テレビドラマ『金八』の第五シリーズに日野敬太という生徒がいた。
この日野敬太(通称ヒノケイ)が主人公の回か、または最終回近くのいづれかだったと思うのだが、金八が「いくつになっても、ヒノケイのことを『ヒノケイ』なんて呼んでくれるの、中学のクラスメートくらいだぜ?」と諭す場面がある。「いいもんだろ?」というニュアンスで言っている。
僕は『金八』は嫌いではないのだが、この場面を観るたびに「そうかなあ?」と思ったものだ。

中学に限らず、学生時代の友だちを一生の友だちという言い方はわりと世間ではされると思う。そのときに挙げられる理由としては、「損得勘定抜きでつきあっているから」ということが多い。それはまあそうなのかもしれないが。
けれども、いつまでも「ヒノケイ」と呼び/呼ばれる間柄を、「よし」とする人もいる一方で、「いやだなあ」と思う人もいるということは忘れてはならない。

前の前の記事に、「人生で一時的に会った人とは、互いに、会っていたときの印象のまま、記憶し/記憶されているのだろう」という内容のコメントをいただき、なるほどそういうものだと思った。
ただ、それはあくまでも印象とか記憶の話であって、実際には人間は(たいていの場合)変化していくので、印象や記憶と実像との乖離は生じて当たり前だ。
「会えば中学生時代に一気に戻れる」というような言い方が肯定的になされた場合、その裏を注視すれば、「中学時代は『よき時代』なのだが、年をとることによって人は必ず世間のしがらみに出会い、不要な知恵を身につけ汚れていくのだ」という考え方が仄見えてくる。僕はこれを「イノセンス信仰」と呼んでいる。
それはある側面から見れば正しく、それなりに支持される考えなのであろうが、また別の側面からすれば、「とんでもない!」と批難されるような代物なのだ。

あの中学時代のイヤなイヤな思い出から解放されるために、ぼく/わたしは今日まで努力してきたのだ、という人は当然いる。同窓会を頻繁に開催したがる人はそこらへんのことを理解しているのだろうか。いや、仲のいい同士であるのなら全然構わないのだが、「ねえ、みんなも会いたいでしょ?」的な観念に取り憑かれている人間は、少し考え直したほうがいい。再会すれば、学生時代の関係性に戻ってしまうことに吐き気を覚える人だっているのだ。
学校なんて、偶然によっていろいろな人が集まっただけの「場」にすぎず、神聖化すべきではない。そこでなにか素敵なことが起こったのだとしたら、それはちょっとした僥倖、ミニ奇蹟だったのだと思ったほうがいい。そういう考え方をしたほうが、その学校を苦痛の根源だととらえている人たちに少しは近づけるように思う。