トラックバックはしないが、きなこさんのブログに「多目的トイレ」の利用についての話が書かれていた。
僕は、あの車椅子のマークがあるスライド式ドアのトイレを「多目的トイレ」ということすら知らなかったのだが、さらにコメントで、授乳などにも利用されるということを教わった。
きなこさんは、このトイレが「ただ広いから」という理由で使われることがあり、本当に必要としている人が利用できない場合があるということに憤慨されていて、その理由を、身近に心身に障碍のある人がいない、あるいは、想像力が欠如している、とされていた。いちいちもっともだと思う。僕も知らないことがたくさんあり、「顔火穴入」の思いをした。

以上を踏まえて。
僕は知っているけれど、他の人があまり気づいていないようなことはないかなあ、と考えていくと、ひとつだけあった。
たいしたことではないが、公衆電話の数がものすごく少なくなっている。僕は携帯電話を持っていないので、外出したところで電話をする必要があれば公衆電話からかけるしかないのだが、まず、これがすぐには見つからない。まだ駅の構内などにはあったりするのだが、それでもない場合がある。また、日本のどこかにはあるのだろうが、「電話ボックス」なんてとんと見かけなくなった。
これ、携帯電話派(というか大多数か)の人にはなかなか気づきにくいことだろうと思う。でもまあ、僕自身が田舎で暮らすようになってからは必要なくなったけど。

二日ほど前、ラジオを聴いていて、人間は知らないことには気づきにくいのだということを知ったことがあった。それは乳癌検診の話。
それによれば、日本人女性が一生のうち乳癌になる確率は、十四人に一人という割合らしい。この数字が「確率」の話なのか、それとも「実際の患者数」なのかはよくわからなかったのだが、それでも十分注意を必要とする数字である。
ラジオではさらに、乳癌検診を受診する動機として一番多かったのが、「身近にいる人の薦め」だったということを伝えていた。おそらくその薦めた人の身近にはまた薦めた人があって、その薦めた人にはそのまた薦めた人があって……とこのつながりのどこかで、乳癌で亡くなった方や、あるいは早期発見によって助かった人がいたのだろう。
実はその番組も、一年ほど前に出演者が乳癌によって亡くなっていて、彼女が出演しているときから、乳癌検診の必要性を訴えていた。彼女が亡くなっても、月に一回はそのコーナーがつづいていて、啓発活動を行なっている。
だから僕も、そういうニュースを見聞きしたりするたびに、知り合いの女性にメールを送ったりしている。余計なお世話なんだろうけれど。
いろいろと啓発活動をしているサイトはあるようで、たまたま見つけたものをリンクとして貼っておく。

上にも書いたように、聴いていたラジオで出演者が現実に亡くなってしまったという事実が、僕が「乳癌は怖い」と思うようになったきっかけで、このことがなければ、「ああ、ピンクリボンってあるよなあ」というところで終っていたはずである。その出演者であった牧野エミが泣きながら「悔しい」と言っていたことは、今でも忘れられない。


知らないから、気づかない。それはそうなんだろうが、知らないから仕方がないだろうとはならない場合がある。知らないために行なった行為が、他人や自分自身に害を与える場合がある。自分自身のことだったら、自分ひとりが諦めればいいだけかもしれないが、他人となればそうもいかない。
人間は、「あるもの(=存在)」についての注意機能は発達していると思う。無根拠に言ってしまうが、これは動物としての本能であって、視覚情報あるいはそこから予想される結果に注意を働かせる能力は優れているのではないか。もし優れていないのであれば、ここまで人類が発達はしてこなかったろうと思う(※)
それに対し、「ないもの(=不在)」に対して注意を働かせることは難しい。「不在」は、意識していなければすぐに忘却してしまう。しかし、いま目の前に存在していないからといって、この世界からまったく存在しないというわけでもない、というのがこの難しいところだ。ためしに「不在」で辞書を引くと、「その場にいないこと」とある。非存在ではないのである。

「おれ/わたしは、他人の迷惑になることだけはやっていない」と断言できる人は、おそらく高確率で他人に迷惑をかける可能性があると思う。まだ、「他人に迷惑をかけているかもしれない」と思っている人の方が見込みはある。前者は、たぶん不在に気づいていない。後者は、それを予想だけはしている。その違いだ。
このブログは啓蒙ブログではないので、「さあ、みんなで情報をシェアして、世の中で困っている人がひとりでもいなくなるよう頑張りましょう!」とは言わない。
きわめて個人的な感想を個人的に書いているだけなので、僕自身が銘記するだけである。
冒頭に書いたように、きなこさんは気づかなさの原因として、「知らないこと」と「知らないことへの想像力の欠如」を挙げられていた。反対に言えば、「知ること」と「想像力」だけが気づきに至る道ということなのだ。

(2013/11/30追記)

(※)の部分を記述しているとき僕は、「視覚情報あるいはそこから予想される結果に注意を働かせる」と書きながら、「もし視覚に障碍のある人だったらどうなのか?」ということを一瞬思い浮かべたのだが、そこに執着することはなく、話を進めた。これこそ、不在への無関心である。もし僕自身が全盲者であったり、あるいは家族に全盲者がいたら、そんなぞんざいな書き方はしなかったろう、と反省した。
そこで改めてここに追記するが、たとえ視覚から情報を得ることができなくても、聴覚なり触覚なりを駆使して周囲の状況を察知することは可能であろう。