これまで何度書いてきたかわからないが、バッハの『ゴールトベルク変奏曲』(グレン・グールド演奏)を使った脚本(私家版)をこっそりと書いたことがある。十年以上前の話。
ある事故を扱ったものなのだが、その事故の瞬間にタイムワープし、そこに巻き込まれたあるひとりの人物を救い出すという場面で、時間が停止していることを表現するために、この『ゴールトベルク』のアリア(以下動画でいうと、6:20~9:14)を流すことを考えていた。
そして時間が動き出し、その人間を連れてその場から逃げ出すきっかけになるのが、アリアから第一変奏に移り変わるところ(9:15)。静から動へ、死から生へ。
ところがだ。
これもまた何回書いてきたかわからないのだが、2005年の全国高校演劇を扱ったNHKの番組で、最優秀作品に選ばれた青森県立青森中央高校の『修学旅行』のエンディングに『ゴールトベルク』が使われているのを観て、「うぎゃー!」となった。使われているのはたしかアリアだけだったように思うが、「ああ、これでもう、演劇でこの音楽使ったらパクリになっちまうんだな」と思い、かなり落胆した。いまであれば、これ以前にも『ゴールトベルク』を使った演劇はきっとあっただろうと思えるのだが、そのときはもうかなりのショックを受けた。まあ、ショックを受けようが受けまいが、私家版なので別にどっちでもいいと言えばどっちでもよかったのだが。
そしてその傷もやっと癒えたかという2006年。アニメ版『時をかける少女』で、この『ゴールトベルク』が、しかもアリアと第一変奏の移り変わりの部分を、タイムワープ(このアニメではタイムリープだが)そのもののシーンに使われているのを観て、再び、しかもさらに大きめの「うぎゃー!」と悲鳴を上げたのは言うまでもない。
まあ、それはそれとして。


がらり話は変わる。
NHK-FMで毎日『夜のプレイリスト』という番組が放送されている。
これがなかなかにいい番組で、ある人物が一週間だけDJとなり、月曜から金曜の五日間で、毎日一枚のアルバムを紹介していく。なかにはもちろんハズレとなる人間もいるのだが、たいていの場合はその人物のことに興味を持つか、あるいは紹介された音楽に興味を持つことができる。
たとえば、これまで(理由は特別ないのだが)かなり嫌いだった長塚圭史を、この番組のトークきっかけで大好きになってしまった。音楽をできるだけ多くかけるような構成になっているのでしゃべる時間はあまりないのだが、それでも、DJに思い入れがあればその気持ちはきちんとリスナーに伝わってくる。反対に、それほど思い入れがなかったり、自分をカッコよく見せたいという思いが先に来ているような人間も、こちらにはたいていわかる。「なにかが好きだ」と話すことは、その話し手の内面を、話し手の思っている以上に曝け出してしまうのかもしれない。

先週は写真家の平間至だった。僕は彼を、2001年のNHK『トップランナー』で見たきりで、その頃の彼は逆算して三十八歳だったことになる。いまの僕とだいたい同い年。その彼が、2011年には出身地の宮城県塩竈の被災を経験し、翌年に病気を得て、その翌年にパニック障害になってほぼ一年間外出できなかった、という経験をされたらしい。そのせい、というわけでもないのだろうが、語り口は静かでありつつも、その内容はかなり内省的で深い思考に裏づけされているという感想を持った。佐藤さとるのところでも書いたのだが、ひとことで言って、信頼できるのである。
彼の第四夜に、グレン・グールド演奏の『ゴールトベルク変奏曲』が紹介された。
グールドが五十歳という若さで死んだということ。それに、同い年の自分(平間)が体調を悪くしたこと。このふたつのいわば符合によって、より死というものが身近に感じられるようになったということを話していた。また、先輩写真家の葬式で、優れた表現者は死んでいるのに近い状態で作品を作っている、という感想を持った、とも。ちょっと奇を衒ったことを言ってやろうというのではなく、心からの感慨を漏らしているようで、僕には非常に興味深い話だった。


上にもちらりと書いたが、僕はこの曲を、特にはじめのアリアから第一変奏への移り変わりの部分に昂奮を感じる。突然、生の躍動感が溢れ出し、目覚めていく感じ。ただ、主題がいくつもの形をとって変奏されていくうちに、だんだんと音楽に対する集中力は切れていく。
僕は、音楽にずっと意識を傾けているということができない。歌詞のある「歌」であればまだ大丈夫なのだが、演奏だけだと、どうしても意識が「思考」のほうへ向かってしまう。
耳から音楽が入ってくると考えに集中できないという人もあるかもしれないが、僕の場合はそれはない。むしろ、外界の余計なノイズを遮音してくれるし、集中力の切れ目をつくる「意識の隙間」を音符の洪水が埋めてくれる感じがする。
音楽好きな父と話していると、対象にもよるだろうが、どうやら意識のほぼすべてを音楽に傾けつづけることができるみたいだ。五十分だったら五十分のあいだ、音楽に身体全体を浸していられるという感じ。
僕の場合はそれが「足湯」みたいなもので、 足は足で暖かいのだが、それ以外の部分では風景を眺めたり、おしゃべりをしたり、違うことを考えているようなもの。音楽は(自分とはまったく別の、という意味における)「環境」の一部であって、そこにすべてを任せることができない。
だから困っているんです、とも思っていないのだが、はたしていづれそれが克服されるときは来るのだろうか。
目を閉じ、音楽に集中し、「音楽に集中する自分」を意識せずに、また、「『音楽に集中しているはずの自分』がどうしても考えてしまうもの」にも意識を向けずに、さらに眠ってしまわずに、時間の流れとともに音が変化していく様子を追っかけていけるのであれば、また新たなたのしみというものが得られるのかもしれない。
しれないが、現時点ではそれは無理な話のようだ。僕はいまこの文章を、『ゴールトベルク変奏曲』をかけながら――ということはグールドの唸り声のような「ハミング」も耳にしながら――書いているのだが、意識はいよいよ自分の書いていることに向かっている。

そしてちょうど、終わりのアリア(53:37~57:15)が流れてきた。
平間至は、この終わりのアリアの演奏中、グレン・グールドも半分以上死んでいる状態でピアノを弾いていたのではないか、と言っていた。
「死んでいる」というのが僕にはまだピンとこないのだが(そこが興味深い部分でもあるが)、意識の世界ではなく、無意識の世界に感覚を浸してしまいながら表現をおこなっている、というのならなんとなく理解できるのかもしれない。技術や論理の、その先。
それについてもう少し考えてみたいのだけれど、これ以上起きていると不眠症のウサギが騒ぎ出すので、電気を消してもう寝ることとする。 
そういえば、『ゴールトベルク変奏曲』には不眠症に悩む人のためにつくられた、という俗説があるらしい。