とあるところで佐藤さとるの『だれも知らない小さな国』が紹介されていたので、読んだ。面白いので一日で読めた。ただ、この「面白い」には、少しだけ複雑な意味を込めたい。

これは、ある男の子が小山でコロボックルたちと出会い、長い長い時間をかけて仲良くなっていく物語。
一般的な意味での「大きな事件」がそれほどあるわけではない。誰かが殺されたり、その復讐を果たしたり、あるいは魔法によって空を飛んだりすることもない。あるのは、小さな世界のなかでの大事件。小さな小さな人たちの住む小さな小さな世界を守ろう、というのがこの物語の主題。

子ども向けの本としてはそれなりにページ数があるのだが、「大きな事件」がないというのに、いったいなにに紙数が費やされているかというと、それは、コロボックルたちのリアリティを成り立たしめるための描写。
たとえば、コロボックルたちの由来や歴史なんかが(あくまでも主人公の推測という形でだが)わりとしっかりと書かれる。僕なんかからすれば、そこはもう、ただ「小人がいる」だけでいいんじゃないの、などと思ってしまうのだが(かといって、読んでいてだるいということはまったくない)、作者はそうしない。
と、この記事を書こうとして、講談社文庫をなんとなく眺めていたら、カバー裏に「日本初・本格的ファンタジーの傑作」とあって、その「本格的ファンタジー」という文字に、「なるほど!」と腑に落ちるものがあった。
僕のように「そういうものだ」となにも考えずに受け容れてしまうような読者ばかりでは、きっとないのだろう。子ども向け・子どもでも読めるような物語であっても、決して子ども騙しにはしないというのが作者の心にあったのかもしれない。 
このように、「事実」の丁寧な積み上げ方が、コロボックルの存在を絵空事にしていない。輪郭が徐々に浮かび上がってくるのである。
また、コロボックルの<ぼく>との距離の縮め方が、「なにもここまでしなくても」っていうくらいに慎重に時間をかける。ただしこれは、コロボックルの側から見れば当然のことで、この時間のかけ方が、コロボックルと対面した際の感動に繋がっている。
そして、<ぼく>はもうひとりの人間とも時間をかけて知り合うことになっていくのだが、そこはまあ伏せておく。ただ、文庫解説の梨木香歩は過去に何回か読んで、解説を書くために読み直して「純度の高いラヴストーリー」だと感じた、と書いているが、僕は初見でそのように感じられた。たぶん、年齢のせいだろうと思う。

「リアリティ」と上に書いたが、ファンタジーものらしく設定にいくらか曖昧になっている部分がある。その最たるものが、時代だ。
はじめ僕は小学三年生で、鳥もち用のモチノキを探しているうちに、のちに「小人たちの国」があることを知ることになる鬼門山に行き着く。それから数年が経って、その山のある場所から引っ越すことになるのだが、そこで唐突に「戦争」の言葉が出てくる。
いつか日本は、戦争のうずにまきこまれていた。
(53p)
つまりこの物語は、戦前から始まっていたのである。
しかし、戦争についてはほとんど触れずにすぐに「戦後」になり、物語は<ぼく>が「小さな町」に戻ってくるところから再開する。
作者は1928年(昭和三年)生まれ。この本は1959年(昭和三十四年)に自費出版されたというので、作者三十一歳のとき。戦争の記憶はあまりにも生々しく、それに触れたくないという思いは強かっただろうと思う。
であるから、「この物語がいつのことか」というのはごくごく最低限の記述で済ませ、戦後の、<ぼく>や作者自身が解放されていった時代に移っていったのだろう。

ともかくも、この物語を読み終えた読者は、この物語を大切に思うに違いない。ちょうど、<ぼく>がコロボックルたちのことを大切に思ったように。
そしてその思いは、作者自身にもあった。出版(あるいは改版)された時代に応じて四つもある「あとがき」のいちばんはじめ、自費出版から晴れて単行本で出版された折りに書かれたものに、こうある。
(前略)ほんとうのことをいうと、わたしがこの物語で書きたかったのは、コロボックルの紹介だけではないのです。人が、それぞれの心の中に持っている、小さな世界のことなのです。人は、だれでも心の中に、その人だけの世界を持っています。その世界は、他人が外からのぞいたくらいでは、もちろんわかりません。それは、その人だけのものだからです。そういう自分だけの世界を、正しく、明るく、しんぼうづよく育てていくことのとうとさを、わたしは書いてみたかったのです。
自分だけの小さな世界は、たいせつにしなければならないと思います。同時に、他人にもそういう世界があるのだということを、よく知って、できるだけ、大切にしてやらなければならないでしょう。
とにかくわたしは、この物語で、コロボックル小国をえがきだしてみせました。それは、わたしの心の中の小さな世界でもあります。
(279p)
この文章は、講談社によって再文庫化された2010年(平成二十二年)の「あとがき その4」で、八十歳の作者(ちなみにいまでもご健在らしい!)に「ややぎこちない文章ながら、思うことを伝えようと、懸命になっている」とやや冷静に評されている。
「その2」から「その4」までは、「その1」ほどに物語のモチーフは語られていない。三十一歳の作者は、その若さゆえに「ここまでぜひ読みとってほしい!」という思いまでも文章化してしまったのだろう。老齢と呼んでもいい年齢になった作者は、そのことを多少羞ずかしく感じながらも、心の中では「こういうのも悪くない」とも思っているのではないか。

作者のこれほどまでの思いが詰まったものを読んで、読者がなにも感じないわけがない。
それと同時に、<ぼく>がコロボックルたちの世界を尊重するような対象を、はたして僕/私は持っているのだろうかと自問することになる。そして、もしも持っているのなら、それは「共有」したり「公開」するものではなく、自分の心の中に大切に秘めておくべきものだということを再認識することになるだろう。


しかし、ほとんど描かれなかった「戦中」だが、ある記述だけがひっかかった。物語はあくまでも<ぼく>のものだが、ここに書かれているのは作者自身の思いだと僕は考える。
毎日が苦しいことばかりだったが、また底ぬけに楽しかったような気もする。家が焼けたことを、まるで得意になって話しあったり、小型の飛行機に追いまわされて、バリバリうたれたりするのが、おもしろくてたまらなかったりした。これは命がけのおにごっこだったが、なかにはおににつかまってしまう、運のわるい友だちも何人かあった。いまになってみれば、ぞっとする話だ。
(53p)
もちろん力点は「ぞっとする」というところにあるし、またこの直後にも、
大きな不幸がつづいたが、ぼくの家は、郊外にあったため、最後まで焼けなかった。だからそんな思い出のかけら(※小人たちの住む山についての思い出)まで、なくさないですんだのだ。
(54p)
と、ある種のんきとも受け取られかねない「楽しかったような気もする」という感想についての理由づけが書かれている。しかし大事なのは、戦争のさなかにも楽しく感じていた部分はあった、というおそらく作者固有の記憶だろう。
この一文を取り上げて僕は、作者が戦争を肯定しようとしていると批判したいのではない。作者にもそのような気持ちは一片もないだろうと思われる。しかし、子ども心に――子どもだからこそ――まったく楽しくないわけではなかった、と書けるこの作者の正直さを、僕は非常に信頼できると感じた。
あの戦争は悲惨だった、われわれはいつもみじめで悲しい思いをしていた、と書くのはごくあたりまえで、どこからも文句は言われまい(そして本当にそう感じていた人たちも相当数いたはずだ)。しかし、批判される蓋然性の高い記憶を持っていて、その自分の記憶をきちんと正確に書けるというのは、正しい/正しくないことをきちんと書き分けられる人間なのだろう。

冒頭で、この物語を「面白い」と書いた。面白いとはいかにも陳腐な表現だ。けれどももっと実感に寄り添えば、「いいなあ」だったりする。ああ、いいなあ。こんなふうに感じていたり思っていたりしたことが僕にもあったんだよなあ。いや、もしかしたら僕にはなかったのかもしれないけれど、こんな優しい気持ちを持っていたことがかつてあったような気もする、と思えることが、いいんだよなあ。
この本を読んでストーリーを追いかけるということは、その一方で、子どもの頃の自分を追いかけるということなのだ。そういう面白さが、この物語にはある。


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