とはいえ、わからないでもない

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このあいだちょっとした場所へ、船に乗って行ってきたのだが、そこはもうフォトジェニックな場所であって、手っ取り早くいえば人気スポットだった。
船に乗るところからやっぱりみんな大盛り上がりで、そりゃそうだろう、漁師でもないかぎり非日常な体験なんだから。船酔いなどは起こらない程度にいい感じに揺られながら離れ島に到着すると、というか、乗船中からみんな写真撮影にはしゃぐ。大学生くらいのグループがあったり、カップルがあったり、というなかで、ひとりきりの女性というのもいて、悪い癖なのだがなんとなく見てしまう。どういう愉しみ方をするのかが気になってしまうのだ。

僕がたまたまちらっと観た方は、カメラだけじゃなく、見たことのない道具(360度カメラとか?)をいろいろと使いこなしていて、けれども表情は無表情で、なんかそれがとても面白いことのように思えて。
彼女はたぶん頭のなかで、その場にいる人たちと同じくらいにおしゃべりをしていたはずで、知っているけれどもその場にいない誰かや、あるいは顔も知らないのだけれどつながりのある誰かなどに、いろいろと目の当たりにしている風景について「きょう晴れていてよかった」とか「細かく飛んでくる波飛沫が気持ちいいんだよ」とか話しかけていたのだと思う。
僕自身はけっこうおしゃべりなので、いろいろと面と向かってしゃべるのが好きだが、けれども心の中でずっとしゃべっているのも好きで、そういう「結局は誰の耳にも届かなかったコミュニケーション」がいまの僕の大部分を構成していると思っている。それらは、実在の人物に話すことよりすくなくとも量的には多いし、少なからぬ人たちもたぶん同様なんじゃないかと思っている。

島に上陸して、思い思いの場所へ各人が足を運ぶ。きっとみんな事前に「ここにはぜひ行っておきたい」という場所を調べておいているみたいで、迷いがない。といっても、もう12月だし、大都会の話ではないので、上陸客は多いとは思ったものの芋洗いという状況ではもちろんなかったし、そのまばらな感じがなんとなくよかった。撮ろうとする気持ちはみんな一緒だよね、というような共犯意識もあったのだと思う。
なんだかんだとけっこう歩き回って、しかも思ってもみずの山歩き的なところも多かったので、厚手のブルゾンを脱ぎ、内側に着込んだフリースもニットキャップも脱ぎ、と汗を拭き拭き適当な場所へ足を向けていると、「この島へ来たらここでしょ」的なスポットに行き当たり、しかも他に人がほとんどいなかったので、休みがてら、その廃墟となった軍事施設の薄暗い部分に入り込んで、光が遠いところから射して美しいシルエットを作り出すのを楽しんでいた。
と、例の女性がいたのである。やっぱりひとりのままで。

もちろんひとりきりの女性をじっくりと眺めていたら、それほど気持ち悪いことはないので、視界に入れるような入れないようなくらいのニュアンスでゆっくりとその場を立ち去りながらも、その様子を窺っていた。ほんと、趣味が悪いと自分でも思いますよ。
彼女は、三脚を立て、そのうえにカメラを乗せて、リモートコントロールできるデバイスをつかって、自分自身を撮影していた。何度も何度もカメラの位置を確かめるようにしながら、しかし自身がごく自然な被写体となるように振る舞い、シャッターを押していた(のだと思う)。
僕はその場に30秒といなかったが、その様子をなんとなく意識の端っこでとらえながら、すごくいいなと感じていた。

インスタ映えという言葉が流行語大賞を獲ったとかで、こうなると(こうなったからこそ)おおっぴらに批判の対象として難ずる人間が出てくるというものだが、そういう言葉が流行る前から、事象じたいを把握し批判するのならまだしも、大々的に知られるようになってからケチをつけだす人間の感覚の鈍さってのはだいたい無視していい程度。といっても、僕もそれほどその行為というものをあまり好きにはなれずにいた。
しかしその女性が、完全に個人のローカルフォルダにひたすらアーカイヴするためだけに撮影しているというわけではないのなら(もしそうだとしたらすごいことだ!)、やはりSNSにアップロードすることを前提にしてイメージをつくりあげ、それを現実化させるための機器を準備し、かつ、巧みに扱うというこの労力は、称讃に値しないわけがない。

インスタ映えのする写真をアップするのは、端的に言って、カッコイイとかかわいいとかお洒落とかいいなあなんてことを誰かに思われたいがためだと思う。「ただの日常の記録」とか「自分らしさ」なんていう表現の仕方もあるかもしれないけれど、それについてカッコイイとかかわいいとかお洒落とかいいなあなんて思われることがイヤなわけではないだろう。
僕は面倒だから「カッコイイでしょ」と言えるかもしれないけれど、若い人ならそういうふうにストレートに表現することを好まないだろうから、いかに婉曲するかに苦労しているというのも容易に想像できる。
ツールが発達していろいろと便利になったぶん、そういうインフラが当たり前の世代にとっては、全方向への配慮がたいへんだろうなと思う。へたにレスポンスがある可能性があるから、賢く振る舞いたい人は、空気(というかいろいろな場所でのいろいろな人間によるリアクション)を読みまくってからでないと自分の意見を吐き出すのに苦労しそう。
だから「(笑い)」や「www」をつけてナルシシズムに陥らないよう自身を客観化したり、客観化できているように振る舞ったりするってのも想像できる。「インスタ映えしそうwww」とか言いながらでもやっぱりスマホを向けて写真を撮るんでしょう? わかるわかるよ、わかりますよ。
でもさ、そういうのってつまらないんだよね。自己顕示欲は強いくせに全部防御線張りまくって傷つかないようにするのって、つまらない。行為の濃度は希薄になるだろうし、その結果は表層的で薄っぺらなものになるし、だいいち、そういうものを見た僕がフラストレーションのあまりウキーと髪を掻き毟ったあげく余計に薄くなるっていう、世界のいろいろな薄さに寄与しているだけなんだよな。
そういう時代だからこそ、ストレートにカッコつけることがいかに恰好のいいことか。気障でいいじゃん。ロマンティストでいいじゃん。ポエム詠めよ。最大限に気取れよ。嘲る連中を笑い返してやればいい。

……というようなことを、そういう人が身近にいるわけでもないのに思っていて、つまり妄想していたわけだが、その島で、件のひとりの女性がロマンティックか、かわいいか、はたまたカッコイイ写真を工夫して撮影しているところを目の端でちょこっと見たときに、つまらないことはいっぺんに吹き飛んでしまった。
すごくいい!
その人がアップするときにどんなキャプションをつけているのかは知るよしもなかったけれど、すくなくとも写真撮影の現場での行動はいい意味で泥臭いもので、誰ともしゃべらずに黙々とやっていたぶん、ただならぬ情熱を感じたのだ。
彼女の、そのときの心中でのおしゃべりがどんなものか聴いてみたかった。それは出来あがりの写真画像よりも僕には興味のあることで、彼女が誰になにを語りかけながら写真を撮り、そしてそのできたものについてまた誰かに話すのか、そういうことを知りたいと思った。
「いいでしょ? この写真。ね、いいよね? うん、いいよね。よく撮れたんだ」とか、「ここすごいよね、すごい。うん、こんな感じ、映画みたいだし、わたし、いま、ここの世界にぴったりハマってる」とか、自身をめちゃくちゃ肯定している感じだったら、なんだか嬉しい。そういう肯定している印象が少しでも感じられたから僕は興味を惹かれたわけだけれど、ハッシュタグでごまかしたり、どんな照れ隠しのキャプションをつけていようと、その場での「生の声」がストレートなものであれば、全然問題ないのだな、と思った。
僕は心の中で、その女性に、どんな写真が撮れたのか、とか、どんなイメージで写真を撮ったのか、とか、誰かに撮ってもらうことはあるのか、とか、写真を始めたきっかけは、などと質問を投げかけていた。もちろん、返事はない。それでいい。
あなたのおかげで、いろいろと新しいことを感じることができました。あなたのことについて、文章を書いてみようと思いました。いいえ、あなたを貶すようなものでは決してありません。あなたを通して、物事の見方がまた変わったんだ、そんなことを書こうかと思っています。ええそうです、あなたの知らない場所で。

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こういうことを書くと、自分でも保守的な人間だなあと思ってしまうのだけれど、やっぱり例の赤ちゃん連れの市議の行動については疑問を持たざるを得なかった。

あの人のインタビューも聴いたし、主張も理解したうえでやはりそう思っている。
あの件を認めるとなると、形式論的にいえば、「ある目的を正しいと信じた人間が確信してルール違反を犯したことを認める」ということになる。
その結果よりよい社会になるではないか、というのは実は論理的な反論ではない。どちらかといえば感情に訴える話だ。しかし一方で、今回の件の主体は、立法者である。感情論に任せていいものだろうか。

こんな場合はどうか。
「この愛する国をよりよくし、そして守り抜くのだ」と信じた人間が、かなりイレギュラーで強引なやり方をもって法案を通し、立法化する。
どこかで見たような例だが、この場合は、形式論的には法律(≒ルール)違反を犯していないので、「赤ちゃん」の場合より適切である、ともいえる。

このふたつを同時に支持する人は少ないと思う。
けれども両者は、細かな違いをちょっとだけ無視すると、「正しい」目的の実現のためなら多少の違反(ルール違反だったり前例違反だったり)は許されるべきだと考えている(ように見える)、という意味において同じような行為なのではないか(ルール違反だとは思っていなかった、は個人の内心の話になるので、あくまで形式に拘泥している)。

一般的な話でなら、感情論に傾くことはあるかもしれないが、立法者や行政者など、権力が与えられている者であればこそ手続きに則ることが大原則で、そこから逸脱するには相当の理由がなければならない、と僕は考えるが、今回の問題でも、あるいは他の問題でも、たいてい我を通した人間は「相当な理由があった」とする。
あと、「赤ちゃん」や「愛国」がなにかひとつの暴力性を持っていることも気になる点だ。それを片手に抱いているだけで相手を黙らせられるような場合がある。「○○のことだから、プロセスは気にしなくていい」という考え方は、自分の嫌う概念が「○○」に代入されることを想定し、それでも許せる場合にだけ認めるべきだ。

件の市議は、市議会だけにとどまらずに県議会や国会に呼びかけ、議員(なにも女性に限ったことでなくてもいいはず)が子どもづれで議会に参加できることを認める法案を提案するよう促してみてはどうだろうか。
ワンアクションで変わることなどほとんどないと思っているし、もし変わったとしても、それは別のワンアクションで簡単にひっくり返ると思っている。
ほんとうに大切だと思っていることなら、腰を据えてじっくりとやってみてほしい。そういう行動のほうが、より多くの人間の賛同を得られるはずと思うのだ。

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ある理由から読み返した。
僕のように『スローターハウス5』を何回か読み終えた人間は、はたしてこの小説をどのように記憶しているのだろうか。
これまでの数回の読書で憶えていることはほとんどなかった――いくつかの忘れがたいキーワードを除いて。
大筋を忘れていたというのにもかかわらず憶えていたというディテールは、たとえば「キルゴア・トラウト」だったり、「トラルファマドール星人」だったり、「『そういうものだ』」だったりする。

しかしそれにしても、これまでの読書はいったいなんだったのだろうか。
それこそ「そういうものだ」というきめつけのもと、皮肉とユーモアで戦争、とくにドレスデン爆撃について描いたタイムトラベル・コメディ、といった紋切り型の切り口で読んでいったのだろうと思う。
しかしそれにしては、といまなら思う。それほどユーモアがあっただろうか。それほど戦争が描かれていただろうか。皮肉はたっぷりあった。タイムトラベルもたっぷりあった。
けれどもおそらく、上記の観点から読むだけでは、この小説はとらえられないように思う。というか丁寧に読んでも、この小説をはっきりととらえることは難しい。時間は単線的に進まず、未来と過去を行ったり来たりして、そのあたりのどこかで主人公が殺されたりもする。
あるいは、と落ち着いて考えてみる。この小説はもしかしたら失敗作なのかもしれない。

ヴォネガットは大好きな作家だけれど、これはイマイチという小説もけっして少なくない。たいていの場合はにやにやとできるのだが、読み終えてからほとんどなにもつかめていないことに気づき、けれどももう一度読むかどうかはわからない、程度の作品ならけっこうある。
それでは『スローターハウス5』はどうかというと、イマイチという印象はなかった。そこそこよかった、という感想がいつもあった。ドレスデン爆撃という大きなテーマがあるということだけははっきりと憶えていたから、もしかしたら、無下にできなかったというのがいちばんの理由かもしれない。
実際のところ、なかなか芯のとらえづらい小説である。まず、本小説を書いた経緯が、冒頭から三十余ページにわたって長々と説明される。そうしてやっと本篇が始まったかと思うと、主人公が時間旅行者(ただし当人にはコントロールできない)であることが紹介され、それから金持ちになったり、飛行機事故に遭難したり、宇宙人に誘拐されて見世物にされたり、などということが3ページほどで説明される。
ついで、トラルファマドール星人の特徴が描かれる。
彼らは、すべての異なる瞬間を思いのままに眺めることができる。彼らには過去・現在・未来という概念がない。彼らからしてみれば、過ぎ去ってしまった時間は二度と戻らない、という地球人の認識は錯覚にすぎない。この冗談のような設定がこの小説の重要な鍵となっていて、小説内世界観の基礎となっている。

この小説を読むと誰もが「そういうものだ」とつぶやきたくなるはずだが、いっぽうでその言葉は、戦争の悲惨さや個人の生命が持つ厳粛さ・尊厳というものを著しく傷つけているかのようにも見える。
どんなに悲惨なことが起ころうとも、その記述の直後に「そういうものだ」という一文がくっついてしまえば、途端に喜劇になってしまうか、そうでなくても、あまりたいしたことでなかったかのように錯覚してしまうからで、その点から、単純な冷笑主義者や、ネガティヴな事象を個人的関心の外に追放したがる人々が飛びつきやすい言葉でもある。
しかし、今回あらためて読んだことで気づいたのは、この「そういうものだ」という言葉にはきちんとした定義がなされているということだった。前述したトラルファマドール星人の時間概念に対する認識が地球人のそれとはまったく異なっている、という記述のあと、こうある。
トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし(※主人公)自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、”そういうものだ”。
(『スローターハウス5』 39p)
この引用部分は主人公のビリー・ピルグリムの独白であり、厳密にいえば、この小説の書き手、カート・ヴォネガットとは別人格である。でもまあ、作者はこのビリーの考えに従って、文中に出てくるありとあらゆる死の描写のあと、「そういうものだ」という言葉を添えているのだろう(余談だが、シャンパンの泡が翌日には絶えていた、という文章のあとにもこの言葉はあった)。形式化されたフレーズという意味でなら、「R. I. P.(安らかに眠れ)」とさしたる違いはないのかもしれない。
けれどもこれは、ただの挨拶文でもない。この幾度も繰り返されるリフレインは、その言葉の持つ軽さと指し示された内容の重さとのアンバランスさをやはり強く訴え始める。
シニカルなジョークだけではないとして、しかしここまで何度も何度もあらわれるということは、やはり意味を持っているはずだが、それにしたって、いくらなんでもその言葉はないだろう。何万、何十万という死ははたして一言で吹き飛ばせるようなものなのだろうか。


たまたま社会学者岸政彦の『断片的なものの社会学』というものを読んでいて、そのなかの「笑いと自由」という章で引っかかっていた。マイノリティや被差別の立場にある人たちの自虐という話から、たとえそういう立場になくても、自嘲・自虐をもって自分の人生に降りかかる理不尽と折り合いをつけ、人生を生きつづけていくということはある、という話がつづく。
少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。
(『断片的なものの社会学』 98p)
そして、筆者の岸がひどい話を聞かされていると笑ってしまうことがあり、よく誤解を受けるということが書かれる。
私は、他人が苦しんでいる話を聞いたとき、それがひどい話であるほど、安易に泣いたり怒ったりしたくない。だから、ひどい話を聞いて揺さぶられた感情が、出口を探して、笑いになって出てくるのかもしれない。
(同上 99p)
この説明は、きっと本当のことなんだと思う。じゃあそのように笑ってしまう人を信用できるかというと、それはどうだか僕にはわからない。そこが引っかかっている。
気の毒で辛い話を真剣に受け止めれば受け止めるほど、受け手はおそらく感情の処理に困るのであって、上記筆者はたまたま笑ってしまうというだけで、人にはそれぞれいろいろな気持ちのあらわし方があるようにも思う。あるいは、あらわせないことへのフラストレーションの宥め方、とでもいおうか。笑ってしまうこともあるだろうし、うまく聞えなかったふりをするかもしれないし、そのときそのときによって異なる場合もきっとあるだろう。
しかしいちばん簡単なのは、すぐに泣いたり、またはすぐに怒ったりすることだろうと思う。それがずるいとまでは言わないが、安易に「悲しいお話」や「怒れる話」に物語化することにより、他人のものとはいえ深刻な事態に直面することを回避している。経験的に言って、これらの人々はあまり信用ならないということは明言できる。


『スローターハウス5』に話を戻す。
この小説には、痛ましいものごとに対する不感症的態度が始めから終わりまでずっとつづいている。主人公は時間旅行者であるから未来になにが起こるかということを知っているということもあるが、それにしても、ほとんど動じない。
その彼が、ただ一度だけぽろぽろと泣くシーンが出てくる。戦争中、「何を見ても泣いたことはなかった」彼は、終戦直後に自分たちが馬車として酷使していた馬がどれほどひどい状態――口から血を流し、ひづめは割れ、発狂寸前にのどが渇いていた――にあるのかを知ったときに突然泣き始めた。
この反応は、動物愛護の観点からではなく、(作中では一言も触れられてはいないが)神経症患者的なそれとして注目したほうがより適切ではないのだろうか。
その人物を生み出したカート・ヴォネガットはそのことをじゅうぶんに知っていたのではないかと思う。彼自身はそうではなかったかもしれないが、戦争体験によって「揺さぶられた感情」の捌け口に難儀した人々をたくさん目撃したのかもしれない。彼はビリーを、少なくともほとんど泣かなかったという点についてはキリストに似ているとさえ記し、エピグラフにも載せたクリスマス・キャロルの四行連句をそこで再び引用する。
牛のもうもう鳴く声に
神の御子はめざめます
けれど小さなイエスさまは
お泣きになりません
(『スローターハウス5』 233p)
もう一度、「そういうものだ」という言葉について考えてみる。
トラルファマドール星人の考えのように、惨たらしく死んでしまった人物にもきっとあったであろうすばらしい瞬間が、消え去ることなく永遠に実在――「思い出」ということではなく――しつづけるのだとしたら、その死んでしまった人物の人生も、それほど惨たらしいものではなくなるのかもしれない。
ヴォネガットのつくった設定は、なにかの救いをもたらすことを目的としたのではないかもしれないが、しかし何万、何十万という死について忘れずにつけ足された「そういうものだ」という言葉は、何度も何度も繰り返されることによって、「死の瞬間以外を忘れるな」という意味を持ち始める。これは、「メメント・モリ」という「死を忘れるな」という言葉のまったく反対の内容だ。それなら、わかる。それなら、理解できる。

もうひとつ、書いておくことがある。
本書の冒頭でヴォネガットが戦友オヘアの家を訪ねるのだが、そこでオヘアの夫人であるメアリと少しもめる。メアリは、戦争を賛美・助長するような小説は書かれるべきではないと考えていて、そこでヴォネガットは彼女とそのような小説には絶対にしないことを約束する。
なるほど、この小説では戦争というものの勇ましい部分、一部の人間に特別な美意識を抱かせてしまうような部分等が、意識的に排除されている。
『スローターハウス5』で描かれる戦争には派手なところなどまったくなくて、いくつか出てくる死にも必然性はない。そのいづれもが、いたずらや皮肉やつまづきの結果によってもたらされたようなほかの誰にでも代替可能な死であり、そこから厳粛さや重々しさはすべて剥ぎ取られてしまっている。結果、われわれ読者が目にするのは、ばかばかしさやくだらなさの煮詰まったようなものだ。そして、ばかばかしく、くだらないためにこそ、そこに痛ましさを覚えるという仕掛けになっている。
ドレスデンの爆撃を直接には描かなかったのもきっと、安直に「悲劇」を物語に持ち込ませないためなのだろう。読者を宙ぶらりんの気持ちにさせても、ヴォネガットはメアリとの約束を守ったといえる。
あるいは、ヴォネガット自身が宙ぶらりんのままだったのかもしれない。
SFの手法によって巧みに編集されカムフラージュされているが、作品全体に流れるとらえどころのなさは、作者自身の混乱をそのままあらわしているのかもしれない。それくらい、戦争体験、とくにドレスデンでの爆撃体験は、当事者であるがゆえに彼にとって巨大で推し量れないものだったのだろう。
そのような観点に立ってもう一度この小説全体を眺め渡してみると、どこに喜劇の部分があったのかというくらいに、暗いのである。明確な悲劇が与えられず、読者も消化に苦しむ暗さ。その暗さの連続に堪えきれず、「そういうものだ」という言葉につい噴き出してしまうのは、岸政彦と同じような反応なのかもしれない。

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ちいと具合が悪くなって、すわインフルじゃありゃせぬかとかかりつけのようなそうでないような病院に行くことにした。

病院といえば、その数日前にまた別のどでかい病院の整形外科に行ったばかりだった。そこでは学生時代にいかにもスポーツをやっていました、もちろんいまでも現役ですよといった感じの若い医師と、これまたいかにも整形外科の看護師とはかくあるべしといった立ち姿と笑顔の美しい看護師とがいて、日頃からスポーツもやっておらず姿勢も悪く苦笑いしかできない者としてはいささか肩身の狭い思いをしたのだが、当方がそのとき不調だったのは肩ではなく、腰。慢性の腰痛が気になってこりゃほんとうにまずいことになるかもしらんと病院に連絡してからはやひと月。つまり一ヶ月待ちの人気のレストランならぬお医者さんなのであった。
「じゃあこの用紙を持ってこちらでお名前よばれるまで待っていてくださいねー」と案内されソファにすわって本でも読もうかしらと持参していた新書を開いているとやたらとハルマフジハルマフジとうるさい。広い院内にあるいくつかの待ち合わせポイントのすべてにテレビモニタが設置されており、そのスピーカーから流れてくるワイドショウの音がこちらの想定を超えてうるさく、本が読めない。他の待ち人たちは確実に僕より二十は年上の人たちばかりだったが、その人たちは気にしていないどころか画面に釘付けであーだこーだと意見を交わしていてなるほどこういう垂れ流し的な番組に対して垂れ流され的に受容している人たちがいるもんだから需給間に合っているんですねと納得。そのうち、名前が呼ばれる。
先生「どうされました?」「腰が」「どうして?」「たぶん仕事柄」と、あまり意味のない会話が交わされる。なぜかといえば、それは事前に渡した問診書みたいなものにすでに記入済みのことで、彼の手元にそのコピーはあるのだから。彼はそういう会話をこなしながら電子カルテにカチャカチャと入力しており、僕は適当にこたえながらその書かれている文字を眺め、「ああこの人やっぱり理系だからコロンじゃなくてセミコロンつかうんだなあ」なんてことを思っていた。「症状: 腰痛」というのではなく、「症状; 腰痛」というように。
それから、前屈をさせられ、そのあと後屈(というのか知らないけど、後ろに反るやつ)をさせられた。前屈が硬いのは知っていたが後屈が柔らかいと言われたのには驚いた。そんなもんですか。
それからベッドに横になり、片足を垂直に上げさせられた。「これからこの足を身体のほうにゆっくりと倒していくので、ぎりぎりまでがんばって腰をあげないようにしてください」
説明のあったあと、先生が僕の足に触った瞬間「こりゃ硬そうですね」と苦笑したので「そりゃ硬いですよ」と笑って答えようとしたときに足を倒し始めたもんだから、「いたたたたたたた!」と言うべきところを、「かたたたたたたた!」と言ってしまい、恥ずかしい思いをした。
だいじょうぶだと思うけれどレントゲンを撮るかと訊かれて、生来の姿勢の悪さから背骨の湾曲の心配をしていたところもあるので、撮影。その写真を見たうえで、先生から骨に以上はないという太鼓判を押されて一安心。ただ、いまの痛みの原因はわかっているので、腰にベルトを巻いたりストレッチをするようにと勧められた。
いちおう貼り薬も出しておきましょう、などと言いながら隣にすわっていた看護師さんにあーだこーだと指示を出していたが、そのときに先生のほうがなにかの言い間違いをしたらしくふたりで「ふふふふふ」と笑い合っていて、それを聴きながら心のなかで「ああ、おれこういうの知ってるど。こういうの、精神的イチャイチャって言うんだど。ふたりともヤマシイところがないからっつうんで、いまは大きな声で笑い合っちゃったりしてるけど、そういうのは学生のバイト同士くらいまでが関の山で、いい年こいたオトナはあんましやんねーほうがいいんだど。しかも片方が医者とくりゃこりゃめんどーなことになること必至だど。さーてうまいところで互いが身を引けりゃーいいんだがなー、だど。けけけ」とつぶやきながらも、表面上は仏頂面でいた。

話は唐突に冒頭に戻る。戻るったって一行しか書いていないんだが、そもそもは風邪の具合を見に上に書いたのとは別の医者に行った。「ちょっとインフルかもしれないと思い……」と来院意図を告げると体温を測られ、それから細身の医師に細長い棒のようなものを右の、ついで左の鼻の穴へとどりゃどりゃと突っ込まれた。これが、痛い。痛いという感覚の前に、非常に気持ちが悪い。来るとはわかっていても、辛い。でも、「すみません、それはナシの方向で」と言えるもんでもないし、そもそもインフル検査ってそれだしって話で、耐える。ただひたすらその数秒を耐える。
その後ろで、医師と比べればちょっぴりふくよかな看護師さんが、「うう、痛い。痛いですよね。痛すぎる……」と言ってくれる。なんだか笑ってしまいもするのだが、これがこの医院のめちゃくちゃいいところ。
腰痛でかかったところは大病院だが、ここはもっと町場というかこぢんまりしている。で、たぶんだけど、医師と看護師さんは夫婦。全然不釣り合いな感じなんだけど、たぶん夫婦。
夫のほうは、話せば優しいんだけれど外見は繊細・神経質そうで細身でおしゃれ。奥さんのほうは、豪放な感じもあるんだけど庶民的ですごく親身で親切で声が大きくて安心させてくれ、なにより、こちらが痛がっているときなんかに「痛いんですよねえ……」と非常に心のこもった調子で言ってくれる。去年のインフルのときに点滴でお世話になったのだが、そのときも「インフルエンザの全身の痛みってひどいものがありますよねえ」と寝台で寝ている僕に向かってわざわざ言って来てくれたりして、医者や看護師にそういうことを言われるとそれだけで気持ちがずいぶんとラクになるってことをもっと全国の医者・看護師は知るべしと強く思ったものだ。
医療関係者と患者の関係というのは、その出会いにおいてだいたいが不平等だ。平生であればノしてやるわいという相手でも、病院内での邂逅ともなれば、多くの場合こちらが体調不良であり、向こうが主導権を握ってる。「で、きょうはどうしました?」好きでもねーてめえの顔を見に来たってわけじゃねえことくらいわかるだろ、くそがと言いたいところをガマンしてああだこうだと窮状を訴えなくてはならない。
もちろんこれらは冗談で、互いが互いに礼儀を尽くせばなんの問題もなく、むしろ患者から医療関係者のほうへは感謝の念しかないという状態になるはずなのだが、そのような好ましい例ばかりではないというのがほんとうのようで、大きな病院に行ったことはあまりないのだが、そのわづかな体験のなかでも、若い医師や看護師なんかが高齢の方に子どもにものを言い聞かせるような口調で話しているのを見聞きして、気の短い家族でもいたらぶん殴っているかもしれないなと思ったものである。でもまあ、たいてい家族がいないときやっているんだよね。
まあ貫禄のあってやさしい看護師のおかげで、半分以上気分がよくなった僕は、薬をもらって家へ帰ってすぐさま横になった。と言ってもずっと寝ていたおかげでなかなか眠ることもかなわずなにか読むものはないかと机のうえを漁ったら椎名誠『わしらは怪しい探険隊』の文庫本が出てきて、おおこれはいいぞと思い、さっそくにページを開く。
この本はそもそもがYouTube上にあったTBSラジオのラジオドラマで知ったものなのだが、現在それを聴こうと思っても著作権の通報があったらしく音声ミュート状態。気の利いた人間ならさっさとDLしてアーカイヴしていたりするんだろうなあ……気の利いた人間ならね。
それはともかく、文章を読んでいくとあのラジオドラマはほぼこの文章を読み上げているだけだったということに気づく。いや、そうだろう。椎名調(シーナ調?)とでも呼ぶべきあの独特の文体を他人がへたにいじくったら台無しだった。
そのなかで、ふと隊長の椎名がテントをつかって野宿をしている最中に体調を崩してしまい、タバコをふかしながら「おれも年かもなあ」となんとなく思うシーンがあるのだが、このセリフと感慨が、いまの僕にぴったりだった。いや、へたしたらこの時期の椎名より年上かもしれん。
身体のなかに鈍い針のついたいがいがの重たい玉をずっと抱えているような気分がつづいて、なんとか寝てやり過ごそうと思っても、夢の中でその痛みをどうしようか大勢と相談している。「やっぱり仰向けだろう?」「いやいや、横向きがいいんだよこういうときは」「いっそうつ伏せは?」侃々諤々とやっているのだが、そのたびに身体を回転させても、痛みの方向性はすこし変えられても質と量は変わらなく、それで目が醒めると痛みは夢からの持ち越し。しかもこっちでは大量の寝汗を掻いているときている。急いで布団のそばに置いておいた着替えで早替えするのだが、そのときに二匹のネコが僕の腕を枕にして寝ていたことに気づく。ネコ族! こんなときにまで暖をとろうとして!
もうひとつの痛みは喉で、唾が飲み込みづらく、ぎりぎりまで唾が溜まってしまい、仕方なくごくりと飲むと、炎症を起こした食道部が擦れる。うえ。このせいで涎まみれで起きたこともあった。そのときもそばにネコ!
三日間でまともに食べられたのはリンゴとミカンくらいだったな。味もよくわからなかったし。けれどもなんとか食べなければとうどんを食べたところあたりから回復が始まった。いつ開けたかわからない天つゆをドバドバ入れたらなんだかその香りで急に食欲が出た。やっぱりあの醤油っぽい匂いは効く。お豆の国の人だもの。
看護師夫人の勧めた漢方のせいかわからないが、腹と喉の痛みが薄れていくにつれ、首と頭の痛さがはっきりしてきて、どうやらこれは別源らしい。熱は治まって風邪の部分はなんだか過ぎ去ったようだが、頭上部の疼痛は気になる。ということで、今度また病院に行ってみる予定。とりあえず年内に不調部分を解消させておいて、おそらく人手が足りなくなる来年のために備える。

なんだか別に書きたかったこともあった気がするが、忘れた。代わりに長いあいだ横になっていたときに天啓のごとく降りてきたいくつかの考えを記して終わりにする。
  1. NHKの番組の程度がほんとうにひどくなっていく気がするのだが、一方で良質な番組づくりがつづけられていることを無視することもできない。よって受信料支払者が、それぞれが納めた受信料を何%ずつどの部門に振り分けられるかが選択できるようになればいい。Nスペとか週末の朝方やっているドキュメンタリーなんかはこれからもつづけてもらいたいし、やっぱりドラマは外せないよなあ。情報番組? ぜんぜんいらねー。え、NW9? あれ桑子になって一度も観てねーわ、ゼロ!とかやりたい。
  2. 田口浩正の仕事が徐々に松尾諭に奪われている、ということをこれまで言ってきたが、これって大森南朋と新井浩文の関係でも同じことが言えるのではないか?
  3. 貴ノ岩の兄という人物が国技館で写った写真を見ると、いつも合成写真なのかなと思ってしまう。
  4. いまのこの日馬富士問題をいつか演劇にしたら面白いのではないかと思う。登場人物を、あえてモンゴル人力士およびモンゴル人関係者たちだけに限定して、しかも一人芝居。

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面白かった……とはなかなか言えるような内容ではない。けれども傑作だと感じられた。そう感じるには、まずヴェルーヴェン三部作の『イレーヌ』『アレックス』を読み終えたうえで、この『カミーユ』を体験するという手順が必要だろう。

この小説では、主人公のカミーユが相当に痛めつけられる。いや、肉体的に痛めつけられるのは彼の恋人であるアンヌなのだが、しかしアンヌを通して、カミーユが傷つく。傷つきながらカミーユは、彼女を救おうとして泥沼にはまっていき、周囲から孤立する。もういいよ、と音を上げてしまいそうになる読者も少なくないだろう。もういいよ、カミーユをゆるしてやってくれ。一刻も早く彼を平穏な日常に戻し、幸せにしてやってくれ、と。
だが、作者はその攻撃の手を弛めない。もともと作者は嗜虐的なのかと疑うくらいに前二作においても残虐な描写を繰り返してきたが、本作でも残酷な鞭は振るわれつづけ、カミーユ・ヴェルーヴェンは苦痛に呻く。そしてその辛く苦しい三日間の果てにあったのは、また別の痛みだったのだ。

別の小説の感想のところで、キャラクターものということについて少し書いたのだが、ヴェルーヴェン三部作にも魅力的なキャラクターが登場する。カミーユ、ルイ、アルマン、ル・グエン。
彼らの名前をすぐに挙げた読者は、しかしそれから少しして、カミーユ以外の記述が実はそれほどなかったことを思い出すかもしれない。カミーユは主人公なので別格なのだが、彼以外のキャラクターの視点で描かれることは、ちょっとした場合を除いてほとんどない。
しかしなぜか読者は、彼らが魅力あふれる人物たちであることを当然のごとく知っている。それはなぜなのだろうか。
逆説的にいえば、(ただの偏見かもしれないけれど)ラノベというジャンルが登場人物たちについて饒舌に語るのに対して、ルメートルは登場人物たちについてはあまり語らず、また彼ら自身にもあまり語らせないことによって、かえってその人物像の輪郭の芯をつくったのではないか。作者は、ほんの数ページのやりとりや、ときにはたった一行によってその人物自身や、周りの人物との関係性を鮮やかに描き出してみせる。そしてもちろんわれわれ読者の想像力も、彼らの輪郭を太く豊かに際立たせることに一役買っている。

唐突だが、本書『傷だらけのカミーユ』は、原題を『犠牲』という。一作目『悲しみのイレーヌ』は『丁寧な仕事』で、二作目『その女アレックス』だけは、ほぼそのままの『アレックス』。
こうやって並べてみると、原題のほうがよりその作品の本質をあらわしているように見える。特に『犠牲』というタイトルを知ってしまうと、それ以外に考えられなくなってくる。
物語の最終盤に、その犠牲について語られる部分が出てくる。その観点に立てば、この小説にかぎらず、三部作のいたるところに、誰かが、誰か/なにかのために、なにかを捨てる、という構図を見つけ出すことができる。
ある者は称讃を得るために犯罪をおかし、ある者は復讐のために自らの命を捧げる。また、友人を救うために大金を投げ出す者もいれば、愛する者を救うために自らの自尊心を捨てる者もいる。ほかにもいろいろ。
これほどまでに広義の愛(なかには自己愛もあるが)について描かれた小説だというのに、しかしその愛が結実することは、ほぼない。たとえば、とんでもない金持ちのうえに優秀でそのくせ慎み深いというルイは、上司であるカミーユに特別な敬意と友情を持っていて、窮地に陥っている彼を救いたいと思っているが、その慎み深さのゆえか必要以上のことはできず、悲しい思いを抱いている。アルマン、ル・グエンにしても同様の感情を持ちながらも、それでもカミーユとの一定の距離を縮めることはない。
この他者への距離感と愛情とが相矛盾しつつ並存しているというのが、この小説のいちばんの魅力なのではないか。
他人を理解することはできないという大前提に立ちながらも、決してニヒリズムに陥らずに、足掻く。この三部作に通ずる痛みや苦しみというのはほとんどそこから生まれたもので、だから読者も心を揺さぶられる。軽々しい虚無主義がときに思想的ファッションの意味しか持ち得ないのに対し、愛には、いつの場合も希望が残されているからだ。

最後に、この小説でいちばんぐっと来た一行を引用しておく。最後の最後にあらわれる文章で、ある人物の一人称によるものなのだが、詳細については書かない。
わかってはいたことだが、おれはこいつがずっと好きだった。
(371p)
ここにも、たしかに愛があったのだ。

コメント

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    • 1. あき
    • 2017年11月21日 17:27
    • こんばんは。

      読書感想、大変興味深く読みました。
      私は個人的にルメートルはとても映画的だと感じていて、それは舞台がフランスだからかなーと思っていました。キャラクターが立つとかラノベ的とか、…確かに!とにかくエンタメ性が高いんですよね。
      風景も小道具もセリフも、その人らしさを盛る楽しみというか、読めば読むほど親しくなっていくようにキャラクターづくりをしていて上手いです。
      キャラクター自体が渋くて地味な人が多いのでラノベだと気づきませんでした。
      犯人がいやらしくネチネチして嫌なヤツなので相対的に底上げになってるのでしょうか。

      悪役を悪役らしく悪く書けるのも、エンタメ性を高めていると思われます^_^
      まだまだルメートルは書き続けなければ。どんどん書いてほしいですねー
    • 2. ドロ
    • 2017年11月23日 17:33
    • もしかしたら書き方が悪かったのかも。ルメートル作品はラノベ的じゃない、と書いたつもりなんです。

      僕の読んだことのあるラノベってキャラクター先行で、そのキャラクター性を立たせるために世界像すら再構築しているところがあったんですね。だからその物語のなかでは「世界がたいへんなことになっているー」と言っているくせにその詳細についてはけっこうあいまいで、そんなことより(そんなことより!)「キャラクター」がうだうだやっていることのほうにより紙幅を割いていました。エヴァンゲリオンなんかも同じ構造だと思います(だから全然のめり込めませんでした)。
    • 3. ドロ
    • 2017年11月23日 17:33
    • でも、ルメートルのすくなくともヴェルーヴェン三部作については、きちんとした現実(といっても架空の世界ではあるのですが)のうえに立脚したキャラクターになっていて、彼らのリアリティを豊かにしているのが、あきさんのおっしゃるとおり、風景・小道具・セリフ等なんでしょう。
      僕もルメートルは映画的だと感じましたが、じゃあ、なぜ映画的と感じるのか。
      トートロジーになってしまいますが、映画的演出(≒映像的演出)が用いられているから、かなと思いました。
      具体的にどこがどうとはなかなか言いにくいのですが、たとえば、『アレックス』と『カミーユ』では冒頭からヒロインとでも呼ぶべき女性が理不尽な暴力に襲われ、読者をいきなりサスペンスに引きずり込みます。で、そこから火がついたように物語がテンポよく展開していく。これだけでも映画的という感じ。『カミーユ』にいたっては、ご丁寧に犯人の視点までが描かれていましたが、その肖像は絶対に明らかにならず、これまた映画的(『イレーヌ』はそういう意味ではちょっと例から漏れるのかもしれませんが、それはあの叙述トリックのせいだ、と言えなくもないし、あの作品は全体的に文学的ですらありますよね)。
      いずれにしても三部作全体にいえるのは殺人が猟奇的で、やはりこれも映像的・視覚志向的とでも言えるのではないでしょうか。

      映画的じゃない小説でも面白いものは山ほどあると思いますが、エンタメ系の小説で「映画的」というのはだいたいの意味において褒め言葉ですよね(冷笑的に「ハリウッド映画的だな」というのは別として)。こんなのをまた読んでみたいものです。
      あ、『天国でまた会おう』は近いうちに読み始める予定です。
    • 4. あき
    • 2017年11月23日 22:40
    • こんばんは。
      ちゃんと読めてなくて気をつかわせてしまいましたかね?申し訳ないです
      どうも三浦しおんさんの記事を引きずってしまったんですねー。
      実はラノベ自体が私は詳しくなくて。京極夏彦の魍魎の匣とか、三浦しおんの多田便利屋とか、そういうイメージで想像してました。エバンゲリオンもよく知りません^_^
      だけど京極堂とか多田便利屋とか読めば読むほどキャラクターを好きになるんですよねー。だからどんどん読めてしまうっていうのは、わりとあると思う。
      カミーユとかルイとかも勿論好きだけど、渋くって、なんていうか(高倉健)とか(田中邦衛)とか、なんか最後まで読んで悶えるみたいな。最初から好きなんじゃなくて最終的に好きになる感じ。「わかっていたことだが、俺はこいつがずっと好きだった」とかしびれるもの。間違いなく。そうでしょう

      どんどん読めてしまうイコールエンタメ性高い、って思ったのもよく考えたら違うかもなーと思いました。京極夏彦や三浦しおんもそう言えば面白くない作品もあったな、と。
      どんどん読んで最終ページでなんかガッカリすることありますよね。
      最後の最後でキュウーっという気持ちになるのが自分の好みなので、そういう作品は良エンタメ評価はかなり上がります^_^

      私は最近「ミレニアム」ハマってます。スウェーデン作家です。これもかなり映画的。先が気になってどんどん読めてキャラが良くて終わり方も最高です。いいですよー
    • 5. ドロ
    • 2017年11月23日 23:33
    • いえいえ。僕もそれほどラノベ読んでいないくせに、だいたいこんなもんだろうと法則見つけて(とその気になって)一区切りつけているだけ、です。
      あと、言うほどバカにしているつもりもないんですよね。奇遇ですが、このあいだ弟と京極夏彦もヘヴィなラノベだよななんてことを話していたところなんです。ヘヴィなラノベってなんだよ矛盾してんじゃんかよって言われそうですが、京極堂の出てくる作品って、とにかくまあ舞台装置とか意匠なんかがド派手でオドロオドロしくてわかりづらくなっているとは思うんですけれど、でも最終的には「出ました! 京極堂!」とか「待ってました! 榎さん!」なんていう歌舞伎みたいな世界だと僕は感じたんですね。
      そういうメインキャラクターが花道に登場するのをいかに華々しいものにするかに血道を上げている、という点をとれば、そもそも京極夏彦がラノベの親玉だと思っております。
      三浦しをんは、のちにBL系の本やマンガが好きってことを知り、それでキャラクター偏重型の作品になっていることに理解を持つようになりました。作家個人としては好きです。

      で、これまた奇遇ですが、ミステリ系について完全に後塵を拝している弟にいま現在、北欧系ミステリを勧められているところで、ルメートルをやっつけたらそっちのほうに進もうかと思っていたところでして、あきさんもどうやらわたくしのずいぶんと先を行っているようで(僕が遅いだけかも)。

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これまでは、きっとあんなもんだろう、こんなもんだろう、と敬遠して読んでこなかったのだが、いざ読んでみたら、よくも悪くも読みやすかった。

よい点。
物語がいい意味で単調でベタに展開し、そのためすらすらと読める。
この読みやすさっていうのがけっこう大切なことだと実感していて、10月に入ってやっと仕事の忙しさからやや解放されたとなって図書館に行ったところ、第一冊目として手に取ったのが西尾維新の『掟上今日子の備忘録』で、ラノベのこの笑っちゃうくらいの読みやすさ・薄っぺらさが、リハビリ的な意味合いの読書として、非常によかったのだ。
なんにも考えずに文字を読むことができたうえで、単調な展開ながら「あ、そうなんだ」程度には心を動かすことができるというのは、じつは大変なことなんじゃないか。
よく言われることだが、さまざまな娯楽が発達した現代において、読書というのは、それなりに時間がとられるうえ、かつ能動的な行為を要求されるという意味では、なかなかにその体験者を選ぶところがあって、「本を読むくらいだったらSNSやっていたほうがたのしい」とか「アプリのゲームするわ」なんて考える人がいてもまったく不思議ではない。別に読書をしているから偉い、SNSやゲームは偉くない、なんて思わないしね。
読書をするからには、読書のほうに他のものにはないなんらかの優位性を見出しているはずなのだが、その優位性を「これだ!」と確認できる機会は実はなかなか少なくて、『バラカ』の話じゃないけれど、さんざん読んだあげく、「え、これでおしまい? ひでえ!」なんて感じることはゼロではない。僕なんか、ちょっとでもイヤなところがあると心中で不満が噴出し、読書じたいが進まなく、余計に時間がかかってしまう。「こんなことあるわけないよ」とか「めちゃくちゃ適当に書いてるな、ここは」とか。
そういう決して一筋縄でいかない体験である読書のリスクヘッジのひとつの指針として、読みやすいものを選ぶ、ということが挙げられるのではないか。
読みやすく単調な展開のものを選べば、少なくとも時間はかからない。時間がかからないから、「費やした時間を返してくれ!」という不満が湧出する蓋然性は低くなる。そしてそういう不満がなければ、多少面白くなくとも、「ま、こんなものか」と赦せるのである。

悪い点。
これは「よい点」の裏返しで、あっさりしすぎて、あまり心に残らない。するするするっと記憶のふるいからこぼれ落ちてしまう。そばをささっと啜ったときのように、なんだか物足りなさだけが残る。
本書は、辞書編纂に関わる人間の物語だが、その核となる辞書編纂が、よくできた「装置」以上のものには感じられなかった。もちろん、言葉に対する情熱や愛着、細部への拘泥や執心を描いているわけで、作者自身も言葉や辞書について相当な関心・愛情を持っているのであろうが、そのいづれもがこちらの想定の範囲内で、ことさら新鮮な驚きがあるわけでもなかった。


ちょっと前までは、新しい中型辞書の新版などが出ると、井上ひさしがコラムで言及したりしていたものだよね。新版でなくても、丸谷才一、高島俊男、柳瀬尚紀(彼は作品社「日本の名随筆」で「辞書」の編者になっていた)たちのエッセイで、辞書についての彼らの一家言なんていうものをけっこう目にしたせいもあって、そこらに較べると『舟を編む』に出てくる描写は、そこまで深いところまで行ってはいないなという印象を持った。カタログ的というか、きちんと取材をしているため必要な情報は揃っているが、それ以上のものを得ることは難しい、という感じ。もちろん、辞書のつくり手と、それの非常に優秀な読み手、という観点の違いはあれど。
この「装置」の使い方で、小川洋子の『博士の愛した数式』を思い出した人は少なくないだろうと思う。あれは、数学版。こっちは辞書版。そこにヒューマンドラマを絡めていっちょあがり、なのである。
ま、それでもいいのである。多くの読者は、ある単語の世に知られている誤った語源解釈をただす、なんていうディテールに興味があるわけではなく、ふだんあまり知ることのない世界をほんのちょっと垣間見ることができればじゅうぶんなのだ。
すぐれた作家というのはその要求にきちんと応えることができ、三浦しをんもその仕事をじゅうぶん果たしている。
言葉という大海を渡るための舟が辞書であって、辞書づくりというのはその舟をつくることなのだ、というフレーズが幾度となく出てくるが、これをロマンティックだと感じられる人たちはじゅうぶんこの本をたのしむことができるだろうし、うーん、ちょっと陳腐かなと思う人たちは、それなりの感想しか得られまい。ここがたぶんいちばんわかりやすい好悪の分かれ目になると思う。

さて。
内容についてちょっと感じたことを書くと、この小説の登場人物は、かなりキャラクター的で、こういうところにいい意味でのラノベっぽさを感じた。「人間性とはなんだ」とか「もっとリアリティを」なんてことをいう前に、面白くなるための役割をあらかじめ振り分けておいて、その範囲内で活躍してくれればいい、というのが先に書いた「キャラクター的」という意味だ。
なので、主人公の「まじめ」は、最初から最後まで同じままだ。ヒロインっぽい役どころの「かぐや」も、まあ、そもそもそのイメージが覆るほどの登場回数が与えられていないし、他の人物たちも同様。ただ、西岡というチャラい人間だけに、人間的成長の見られる部分があって、その点がこの小説のハイライトだと個人的には思っている。
あとは予定調和の世界(西岡の成長ももちろん予定調和内なのだが)が粛々と進められ、最後はそれなりに感動させるようにできている。
僕の大好きな上方落語『はてなの茶碗』という噺のなかで、主人公である大阪出身の油屋が、いわゆる「はてなの茶碗」を京都の茶金という茶道具商のところへ持っていくと、主人の金兵衛の代わりに番頭が品物を鑑定するのだが、そのときに、茶碗を見る前に、茶碗を包んだ風呂敷を褒める箇所がある。
「ええ風呂敷どすなあ。更紗もこれぐらいになると……」と言って、油屋に「風呂敷はどっちゃでもええねん」とツッコまれるのだが、この「更紗もこれぐらいになると、」という褒め方がなんとも風情があって、好きなのだ。
『舟を編む』という小説を読み終えたとき、「エンタメもこれぐらいになると、やはりいいもんですな」という感想がぽっと浮かんだ。
これまであまり褒めてこなかったように見えるかもしれないが、どっこい、そんなことはない。適度な登場人物たちによってこれまであまり知られてこなかった世界が紹介され、最後には爽やかな感動を得られる、っていうのは、じゅうぶんに価値のある小説だと思う。中学校・高校の図書室の書架にぜひ並べてほしいものだ。わかりやすいので、映画化やマンガ化、アニメ化もしやすいと思う。
僕個人は、ものすごく気に入ったというところまではいかなかったが、作者の技倆に、職業的作家ってこういう人のことを言うのだろうなと思ったのだった。

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桐野作品は初めてだったのだが、うーん、次を読もうという気にはなれないなあ。

今年読んだあるマンガ家の短篇集に、アイドルについての作品が収録されていたのだが、非常にがっかりした。そのマンガ家には頑張ってもらいたいという期待感があったので、余計にその失望感は大きかった。
というのも、その作品に描かれているアイドルとアイドルヲタクとの関係性が既視感にあふれているというか、作者の「感動的に見せたい」という意図に反して、その界隈のことを「やや知っている」程度の僕ですら、いやなんかこれ、現実に見聞きするエピソードのほうがよっぽど感動するんですけど、たぶん、作者はアイドルファンじゃねえな?なんてことを思ってしまったのである。
このことが『バラカ』にも言える気がする。つまり、震災にまつわる「現実」のほうが、この小説で戯画化されているようにも映るディストピアより、よほどおそろしく、また深刻なのではないか、と。
オビ文にも書いてあったことだからネタバレにはならないと思うのだが、この小説のなかでは、東日本大震災で福島第一原発がすべて爆発したということになっており、その後の日本が描かれている。
首都機能は大阪に移り、それと一緒に多くの人は「西」に逃げて、「東」の人たちの差別や迫害はひどく、国は必死で原発関連の情報を隠蔽・検閲し、あるいは、来るべき2020年の「大阪オリンピック」にみなが夢中になっていて、「東」はまったく関心を持たれなくなっている……というおそらくは作者のものであろう批判の数々は、すべてとは言わないまでも、いま現在の社会にもかなり通用することがあって、それならば、福島第一原発がすべて爆発した、などという設定をわざわざ持ってくる必要はなかったのではないか、とついつい考えてしまう。
そんな「非常事態」にならなくても日本の社会はじゅうぶんディストピア化しているところがあって、そこを直視したほうがよほどこわい、という気もする。650ページ(!)近くのフィクションを読むより、被災地の風評被害や、放射線にまつわる差別、あるいは国家によるメディアに対する圧力などについてのルポルタージュをそれぞれ読んだほうが、よほど学べるものが多いのではないかということだ。
ちなみに本書は三部構成で、大震災前、大震災、大震災八年後となっている。

あとは、つらつらと不満点を挙げていく。

大震災前のパートで、登場人物のひとりである女性テレビディレクターが自分の製作した番組を放送するときにツイッター上で炎上が起こるのだが、2010年ごろってツイッターはまだそれほど盛り上がっていなかった気がするんだけど。
その頃、テレビ局が公式アカウント持って「いまから放送します」みたいなツイートをしていた、なんてことあったのかな。いまちょっと見たら@NHK_PRが2009年11月の登録となっていた。うーん、かなりギリギリかな。
やっぱり、ツイッター人口が劇的に増えたのって2011.3.11以降のような気がする。2010年4月スタートのあるドラマがツイッタードラマみたいなことを謳っていて、それを契機にツイッターを始めただかハマっただとかいう脚本家がいたことをなんとなく憶えている。あの頃は、ツイッターって日本で流行るのかどうかなんてことがまだ言われていたのではなかったっけ。

ひとり、自称「悪事の天才」が出てくるんだけど、それがかなりしょぼい。それでもなぜか彼が日本の悪全体を背負っているような構図になってしまっていて、そのことが小説全体のうすっぺらさの縮図みたいになってしまっている。
また小説の舞台も、東京、福島、ドバイ、それからサンパウロがちょっと……と、一見かなりめまぐるしく行ったり来たりするのだが、それがまるでステージの書割の転換みたいな軽さで、その場所場所が登場する必然性はほとんど感じられなかった。おそらく、震災、原発、放射線汚染後の世界、という大きな物語の枠組みをつくってしまった以上、そのぶん世界を拡大して描こうとしたのだろうけれど、成功していない。
が、どうしようもないくらいに魅力のない登場人物たちのなかで、この「悪事の天才」のストーリーだけは、やや惹かれるところがあった(最終的にその興味は失速に失速を重ねて消滅してしまうのだが)のも事実。やや、ね。というより、その人物と主人公のバラカ以外は、まったくといっていいほど、魅力がない。

あと、びっくりするくらいに人が死ぬ。
震災だから、ということじゃなくて、たぶん作者にとって必要のなくなった順に、どんどんと死んでいく。そうなると、読者が登場人物たちに対して愛着を持てなくなる。「どうせこいつも死ぬんでしょ」としか思わないし、実際その程度にしか描かれない。
また、漫☆画太郎のマンガみたいに、トラックに轢き殺されるという死に方が複数回出てくるのだが、思わず笑ってしまった。

それと個人的に感じたのは、作者は女性が嫌いなのかな。前半の登場人物に女性がふたり出てくるのだが、これが仲がいいという設定なはずなのにコミュニケーションをすればするほどいがみ合う。お互いがお互いに対してどこか気に食わないところを持っていて、その部分を軽蔑したりしている。
しかしもうちょっと客観的に見ると、ふたりとも浅慮で見栄っ張りな性格だというのは共通していて、ふだんの主張は威勢がいいのだが、いざとなるとずるずると流されてしまい、「弱い」といえば聞えはいいが、つまりは愚かしく描かれており、いくらなんでもティピカル――しかも保守的なおっさん層が安直にイメージしがちな典型象――にすぎると思われた。
別の登場人物に強烈なミソジニストがいるのだが、彼のセリフにやけに実感がこめられているように感じたのは、少々ヒネた読み方だっただろうか。

まあとにかく、なんだかんだの些細な短所は、最終的な尻切れトンボ感によって簡単に一掃される。650ページの果てのこの結末はいくらなんでもないだろう。夢オチかと思ったくらいだ。
もうちょっと広げた風呂敷の畳みようっていうものがあるはずで、作家としての誠実さを心の底から疑った。
この作家はけっこう有名なもんだから、ふだん小説を読まない人が「なんか有名な人だよね。どれ、読んでみようかな」と思って手にとったらたいへんなことになると思う(実際、僕が読み始めた動機もそんなもの)。大部のため無駄に名作感を醸し出しているようで、失望感もその反動で大きいのではないだろうか。なんだ、小説ってつまらないなと思って、その人が以後読書をしなくなったら、その罪は大きいよな……なんて、作者の責任とはいえないようなことまで考えてしまったのだった。けっこう先入観を持たずに読み始めただけに、非常に残念。

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どでかい台風もあって、深夜まで見回りをして、翌日には生活用水がどろどろの泥水になって、ってけっこう日常生活はめちゃくちゃだけれども、本を読んだり、映画を観たり、ラジオを聴いたり。

春日太一『仲代達矢が語る日本映画黄金時代 完全版』というのを読んだせいで、仲代達矢が主演している小林正樹監督の『切腹』が観たくなり、借りた。
ひとことで言うと、まあすごい傑作である。日本の1950~60年代の映画館の来客数はいまから考えると信じられないほど多かったようで、あるところのデータを見ると、ピークは58年でなんと11億人(!)、『切腹』の62年も半減したとはいえ、6.6億人。ちなみに去年は1.8億人だったようです。ゴジラと前前前世とすずさんでめちゃくちゃ盛り上がったみたいだけど、そんなもんなんだねえ。

で、『切腹』なんだけど、なにがすごいかって、まず竹光で切腹するところのリアルさ。
詳しくは書かないけれど、ゆえあって貧窮した武士が、切れるわけないのない竹光で切腹をせねばならなくなる。ここで、カメラを当該武士の腹の部分から外して苦痛に悶える表情をとってぼやかすのかななどと思ったら、さにあらず、その腹の部分をこれでもか、これでもかというくらいに映す。
当然武士は、魂である真刀を売り払ってしまったことや、狂言切腹を図りそのあげくほんとうの切腹を命ぜられるという恥や辛さも味わっているはずなのだが、しかしそんなことがどうでもよくなるほどの激烈な痛みと苦しみが、画面を覆うのである。これを直視しながら、痛痒も感じないという鑑賞者はいまい。文字通り身を捩り、一刻も早く武士に死が訪れることを願う。もういいだろう、もういいだろう、と。
なんとか腹に竹光を突き立て腹を血まみれにしたところで、武士は介錯を願う。鑑賞者も、そうだそうだ、早くラクにしてやってくれと願う。
ところが介錯人役の丹波哲郎が「まだまだ! もっとかき回してからじゃ!」と刀を抜かない。痛みは永遠につづく……。

まあ、書いていても苦しいのだが、つまるところ、このようにあえてむごたらしく描写することによって、武士の体面とか面目というものの美名の陰に、陰惨さと残酷さと強制とがあることをさらけ出したのだろう。
これはもしかしたら、62年当時の観客にはそれなりの実感をともなって伝わるものがあったのかもしれない。というのも、この時代であれば戦争体験者は多かったであろうから、集団的狂気を身をもって知っているはずなのである。たとえば、戦死者を御国のために死んだ英霊などといって万歳三唱するなど。
『切腹』のなかにある痛烈な批判は、武士社会に対してだけでなく当時の日本の社会に対しても訴える力があったのだろう。そしてそれは、現代にも通ずる。
たとえばいま「ソマリアでトラックが爆発し数百人が死亡した」という文章を読むとき、われわれのほとんどは痛みを感じていない。なんとか一命をとりとめ、傷つきながらその場を一目散で逃げ出す人たちの喉の渇きすら、想像していない。想像できない。
理不尽さ、暴力、無慈悲さ、貧しさ、飢え、そして、はかり難い痛苦。これらを、無意識にブラックボックスに放り込んでしまっているわれわれにとって、『切腹』という映画の鑑賞には、痛みをともなう。

しかしこの映画のすばらしいのは、それだけではない。
仲代達矢と三國連太郎の存在感はしびれるほどで、仲代が意識して出していたという低音ヴォイスは当時三十歳にも満たない実年齢を隠し、どころか孫までいる中年の武士を演じ尽くしている(ちなみに娘は岩下志麻だ)。はじめはとぼけたように、わざと焦点の合っていないようなまなざしのまま応対をし(ユーモラスなほどで思わず笑ってしまうところもあった)、後半では憤怒の化身、虐げられた者たちのための不動明王となって暴れ回る。
三國の、陰のある家老役もこれまた大迫力だ。極悪人というわけでもなく、かといって小人物でもなく、現代でいえばまさしく中間管理職なのだが、かといって権力を持っていないというわけではない。
これは現代とまったく変わらない構造だと思うのだが、「上」とか「世間」などに忖度(「忖度」を狭義にしか解さない、というのはやめにしてもらいたいが、ここではあえて2017年的狭義における「忖度」を意味している)したり、あるいは組織の維持のためという名目をもって、自らより下のものを徹底的に痛めつける。この種の暴力のおそろしいところは、実行者が責任回避の意図をもっておこなわれる点だ。彼は、自分でない誰か・なにかのことを考慮して、ときには「不本意ながら」という保留をつけつつ、手をくだす。そのため、この暴力にはかえって際限がなくなる。
太平洋戦争当時でも同様のことが行われていたに違いないし、いまでもおそらくはそう。学校や会社組織内でのいじめ・パワハラにも通底している問題だ。

時間を行ったり来たりする構成によってミステリー仕立てにもなっており、もう端から最後まで、隅から隅まで文句のつけようがない。
現代において時代錯誤的に、「武士の誉れ」とか「日本男子」なんていう言葉を軽々と口に出す輩にこそ観てもらい、その浅はかな思慮に一考を促したいもの。半世紀以上前の映画が、いまでもわれわれの眼前に突きつけているものがある。

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小説の感想、ということになるのだろうか。
作者の母親の闘病についての記録、というほうが近く、そこに家族の関係や、作者自身の過去などが語られていくのだが、読みやすいといえばそうとも言えるけれどなにか特別な工夫があるわけにも見えないため、迂闊に小説と言ってよいものか、迷う。
という僕は別にジャンルにこだわっているわけではなく、もしドキュメンタリーとしてとらえると実母の闘病およびその死について個人の感じたことに、他人がなにか評価を下すようなことはそもそも間違っていると思っているため、躊躇してしまうのだ。それくらいこの文章は、誰かの日記を一冊の本という体裁にまとめました、と言われて「そうなのか」とすんなり受け取れるくらいに、さらっとしている。
その「日記のようなもの」とか「日記」そのものに文学性はないのかというとはたしてそういうこともないのだろうが、批評の対象とするにはやや逡巡をおぼえるというのは人として当然で、でもまあ、出版されてより公の目にさらしたいという願望が作者にはあるわけなのだろうから、いったん私小説ということにして感想を述べるとすると、やはり、物足りなさが残ったという一点に尽きる。

作者をよく知らない僕としては、「私」にほとんどよい感情を持てず、その考えや行動に対して疑問を持つところも少なくなかったが、それはまあ日記ではないとすれば、つまり小説だと考えれば受け容れることは可能で、それくらい人間というのは切羽詰まったときは理不尽になるし、冷静さを失うものだ、と理解できる。繰り返すが、好悪の感情とはまったく別だ。
また、両親や親戚(特に父親の姉妹)とのやりとり、そして病院関係者との交渉などはわりあい細かく描かれるため、それらにおける困難やすれ違いには読者も疲弊してしまうくらいなのだが、もちろんそういう点を挙げて、「読んでいて辛い気持ちになる」なんていう甘ったれたことを言いたいわけでもない。むしろ、傲慢で横柄で人間としてなにか欠落した倫理観を持つ医者たちと接するにはICレコーダーをもって臨むのは必須なのだ、という実学的知識も得られる。
余談だが医者に限らず、保育士、看護師、介護士、教師など人と接することが多く、かつ、相手に対して(たとえば飲食業の接客などのそれとは較べものにならないくらいの)多大な影響を与えうる職業においては、往々にして流れ作業的・やっつけ作業的・機械的応対と呼ぶべきものが見られるが、それらはおそらく無意識の自尊の念に由来するものであって、でかい車に乗っていると自然と気が大きくなってしまい、小さい車や歩行者に対して高圧的態度をとりがちである、ということに近い。そうそう、上の職業に僧職もくわえたい。ああいう思い上がり、なんとかならねえものか。

話は戻り、しかし上記の総体が、「私」というものをその名に冠している私小説かというと、そうとも限らないだろうとも思う。
この本のことを「小説じゃない」という人があれば、まあそうだよね、と頷いてしまうだろう。「いや、これこそ小説だよ」という人があれば、ブログで同じようなことを書いている人がもはや山ほどいるというこの世界で、そういうものとどこか違うところがあるか?と素朴に尋ねてみたい。この質問には悪意や皮肉の意図はまったくなく、単純に、わざわざ小説と銘打つための根拠を知りたいのだ。

回想部分の挿入の仕方とか、辛く腹立たしい箇所について描写を淡々と重ねるところなど、そりゃ素人ではないのだろうな、計算はされているのだろうなということはたしかにわかるのだけれど、しかしそれにしても、やや粗雑な印象は消えない。たとえば禁煙ファシズムという言葉に象徴される、おそらくは作者が日頃から抱えている信念などが本筋とあまり関係のない形で出てくると、作品としての体裁に、破綻とは言わないまでも罅が入るのが感じられる。思ったこと・感じたことをなんでもかんでも書いていけば、それは垂れ流しになってしまう。それはブログや日記ではありうることだし、なんにも問題はないが、こと小説となればノイズに映ってしまうのではないか。
たとえば平和主義者の私小説で、まったく関係のない箇所で唐突に「それにしても憲法9条は守らなければならない!」と書かれていたら、それはそうなのかもしれないけれど別のところで書いたらいいのではないか、と思ってしまう。作者がそう思った・そう感じたということはたしかに事実なのかもしれないけれど、たとえ事実だったとしても書かれるべきことと書かれるべきではないこととの弁別は、作者にあってしかるべきではないか。むしろ私小説家であれば、そのわきまえる判断こそが求められる能力なのではないか。

とはいえ、それが小説か否かとか、ブログや日記となにが違うのかとかなどの疑問をいったん脇に置いておくとして、親しい者の死の予感というものが個人に与えるという、人生において非常に重要な場面――それが他者のものだとしても――を目の当たりにすることで、いろいろと考えさせられるものがあった。
この小説にも、いままでとうてい読む気になれず回避していたある病気についての小説やその他の文章を、自分の母親が罹患したとわかってからは貪るように読んだということが作者自身によって書かれており、なるほど作家でもそういうものかと思った。
大きな事件、事故、病気あるいは災害などによって傍観者でいられなくなる瞬間というのはあるのだろう。たとえ本人が直接に遭遇/罹患/罹災等をしたわけでなくても、親しいものが当事者となってしまえば、やはり傍観者ではいられなくなる。そこでおそらく、世界ががらりと変わってしまう。
死は誰のうえにもやってきて、ある日、世界からとてもたいせつな誰かがなくなってしまう、ということは古今東西さまざまな形で語られてきており、それは誰にでもわかっていることだが、しかしそのことを心の底から受け容れている人間は少数派だろう。おそらくその瞬間が自身に到来するまでは、言葉として、概念として理解するにとどまり、実感することはなかなか難しいのだろう。だから混乱し、動揺する。
僕がこの作者の立場になれば、おそらく記録することすらままならず、このようにまとまった文章にすることはできない。そういう意味では、作家としての最低限の役割を果たしているといえるのかもしれない。感動するかどうかは別として(おそらく純文学に属する小説だからそもそもそういう目的にない、と作者に言われそうだが)、これを読んで、僕の日常の感覚にひとつ不穏な罅が入った。たぶんそれが文学の仕事なんだろう。

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再読したのは一週間前に同作者によるヴェルーヴェン三部作の第一作『悲しみのイレーヌ』を読み終えたから。
『イレーヌ』は、ネタバレなしに書くのはなかなか難しいので触れないようにするが(傑作!)、あの作品を読み終えただけのままだと読者にはかなりのショックが残るだけなのではないだろうか、ということに気づいた。
僕の場合、そしてけっこう多くの日本の読者も、まずはじめに翻訳されベストセラーになった第二作『その女アレックス』を読み、それから『イレーヌ』へと読み進めたであろうから、あらかじめそこでなにが起こるかわかっているという、ミステリーとしてはいちばんあってはならない環境のなか読書を強いられることになるのだが、その反面、『イレーヌ』でどうしようもなく打ちのめされるカミーユがそののちに復活することを知っている、ということに少しだけ救われもするのだ。それが、第二作→第一作という順番を不本意ながらもたどってしまった読者の享受できる、数少ないメリットだろう。

『アレックス』をふたたび読んで、あらためて感動しているが、この感動は初回以上のものだ。
これまたネタバレしないように書くけれど、初回には理解・共感できなかった彼女の残酷さが、二回目からはまったく違うもののように見え、そのいちいちに胸を締めつけられる。
絶望の淵へと涙を流しながら沈んでいくアレックスと、やはり絶望の淵でその底を覗き込みつづけ、そして物語の最後にそこから救われるカミーユ。
このとんでもなく哀しい物語の最後の2ページで、読者は人生の輝きといっていいようなものを見ることになる。こんなことはファンタジーで、現実にはありえないことかもしれないけれど、それでも、その幻想を知っていることに小説読者は確実に励まされる、そんな輝きとしか呼ぶことのできないようなエピソードに、ふたりの主人公ほどではないだろうが暗く沈んだ気持ちに浸っている読者たちは、ちょっとした浮揚感さえ与えられる。
それと最後の最後に、それまでさんざん気障ったらしく間抜けでどうしようもないと思っていたわれらが予審判事が、読者がいちばん聞きたいと思っている言葉を言ってくれるというのが、とてもしゃれているなとあらためて思った。
この小説が個人の復讐譚であることはまちがいないのだが、この予審判事の言葉のおかげで、現実において痛めつけられている弱く小さな者たちに代わって作者が、世界という無慈悲な存在に対して大いなる復讐を試みているようにも見えてくる。フィクションは微力かもしれないが無力ではなく、ときに大きな力を持つ場合もある。感傷的な読み方かもしれないが、そのような感想を得たのだった。

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    • 1. あき
    • 2017年10月25日 23:24
    • 私はこの日曜に『天国でまた会おう』を読み終えたのでした。ルメートルのミステリではない小説なのですが、やっぱりぐちゃぐちゃのいやらしい奴とか出てくるんですけど、ハラハラと読み終えたら無性に爽やかで驚きました。
      妙に良いのです。
      初めから途中もずっと惨めでイジイジしてたりするけど。サッパリと終わるので良いと思います^_^もし未読ならおすすめしたい

      『傷だらけのカミーユ』は読まれましたか?これはなんか辛かったです。。。

      『アレックス』最後の最後が本当にいいですよね^_^最後を読むためにまた始めから読みたくなりました!

    • 2. doroteki
    • 2017年10月26日 00:19
    • あきさん

      こんばんは。
      『傷だらけのカミーユ』は、これから読もうと思っているのですが、その前に桐野夏生の『バラカ』が立ちふさがっていて、いま1/6ほど読んだところ、これがなかなかおもしろくないのです。これから先、おもしろくなるのかな。

      で、『天国でまた会おう』ってのも、探して読んでみますね。
      ミステリーじゃないとどうなるのか、というたのしみもあるのですが、彼の作品を読んでいて、なんか文章を読んでいるだけでぐいぐいと引き込まれていくドライブ感っていうのを特に強く感じました。
      最近、ひさーしぶりに読書をしているのですが、日本の小説だとあまり感じられなかったこのドライブ感が、なぜかルメートルの2作品には感じられました。なぜだろう? 読み終えて振り返ってみると、死体の山なんですけどね。それもかなりグロいやつ。

      そうなんだけど、なんか空虚じゃない。よく翻訳ものは登場人物たちの会話が不自然だとかそういうことが言われますが、そんなのってすごく些細なことだと思います。すくなくとも全然そんなことを感じなかった。
      それより、(たまたまなんでしょうが)より「自然」なはずの日本語小説が、全然しっくりこなかった。それが不思議なんです。面白くないんだよ、って言っちゃあそれまでですが。
      ちなみに読んだやつでブログに書いていないのは、西尾維新『掟上今日子の備忘録』、矢作俊彦『引擎』、小野不由美『残穢』。

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