年始としてこんな話もどうかと思うが、旅順攻撃の話を。

『坂の上の雲』(文春文庫)の第四巻を読んでいたら、かの有名な旅順攻撃の話が出てきた。まだその結末までは読みいたっていないのだが、その第一回総攻撃において、日本軍はわづか六日間で一万五千八百人という死傷者を出した。総攻撃をかけた第三軍司令官は乃木希典、参謀長は伊地知幸介。この二人の名前は日本戦史においてだけではなく、精神史上でもぜひ銘記せられるべきである。
乃木についての司馬遼太郎の批判は有名なものらしく、たしかに現在四巻まで読み進めている時点では、その無能ぶりを匂わせる点が多々出てくるのに対しその優れた点の描写は皆無といってよい。それよりもなによりも、当時の日本陸軍、いや日本全体の癌となっていたのが、伊地知幸介という存在だった。


司馬の説明によれば、伊地知は英独仏にそれぞれ留学する一方、当時新設されたばかりの参謀将校の養成機関である陸軍大学校で学ぶこともなく、また実戦経験もないまま、参謀本部第一部長になった。なぜそんなことになったかについて、司馬はこう書いている。

かれが(日露戦争)開戦の四年前に日本の作戦計画の中枢ともいうべき参謀本部第一部長になったのは、この当時の日本の気分をよくあらわしていた。舶来品とか帰朝者、洋行がえりといったようなことばがきわめて権威的につかわれていた時代であったから、それからみると少尉任官のころから少将になるまでほとんど西洋で送った伊地知は、当時の日本人からみえれば準西洋人というべき存在であった。
「伊地知ならなんでもできるだろう」
と期待され、その職についた。

(前掲書 P196: 括弧内は引用者が補足)
残念ながら、この舶来信仰はいまだになくなったとは言えない。

伊地知は戦争経験がないだけではなく、物事を柔軟に受け止めるという態度も欠如していたらしい。その証拠として、日本人兵士の屍体を量産するだけで「敵にあたえた損害は軽微で、小塁ひとつぬけなかった」(P184)第一回の総攻撃ののちに行われた第二回総攻撃でも、なんの工夫もなく正面攻撃を行ったがために、ロシア軍の籠もる旅順要塞にいささかの損害も与えることなく、いたずらに四千九百人を死傷せしめた。
また、これがもっとも彼の人格を疑う点になろうが、「第三軍司令部は、敵の砲弾がとてもとどかぬほどの後方に位置し」(P191)、「伊地知が得る前線状況は、多くは第一線の青年将校からのまた聞き(職階的段階をへての)であった」(P192)。戦争という現場においてのそのような関わりあい方で、わづかの期間のうちに二万人近くの命を奪えるという感覚が、既にこの頃の陸軍には生まれていたらしいということがわかる。もちろん、伊地知の場合はそれでも特別のようで、のちに満州軍総参謀長の児玉源太郎が同軍に訪れた際、参謀部が前線に立っていないということに激怒し、彼らの参謀という胸章を引きちぎったという熾烈なエピソードがあったはずだが、司馬の文章は行ったり来たりのため、その記述を見つけることはできなかった。


とにかく、この伊地知の不明さ、頑迷さは、無能を通り越して罪悪ですらある、と私は感じた。そして、これは現代人たる私たちにも非常に重要な示唆を与えているとも感じた。
上記したように、舶来信仰を土壌とした倣岸な人格の培養は今でもよく見かけられる。舶来だけではなく、学歴、収入、権威という背景に対し、日本人はそれらを無抵抗に受容する性癖を持っているといえるだろう。
それが正しい場合もあろうが、同様に正しくない場合もあるということをあらためて銘記し、もって自らの新年の戒めとすることを、元日の夕べに思った。