NHKのニュースウォッチ9って、新キャストになってからきのう初めてちらっと見たのだけれど、ひとつのニュースが終わったあとの男の人のキャスターの一言コメントの「ひとごと感」ってものすごいなあと感じた。ひとつひとつのコメントのあとに「しらんけど」って心のなかでつぶやいてそう。
 
そのきのうは例の安保関連法案が衆院特別委員会で採決されたということが報じられていた。
といっても、このスケジュールについてはちょっと前からすでに報じられており、きのうのこのニュースを見て、(憤りを感じはしても)「ええっ!?」と驚いた人は少ないと思う。
国会前や、全国各地で反対集会をしたという報道もあり、それはそれでいいことだと思うけれど、でも、われわれのできるいちばんのアクションって、 SNSを利用してデモを呼びかけたり、ネット上で意見表明をしていくことよりも、投票なんだよね。
日本会議のうさんくさい話とか、改憲草案がひどいなんてことはもう前々回の衆院選前からネットでは目にしていて、「こんなやつらが選ばれたらさらにひどいことになる」というのは共通認識としてみなが感じていることだと思っていたのだけれど、ふたを開けてみりゃいまの政権になっていた。
あのとき、「経済優先」とか「景気優先」などとさかしらに言っていた人たちに対する反感を僕はいまでも持っていて、だいたい、なにごとにつけ「経済」を理由にする考え方を僕は好んでいない。

2011年、当時、仲のよかった女の子が「原発はいままでも反対していましたけど、コストの面から見てもわりに合わないということが今回の事故で証明されましたね」みたいなことを言っていて、それを聞いて内心腹を立てたことがあった。
その考え方でいけば、原発を稼働して得られるエネルギーと、算出された原発事故による被害額の総計とを比較し、もし前者のほうがそれでもメリットが大きいと判断できれば、原発GOってことになる。
これは、ちょうどその頃テレビ放映されていたマイケル・サンデルの授業でやっていた功利主義の「最大多数の最大幸福」と同じ話だった。
1970年代、フォード社のある車のガソリンタンクは、追突された場合に爆発しやすいという欠陥を抱えていた。この欠陥による火災事故では500人以上が死亡したというのだが、実はフォードはこの欠陥の危険性を認識していた。
要約すればフォードの経営陣は、タンクを改良することによって得られる安全性(メリット)と、その安全性を確保するためのコストを算出して比較した。その結果、コストはメリットよリ高いということが判明し、フォードはタンクの改良をあえて行わなかった。なお、このとき死者一人あたりの値段を「20万ドル」と計算したのは、フォードではなく政府機関。ここは、交通事故死のコストを、「将来の生産性の損失、医療費用、葬儀費用、犠牲者の苦痛を合計して」求めた(サンデル『これからの「正義」の話をしよう』早川書房 60p)。
ここには考え方の相違があるだけで、絶対的な正解はないと思う。現政権だって、(少なくとも建前上は)最大多数の最大幸福にもとづいて原発再稼働GO! GO! GO!を謳っている。彼らには彼らの信奉する正しさがあるのだ。いまだったら「ほらね、やっぱりだよ」とあの女の子に言ってやりたいよ。
けれども僕は、金額に変換できるものとできないものがあると思っている。金額をベースにして選択し行動していくというのは、ある意味での明瞭さをともなうために支持されやすいのかもしれない。けれどもその考え方で行けるのはおよそ自らが関わらない場面でしかなく、他人事であるからこそ「クールでクレバー」なふりがつづけられるのである。

「コスト的にも見合わないうんぬん」と言っていたその女の子に対してそのときは、明確に反論せずにただひとこと「いやあ、僕も反対の立場に立つけれど、それは違うな」と言っただけだった。反対するのならその考え方はどっちでもいいじゃん、と思われたのかもしれないが、僕としてはどっちでもよくないのである。
そのとき僕の頭に浮かんだのは「倫理」という言葉で、これが正確で適切な言葉なのかはいまだにわからないが、抽象的で個々人によって異なる「正しさ」についてのややこしい価値観の意であることはその当時から変わっていない。
それは、他人に説明するのもめんどくさい、「おれがいままで生きてきた経験に照らし合わせて、これは好きじゃねーんだよ」の一言がもしかしたらいちばんぴったりな感覚。であるがゆえに、他者の批判は絶対に受け容れないものでもある。
そのいいかげんな感覚を、いわばカッコよく「倫理」と名づけているだけであったが、けれども僕にしてみれば、「コストが大きすぎる」なんて表現よりよっぽど確かな感触があった(自分自身のものだからあたりまえだけど)ので、あれ以来、僕はなるべくそれを根拠としてものごとを判断するようにしてきた。

話が横道にそれた。
元に戻せば、きのうの結果は、もうすでにずっと前から決まっていたことのようなもので、それは、ネットを利用すればきっと世の中は善い方向に進んでいくだろうと過信する多くの若い人たちの甘やかな期待を裏切るものだったろう。
僕はシニシズムに浸っているのではない。そうではなくて、もっと横を見ていったほうが早いんじゃないかと思っているのだ。横というのは、投票権を持っている同世代の人間あるいは同じコミュニティに属している人間たち。そういう人たちに、ただの「投票」だけでなく、「正しいと思う人への投票」を呼びかけたほうが、少なくとも現況よりは「正しい」状況に近づけるのではないか。

しかし、こんなことを言う一方で、「まあムリなんだろうなあ」という確信に近い考えを持っている。
新国立競技場の問題にしたって、あそこに絡んでくる人間の醜悪さっていうのはものすごいものがあるのだが、なにも特殊な人たちがあそこにだけ集まっているというわけではない。
たとえば五輪誘致の発端といえば石原だけど、あの都知事をずっと長いあいだ選んでいたのは誰かっていう話はあんまりなされない。ちなみにあのおっさん、「都民以外の通勤者らに、1人あたり月1000円払ってもらう。そうすれば、年間で約600億円が入るんですよ」とテレビ番組で言ったそうな。そういえば、尖閣諸島の問題に火をつけたのもあのおっさんだった。すげーな、人の役に立つどころか混乱を招いているだけじゃん。
ネットで調べたら、2012年5月の時点で東京での五輪開催に対する支持率が47%だったのに対し、2013年の3月ではそれが70%になったのだとか。こういう人たちはいったいいまなんて言うのだろうか。まあ「まさかこんなバカなことになるなんて思っていなかった!」って言うんだろうよ。いいよね、そういうふうに自分はつねに善意の人間であるよう振る舞って、他人にも性善説を用いていればいいんだからさ。
ここらへんのことを考えていたら、大西巨人『神聖喜劇』中の「責任阻却の論理」の話を思い出し、さきほどひさしぶりに同書をあたってみた(そのために記事を書いているうちに日をまたいでしまった)。
軍隊では、下級兵は上級兵に対し「知りません」と言うことは許されず、つねに「忘れました」と答えるというのが暗黙の了解になっているのだが、それは責任の所在を上級者の通知の不徹底あるいは教育の不備等に求められないがための「知恵」であり、つまり「忘れました」を徹底させることによってつねに上級者は下級者に対する責任を回避することになり、その指揮系統を順々に上にのぼっていけば頂点にあるのは元帥たる天皇なのだが、結局これも「すべての責任はその下級者にある」という論理系統上では責任を持つ存在ではありえず、かくして日本の軍隊はつねに責任のありかを問うことができない究極の無責任組織である、ということが証明される。

これ、いまの新国立競技場の問題とまったく同じ。上級・下級というよりは、それぞれの組織ごとで「あいつが悪い」と言い合っているだけで誰も責任を取ろうとしない。国民のほうだって、みんな善意の第三者の顔して「許せない!」と怒る。けれども、着々と工程は進捗していき、おそらくは覆らないままなのではないか。この予想がはずれれば嬉しいけれどね。
まあ、無責任っていうのは国民側にもあるんだよな。直接自分の側に害がなければ「クールでクレバー」なふりをしていられる人間も多いし。
ちょっと上で僕は(近くの人間に政治的共闘を訴えていったほうが早いという行動に対し)「まあムリなんだろうなあ」ということを書いたけれど、それは、あまりにも無責任な人間のほうが多いから。そういう人たちを多く取り込むなんてほぼムリ。僕はそのグループに入っていないと断言したいけれど、それもまた難しい。結局は「こいつらが悪いんだよ!」で済ませちゃってるからなあ。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」(日本国憲法前文)しているという構造が守られている以上、その代表者がおかしいのは、日本国民がおかしいからでもある、ということくらいは認識したほうがよいのだろう。