レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』または『ロング・グッドバイ』についてなにかを言おうとすると、その前に、「すぐれた文明批評としてのハードボイルド」という言葉を思い出す。これは、チャンドラーの作品についてのものではなく、チャンドラーに影響を受けたある日本の作家についての評価だった。

NHK のドラマ『ロング・グッドバイ』の雰囲気がよかったので、今まで読んでいなかったハルキ訳(以下、『ロング・グッドバイ』)を手に入れて読んだ。改めて読んで気づいたのは、けっこうな大部ということだった。本篇が五百九十四ページ。そして、訳者の力のこもった解説が五十ページ。後者は、あまりにも長すぎたのでまた別の機会に読もうと思う。
これまでに、清水俊二訳の『長いお別れ』(以下、『長いお別れ』)は二回ほど通読していたが、そこに古臭さを感じたことはなかった。そもそも1953年に書かれた小説なので、古臭いと言ってしまえばすべてが古臭くなってしまう。これが日本語の小説であったのならまた違った感じようもあったのかもしれないが、翻訳文の持つ独特の文体のためにあらかじめエキゾチックな雰囲気が醸成され、「こういうものなんだろう」というある種の思い込みで読んでいた部分もあったのだと思う。
『長いお別れ』の冒頭では、高級クラブの駐車場係は、「当たり前でさ」とか「いろんなのがいまさ」などという言葉遣いをする。まるで、侠客の親分に対する子分の言いぐさである。しかしこれは、『ロング・グッドバイ』でもそう変わらないのである。
あまりにも長いハルキの解説(あとがき)の中に「翻訳について」という章が設けられていて、そこだけはきちんと読んだ。清水訳があるのにもかかわらずなぜ新訳に挑んだのかがきちんと書かれていて、その理由は当初僕が予想していたような不当なものではなかった。簡単に言ってしまえば、清水訳には理由不明の省略部分があり、ハルキは完訳を目指したのだという。そしてその清水訳についても、決して社交辞令ではない敬意をきちんと払っていて、そこに好感が持てた。

以下は、最初はほぼ「いちゃもん」つけのためにメモしておいた部分。『ロング・グッドバイ』を読んでいて気になるところを見つけたら、『長いお別れ』でどのような訳をしているのか探し出し、場合によってはインターネットで原文と思われるテキストを探し出し、当ってみたりした。そのおかげで思った以上に時間を食った。
「解説」(の一部)で訳者の誠実さを実感したので、「いちゃもん」をつけることはやめにして、あくまでも比較の意味で掲載しておく。

主人公のフィリップ・マーロウが警察に取り調べをされるところ。はじめに原文(と思われるもの)。

Hair dark brown, some gray. Eyes brown. Height six feet, one half inch. Weight about one ninety. Name, Philip Marlowe. Occupation private detective.

この原文に当たったのは、『ロング・グッドバイ』の中の以下のある部分に引っかかったからである。

(前略)髪はダークブラウン、白髪が混じっている。目は茶色。身長は百八十四センチ。体重およそ八十五キロ。名前はフィリップ・マーロウ。職業は私立探偵(後略)


ロング・グッドバイ』ハヤカワ文庫 85p

そして、『長いお別れ』での同じ部分。

(前略)髪は濃い鳶色。グレイが少々まじってる。目も鳶色。身長六フィート一インチ半。体重はおよそ百九十ポンド。姓名はフィリップ・マーロウ。職業は私立探偵(後略)


『長いお別れ』ハヤカワ文庫 73p

清水訳では、brown を単に茶色とせずに「鳶色」としているところが気にかかるが、それ以上に、ハルキ訳ではヤード・ポンド表記ではなくメートル・グラム表記をしているのが気にかかった。
英語がわからないくせに原文に当たったのは、チャンドラーがヤード・ポンド法を用いていなかったのかをただ単に確認したかっただけだ。上にあるように、オリジナルのテキストではフィートとインチが用いられ、ポンドが省略されている。
メートル・グラムの方がたしかにわかりやすいとは思うが、けれども、フィートやインチ、ポンド、マイルで表記されるほうが、なんとなくアメリカ文学っぽくていいと僕は思う。
北方謙三の中国文学では、時間の表記をかならず「刻」であらわし、新しい章ではじめて「刻」が用いられるときに、括弧づけで一刻が三十分であることを説明している。高田郁の『みをつくし料理帖』のシリーズでも、料金はすべて「文(もん)」で表記していたが、それでいいのだと思う。そうやって、雰囲気を壊さないようにしているのだ。
一方、マンガ『ジョジョの奇妙な冒険』では、イタリアやアメリカを舞台にしたシリーズでも、すべて「円」表記で済ませていたと思うが、あれには少し興醒めした。

また、ハルキ訳でも少しまだるっこしさを感じた部分があった。マーロウが警察から釈放されて新聞記者のモーガンと会ったあたり。

私は車を降りた。「ありがとう、モーガン。一杯やっていくか?」
「またこの次にでも。今は一人になりたいだろう」
「一人になる時間ならたっぷりとあったよ。いやというほど」
「あんたにはさよならを言うべき友だちがいた」と彼は言った。「彼のために監獄にぶち込まれてもいいと思えるほどの友だちがね」
「誰がそんなことを言った?」
彼は力のない微笑みを浮かべた。「活字にできないからといって、僕が知識を持たないということにはならない。失礼するよ。また会おう」


ロング・グッドバイ』 111p

私は車を降りた。「乗せてもらって、助かった。何か飲まないか」
「この次にするよ。一人の方がいいだろう」
「ずっと一人でいたんだ。もうあきてる」
「さよならをいって別れた友だちが一人いたはずだぜ」と、彼はいった。「彼のために豚箱に入っていたとしたら、それこそほんとうの友だちだったはずだ」
「だれが彼のためだといった」
彼はかすかに笑った。「記事に書けなかったからって、知らなかったわけじゃないんだ。さよなら。また会おうぜ」


『長いお別れ』 96p-97p

下線は僕がつけたのだが、ここのハルキ訳の「知識を持たない」というのはやけに重い。ふつうに「知らない」でいいと思うし、原文でも「I didn't know it」となっていた。

また、ハルキ訳でも、今では珍しい単語が頻出していたのが興味深い。
「はんちく」(120p)、「棒だら野郎」(155p)、「さんぴん」(377p)。これらはすべて侮蔑語なのだが、こういう言葉の用い方は嫌いではない。
既述したことの繰り返しになってしまうが、この小説は1953年(以前)のアメリカを舞台としている。翻訳するのなら、なるべくその時代、その国の文化を意識して訳出すべきだろう。
言葉が違うということは文化が違うということだ。
関西弁の「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」「そうか、ほなさいなら」「ほな」は、標準語の「ご商売の調子はいかがでしょうか」「良くもなく悪くもなくというところでしょうか」「そうですか、それでは失礼いたします」「失礼いたします」とは違うやりとりだ(と思う)。
古い時代の異国のやりとりに新しさを求めても仕方がないのだから、上に挙げたようないい意味での古臭い言葉が出てくるのは好ましい。そして同じ意味で、清水訳の(悪い意味で指摘されるであろう)古臭さも、僕は一向に気にならないのである。


何年かぶりに読んだフィリップ・マーロウの物語は、「さようなら」にまつわるいくつかの有名な台詞を除いて、あらかた忘れていた。
けれども、この小説を読んでいるあいだずっと感じることのできる懐かしい時代への愛惜や郷愁は、記憶していた通りだった。
作者の言いたいことは、マーロウはもちろん、彼以外の登場人物の台詞を借りても訴えられている。そのように僕は感じた。たとえば、大金持ちのハーラン・ポッターの台詞。

この時代になって、社会のモラルも個人のモラルも恐ろしいばかりに地に落ちてしまった。内容のない生活を送る人間たちに、内容を求めるのは無理な相談だ。大衆向けに生産されるものには高い品質など見あたらない。誰が長持ちするものを欲しがるだろう? 人はただスタイルを交換していくだけだ。ものはどんどん流行遅れになっていくと人為的に思いこませ、新しい製品を買わせるインチキ商売が横行している。大量生産の製品についていえば、今年買ったものが古くさく感じられなかったら、来年は商品がさっぱり売れなくなってしまうのだ。我々は世界中でもっとも美しいキッチンを手にしているし、もっとも輝かしいバスルームを手にしている。しかしそのような見事に光り輝くキッチンで、平均的なアメリカの主婦は、まともな料理ひとつ作れやせんのだ。見事に光り輝くバスルームは腋臭止めや、下剤や、睡眠薬や、詐欺師まがいの連中が作り出す化粧品という名のまがいものの置き場に成り果てている。我々は最高級の容器を作り上げたんだよ、ミスタ・マーロウ。しかしその中身はほとんどががらくただ。


ロング・グッドバイ』 367p-368p

「ほとんどががらくた」になってしまった時代において、この億万長者やマーロウはいったいなにを求めているのだろうか。そもそも求めるものがまだ残っているのだろうか。
マーロウは、ことあるごとに他の登場人物たちと苛立たしいコミュニケーションを交わす。相手が善人であろうと悪人であろうと、あるいは善人ぶった悪人であろうと、彼は皮肉のひとつでもぶつけたくなるらしい。
マーロウは、彼なりの正しさを信じているのだろう。それが絶対的なものでなく、ごく個人的なものであることを、彼は知っている。彼にしか通用しない可能性のある「正しさ」のために、彼は周りから誤解され、ときとして時代錯誤とみなされる。
この現在進行形で、時代に取り残されている男の感じから、僕は漱石の『坊っちゃん』を思い出してしまった。坊っちゃんはマーロウほど自省力があるわけではないが、新しい時代を拒否し、新しい時代の象徴であるマドンナを否定し、清を肯定したのだ。
……と、ここでマーロウがノスタルジイを吐露する場面が実際にあったかどうかを思い出そうとしてみたが、すぐには思い出せないことに気づいた。もしかしたら、直接的にそう言及していた部分はないのかもしれない。
ポッターの言うような移り変わりの早い時代において、その場所にとどまりつづけようとする行為はそれだけでなにがしかの意味を持つのだろう。だが他人から見ればその行為は、リンダ・ローリングの言ったように、「自己満足、自己充足、自意識過剰の権化」(568p)と映るのかもしれない。
マーロウはそれについて説明をしない。間違っても自らを「不器用」と言ってのけるほど厚顔ではない。ただ、孤独を厭わず、孤独を愛し、孤独に戻っていく。

テリー・レノックスは不思議とマーロウの心に引っかかる人間だった。マーロウは、テリーのことを「自らの基準というべきものがあり、それを守って生きていた」(591p)と評するが、「しかしその基準はあくまで個人的なものであり、倫理や徳義といったものと繋がりを持たなかった」とつづける。そしてその原因は、明瞭には書かれていないが、戦争が原因だというようにも読める。戦争によって、心のどこかまっすぐした部分を失ってしまったのだ、と。
それはテリーのせいではない、というふうにも読めるが、だからといってさようならは覆らない。これは、さようならを言わずに友だちに別れを告げる男の物語なのだ。