷えて、すこしだけ死に近づいたような気がした。けれども実際には僕は殺されず、かわりに、ある女性が死ぬ。
このわづか三十ページあまりのマンガには、ひとりの殺された人間のことが描かれている。架空の人物の死ではなく、きっと実在したであろう人物の死。それは、昭和二十年八月六日、広島に落とされた原子爆弾によってもたらされた。
元プロ野球選手の張本勲は原爆によってその姉を亡くした被爆者であるが、その姉やその他大勢の人たちの死を、「犠牲ではなく身代わりだ」と表現していたことがある。誰が死んでもおかしくなかった、ということなのだろう。そのような意味において、「夕凪」の女性はまったく空想の存在ではない。
そして、実在したであろうからその個人の死の重みが読後を支配する。その死が、読者の魂の一部を損なう。傷つき欠損した部分を充填するように、悲しみや怒り、そして恐怖などの綯い交ぜになった感情が生じるが、癒やしは与えられない。カタルシスは得られず、いつまでも魂に穴の開いてしまったことを感じつづけることになる。当然のことだ。これは、癒されるための作品ではない。

ほかに収録されている「桜の国」もすばらしい作品だ。これとて、前後篇あわせて六十ページあまりしかない。けれどもそのなかに、人間のやさしさ、人間が生きていくことのかなしさ、そして作者の慈愛に満ちたユーモアが余すことなく描かれている。
しかしそれ以上に強調したいことが僕にはある。それはこのマンガの持つ、表現のすばらしさ・美しさである。
この非常に短い短篇は、「ヒロシマ」を扱っているということでともすれば「戦争もの」「原爆もの」というタグを貼られ、恭しく奉られておしまいということになりかねない。しかし、このマンガのかけがえのない部分は、けっしてそれだけではないのだ。
たとえば、凪生のいる病室で姉の七波がベッドの上に立って大量の桜の花びらをばらまき、桜吹雪を演出するシーンの美しさ。そして、若い頃の七海の父と母とが、東京の橋の上で桜吹雪を眺めながら笑っているシーンの尊さ。
大胆な省略法を用いて「夕凪」からの物語を結びつけ、さらに、「夕凪」の持つ絶望を超えて、「それでもなお生きていこう」と思わせる構成がみごと。端的に言って、読者はすこしだけ救われるのである。

しかし、また「夕凪」のほうに話を戻そう。ほぼ半世紀経った時代の物語(「桜の国」)でちょっとだけ救われた気分になること――もちろん話はそんなに単純ではないのだが――はそれはそれでありがたいのだが、やはりこの短篇集でより重要なのは、「夕凪」における死だ。
前述したとおりここに描かれているのは実在したであろう人物の死であり、おそらく同じ時期に同じ場所で――あるいは長崎において――同様に命を落とした何十万人のうちの、たったひとつの例でしかない。これは、めまいがするほどにおそろしく、しかし残酷な事実である。
この想像もつかない膨大な数字は、まさにその想像のつかなさゆえに、えてして捻じ曲げられた「利用」のされ方をしてしまう。いわく、「これに較べたら○○なんてたいしたことない」というような。
冗談じゃない。死はつねに究極的に個人的な行為であり、死んだ人・殺された人は、つねに独りである。また、他者の死について悲しみ、怒り、恐怖する主体であるわれわれも、それぞれに独りなのである。
この孤独で唯一の<私>が死んでしまえば、事象の大小、犠牲者の多寡など無意味となる。誰かの死というのは、ひとつひとつがそのような代替不可能な死なのである。その部分を矮小化してはならない。
「夕凪」には、呪いの言葉が描かれている。この作品のなかで失意のうちに死んでゆく人は、「戦争の悲惨さ」とか「生き延びていくことの無常さ」なんていう抽象的なものについて不満を述べるのではなく、はっきりと、原爆を落とした人間、落とした国に対して、呪詛を投げかけている。これは、非常に重要なことだ。
現代において――特に八月ともなればどのメディアにも戦争報道が増えるが――戦争や戦争行為中における犯罪について批判をおこなうとき、ときどき「原爆を落としたアメリカだけが悪いのではない、悪いのは戦争そのものだ」というような抽象論が聞かれるが、あれは欺瞞だ。
Aという国だけでなく、Bも悪いことをしていた。いやいや、CもDも被害者のような顔をしているけれど実際は加害者でもあるのだ、という事実があったとして、それらは、Aの行為の罪の重さをいささかなりとも減ずるものではない(慰安婦問題においても、「他の国だってやっていたじゃん説」を主張する人間は多い)。昭和二十年当時、広島と長崎に原爆を落とした主体であるアメリカは、まずはっきりと批難されなければならない。「戦争そのものの罪」を問うていくのは、そのような個別の反省のうえではじめて成り立っていくものであろう。抽象的な問いや、抽象的な批判で済ませられるのはきっと、先述の死の代替不可能性というものを自分に照らし合わせて考えてみたことがないからなのではないか。学者や研究者でもないのに、歴史を為政者の視点で語る人間が多すぎる。われわれのほとんどは、戦争が起こった際には理由もなく殺される側の人間だ。理不尽に、無慈悲に殺される存在であるという認識のうえに立っても、まだ「よい戦争」や「よい攻撃」というものを想定できるのだろうか。


去年のノーベル平和賞をICANの人たちが受賞した(個人的素人的感想としては、最貧国のひとつであるバングラデシュがロヒンギャを受け入れたことのほうがよりすごいと率直に思った)が、その意図は、彼ら/彼女らの運動に承認を与えるということにあるのだろう。
であるならば、この『夕凪の街 桜の国』の翻訳ヴァージョンをICANに贈ってみてはどうだろうか。はじめは英語で、それから次々といろいろな言語に訳していけばいい。
『この世界の片隅に』はなかなかに大部だから読みづらいかもしれないけれど、この作品であれば、すぐに読めるし、ストーリーが短いだけにインパクトも大きい。
この作品が強く喚起するものはいろいろあるし、その最たるものは藝術的感動であると僕は思っているのだが、しかし客観的にいって、多くの読者にまずもたらされるのは厭戦感ではないだろうか。残念ながらこの世界から戦争がなくなることはなさそうだが、独裁国家ならまだしも民主主義国家であるならば、厭戦感情、反戦感情を持つ市民たちが大きな声で主張して政治を動かしていくことはそれほど難しいことではないのではないか。
われわれの誰ひとりとして、「死なずにすんだ人」になれる保証はないのだから。

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フランスの作家、ルイ=フェルディナン・セリーヌの墓石にはただ一言、《否》(ノン)の文字が刻まれている、っていうのは中公文庫の『夜の果ての旅』の解説でたしか知ったことだったが、はて? いや待てよ、この時代のことだから、あれももしかしたら「創作」ということでひっくり返っているかも、と思って調べてみると、はたして「神話」であったと指摘している文章を発見。うーん、それはそれで、さみしいな。
小学生くらいの頃はよく、夜、ふとんのなかで”神様”に「どうか、死ぬまでにデビッド・カッパーフィールド(知らない人がまさかこの世の中にいるとは思えないけれど、自由の女神を消したり空を飛ぶ人)のマジックのトリックを教えてください。一生のお願いです」とよく祈っていたものだが、その功あってか、ネットで一発検索できる世の中になりました。みんな、「集合知の成果!」とか勘違いしているかもしれないけれど、すべておれのおかげだぞ。
なにが言いたいかっていうと、すべてが明るみに出てしまえば、そりゃ知的好奇心は満たされるかもしれないけれど、いっそう野暮な世の中になってしまっているということもあるんでござんす。明らかになった事実や真実というものが、われわれから昂奮を奪うということはそう珍しいことではない。
まあまあ、創作か勘違いかはともかくとして、「セリーヌの墓の話」はなかなかのものだと思うよ。だって、そういう偽りの逸話が僕の心の中におよそ二十年弱ほど居座って、強烈な印象を与えつづけてきたのだから。ただ一言、《否》(ノン!)。すてきじゃないか。


年末に録音していた大友良英のラジオ番組をやっときのう聴くことができたのだが、そこに元・能年玲奈が出演していて、彼女の口からその近況というのを聞いてうーんと唸る。
干されて苦労したらしい、ってのはもはや公然の秘密となっているが、その反動と『この世界の片隅に』ヒットにあやかってなのか、なんだかミュージシャンをやったり、あるいは、絵を描いてルーブル美術館関連の施設で展示されたりしたのだとか。
絵のほうは知らんけれど、音楽は……これだけアイドルに対して東大寺の盧遮那仏像もびっくりの寛容な精神を涵養してきた僕ではあるが、彼女はアイドルではないので、こと音楽活動についてはかなり厳しめに見てしまう。そのうえ、「『あまちゃん』の栄光よ、もう一度」的な売り方・肩入れのされ方がどうにも鼻につくところがあるので、よけいに厳しく映る。
さらに、ラジオ出演しているっていうのに、『あまちゃん』時からほとんど成長を感じさせないボソボソっとした「あまり主張することはありません」的な発話。こういうのを、「アイドルちゃん」とか「お人形さん」なんていうふうに揶揄してきたものだと思うのだが、いやいや、すくなくともいまのアイドルでこんな人いませんから。みんなもっと主張するし、積極的。そりゃそうだよね、黙っていたって仕事くれないだろうから。いろいろな業界の力のある人たちが寄って集って下駄を履かせてくれることなんて、滅多にないから。
最近じゃワタクシの心にも慈しみというものが芽生えまして、個人についての批難というものをできるだけ控えてきたのだが、まあ高下駄の長い歯を足払いするくらいはたいしたことがなかろうと思い立ったが吉日。実を申せば、なんじゃいこいつは、カワイイからってちやほやされてんじゃないよ、「骨隠す皮には誰も迷うなり 好きも嫌いも皮の業(わざ)なり」って言葉があるが、生まれたときにその「皮の業」がたまたまうまくいっただけじゃねえか、と腹が立ったのであります。のん? ……《否》!

立腹の原因の八割くらいは、リップクリームを塗らなければならないほど唇が乾燥しているからではなく、僕の溺愛していたアイドルグループが明確な理由の見えないまま解散することがつい先ごろ発表されたことにある。最初は運営の頭の鉢を割ってやりたいと思うくらいだったが、やっと落ち着いてきて、その感想はちかぢか書こうと思っている。

これもまた数日前の話で、Eテレの『バリバラ』をたまたま途中から観たら、「会話の苦手な人たち」が8人で一緒の行動をして親睦を深めるというのがやっていて、これがとても面白い企画だった。
男女半々だったと思うのだけれど、男性は吃音の方が多く、女性はたぶんみんな緘黙症。緘黙症(番組では場面緘黙症という紹介がされていた)は、違うテレビ番組でたまたま知っていたので、ただのアガリ症というのとはまったくわけが違う、ということくらいはわかっていたつもりだが、実際にそのコミュニケーションのやりとりを見ていたら、ちょっと驚くくらいに、無反応になったり、あるいはものすごい小声になってしまっていたりして、なるほど、これは他人から誤解されたりすることも多いだろうなあと思った(実際に他の男性参加者からは「嫌われているのかと思った」という印象を持たれる場合もあった)。
その人たちがいろいろとそれぞれに工夫をしながら、他者と会話をしようとしていたのだが、吃音の男性陣はともかく(それでも、しゃべることにものすごく勇気が要るとは思う)、女性陣がそれに輪をかけてたいへんそうで、みんなやっぱり固まって無口になり、視線も合わせられなくなっていた。けれども彼女たちに別の場所で感想を訊いたり、筆談してもらうと、「たのしい・おもしろい」という本音を吐露していたりして、ほんと、人って見かけだけではわからないものだなと痛感した。
日中のグループデートが終わって、ちょっと広めの場所でみんな一斉での夕食となったのだが、やはりここでも会話は長つづきせず、しいんとなってしまう。そのとき、ひとりの女性が途中で席を立ち、しばらくしてフラミンゴのかぶりもの(!)をかぶって戻ってきた。
みんなびっくりして、やがて笑い、それにツッコむ。「なんですか、それ?」「フラミンゴの……かぶりものです」「見たらわかります」
クスクス、クスクス、クスクス。みんな噴き出してしまい、その場を重苦しく支配していた氷のように固まった空気がすこしづつやわらかく溶けていくのがわかった。そうしたらもうひとり、かなり重度の場面緘黙を抱えている女性が、無表情で黙ったままイカのかぶりもの(さっきの女性がついでに持ってきたものかも)をかぶり、みんながそれを笑った。僕も大笑いした。
あとでそのイカをかぶった女性がスタッフに漏らしたところによると、「そう見られることは少ないけれど、じつは人を笑わせることが好きなのだ」という。なんだか、じいんとしてしまった。
ほんと、人間なんて傍から理解できることのほうが少ない。そして、ユーモアの力は偉大だ!
この番組は前半がそこまでで、4日後の28日(日)に後編を放送するらしい。これは絶対観なければ。

会話が苦手、といっても千差万別で、「コミュ障なんで」とか「人見知りでね」なんかが口癖のよくしゃべる人もいれば、放送に出てきた方々のようにものすごく辛い状況に追い込まれている人たちもいる。
「無口な人」というのはだいたいどこのコミュニティにもいるが、その人たちがしゃべらない理由もさまざまであろうし、「しゃべらない」のではなく「しゃべれない」ということだって充分ありうる、というのがよく理解できた。
そういう人たちに「自分を主張しないと」と促すのは、ほとんど暴力みたいなものだ。もしほんとうに相手に配慮するならば、その人たちがゆっくりとしゃべりだし始めることを、あるいは、別のコミュニケーションの方法を採ることを、待ち、認めなければならない。
しゃべるというじたいことが苦手であっても、たとえばSNSなどでの発信は得意だったりして、信じられないほどのフリックさばき(?)で、次々とメッセージを連発できるのかも。僕のようなスマホ&SNS原始人はボコボコに叩きのめされてしまうかもね。
であるならば、ついつい思ったり言ったりしてしまいがちな「やっぱり人間っていうのは面と向かってコミュニケーションしなくちゃね」みたいな言説ってのは、一部の人たちに窮屈な思いをさせるだけで、他人に対して無理に言う必要はないのだろう(そもそも、他人に向かって教訓めいたことを言う必要はないんだよね)。

となると、だ。さっき、あれほど批難したのんさんに対しても、上記で得られた知見――無口だからってなにも考えていないわけではない/しゃべることが得意でないならばそれ以外で表現できればいい、という考えを適用させるべきだ、ということに思い至る。心の底から、というわけではないが、フェアではないという気持ちが先行して、至らざるを得ないのだ。
カワイイからってちやほやされているんだからその反動で批難されてもいいんだ、というのはけっきょくは外見至上主義に陥ってしまっている、ただ倒錯しているだけで。「皮の業」をもって批難している僕自身が、その「皮の業」にとらわれてしまっている。音楽は好きじゃないし、絵もへたっぴで、芝居もあんまり成長していないな。せめて、そこまでにとどめておくべきなんだろう。

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元日ももう終わろうとしている。
きのうは紅白を観たりして、音楽を聴いているはずなのにこれほど心の動かない、つまり僕にとっては「費用対効果」の著しく低い音楽体験も珍しいよなあとぼんやりしていると、superflyが好きな歌を唄ってくれて、ああそうそう、この「この込み上がる気持ちが愛じゃないなら何が愛かわからないほど」っていう二重否定の表現がちょっと翻訳文みたいでいいんだよなあ、なんて思う。そして、この歌が僕の「最高曲!」にはならない理由である、ちょっと激しすぎる間奏部分が紅白Ver.(というかテレビVer.ともいえるか)ということでカットされていて、それもよかった。
三浦大知も、ダンスと歌をきちんと両立させていて、観るたびにマイケルからの正統というものを承け継ごうとしている(のではないかとぜんぜん観ていないくせに勝手に推察しているだけなんだけど)感じがあって、めちゃくちゃ売れてしかるべきなんだと思うんだけれど、実際のところはどうなんでしょう。
弟の彼女から欅坂のパフォーマンスを勧められていたのであらためて観たんだけれど、うーむ、僕がふだん観ているアイドルが小劇場の芝居だとしたら、48とか46の系統ってよくも悪くも商業演劇って感じだよなあ、とやっぱり心がぴくりとも動かない状態で思う。あと、20代くらいまでならまだしもそれ以上の年齢の人間なら、あの歌詞で心を動かすのは難しいよなあ。え?  ぜんぜんいけるって?  あ、そうですか……。
倒れちゃった子とか、痙攣していた子がいて、そのことでいろいろとかまびすしく騒いでいるようではあるけれど、ファンのなかに「それだけ欅は命削っているってことなんだよ!」みたいなコメントしている人がいて、ちょっと笑った。(縁起でもないが)たとえパフォーマンス中に死んでしまった子がいてもその人は「やっぱ欅は尊い!」とか言って、事故のことをまったく省みなさそう。特攻隊員を神聖視して戦争礼讃する人間とマインド同じ。
まあ去年からそんな話題はいろいろと出ていて、消費者(あえてファンとかヲタクという言葉を遣わない)は残酷ショウをたのしんでいるところがあるよね、ってのは僕自身にも身に覚えがあるところ。
なにもアイドルに限らず、甲子園の「連日連投」とか箱根駅伝の「フラフラ走」なんかについてだって、単純に「感動をありがとう!」と言ってしまう人のほうが多くて、選手の体調という観点から観戦している人のほうがまだ少数派なんだろう。

てなてな感じで、心配だった『ひよっこ特別篇』が心配していたとおりの大失敗にはならなかったことにとりあえず安堵し、それにしたってところどころに挟まれる寸劇というかコントを直視することができず、チャンネルをガチャガチャとひねったりした。平成も三十年になんなんとするところに、この昭和的表現。
昭和というので思い出した。新元号のことだが、最近ひとつ気づいたことがある。もしかしたら世の中では「そんなのは当然」ってことになっているのかもしれないが、新元号のイニシャルは、M、T、S、H以外の21文字のいづれかになるに違いない。
官庁ではいまだに愚かしく元号表記を旨としているが、それであるのならいろいろなデータを元号表記でアーカイヴ(そのくせ、最終的には二度手間で西暦変換していると思うんだよねえ)しているはずで、そうなると明治、大正、昭和、平成のイニシャルを遣うのはNGになるのでは?
といっても21個もあるから絞ったって言えないな、たとえばAで思い浮かぶものは……とやろうとしたら、ふと「安倍」という言葉を思いつき、ついで「安倍晋三記念小学校」という単語を連想し、その言葉のセンスにあらためて噴き出さずにいられなかった。いやあ、ぜひそんな名前の小学校を創立してほしかったものだ。

けっきょく紅白は終まいまで観ずに、風呂に入って、ふつうに寝た。1匹のネコが布団に入ってきて、そのあともう1匹も入ってきて喧嘩になって、それから出ていったほうが僕の机に乗っているいろいろなものを落として僕を起こそうとするのもいつもと同じ。真夜中だというのに。

12月の31日になって「旧年中はお世話になりました」となんとなくしんみりと書いていたかと思うと、その翌日になればまるで別人のように「おめでとうございます! 今年もよろしくお願いします!」と明るくなる、この切替っていうのが僕にはあまりうまくできない。
特にここ最近は、ムラの行事として大晦日と元日に神事の手伝いをやらなくてはいけないので、大晦日には「ああ、どうせ明日の午前中にはまた来て祭事をせねばなあ」と思っているわけだし、明けて元旦、前日というか十数時間前に会っていた連中とまた顔合わせをするわけだから、そのときにあらためて「明けましてむにゃむにゃ」はやらず、結局はいつもの「おはようさん」(僕は「おはようございます」だけど)で済ませてしまい、ついでに神事もとっとと済ませてしまう。掛けまくも畏き~云々。
そんなものだから、元日が特別な感じというのがあまりしなくなってしまった。年賀状は業者から何通か来るだけだし、そのうちの1通は、5年ほど前に一日だけリースした重機の会社から。
ミニとはいえ、500kg超のショベルを軽トラの荷台(軽トラの最大積載量を調べてみよう)に載せて勾配のきつい坂道を下っていったときのあの心臓に悪い感じを、なんとなく思い出す。かなり遅めの昼飯となったマックの冷えたポテトの匂いとともに。

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