行春を近江の人と惜しみける  松尾芭蕉*1




森澄雄はこの句にずいぶんと思い入れがあるらしく、『俳句への旅』で何度か言及している。意味はそのまま、「行く春を近江の人と一緒に惜しんだ」ということだが、そこに、芭蕉とその弟子去来との興味深いやりとりが『去来抄』に残されている。




先師曰、尚白が難に、近江は丹波にも、行春ハ行歳にも有べしといへり。汝いかが聞侍るや。去来曰、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をおしむに便(たより)有べし。殊に今日の上に侍るト申。先師曰、しかり、古人も此国に春を愛する事、おさおさ*2都におとらざる物を。去来曰、此一言心に徹す。行歳近江にゐ給はゞ、いかでか此感ましまさん。行春丹波にゐまさば、本より此情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成(まことなる)哉ト申。先師曰、汝は去来、共に風雅をかたるべきもの也と、殊更に悦給ひけり。




古文は苦手だが、意訳すると、尚白という人が、「芭蕉の句は『近江』を『丹波』に、『行春』を『行歳』に、変更することもできるだろう、だからよい句ではない」という批判をしたが、去来にどう思うかを訊くと、「いや、いいと思いますよ。尚白の指摘は誤っている」と答え、そして、「『行く春を丹波の』うんぬん、あるいは『行く歳を近江の』うんぬんとやってしまえば、芭蕉の詠んだ句のような感動を呼ぶことはまったくできないでしょう」というふうに答えたものだから、芭蕉も「あんたはほんとにいい弟子だ」と喜んだそうな。



さて。医療が現代ほど発達しておらず、また、交通機関や情報伝達の手段が原始的と言ってもけっして過言ではなかった時代だからこそ、行く春をわざわざ惜しむわけである。来年、またこうして春を惜しむなんてことができるのかどうか、それははっきりとは言えないよね、だからせめて今だけはこうやってあんたと一緒にここにいたいんだ、というわけである。

でも今は違う。

発達したテクノロジーが、季節感と、「今ここにいる/ある」ことの代替不可能性(=かけがえのなさ)を奪ってしまった。それを否定しはしない。芭蕉だって、現在に生まれていたら、去来とFacebook で連歌をしたり、Twitter で俳句論を交わしたりしたかもしれない。あるいは、Ustream やニコ動で『おくのほそ道』を定期配信するかもしれない。ニコ動だったら(Ustream ってよく知らないけど)、毎回、「芭蕉キター!」などのコメント弾幕が張られるかもしれない(それはそれで、面白いけど)。

けれどもときには、インターネットや携帯電話がうまく隠蔽してしまっている「時間や空間の本当の隔たり」を意識するくせはつけておいた方がいい。iPhone のCF で、単身赴任(?)と思われる若い父親が、遠くにいる家族が用意してくれたバースデイケーキのろうそくの火を、iPhone 上で吹き消す、というのがあったが、それがはたしてすばらしいことなのか、どうか。







見方を変えれば、これぞ『マトリックス』で主人公のネオ(キアヌ・リーブス)たちが否定しようとした世界のような気がする。その直観は間違っているかもしれないけど、仮想現実と現実の境界線がかなり曖昧になりつつあるのはたしか。



*1:「行春」は「ぎょうしゅん」と読んでも「ゆくはる」と読んでもいいのだろうが、私としては、音がより柔らかい後者の方が好き。


*2:原文は踊り字を使用。