談志落語の音源を聴いていると、ときどき、「わかっていない客」の存在を感じることがある。
やたらと笑い声を上げたり、あるいは、やたらと拍手をしたり。
おそらく、の話だが、談志自身も「けっ、わかってねェ客がいやがンなァ」と思っていることだろう。
それではなぜ、僕は「わかっている」のか。それは、「おれは談志の落語のことを少しは理解できているつもりだ」と談志が思わせるからだと思う。談志はよく「おれの客」という言い方をするが、それは当然「わかっている客」のことを指しており、「わかっていない客」はそこには含まれていない。そして多くの観客が、「おれ/わたしは、わかっている客だ」と思いたがる。これはもう、宗教みたいなもんだ。

一般的な噺家であれば、お客様はみなありがたいもので、笑ってくれるのであればさらにありがたいお客様です、とでも言うのだろう。けれども、談志はそうは言わない。どころか高座から「なんか今日はやけにバカ笑いが多いな、客のレベルが低いンじゃねェか?」くらいのことは言うと思う。
談志を聴き慣れていない人間なら、「なんだこのやろう!」と反撥を覚えるかもしれない。

入場料を取っている以上、観客はみな神様である、というのは建前である。その建前をどこまで信じるか、というのは実は観客ひとりひとりに委ねられていることであって、バカッ正直に「えっへん、われこそが神様である」とやったら、程度の低さが露呈する。「『程度の低さ』ってなんだよッ! こちとら金を払ってるんだッ!」とここでさらに主張をすれば、余計に野暮があらわれる。きっとこう言う人は、金(入場料)を払うことによって、自分の鑑賞眼を棚上げできるとでも思っているのだろう。感性ではなく、論理で自分の正当性を主張しようとする。だから野暮なのである。ただ、現代は野暮が大流行のようなので、侮蔑語にはなり得ないのかもしれない。

すべての人間が、手放しの称讃や注目を欲しがっているわけではない。手放しに称讃されたり注目されたりすれば誰もが喜ぶと考えがちな人間は、きっと自分がそうだから他人にもそれを当てはめようとするのだけれど、そういうものじゃない。そういうものだ、と考えてしまう自分の安直さを少しは見つめ直した方がよい。

もちろん、ここに書いたことは、落語に限った話ではない。