佐藤さとる『豆つぶほどの小さないぬ』(講談社文庫)を読んだ。コロボックルシリーズの第二作である。
詳細を書こうとも思っていないが、この作品の面白いのは、前作と異なり、コロボックルの視点から描かれているという点である(前作の話者は、「せいたかさん」と呼ばれることになる人間)。
そして「あとがき」を読んで驚いたのだが、作者の頭には、この作品のモチーフ(コロボックルが活躍する物語)が先にあったそうだ。しかしそれを成り立たしめるために、まず「小人存在の背景と発見の経緯を、先行して物語る必要がある」(303p)と判断して前作を描き、それから三年後に満を持して本作品を上梓した、という経緯があったらしい。

前作同様、物語の筋に劇的な変化はない。けれども、ちょっとした冒険譚や小さな小さな恋の物語があり、「やさしい世界」にすむコロボックルたちの呼吸が感じられるのも、前作と同じ。
この「やさしい世界」が、絵空事に感じられるか、はたまた作品内リアリティをもって存在するかは、ひとえに作中で遣われている言葉や文章の柔らかさに起因するのではないかと思っている。
もちろんこれらは読者個々人の好みの問題でもあるので、「絶対にこうだ」という基準もないのだが、たとえば、本作の主人公の「風の子」ことクリノヒコ(ぼく)が、仲間のコロボックルたちと一緒にマメイヌという小さな犬を探しだそうと相談しているときの場面。
せいたかさんにもらった地図(人間用なので、微小なコロボックルたちからすれば、巨大な絨毯みたいなサイズになってしまう)の上で、マメイヌのいそうな場所にあたりをつけるのだが、そのときのみんなの意見を、「ぼく」は細かくノートにつけている。「あとになっても、だれがどんなことをいったか、よくわかる」ため。
仲間の、フエフキ、ネコ、ハカセ、サクランボたちとともに、マメイヌの気質、好きな食べ物、行動パターン、罠の仕掛け方を想像し、それらがクリノヒコのノートに書き込まれていく。
(前略)そして、ノートをとじた。
「おもしろくなってきたな」
フエフキは、つぶやきながら、立ちあがった。まどからは、大きなお月さまが見えた。フエフキは、そのまま、スタンドにさがっているスイッチのくさりをひっぱった――というよりぶらさがった。その足にネコとサクランボとぼくがぶらさがった。それでやっとあかりがきえた。
「さあ、みんな。こんどはぼくのふえをきかそうか」
ぼくたちは、拍手をした。
ぼくのノートには、そこまでちゃんと書いてある。

(75p-76p)
この最後の一文の素晴らしさ。

あるいは。
この物語のもうひとりのかわいい主人公、というかヒロインの「おチビ」ことクルミノヒメについては割愛するとして(全部書いてしまえば面白くないから)、人間のほうの「ユビギツネ(マメイヌの別称)使い」の血筋を辿っていってせいたかさんが、事情に詳しい特定郵便局の局長さんの伝手をたよって、ついに、ブラジルに移住してしまった人に手紙を出し、その返事を航空便でもらうくだりで、その返信の最後に、
わたしたちももちろんですが、親たちは、日本からの手紙を、とてもとても喜びます。知りあいも、局長さんの一家と、そこにお世話になっている人だけなので、これからも、ぜひぜひ、たびたびお手紙をください。心からお願いいたします。できましたら、お写真も、送ってください。では、とりあえずお返事まで。
さようなら

(174p) 
と書かれてあるこの切々とした調子に、出版当時(1962年)にはまだ大勢いたであろうブラジル移住者の寂しさ・辛さが込められているように感じる。このブラジルにすんでいる人とのやりとりはこれっきりで、ストーリー上の必然性はそれほどないような気もするのだが(むしろ、ブラジルという国が突然登場する突飛さのほうが目立ってしまっている)、それまで知り合いでもなかった「せいたかさん」に手紙や写真を強く求める様子を描く上で、作者には特別な思いがあったのではないか、と完全に時代の違う読者としての僕は想像するよりほかない。
ともかくも、ゆるふわ語を多用するだけの現代小説のなんちゃらとは一線も二線も劃していると僕は思う。


最後に。
この講談社文庫版では、作家の有川浩が解説を担当していて、そこには、小学校三年生の少女時代(女性だということを初めて知った)、毎晩枕元に、お菓子やミルクにくわえて、「コロボックルさんへ」と題した手紙を置いていたという体験が書かれていた。
あくる朝に、コロボックルの飲み食いした形跡がなくても、「そう簡単に心を開いてくれないであろうこともせいたかさんの手記より推し量れた」とめげずにその「日課」はつづいたという。この他人から見れば実にほほえましいエピソードを有川は、――照れ隠し半分であろうが――「我ながら相当気合の入ったメルヘン脳だった」と自嘲しているが、これはよろしくない。
アマチュアの照れ隠しならわかるのだが、作家は、笑いをとりに行きつつ照れ隠しも行える、などというあざとい計算はしなくてよいと思う。「われながら感受性の豊かな子どもだった」と書け、なんて思わないが、かといって、「メルヘン脳」なんていう低レベルな言葉で自分の子ども時代を笑い飛ばすのは、どうも僕は好きではない。
この作家の作品を読んだことはないのだが、ただ実際にあったエピソードだけを記述して、「結局、コロボックルさんからの返事はありませんでしたが」の一言でさらっと終えるだけでよかったんじゃないか、と思っている。

なお、有川浩は、佐藤さとるの許可を得て、これらのシリーズの続編を書くらしい。
(繰り返しになるが)彼女の作品をまったく知らないのでなんともいえないが、くれぐれも「ああ、余計な続編になったもんだ!」と長年のファンたちが憤慨するようなものにはしないでほしい。
僕も、ゆっくりとこのシリーズを追っかけて行って、最終的には、「お、有川版もけっこういいじゃん。あのときケチつけて申し訳なかったな」くらいの感想を持てればいいなと思っている。


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