とはいえ、わからないでもない

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最近ちょっと引っかかったこと(かつ瑣末なこと)。

ほとんどウォッチしていないところなのだが、いよいよ全面禁煙が図られる、みたいなことを風の噂レベルで聞いた。といっても僕は非喫煙者なので細かな規定というのはわからないし興味もわかないのだが、分煙はわかるけれど、完全禁煙って、それはそれでどうなのかと思う。副流煙や歩きタバコの問題が回避できれば、ある程度喫煙場所が設けられてしかるべきだと思う。
健康のため、とか、公共(またもやオリンピックが口実か)のため、という大義名分を振りかざして個人の嗜好・自由を制限するのが「成功」してしまうと、次は禁酒、次は……と際限がなくなるようなおそれがある。
過去を思えば、あらゆる場所でぷかぷか吸われるような状況じゃなくなったいま、もう充分な気がするのだけれど。

時事通信の3月の世論調査のニュースを読んで、現政権への支持率がいまだ50%を超えているというのを知ってたいへん驚いた。しかも、新共謀罪の法案に対しては6割を超える人間が賛成か。すごいな。最近オーウェルの『1984』を読み終えたせいかもしれないけれど、日本人って監視社会を自ら望んでいるとしか思えないな。
支持率を見たところ、たぶんあの教育勅語の問題に関しても(僕からすれば信じられないほどの)多くの人間が問題なしとしているのだろうな。すごいよな。いわゆる「右傾化」という言葉が叫ばれてひさしいけれど、保守というか、愛国カルト集団の皆々様にとっても、今日こんな地点まで来られるとは思ってもみなかったのではないか。この状況をスルーして、遠く離れたトランプを批判している人がいたら、そいつはだいぶ頭がおかしいと思う。対岸の火事より、お前んちがすでに火事なんだよ。

がらり話は変わって。
最近の広告代理店のイースター推しは滑稽すぎる。ハロウィンもだいぶ無理があったけれど、いったん成功しちゃったもんだから、次はイースターってことになったんだろう。お次は謝肉祭で、その次は……アメリカの独立記念日を祝ったりしたら面白い。そんで、紀元節、天長節の復活! それなら政府も喜んでバックアップしてくれるよ。  

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昨年の文化の日のことだった。一年に一回のイベントのようなものがあって、そこである男の人に声をかけられた。「どう? 元気にやってる?」
その声の調子と表情から一度ならず挨拶や言葉を交わしたことがある、ということは明らかだったけれどすぐには思い出せず、「ええと誰だっけかな……」と心中考えながらも「そうですねえ、今年もなかなか……うまくいきませんでしたねえ」なんて適当なことを言いつつ、できのわるい検索システムをフル稼働していたのだが、そのとき、ある女性が視界の隅に入り、そこでその男性が誰だか思い出すことができた。
もともと僕はその女性のほうと知り合いで、たぶん彼女ははじめて会ったときですでに五十代も後半に入っていたはずだからいまはもう六十に手が届いているはずだった。男の人は、その女性の夫だった。
人懐こい人で、一度思い出せたら、その人好きのするしゃべり方や仕草までも一気に思い出すことができた。その前に会ったのが、ちょうど一年前の同じイベントでのことだった。一年という時間をあっという間にジャンプして、僕たちは隣人のように話した。黒く日焼けをした、とても元気な人だった。

その人が、昨年末に死んだということをきょう聞いた。事故死だった。
話を聴けば、人間、そんなもんで死んでしまうのだろうか、というくらいにあっけない事故で、それを教えてくれた人間も、半ば笑いながら話した。
不謹慎だ、と思う人もいるだろう。けれども、話を聞いた僕も半ば笑いながら聞いたのだ。もちろん、げらげらと笑ったわけではない。僕はまず驚き、それから、笑うしかないから笑った。そういう種類の笑いだった。教えてくれた人もたぶんそうだったのだろうと思う。
僕はやっと四十になろうというところだが、僕のまわりにいる人たちは六十代で若いほう、七十代がざらだ。教えてくれた人も、七十は優に超えている。その人たちにとって、死はいつもかなり近いところにある。両親はとっくに死に、同級も半分以上は死んでいる。病死のほかにも、事故死、自殺、などいろいろな死に方を目の当たりにしてきたと思う。
いろいろな事情が考えられるが、この七年間で僕も、都市部に住んでいた三十数年間で出会った死のおよそ十倍の死に出くわしている。深夜に救急車の音がわりと近くで長く響いているのが聞こえたら、喪服のありかをすぐに思い浮かべるくらいにはなった。
それでも、知り合いが亡くなったことを知らされれば、ついこのあいだ会ったばかりなのに、と思わないことはない。そして同時に、家族や特別に深い友人であったりしなければ、実にあっけないことのようにも感じてしまう。
話に聞いた状況から判断するだけだが、今度亡くなった人は死ぬ間際に、「あ」とだけ思ったのではないか。あるいは、「あれ?」かもしれない。いづれにせよ、ほとんど苦しまずに逝けたことを願う。 

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次々作の朝ドラのヒロインが葵わかなになったと知って、特に驚きもなかった。
2015年からのヒロインを見ると、土屋太鳳→波瑠→高畑充希→芳根京子→有村架純→葵わかなという流れは、朝ドラヒロイン的という観点からすると波瑠以外はすべて納得の配役。波瑠が嫌いとかそういうことじゃなくて、線の細い美人ってのは少しイメージが違う気がしたのだ。次々々作はもう松岡茉優でいいんじゃないかな。
ブクマを確認したら2014年の9月には彼女(葵)をチェックしていたというのが判明したのだが、たぶんこれはラジオドラマの好演が原因だったと思う。声の感じがよくて、そこからその人物を知った、という流れ。オモコーの芳根京子の親友役もやっていた。まあ、ドラマは観ない可能性が高いが。

キャスティングといえば、今朝、ヤフーのヘッドラインで「水戸黄門を武田鉄矢が演じる」というのを見て、エイプリルフールにゃ早すぎると思ったのだが、どうやらほんとうのことらしい。
印籠を見せてからの説教が長そう、名前の由来を懇々と教える、漢字の話をよくする、オリジナルのテーマソングを自分で唄う、マルちゃんがスポンサーにつく、などといろいろなことが頭をよぎる。
 
ヤフーニュースといえば、「ゆとりですがなにか」のSPが夏に放送されるとかいうのがあって、これは嬉しい驚き。またまりぶが観られるなんて、ほんと嬉しい。
 

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いまさらながら観始めていて、いま第4話まで来た。みくり「恋人をつくろうと思いますが、考えた結果、ひらまささんにします」というところで終わる回。
やらなくちゃならないことが多いのですごくさらっと書いておくと、観る前には絶対萌えると思っていたガッキー、というか、ガッキーに萌えるために観ようと思っていたのだが、いざ蓋を開けてみると、まったく萌えない。どころか、このみくりさんという人物が大っ嫌いだということがわかった。まあ、ドラマを観ているとだいたいの女性キャラクターをキライになる、っていうのはよくあることなのだが。
で、石田ゆり子は……やっぱりうーん、という感じ。流行っていた当時は、「○○歳とは思えない!」なんていう褒められ方をしちゃっていたのかもしれない(というかそういうフレーズを実際目にした)けれど、ふだんからあんまりそういうところを気にしたことがない――つまり、年齢のわりに若い!とか、そうでないとか――僕は、フラットに見て、女性としてそれほど魅力的には思えないというのが正直なところ。容姿が整っているために彼女のセリフや存在感に重みがあるのだとしたら、それはキャラクターの魅力じゃなくて、石田ゆり子の魅力だろうから。
同じ理窟で、みくりさんが、ガッキーじゃなくても好きかどうかっていうと、ガッキーの容貌をもってしても「こんなやつ、どーでもいーや」と思ってしまうのだからなあ……。これ、つづきを観ていくと好ましく思えるんだろうか?

じゃあまったく観る気がしないかっていうと、そんなことはなくて、星野源がめちゃくちゃかわいいから観ている。愛されない感じ、とかすごくよくわかる。ふんぎりをつけるために、もういっそ手放しちゃえばいい、とか。
あとは、古田新太と藤井隆のところがおもしろい、っていうのがなんとかドラマの推進力になっているのかな、というふうに見ている。それ以外の場面は、僕にとってはけっこう中だるみに感じてしまって、まだるっこしい。というか、全だるみのなかにポイントポイントで「お」と思えるところがあって、なんとか観つづけられるというのが現在までのところ。
風見さんとか、申し訳ないんだけど下手くそすぎて、観ている側が素に戻っちゃうんだよな。ガッキーも、特別うまいっていうわけじゃないから、星野源との対話なんかだとなんとか立脚していられるものを、風見さんとふたりで話していると、けっこうきつい。なので、このドラマを観るときは必ずアルコールを入れるようにしている。たぶんシラフだと電源オフにして終わりにしてしまうから。

どうしても杏&ハセヒロの『デート』と比較してしまうのだけれど、丁々発止という言葉がまさにふさわしかったあちらの脚本とくらべて、こっちの脚本はどうも隅の隅まで締まっている感じがしない。たとえば、風見さんに対してイケメンイケメンと臆面もなく連発するみくりさんだけど、これって、男女逆転させたら、けっこういやらしい男じゃない? 美人に対して「美人はいいですよね」ということを連発する男って、意図的であれば当然気持ち悪いし、無意識であっても、なーんか気持ち悪いものを感じる。わざわざそんなこと面と向かって言わねーよ、っていうのが僕の感覚なんだけど、そっちのほうがおかしいのだろうか。もちろん、みくりさんを自信満々に口説き気味の風見さんは男女をどう入れ替えたって気持ち悪いんだけど。
あと、いろいろなテレビ番組のパロディをやるにしたって、ちゃんとやりきったほうが面白いと思うんだけどなあ。情熱大陸はTBS系だからちゃんとロゴまで使って窪田等つかってやっているのに、ビフォーアフター(テレビ朝日)のパロディでは加藤みどりを使わなかったのに、なんだかなあ、と思ってしまった。「他局」だから? 視聴者にとっては知るかそんなもん、だよね。
あと、『奥様は魔女』をはっきりと言及してしまっていたのは野暮ったかったなあ。で、エヴァは言及しないんだよね。ここらへんに、振り切れていなさを感じてしまった。
あと、キャストの8割が不満。風見さん、石田ゆり子の部下たち、ガッキーの幼馴染等々……なんか、一定基準すら満たしていなくて……ヒットして注目浴びたかもしれないけれど、今後は辛いだろうなあ。あと、新垣結衣というタレントはキライではないからけっこう大目に観ているけれど、みくりさんは、『精霊の守り人』をやっている綾瀬はるかに対する「うわあ……」という気持ちといまのところはあんまり変わらない、ってことは書いておくことにする。

まあとにかく、いちおう主人公はガッキーなはずで、彼女の一人称的独白部分は多いのだけれど、でもやっぱりその彼女がどうしても空虚に思えてしまって、これが工夫の凝らされた演出のせいで、もしかしたら、回を重ねることによって感情移入できるようになっていくのかもしれないが、いまのところは、あまり期待できない。でも、つづきは観ることにする。
なんだかんだいって、でもやっぱり星野源はかわいいよ。

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最近の仕事上のトピックといえばスクラップ&ビルドでしかなく、とりあえず、肉体作業に従事している間に時間がいともたやすく流れ去っていく。10年前の僕は、将来防護メガネをつけて、サンダーやら小型切断機なんかを使って鉄管相手にバチバチと火花を散らすことになるなんて想像もしていなかった。仕事は強制されているものではないのでその内容にはまったく不服はないのだが、しかしもともと体力が存分にあるという人間ではないので疲れてしまい、帰宅してからなにかをしようと思ってもその気力が残されていないのが残念なところ。
満を持していまさらながら『逃げ恥』を観ようと思ったがTBSのオンデマンドは月額いくらという設定になっており、この月末で加入するのはいささかもったいないということで来月はじめのたのしみにとっておくこととし、かといって早々に大河ドラマは見切ってしまったので(一点、柴咲コウは歌はうまかったということを思い出させてくれた、というのがほぼ唯一の発見)、特段テレビをつけても観るべきものは発見できず、仕方なしにというわけでもないが積読になっていた本を読んでみるとこれが実に面白いものばかりで、「こりゃあネットを眺めているバヤイではないぞ」とひさしぶりに読書にひたることをたのしんだ。
小説なんかもう読めないだろうなあなどと漠然とした悲しさを覚えていたものだが、ジョージ・オーウェルの『動物農場』をぱらぱらと読んでいたら実に面白く、その流れで最近またベストセラーにリストオンされたと評判の『1984』をつづけて読み、いまやめられなくなっている最中。もちろんドナルド・トランプ政権との相似という点で本書は話題になっているわけだが、その予言性にだけ着目するだけではもったいない(ただし、二回目以降の読書という意味ではそれもアリだとは思う)。まだ途中なのでなんとも言いがたいが、純粋に小説としてたのしめるもので、ディックのような――時代的にいえば、オーウェルのように書いたディック、なのかもしれないが――切実さと悲しみがあって、いまのところは僕ごのみの小説である。
トランプといえば、昨年の大統領就任または一昨年からの大統領選で日本では一般的に注目されたように思うのだが、僕の場合は2000年にリリースされたm-floの『Planet Shining』のなかのinterlude 4におさめられたフリースタイルに「ビル・ゲイツ、yo! ドナルド・トランプ」という言葉があって、そこで漠然とそういう金持ちがいるんだなあ、程度の受け止め方をしていたし、なんといっても、マクドナルドとかドナルドダックを連想させるファーストネームと、トランプというファミリーネームが憶えやすく、爾来その名前はなんとなく頭のなかに残っていた。
そのことを確認するために当該CDアルバムをひさしぶりに聴いてみると、アルバム内の設定として2012年(当時から見て12年後)の近未来ということになっていて、いまだにこの仕掛けに新鮮さを感じてしまう。interlude 4では、「saywatchugotta」という曲へのフリとして、3人のラッパーが好き勝手にしゃべっている(という体をとっている)のだが、そのなかで「むかしはCDなんてものを出していたし、デモテープなんてものがあったねえ。今や『デモレコード』をつくっているくらいで、レコードを自分ちでつくれるアナログのいい世の中になった」みたいなところがあるんだけど、これが現代の「一部」を予言していて面白い。実際にCDの流通は、日本はともかく世界的には減少しており、アメリカかイギリスか忘れたが、CDはもちろんもはやDLの売上よりもアナログレコードの販売金額のほうが上回った、ということがニュースになっていた。これはアナログ回帰ということも部分的には指摘できるのだろうが、より定額制のストリーミング配信に移行したユーザーが多いということの証左であるってことをどこかで見聞きした。まあ、それでもレコードが売れているということは面白い現象だとは思うし、2000年当時におそらくは「面白おかしく」のつもりで発したジョークがそれなりの意味を有してしまった、という事象もまた面白く感じられる。

話はがらりと変わるが、例の極右学校法人に対する報道を見ているといろいろな疑問が噴出して仕方がないのだが、当該理事長は、「安倍晋三記念小学校」なんて名前を考えだしたり、夫人を名誉校長に置いたりと、まともな頭の持ち主にはいっけん見えない。ものすごくストレートにとらえてしまうと、現政権と親和性の高い極右思想組織およびその構成人物が、その権力を笠に着て行政と癒着したというふうに見えるが、はたしてこの問題に出てくる登場人物たちは、大阪の財務局も含めて、それほどバカなのだろうか、とその点にまず疑問を覚えるのだ。億単位の国有地の払い下げ契約について相当恣意的な9割のディスカウントを行って(なおかつ交渉記録をすみやかに廃棄して)バレずにすまそうだなんて、マンガ家が発案して編集者に見せたら「いくらなんでもこんな設定は読者をバカにしている」と突っ返されるレベルだろう。
そう考えると、どうもあの学園の理事長が、安倍や日本会議を貶めその陰部に捜査の手が伸びるよう企んだとしか思えなくなってくるのだ。保護者への恫喝、狂信的に映る思想教育、隠そうともしない民族差別主義。そして例の事件についての、もはや矛盾のないところを探すほうが難しかった説明は、ツッコミ待ちをしているとしか思えない。こうなってしまうと、政権に擦り寄ったり、はたまたその顔色を窺ったりして様子見をしていたメディアまでもが動かざるを得なくなり、結果、現政権への痛烈なダメージを与えている(はず)。
陰謀論を支持することはあまりないのだが、しかしこの場合は、まさに有志の理事長と財務局トップとが密かに諮り今回の問題を企図したと見るほうが自然に感じてしまう。彼らは自分たちが罰されることを前提としていろいろなところで餌を撒き、それがじゅうぶんに達せられたと認識した時点で自らリークしたのではないだろうか。はじめはわかりやすい左右の対立構造を引き出し、そこから現在の「右」がいかに極端な場所に位置しているのかを明らかにし、右傾というよりは右落状態にある潮流を押しとどめ、あわよくば政権を打倒するとそこまで考えての行動、と読み取ることのほうが、「安倍晋三記念小学校」の設立を意図して行政に不当な癒着を持ちかけた(あるいは忖度させた)という構造よりよっぽど自然に思えるのだが。

またまた話は変わって。
小説だけではなく、積読本のなかにはドイツワインについて書かれたエッセイもあって、それをなんとはなしに読んでいたら非常に面白かった。岩本順子の『おいしいワインが出来た!』というものと『ドイツワイン 偉大なる造り手たちの肖像』 というもので、特に前者が面白い。
いままでなんとなく目にしていた、ワイン用のぶどうというものがどのように収穫されてうんぬんという記述は、ほとんどがワイン商の視点、つまりマーケティング戦略の一環として描かれているものであったが、本書は作者が実際にケラーというドイツの醸造所に飛び込み、一年間栽培に携わった記録となっていて、これを読むと、ワイン用のぶどうとはいえ、ほんとうに野菜や他の果樹の栽培と通底するところがあって実に親近感をもってたのしむことができた。もちろん醸造は、田舎の家庭菜園の視点からでは想像するべくもないが、それでもぶどうにはできるだけ手をくわえないでワインにするという思想は、商売者というより農家・百姓の考えのように感じられた。ごく単純に言ってその醸造所のワインに興味を持った。
きっとおいしく感じられることだろう。人間は舌だけで味わっているではないし、もし「純粋に」舌だけで味わおうとしたら、それ相応の訓練を自分に課さなければならない。しかしそのようにして得られるものは、じつは少ないと僕は思っている。味覚を業務の中心に置くような職業にでも就かないかぎりは。
誰々がこのようにして作った、とか、どこそこという場所には伝統的な栽培方法があって、とか、そのようなイメージが味覚に及ぼす影響は小さくないし、そこにいい意味で騙され乗ってしまったほうが、食はたのしめる。ワインでいえば、テイスティングとは試飲とか味見のことだ。それは試飲会やそれに類する場所で行えばいい。けれどもそんな場所にほんとうの食のたのしみがあるのだろうか。 ひとりでも複数でもいいけれど、僕は食卓にこそ食のよろこびやたのしみを見出す。料理自慢はあってもいいが、供された食事や飲み物に対して批判するなんて野暮の骨頂で鼻つまみ者。どうせならおもしろいエピソードを披瀝できるほうがよっぽど好まれる。僕は、嫌われる人間より好かれる人間になりたい。

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先日、実家に帰省したとき、「これ読んだことあるか?」と父から芥川龍之介の『蜜柑』という4ページほどの短篇小説というにも満たない散文を収めた本を渡された。「読んだことないなら、短いから読んでみろよ」
そのとき僕らがいたお茶の間ではテレビがついていて、『臨場・劇場版』が流れていた。内野聖陽という、ずっと「まさあき」という本名を用いていたもののその読み方が徹底されないためについに読みを「せいよう」と変えていろいろな方面を安堵させたあの役者――『真田丸』での家康はほんとうに好演だった――が主演をやっているドラマ発の映画、程度のことは知っていたがドラマも観たことがなかったのでいちおうチェックだけはしておくかと、流し見&流し読みを決行してみた。

映画は、柄本佑という、安藤サクラというすばらしい女優を奥さんにしているという点以外はいまのところ特に見るべきところもない役者がいきなりバスジャック&連続無差別殺人をおこなうショッキングな場面から始まるのだが、その瞬間、すぐに秋葉原の無差別通り魔事件が想起され、嫌な気分になった。ショッキングであるということもさることながら、非常に残酷な場面描写が、(秋葉原の件なのかどうかはさておき)ある特定の事件を連想させるような意図だけではない「なにか」がなければただの扇情でしかないはずだし、そしてこのドラマというか映画にそれを期待するのはきっと難しいだろうなあという直感がすぐに閃いたのだった。
犯人はすぐに逮捕され、当然というか例の刑法39条(「心神喪失者の行為は罰しない、心神耗弱者の行為はその刑を減軽する)が適用され極刑を免れたのだが、具体的に僕が期待したのは、上のセンセーショナルな描写はここ(刑法39条)に対する新たな問題提起への布石でなければならない、ということで、しかし結論から言って「被害者やその家族/遺族は悲しいよね、でもいまの法律上それは解決できないんだよね」という悪い意味での純文学的解決(別名「現実を黙認しただけ」)で終わった。やっぱりな、という感じだった。役者が悪いということはなく、原作は読んでもいないからなんとも言えないが、少なくとも映画の脚本と演出はひどい。
ひどい、ということは冒頭からすぐにわかったのだが、いろいろと文句を言うために――そして実際に家族にべらべらと文句を言っていた――観つづけることにして、いっぽう手元にある芥川も「なんだよこれ、いつの時代の話だよ(実際に古いわけなんだけど)」というむかつきがむらむらと沸き起こったためにストレートに読むことができず、「よし、いまCMが流れているから読もう」と思って目を数行走らせただけで、ツッコミどころが満載すぎるうえにすぐにオチというか結末への方向性みたいなものが見えてしまい、早々に発生した読む必要がないという率直な感慨が読書を邪魔した。そして、そういうときにかぎってCMは早く明けてしまうのである。

もうこれはひどいドラマなんだから読書に集中しようと思っているとやっぱりディテールというものは把握できないもので、なんだか唐突に(僕の感知していないところで必然性はあったのだろうと思うが)長塚京三が出てきていて胡散臭さ満点。平田満も「なにかやらかすオーラ」に満ちていて、というか、観ている側が「こんなところに平田満が出てきて、なにもやらかさないわけないじゃないか」と思うのは当然なわけであって、ここらへんがキャスティングの限界なんだろう。
と、偉そうなこと書いたが、これはなかなか難しい問題でもあって、結局なにかをやらかす犯人にまったく無名の人を配するということはできないだろうし、視聴する側も、なるべくフラットに観られる舞台に較べれば、映像のほうが演出意図というものをより大きく受け取ってしまいがちなので、バイアスがかかってしまうのだろうと思う。
話は横道に逸れるが、ひと昔前、2時間ドラマを観ていて山下容莉枝が出てきたら「はい犯人確定しました」って感じだったのだが、それが浸透してしまった反動なのか、いまや彼女は完全な善人役だったりコメディエンヌとして配役されることのほうが多くなり、遊民社の時代を知っている者としては嬉しい限り。それとは違った形ではあるのかもしれないが元MOPのキムラ緑子も、『ごちそうさん』以降、単なる脇役ではなく、 クセのある(あるいはクセを発揮してくれるであろうと期待させる)脇役として登場することが多くなり、これもただただよかったと思うのだが、いま気づいたのだが、ふたりともシス・カンパニー所属なんだな。で、シス・カンパニーのサイトをひさしぶりに覗いてみたら……峯村リエがいるじゃないか! ほらね、って感じである。
話を本線に戻して結論を先に持ってくると、平田満はやらかすのである。マジメな交番勤務の警察官ではあるのだが、冤罪の汚名を着せられたあげく自殺した息子のことが忘れられず、そこまで追い詰めた刑事・段田安則への復讐心はずっと持ち続けていたのだった! ……ってわけで、クライマックスのひとつが段田を追い詰める平田満なのだが、倒れた段田に向かって拳銃を向けたと同時に他の警察官と高嶋政伸がやってきて、平田を正論で説得する。単純な視聴者としては(もはや芥川どころじゃなく)「もう段田を殺しちゃえよ」と思いつつも、「ああ、こりゃ泣いて膝ついて拳銃を落として他の警察官に取り押さえられるパターンだろうなあ……」と予想したのだが、なんとびっくり、平田は段田を撃たずして自分のコメカミを撃ち抜いて自殺してしまうのだ。
けれども僕は、かわいそうとかなんとか思うよりも先に、ある直感が頭を占めてしまい、それが離れなかった。つまり、「これはあれだな、原作もそうなのかもしれないけれど、平田の今後を描くのが面倒になったんだろうな」という直感だ。
こういう事件でなにも起こさずに捕らえられた場合、その結末を、事件から数日とか数ヶ月経って、という設定で刑事同士が「そういえば平田のやつ、執行猶予になったんですって? / 案外はやくに出られそうなんですって?」みたいに話して説明するということがある。『相棒』なんかでもよく見られた風景で、このようなシーンによって同情の余地が大いにある犯人への視聴者の心配をある程度緩和させることができるのだが、このシーンを用意するためには、それなりにリアリティのある法的処置というものを考えなければならず、脚本家は専門家ではないだろうから、けっこう面倒なのではないかと思う。場合によっては弁護士などにコンサル料なども支払わなければいけないかもしれない。それがゆえに、「ええい面倒じゃ。自殺させてしまえ!」となったのではないだろうか。

 もうひとつのクライマックス。真犯人の長塚京三が、ストーリー上/法的には「歪んだ正義感」であり視聴者側からすれば「それを実践しなければすっきりとしない正義感」によって、心神喪失者を装っている柄本佑を襲い、あともう一息で仕留められるというところで、長塚の元教え子であり真相を理解した内野がやってきてそれをとどめようとする。柄本は銃で肩を撃たれて倒れてはいるものの致命傷ではなく、というか、「肩を撃たれただけだったら、このあとなにかあるで!」というヒネた視聴者であれば柄本への意識を決して忘れはしないのだが、現場にいて忘れようとしても忘れらるわけがないはずの長塚と内野は、まこと不思議なことに傍らに柄本なきがごとく(傍若無柄本)長々と会話をして、視聴者の意識を柄本から逸らせるよう必死だ。で、案の定、柄本がこっそり起き上がって長塚をナイフで刺し殺す。ほら言わんこっちゃない、のありさまである。
刺殺しただけならまだいいのだが(よかぁないが)、柄本はあげくのはてには「僕はまた無罪だ! ハハハ!」てなことを言ってまた視聴者の心を煽る。きちんとというかご丁寧に、長塚への正当防衛じゃないよ、ということを示しているのだ。そこに激怒した内野が仁王立ち。当然視聴者は、「よし内野よ、ここだけは討ち損じてはなるまいぞ」と応援する。その結果は……。
なんやかんやありまして、ビンタで終わります。
び・ん・た!
え? さんざん人を殺して心神喪失を偽装して、それをよしとしないとするいわば括弧つきの「正義」の執行人も返り討ちにして、ふたたび無罪を図ろうとする犯人を、び・ん・た?
すぐにでもPCを起動して、「ビンタ 人 死ぬ?」で検索しようかと思ったよ。たしかに内野に頬を張られて空中でぶるんぶるんぶるんっと回転してはいたものの、柄本は死にそうもなかった。ここで僕は、がっかりの駄目押しをしたのである。

『相棒』なんかで水谷右京が、「いやもうこいつ、絶対更生の余地なんてないだろ」みたいな犯人に対して「たとえどんなことがあっても、人を殺していいなんてことはありませんっ! あなたは罪を償わなければならないっ!」なんて激昂する場面があったと思うが、ああいう場面を僕はどうにも茶番というか欺瞞に感じてしまう。特に殺人という場合において、右京は贖罪というものをけっこう気楽に考えているよな、と。
彼の言う償いは、刑法というひとつのシステムのなかのひとつの制度の話であって、特に遺族がいる場合の、彼らの心に対する償いというものについては、たぶん表面上のことしか考えていないだろうと思う。それはおそらく哲学に関する領域だからだ。
わざと曖昧に語るが、少女像のことについてはともかく、「金を払ったんだからもういいだろ」と発言してしまうのは、制度や契約や取り決めに類する話だけを取って、他方厳然として存在する人間の心については無視している表現であって、相手側からすれば「もういい」とはなかなかならず、むしろ「しかたない、諦めるか」としていた気持ちにまで火をつけてしまう。そんなことがなぜ理解できないのか→言葉のあらゆる意味において頭が悪いから、という話になってしまうのだが、まあそれはともかく、実刑判決が出ても、あるいは極刑が執行されても、遺族が「ああ、完全にすっきりした」という日は絶対に来ない。そう考えると、右京がなにをもって償いとしているのかがより明瞭になってくる。すなわち法の執行人としての立場からの「償い」を要求しているだけであり、それなら淡々と執行するだけでいいのに、「決め」のシーンではけっこう顔真っ赤にして青筋立てて唾を飛ばして怒鳴る。上の観点に立てばそういう場面は、日頃事務的で穏健な役人が、ものわかりの悪い市民に対してキレている、というふうに見えなくもない。おまえがそこで怒ったってなにも解決しないのは同じなんだぞ、と。
『相棒』でなくても、刑事ドラマや映画などでこういう場面にわれわれは何度も何度も遭遇している。まったくうんざりするぐらいだ。犯人がつかまってよかったね、で心の底からすっきりできることはほんとうは少ないはず(犯人が野放しになっている、という恐怖から解放されることはあっても、捕まったら捕まったで、その人間がまたこの社会に出てくるという別の恐怖が生まれる)で、現実のわれわれは裁判の結果およびその執行までを注視する。他人事であってもそれくらいで、当事者やその関係者たちは、刑やその執行とはまた別に、長い時間をかけて自分の心のなかでその問題に対峙しつづけていかなければならない。
現実において、犯人に対する厳しい処罰が最良の解決方法だ、というのは人によって判断のわかれるところだろうが、せめてフィクションのなかだけはすっきりさせてほしい、というのは比較的多くの人に同意してもらえると思う。こんな卑劣なことをして、あんな残虐なことをして、という犯人が最終的に誰かに殺されたり、事故死したり、自殺したりすれば、どんなに気分がいいか。フィクションの世界の話であれば、「これで真相は闇の中に……」なんて誰も思わねえよ。思うわけない。
近年話題になったある外国ミステリで、主人公の刑事たちが「悪人」をわざと犯人に陥れて結末とするものがあって好評を博した。そりゃそうだろうと思う。レビューのなかには「法的に正しくない」というものもあったらしいが、おそらく作者はそんなことは百も承知で、だからこそそういうエンディングにしたのだろうとも思う。
一方、これは日本のあるミステリなのだが、高齢(中年とは言えない年齢)女性の犯人(たしか殺人犯)が捕まる際に対して、彼女に恋心を抱いている主人公(こちらも高齢)が「待っているよ」みたいに声をかけるところがエンディングであったと思う(もうだいぶ前に読んだものなので記憶が曖昧)のだが、「けっ」と思った。いやいやいや、もうずいぶんといい年だし、「出てきたら」っていうところに主人公や作者は欺瞞を感じないのだろうか、と。まあもともとたいした話(具体的に書くとけっこうなネタバレになってしまうので書かないが、トリックなどに主眼が置かれている話だったので、思想的には希薄な内容)ではないのだけれど、逮捕された犯人に対して「罪を償ってこいよ」っていうのはあまりにも陳腐であり安直で、21世紀に入ってもう15年以上経っているのだから、もうそういうのは卒業しようよ、というのが素人なりの感想だ。 
総じて、「刑を受けることで罪を償う」ということがどういうことなのか、それが加害者も含めた当事者に対して実際にどういう効果をもたらすのか/なにももたらさないのか、ということをまったく看過する物語であれば、少なくとも、「裁きを受け、罪を償いなさい」というようなセリフを出すべきではない。

刑法39条への問題提起はもちろんなく、それを悪用した柄本については、内野にビンタを食らって以降登場はせず、言及もなかったように思う(エンディングらへんはいよいよ惰性で観ており、やっと芥川にも集中していたので明言はできないが)。そこらへん、まったく素っ気ないほどだが、ここでもまた、心神喪失者を偽装していたことが遡って立証できるものかどうか、あるいは、生きていた柄本が長塚への正当防衛をたとえ主張したとしてもその場合の量刑やそもそも有罪か無罪か、等を明らかにするのは、手間を考慮すれば触れないほうがベターであろう、というコストパフォーマンス的観点から制作側が省略したようにも思えてしまうのは、平田満の前科があったから。
そして結局、冒頭の残酷な描写に話が戻ってくる。繰り返しになるが、もし難しい問題には触れないままエンターテインメントに徹するのであれば残酷な描写は控えめにするべきであり、ある種のリアリティに満ちた残酷な描写は現状の司法制度への意欲的な論点化とセットにするべきだ。そうでなければ、ショッキングな表現がただの撒き餌のように見えてくるだけだ、というのが僕の理窟。そしてこの批難は、鑑賞後もまったく修正する気が起こらないのだった。
公平に言えばこの映画では、被害者遺族のまったく救われない感情は描かれていた。見知らぬ赤ちゃんを救うために犯人の注意を自分に向け、結果殺されてしまった大学生の娘の両親は、時間が経つにつれ夫婦仲までも険悪になってきて、母親である若村麻由美は犯人を自分の手で殺すことまで考え始める。ここで殺せてしまえば、すっきりとするのだが、もちろん果たせずに終わりむしろ無力感に打ちひしがれる。このまま終了、となればはじめに書いたような「悪い意味での純文学的解決」で終わる。「純文学的解決」だけを取り出して簡単に言い換えれば、安易な予定調和では終わらせないよ、ということだ。
エンディングに行き着くまで丁寧に、かつなるべく事実に即したような表現で描いてきた場合には、そのような「リアルな結末」というものは相応しく、「解決していないじゃないか」という不満もそうそう起こらずに、むしろ「うーん、リアルで考えさせられるなあ」という高評価に傾くことが多い。けれどもこの映画の場合、それまでがそれまでなもんだから、「なんだよ、投げっぱなしにしたまんまじゃねーか!」と立腹するのは必至……とさすがに脚本家が案じたのか、エンディングは世にも奇天烈なものとなっていて、皮肉たっぷりに言えば「感動」があった。

若村麻由美はひとり町をさまよう。娘はもういない。糸の切れた凧のように、彼女を現実に引き止めるものはもうないのだ。ふと、夜の商店街でたったいま降ろされたシャッターに目が止まる。見たことがある絵がそこにペイントされていた。じっと立ち止まる若村に、少し太めの店主が説明をする。「これはある学生さんが描いてくれたんですよ」
それは、殺された娘の絵だった。いまにも泣き崩れようとする彼女に、ありし日の娘が笑いかける。まだ生きていた頃の娘。彼女の知っている笑顔の娘。そして彼女は、その娘を抱き締め、思い切り泣くのであった
え? え? え?
妄想というか、空想上の人物などが現実の人間に「安心してね」などのメッセージを伝える、なんていう場面はこれまで何百遍と観てきた。それらはだいたいの場合において、文字通りの感動をもたらすことが多い。しかし、その妄想/空想上のキャラクターが具現化して現実の人間と接触してしまえば、一転してギャグになってしまうし、そのキャラクターにつき纏われれば、今度はホラーになる。
し・か・も、である。エンドロールのなか、膝をつき括弧つきの「娘」と抱き合って泣く若村の遠景では、電信柱に凭れて背をこちらに向けている内野がいて、その抱き合っているふたりを背中で確認してから、ゆっくりと向こう側に歩き出していくのだ。いやたしかに、電柱の陰からこちらを覗いているわけではなかったから、内野は若村の妄想/空想を見ていない、というエクスキューズは成立可能だ。しかしそれにしては彼の背中はいかにも「はっきりと一部始終を見させてもらいました」と主張しており、そうなると、ある個人の幻想が第三者にも見えたとなってしまい、これはもはやギャグやホラーの表現ではなく、物語の最後の最後にして急遽、前衛アートに突入してしまったということになる。このぶっ飛び方は、ある意味で観ないと損だと本気で僕は考えていて、それくらい、はてなマークたっぷりのエンディングであった。

というわけで、いいかげんな観方をしたのでいいかげんな感想になってしまったが、まあ対象がいいかげんな映画だからそれでよかったのだろう。なお、役者の演技についてはそれほど不満は起こらず、若村麻由美の演技はやっぱり迫力があるなあという印象を持った。特に、若い頃の娘と一緒のシーンでは、当人も十年近く若返ったようにも見え、あらためて女優はすごいと思った。そのときの彼女は、まだ悲しみや苦しみに疲弊しておらず、幸せで美しい母としてそこにいたのだった。

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去年の春のドラマ『ゆとりですがなにか』の録り溜めしたやつをいまごろ見ている。
毎回どきどきした状態のままドラマのエンディングを迎えると、その直後に必ず同局の別の日のドラマ(『世界一難しい恋』とかいうやつ)の番宣が入っていて、それが波瑠と嵐のリーダーがどうやら主人公の恋愛ものっぽいのだが、どうにもこちらの見る気をわざと起こさせないような雰囲気がぷんぷんと臭ってくる感じなので、いつも鼻を鳴らして「停止」ボタンを押すのだが、おととい、『ゆとり』のほうの第6話か7話かを観て「おお」となって、それからまた番宣の波瑠が出てきて「けっ」となって、そこで停止ボタンを押したら、画面に柳楽優弥と波瑠が一緒に登場してなにやら仲良さそうに話しているのを観て、「え? え? え?」となった。柳楽優弥は『ゆとり』で、波瑠は『世界一なんちゃら』だろ? え? え? え?
ほんとに一瞬なんだかよくわからなくなってしまったのだが、これはつまり、いま現在、NHKの金曜のドラマ10で、柳楽優弥と波瑠が共演しているっていうただそれだけの話なのだ。
たまたま9ヶ月ほど前に毎週日曜に日テレの『ゆとり』を観ていた人なら、「あれ、なんか既視感のある組み合わせだけど、なんだっけなあ?」と首を傾げる程度なのだろうが、僕のようにいまさら録画物を観ている人間は、「すっげー奇遇!」となったことだろう。まあ共感してくれる人間は日本中に3人くらいしかいなさそうだけど。

で、『ゆとり』のほうの柳楽優弥は客引きをやっていて、「おっぱいいかがですか、おっぱいいかがですか」ばっかり言っている。それ以外のセリフもけっこう(というかかなり)いいことを言っているんだけど、いざ彼を思い出すと「おっぱいいかがですか、そろそろおっぱいなんじゃないですか」と言っているイメージしか浮かばない。その柳楽優弥が、あのお嬢様然とした波瑠と談笑なんかしつつ「つきあってもらえるんですか?」などと言っているところを観ても、どうしても「騙して店で働かすんじゃねーの?」とかしか思えない。
とは言いながらも、ほんとは『ゆとり』の柳楽優弥は大好きで、まあそのことを書く日がいつかあるかもしれないね。

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もう日付が変わってしまったから二日前の夜ということになる。電気カーペットをつけ、なおかつファンヒーターを動かして猫と一緒に寝そべったまま眠ってしまい、夢を見た。

巨大な駐車場を抱えたガソリンスタンドの敷地内。そのなかに離れて建てられた二棟のアパートの住人のひとりとして、僕はそこにいた。アパートは見るからに安作りで薄っぺらではあったものの、都会だからという理由でそれほど安くもない家賃を払うことになる、ということはわかっていた。つまり、僕はいまの僕ではない別の誰かになっていた。奇妙なことではあるが、僕はそのなかで「私」という一人称をつかっていた。
あるとき管理人に私たち住人が呼び集められ、外でいろいろな注意事項を聞かされていた。住人の一部には子どもの頃からそこに住んでいると言う人だっていたが、同時期に一斉にそこに入居した人たちも多く、私もそこに含まれていた。管理人の説明は、おもに新たな住人であるわれわれに対して説明をしているらしかった。ゴミを出す日とか、買い物をするのなら近くのスーパーならどこそこがあってとか、町内会がどうしたこうしたとか。たとえば、大雨の降った次の日のアパート周りの掃除は、いままでは管理人が善意でやっていたが、これからは住人自身で当番制でやってほしいということだった。はじめ管理人は、「元からいた人たち」を優遇するために「遠くから来た人たち」である私たちにそれをやらせようとした。「遠くから来た人たち」という表現が私たちのことを指しているということはすぐにわかった。ヨソモノであるし、部外者であるおまえらがすこし割を食ったっていいという理窟はわからないではなかったが、私は「それはおかしい、もともとの住人も含めて交代制にすべきだがかまわないか?」と提案すると、禿頭の管理人は「それでもかまわない」と応じた。覚醒した現在なら、その管理人のモデルが誰なのかは判然としているが、夢のなかでは当然ながら、それはわからなかった。
管理人の説明が終わると、われわれはそこで散会した。
住人のなかには一人暮らしの学生から、老夫婦、4~5人の家族などもいた。ブルーの制服を着た背の低い女の子が近くにやってきて、私の袖を引っ張った。高校生のようだったが、知らない顔だし、周りから変な誤解を受けても嫌なので、私は彼女を振り払い、住人のなかで同年代らしい男の集団が近くの書店へ歩き出したのを見て、急いでそれを追いかけた。女の子はかなしい顔をしていた。

5~6人の男たちとで書店の雑誌コーナーあたりをゆっくりと歩き回りながら、「おれはカメラが好きだ」とか「機械に興味がある」「車買いたい」などという彼らの自己紹介のようなつぶやきを聞いた。私は変に昂奮していた。彼らと話すのは初めてで互いに緊張し合ってはいたが、ここで新しい生活がはじまり、新しい関係を築いていくのだということがはっきりと知れたからだと思う。私は希望を持っているらしかった。どきどきしていた。
 
突然、音が鳴った。ファンヒーターの連続運転が3時間を超えたので、注意喚起のメロディが鳴ったのだ。目を醒まし、「運転延長」のボタンを押した。そばで猫二匹が、相似形に逆「く」の字の体勢で寝ていた。僕はすぐそこにあった夢が、もやいを解かれた小舟のようにゆっくりとではあるが此岸から確実に離れていっていることを名残惜しく感じていた。その瞬間、僕はさきほどの女の子が誰だったのかを思い出した。思い出せたような気分になった。
彼女は僕に伝えることがあった。「別の世界でわたしたちはお互いに会ったことがある」彼女が伝えたかったのはそのことだったのだ。
われわれは、寝るたびにいつも夢の世界に入り込み、そこでの生を生きている。起きればその世界のことは忘れ去ってしまい、次に寝るときにはまた別の世界にジャンプしてしまう。そこでは僕の飼っている犬や、僕の妹もいたのだろう。現実には僕は犬を飼ったことがないし妹もいないが、夢のなかで僕の袖を引っ張った女子高生は、かつて妹だったことがあるような気がした。理窟ではなく、唐突にそのことが諒解できたのだった。
僕は例のアパートにそれなりの目的をもって住もうとしていたに違いない。土地関係の交渉をしなければならなかったような気もする。そこで新しい友だちをつくり、新しい人間関係によろこび、苦しみ、それなりの時間を過ごすこともできたのかもしれない。
そのとき、妹であったかもしれない彼女ともう会えなくなってしまったことにようやく気づき、かなしく感じられた。
毎夜、僕の魂はいろいろな世界での<僕>や<私>を生きている。現実ではもう会えなくなってしまった魂とも、もしかしたらそこで出逢うことができるのかもしれない。
僕はこのことをメモしておいた。

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だいじょうぶ、実際に大統領に就任したのちはまともになるでしょう、みたいなことを平然と言ってのける、括弧つきの「専門家」にはもううんざりだし、訳知り顔で消息通ぶるやつも信じられない。やつらは、例の勝利宣言のときにまっさきに「見直した」とかコメントしていたのだから。
つまりこれは、非常に大時代的で古典中の古典、不良が雨のなか捨て猫を拾うと「いいやつ」、あるいは、ちょっとだけいいことをしたヤクザをすぐさま「いい人」と認定してしまう心理と一緒で、さすがにこのインターネットの時代、つまり情報の選択肢がある程度拡張された現代において、そういう幼稚で単純な人間もだいぶ少なくなっただろうと思うのだが、しかし、楽観主義というものをなかなか手放さない人は多いらしく、意地悪な僕は、そういった人たちこそが、ギロチン台に自らの首を差し出しながらもなお「またなにかの冗談だろ」と笑っている様子を見たいとも思うのだが、しかしそれでは大きな不満を、的外れな場所で小さく爆発させようとしているだけで、本質的な解決を見ない。

なぜか知らないが、いろいろなものが同時発生的に壊れるってことはあるもので、ちょっと外出して帰ってきたら風呂場の給湯器と冷蔵庫が動かなくなって、おまけに車のワイパーのウォッシャー液も切れた。給湯器は裏庭にあるので、雪の降った翌日、表玄関を大回りして裏口の小さな門を開けようとしたら、錠の取っての部分が壊れて外れた。家の外壁もそっと指で押したらドリフの全員集合のオチのように壮大に崩れるんじゃないかと思ったがそういうことはなかった。そのかわり、落ち葉で詰まった雨樋から雪解け水が大量に溢れ滴り落ちて、僕の足元を濡らした。

地味であまり知られていないであろうアイドルグループがこの1月に終わりを告げ、そのメンバーのひとりが、お別れの挨拶の一環として他のあるメンバーに対し、「あの時私を引き止めてくれてありがとう!(ずっと言いたかった)」とツイートしていて、なにも知らない僕の胸にも迫るものがあった。このような無数の小さなきらめきが、僕たちを励ます。

なにも知らずにテレビをつけると日テレがまた安直に視聴率を稼ぐため『千と千尋の神隠し』を放送していて、仕方がないから、くされ神が湯屋にやってきて体内に抱えた大量のゴミの山を千たちに引き抜いてもらうところまで観て、スイッチを消した。何度観てもこの場面はすっきりする。また、釜じいのところの炭の精霊みたいなチビスケたちが飯として金平糖をもらう場面は、いつ観ても愛らしい。あの色のコントラストもよく考えられているし、ひとりひとり(一匹一匹?)が別々に動くため、それぞれがきちんと生きているという感じがする。
けれども総体としてこの映画の印象はいつも曖昧なままで、「……音楽がよかったなあ」という感想を抱くのみなのである。

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年末は三谷作品にどっぷりという感じで、年が明けてから軽い喪失感。
とはいっても、『真田丸』ではない。あれは大坂城で哀川翔と岡本健一とがやたらと幅を利かせて「ザ・学芸会」をかましてくれたので辟易し、ついに我慢ができなくなってネットに避難していた際に、たまたまYouTube上で舞台版『ラヂオの時間』を観たのであった。いまこれを書いている現時点でも、『真田丸』は残り2回を残して未見のまま。うーむ、興が削がれすぎてしまったんだよなあ、あの2人のせいだけで。
それはともかく、『ラヂオの時間』が予想以上に面白かったのでほかになにかなかったかと検索してみると、『王様のレストラン』がヒットした。第1話から最終話の第11話まですべてあって、それぞれ2回~3回観た。
1995年のリアルタイムでは家族が観ているものをちょこちょこと覗くといった程度で、本腰を入れていなかった。いまになってその家族に訊いてみると、両親にしても弟にしてもやはり本腰を入れて観ていなかったようで、特に弟はギャルソンやコック連中の態度がどうにも好きになれなかったということを言っていて、それを聞いてたしかに僕も、稲毛(梶原善)や梶原(小野武彦)らが松本幸四郎演じるギャルソンに陰で文句を言っているという点に苛立ちを覚えてなんとなく距離を置いたことを思い出したのだ。

といっても時は20年以上経ち、それなりに感ずるところも変っているであろうと観てみたわけだが、これがとても面白かったのである。
とりあえず観終えて日も浅く役名を書くほうがラクなので、参考となるよう役名/俳優名をリストアップしておく。
  • 千石 武 - 松本幸四郎
  • 原田 禄郎 - 筒井道隆
  • 磯野 しずか - 山口智子
  • 三条 政子 - 鈴木京香
  • 水原 範朝 - 西村雅彦
  • 梶原 民生 - 小野武彦
  • 稲毛 成志 - 梶原善
  • 大庭 金四郎 - 白井晃
  • 和田 - 伊藤俊人
  • 畠山 秀忠 - 田口浩正
  • 佐々木 教綱 - 杉本隆吾
  • ジュラール・デュヴィヴィエ - ジャッケー・ローロン
  • ナレーション - 森本レオ
当時を知る人にとってはなんとも懐かしい顔ぶれということになろう。和田役の伊藤俊人はすでに故人となっているし、そのほかにも、自らがそのキャラクター演技に縛られ飽きられてしまった者(僕の印象では三谷組はそういう人たちが多い)、スキャンダルによってあまりその名前を見なくなってしまった者、代替する役者に取って代わられてしまった者、などもいないわけではないが、しかしこの当時はまったく輝いていた。この作品になぞらえて言うならば、「誰かが言った、すべての舞台には光がある、と。このドラマには、いわゆる奇跡が詰まっていた。脚本家は脂が乗っていたし、役者たちは、その誰もが、掛け値なしにぴかぴかに輝いていた。まるで、まだ誰も使っていない厨房のように(森本レオ)」ということになる。


松本幸四郎はまぎれもない日本の伝統文化の担い手の中心人物であり、そのような人間をこともあろうにフレンチレストランのギャルソンに据える、というのはいまとなればものすごい奇策のようにも感じるが、どうあれ、それは最高のマリアージュとなった。彼の持っている独特なブレスの使い方があまり類を見ない間(ま)をつくりだし、エレガントかつコミカルなキャラクターを形成させた。彼のいない『王様のレストラン』は考えられないし、またこの作品を観た者は、彼の役者人生のなかに千石という役名が大きく刻まれているのを見るはずだ。

オーナー(ロクロー)を演じる筒井道隆は、20年前はどうにも好きになれなかった。優しすぎてただのマヌケに見えるし、彼の一本調子のしゃべり方も気に食わなかった。それが、いま見ればなんとなく許せるようになった。思えばこの「優しさ」というのは三谷作品にはけっこう見られるもので、いまより若い頃の僕には優柔不断のようにも映ったのだ。そして、優柔不断は僕にとっては非常な悪だった。
いまでも優柔不断は好きではないけれど、それでも「そういうこともあるかもね」という一定の理解を持つことはできるようになったし、そもそもこのロクローというのは優柔不断ではなく、情の深い芯のある人物だということもわかった。ただ、底抜けにお人好しだったわけだが。そんなキャラクターを愛せるようになったというのは、僕にとってはちょっとした驚きで、嬉しくもあった。
後に詳述するが三谷の作品には、日和見主義だったり、すこし意地悪だったり、裏表のある人物が出てくることがある。しかし、彼らは底の底では悪人ではなく、どこか愛すべきところが残されている。少なくとも作者はそう思って人物をつくっている。たしかカート・ヴォネガットが父親に「おまえはほんとうに悪い人間を描くことができない」と言われたと記憶しているのだが、三谷にもどことなく同じ言葉が言えそうだ。そしてまた、ロクローのみんなに対する優しさは、上に挙げたような小人物たちの救いにもなっている。そういう意味で、このドラマのシンボルにもなっている存在なのだと気づいた。

シェフ(しずか)の山口智子はとてもキュートで、同じような言葉を重ねてしまうがとにかくまあチャーミングなのだ。
女性でいえば、三条さん役の鈴木京香は対照的に美人で、自ら「愛人顔」と称し、実際に愛人役でもあるのだが、こちらはごくごく一般的な恋愛をしていると感じてしまう。こんな美人だったらまあ愛されるし、くわえて当人も他人に優しいのだから、それってつまりあまり変化球のないストレートな恋愛だよね、と憧れを抱きながら思うわけだ(鈴木京香は鈴木京香で、他には得難い個性というものを魅せていることは註記しておくけれど)。
けれども千石に対するしずかの言動っていうのは、男子学生のファンタジーみたいなところがあって、あまりにも天衣無縫でうぶでそのくせ天邪鬼で、観ているとこちらが赤面してしまう。これは万人の好むものではなく、なかにはものすごく嫌いという人もいるだろう。だが僕の場合はいまだにティーンエイジ・スピリッツを抱えて生きているので、ああいうのは全然アリなのだ。

他を一挙まとめて書くと、メートル(梶原)の小野武彦と、コミ(和田)の伊藤俊人、パティシエ(稲毛)の梶原善と、スーシェフ(畠山)の田口浩正は、先に書いたような小人物ということになる。それぞれが心中で相手を見下してはいるもののなにかというと結託をし、すぐれた者や意識の高い者の足を引っ張ろうと躍起になる。
しかし第6話で、梶原(小野武彦のほう)が別れた妻に、ほんとうはメートル・ド・テル(食堂主任)なのに見栄を張ってディレクトール(総支配人)だと嘘をつき、それによって大混乱が起きるという回がある。これぞシチュエーションコメディの見本というような大傑作回で、結局はすべて露見してしまうのだが、そこで梶原の元妻が千石に、「どうしてみんな梶原の嘘につきあったのか?」と問う。このときの千石の答えがなかなかいい。
「彼には、人を不愉快にさせない人柄というものがあって、それは、ギャルソンにとってなにものにも代えがたい宝物なんです」
そして最終回の第11話でも、このベル・エキップの面々をナレーションが紹介するとき、梶原・和田のコンビを指して「愛すべきメートルたち」と言っている。
しずかに惚れていることが最大でもしかしたら唯一のモチベーションであるパティシエもスーシェフも、お世辞にも誰もが好きになるようなキャラクターとは言えない。でも、三谷は暗に「日本人ってだいたいそんなもんじゃない? 真面目で、立派で、どこに出したって恥ずかしくないような人って、逆にいる?」と問いかけているような気もする。別に彼がそんな発言をしたという記憶も記録もまったくないのだが、しかし彼の描きたいのは、完全無欠の高邁な人格の持ち主などではなく、それよりは、いろいろと欠点はあるけれど、どこか愛すべきところが残っている人物、なのではないだろうか。彼の優しさは、そこをすくい上げたいのではないか。

ソムリエの白井晃には、少し変った立ち位置が用意されていて、かなりおいしい役どころだ。自尊心が高く物知りでちょっと気障だが、最終話で千石にまたベル・エキップに戻ってこいと言ったのはオーナーのロクローを除けば彼が最初だし、自分の考えをきちんと明言し、周囲を叱咤するときもあれば(第10話)、そうかと思えば「同僚を裏切ることはできない」とある意味同志であるオーナー&千石組に反抗することもある(第4話)。それだけならかなり完全無欠のソムリエになってしまうが、音痴だったり真面目がゆえの失敗などが用意されているので鼻持ちならないやつとは受け取られない。白井自身は、この役どころのイメージがあまりにも定着してしまって困ったことはなかったのだろうか、とこちらが心配してしまうほどだ。


と、わざとここまである人物に触れないで書いてきたが、そこに行く前に、「もし2017年に『王様のレストラン』をリメイクするのなら」という設定で、頼まれもしないのにキャストを考えてみた。ことわっておくが、かなりの自信作である。
重複すると煩瑣なので、左にわかりやすい役名/呼称/役職と、括弧書きで名前や渾名、右に新キャストを配した。
  • 千石さん - 堺雅人
  • オーナー(ロクローさん) - 東出昌大
  • シェフ(しずか) - 長澤まさみ
  • 三条さん(マーシー) - 吉田羊
  • ディレクトール=ソウ支配人(ノリトモさん / のりたま) - 松尾スズキ
  • かじわらさん(くどいようだけど、おれ「かじはら」だから。間違いないでくれる?) - 生瀬勝久
  • パティシエ(稲毛) - 濱田岳
  • ソムリエ(大庭さん) - 山本耕史
  • 和田くん - 野間口徹
  • 畠山 - 松尾諭
  • 皿洗い(佐々木くん) - 細田善彦
  • デュヴィヴィエ - 特になし
  • ナレーション - 窪田等
ちょっと注釈を。
まず千石には、やっぱり『真田丸』における演技で僕のなかで急激に株の上がった堺雅人を任せたい。松本幸四郎とはタイプがまったく違うけれど、それはそれでどういう表情を魅せてくれるのかたのしみ。次点で長谷川博己。彼は『デート』でみごとコメディを演じてくれたし、もともとスマートな感じなので、エレガントさについては問題なく表現してくれるだろうと思う。
オーナーは、東出昌大。身長と棒読み感がぴったり。
シェフは、 長澤まさみかなあ。これもやっぱり『真田丸』の印象が強くて、かのドラマでは一年を通して(といっても最後の2回は未見だけど)ほぼ一度として美人という扱いを受けてこなかったという事実に、資生堂のCFだかに出演しているのを観て愕然として気づくという逆説的な認識をしたわけだが、まあこういう役どころを受け容れられるというのは将来がたのしみである(小者ほど、役柄についてあーだこーだ言いそう)。次点で優香。これはやっぱり『ちかえもん』の印象。かわいらしくて優しくて、でも気が強くて、ものすごく魅力的だったもんなあ。
三条さんは、吉田羊。当時の鈴木京香よりは年齢が上かもしれないがどうせ年齢非公開(なはず)だし、美人だからよしとする。次点は若い頃の和久井映見。いまでもとても素敵で、僕個人としては露ほどの不足もないけれど、とりあえず「若い頃の」という条件を付しておく。こっちは『デート』や『ちりとてちん』での印象がある。
かじわらは……え? あ、かじらね。わかったわかった。かじはらは、生瀬勝久なんだけど、あれ? 生瀬って一回梶原やっていなかったっけ? ってくらいのハマリ役な気がする。 次点で近藤芳正。95年版にはゲスト出演しているけれど、あの頃よりさらに味が出ていると思うから十二分に演じられると思う。
パティシエは濱田岳。濱田岳はきちんとその演技を観たことはないんだけど、まあ背が小さいところが採用した一番の理由。東出と反対だね。
ソムリエは山本耕史。といっても、石田三成の印象からではなく、『夜のせんせい』の、外面は怖いけれど中身は抜けているヤクザ、がとても好演だったため。
和田くんは野間口徹。メガネだから。
2番シェフの畠山は、なんといっても松尾諭。以前から言っているが、少し前まで田口浩正が独占していた「小太り・メガネ」の枠は、現在すべて彼が総取りしようとしている。
皿洗いの佐々木くんは率直に言って誰でもよかったが、せっかくだから最近頑張っている細田善彦にしたい。
あと、ナレーションは窪田等。任天堂のCMをやらせている場合じゃない。日本の宝やで。


で、ここでもやはり触れなかったのが、つまり僕が最大のお気に入りのキャラクターである、水原範朝または「のりたま」、あるいはディレクトール、a.k.a ソウ支配人だ。
95年のリアルタイムで観たとき、西村雅彦をきちんと評価できる眼を僕は持っていなかったのだと思う。なんだか西村雅彦はまたヘンなしゃべり方してるなあ、辛気臭いなあ、くらいで止まっていたのではないか。
しかししかし、西村雅彦はそんなもんじゃないのだ(ということを、この記事を書く前に弟に言ったら、「そんなのわかってるよ! 西村雅彦、超うまいよ!」って言われた)。彼の実力がいかんなく発揮されるのが第9話。借金を返すために店の売上に手をつけて、しかもそれが従業員にバレてしまい、みんなの前で弾劾されるとき、弟のロクローが必死にとりなすのをよそに、自ら店を去ろうとする。それを止めようとするロクローに対するセリフ。
悪いがおれにだってプライドがある。親父がいた頃は親父にさんざんバカにされてきた。
やっと死んだと思ったら、今度はおまえらだ。いつだっておれはダメな男の代表だ。
ロクローは「そんなことないよ」と応える。
おれを、ただの役立たずだと思うな。運が悪かっただけなんだ。ほんのちょっと歯車が噛み合わなかっただけなんだ。とてつもなく長い厄年がつづいているだけなんだ。
ロクロー「(強くうなづき)そう思う」
ノリトモ「ばか言え、おまえにわかるか」
「わかるよ」
「わかっていない」
「わかってるから、役に立ちたいんだよ!」
おれは兄貴で、おまえは弟だ。おまえから、優しい言葉をかけられるたびに、おれの心はずたずたになっていくんだ。
もう、ここらへんの西村雅彦のセリフの吐き方がものすごくて、というのも全然感情的ではなく反対にまったく抑えたようにしゃべるのだが、かえってその淡白な部分に兄としてのやるせなさが滲んで感じられ、こちらの胸が詰まってくる。これが情熱にまかせて叫んだり、あるいは自己憐憫にひたりきったモノローグに堕してしまえば、視聴者はかえって冷静になってしまう。
強く断っておくが、淡白とはいっても、たとえば上のセリフの「とてつもなく長い厄年がつづいているだけなんだ」の部分は、「とてつもなく、」でちょっと切れて、「長い厄年が~」とつづく。あるいは、「おまえから優しい言葉をかけられるたびに」のところの、「かけられるたびに」も、少しだけ声量が落ちる。これらはおそらく、情感が溢れてきてしまって一瞬だけ言い淀んでしまったのではないだろうか。
また、この回のエンディングちょっと手前で、やっぱりみんなのことを考えて店を去ろうとするノリトモを、今度は千石が呼び止めて説得する。「自分を信じるんです。ノリトモさん、あなた自身が信じてやれなくて、いったい誰が信じるんです」
このあとの西村雅彦は、きちんと松本幸四郎に向き直って、
ふしぎだなあ……、あんたと話してると、親父を思い出すよ
と感に堪えない様子でつぶやくのだが、このときの「ふしぎだなあ」にも、辞書的な意味における言葉とは別に、思わずこぼれてしまった情緒というものが込められている。
これらの表現は、単なる棒読みとはまったく一線を劃すものである。西村雅彦はけっして器用ではないが、けれども感情の込め方がわからないような、そんな二流三流の役者ではない。三谷幸喜は当て書きをするとはよく言われているが、これらのセリフは、西村雅彦の口から出てくることでより強度を持った言葉になっている。
そうなんだよなあ、「とてつもなく長い厄年」というのも、「ほんのちょっと歯車が噛み合わなかっただけ」というのも、ほんとうにあることなんだよなあ。20年が経ってそんなことがじんわりと理解できるようになったよ。
そしてこの場面では、ロクローの優しさが万能というわけではないことをはっきりと描いている。他のスタッフたちの救いとなってきた優しさも、ときに人を傷つけていることがある。それも、いちばんたいせつに思っている相手を。
しかしそこは三谷幸喜、無邪気な善意で失敗して兄に文句を言われても、さらに「覚悟の善意」とでも呼ぶべき優しさで相手を包み込むことで解決させる。互いに理解のできぬまま別れてしまうというのは、リアルなのかもしれないが、カタルシスがない。プロセスはリアルであってもよい。あーだこーだと登場人物が視聴者を引きずり回し、感情をぐらぐらにさせたっていい。けれども、われわれが最終的にドラマに求めるのは、なんだかんだいってカタルシスなのだ。最後までぶちまけっぱなしの物語なんて、誰が必要とする?
ディレクトールのノリトモは、運がなくて、頭もそれほど切れるわけじゃなくて、小心者で、小ずるくて……、けれども、そんな彼にも陽の当たる日が来る、というのがこのドラマのクライマックスだと僕は感じた。なんといったって彼も、こと動物に関しては優しいし、動物を愛する者に対してはロクロー並のお人好しを見せる。彼こそ、このドラマのほんとうの主人公なんじゃないかと感じた。よく、「本当の主人公は○○だ」と指摘して得意げになっているやついるけどね。


もう書きたいこともだいぶなくなってきた。
あ、新版(って勝手に名づけちゃっているけど)キャストのディレクトールが松尾スズキってのもいいでしょ。これはもちろん『ちかえもん』での好演が頭に残っていたから。なお、このドラマ(『王様のレストラン』のほう)に興味があればVHSなりDVDなりをレンタルして観るべきだと思う。YouTube上にアップロードされている動画はかなり音質・画質が悪いので、かなり苛々することになるからだ。
ドラマ全体については、格別の言葉をくわえる必要もないだろう。脚本や配役やその演技だけでなく、構成、演出、音楽など、どれをとってもたのしめる箇所が多い。特に音楽であるが、服部隆之のサントラは一聴どころか所有する価値あり。アマゾンレビューには、「人気があるようなので」結婚式用に購入した、というレビュアーが、「(あまりにもいいので)ドラマのサントラにしておくには、もったいない」と書いていたが、こういうのを厚顔無知というのだろうな。違う違う、そうじゃ、そうじゃない、という90年代的ツッコミをした御仁よ、わかってま。けれども、無知は無恥であり、それをさらけだすのはやはり厚顔なのだ。まあ、この人間はドラマを観ていないでそう書いているのだろうね、というところで筆を止めておくが。
構成といえば、やはり最終話で千石が戻ってくることを決めたセリフに、物語上ずっとつかわれていた「あの表現」を持ってくるなんて、と思い出すだけでしみじみしてしまう。
そういえば僕のアルバイトしたことのあるイタリアン・フレンチのシェフは、けっこう「あの言葉」を多用していた気がする。書き言葉ではよくつかわれるけれど、口語ではあまりつかわれないものだからとても印象に残っていて、「ああ、『王様のレストラン』の影響かな」と思ったものだ。影響といえば、千石が一度ベル・エキップを去るとき、すべてのテーブルの準備をし、すべての鍋をぴかぴかに磨いておく、というのがあって、あれは一度真似をしたいと思っていたが、ついに叶わなかったな。いざやるってなると、「めんどくせーし、まいっか」となった。
話を戻すと、この記事においても「その言葉」はあえてつかわずにここまで来た。とても気に入ったドラマに対して精一杯の愛情を表現したいのに、この言葉をつかわないことがどんなにたいへんだったか。それでもそこそこの記事が書けたのではないかと自負はあるのだが……、それもついに解禁だ。ん?


この記事が「そこそこ」ですって? ふふ、ご冗談でしょう。
この記事の書き手は、ドラマへの愛情とやらを示すためにいろいろと書いていますが、そのどれもが冗長で、これでは読んでいて退屈してしまう。
また、「ぼくのかんがえたさいきょうのきゃすと」をつくるのも結構ですが、脚本家の他の作品に依拠してばかりで、オリジナリティが低すぎる。
そして構成。文章というものは、はじめから整然と論理立てられて書かれるべきものであり、進んでいくほど濃密になり、また感動があるべきです。最初からあっちゃこっちゃに話が飛んでしまっては台無しです。
 要するにこの記事は、「そこそこ」にも程遠い、「そこそこ」を気取っているだけの、最低の記事です。最低の。……がしかし、最低ではあるが……ドラマはほんとうに、すばらしい!

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