おとといの記事のつづき。

上記を書いた時点で僕は、「ツバメの雛は三羽から二羽になってしまった」という認識を持っていた。それは取りも直さず、ひとつの物語――三羽のうち一羽は不幸なことになってしまったが、他の二羽は元気に飛び立って行ったのである、という物語――のピリオドを意味していた。


きのうの朝、午前六時ちょっと前に仕事へ行こうと玄関を開けると、二羽の雛が落ちていた。巣を見上げると空っぽなので、「生き残った二羽」が落ちたのだとわかった。
幸いなことにその二羽は生きていたが、自力で飛び上がるほどに成長はしていなかったので、諦めたように丸くちょこんとすわっている。このままにしておけば、暑さにやられるか野良猫などに喰われるかして死んでしまうことは明白だった。
雛を巣に戻してやろうにも家には脚立を置いていなかったので、一度仕事場に行って取りに行かなければならないと思っているところへ、家の前のYさんが、「きのうまでおった雛が急におらんようになったなあ」と声をかけてきた。
「落っこちてしまってるんですよ。いま、ここに二羽いるんです。巣に戻してやろうと思っていて」
「ほんなら、脚立持って来たるわ」
Yさんに言われて僕は手袋を嵌めた。ひとの匂いがついて親鳥が餌をやらなくなることを避けるためである。駐車してある車を少し動かしてスペースをつくり、そこへYさんの持ってきた脚立に乗って、二羽を巣に戻してやった。
二羽はこちらが思っている以上に弱っていたようで、巣のすぐ手前で、「ほら、巣のなかに入りな」と雛を載せた掌を目一杯広げてやっても渡って行こうとしない。おしりをつんつんと軽く突いても進もうとしない。仕方がないので、狭い巣の上のところにまで手を伸ばし、無理矢理に雛を一羽づつ押し込んだ。よく見れば二羽とも身体中に小さな虫が這っていた。おそらくダニだろう。わづか数時間地面にとどまっていただけで、ダニが集まって雛の身体から血を吸おうとしているのだった。

作業が終わり、Yさんに礼を言いながら、「だいじょうぶですかね?」と問うた。形式上は質問になっていたが、実質は「だいじょうぶであってほしい」という祈りだった。僕の質問が聞えなかったのかYさんは、「雛が落ちるなんて、だいぶ珍しいわなあ」と言ったきりだった。
右手の当たりがもぞもぞすると思って見てみると、手首のあたりをダニが這っていた。さきほど雛を持ち上げたときにこちらに移ってきたぶんだろう。

そういうことが朝あったから、というわけではなかったが、午前十時くらいになってから、家の周りの除草をしようと仕事場から戻ってみた。
例の雛は巣のなかにいて、元気そうに身づくろいをしていた。Yさんが自宅の前で薪を割っていたから、声をかけた。「朝はどうもありがとうございました」
「だいじょうぶみたいやな」
「そうですね。朝、巣に戻したときはダニがついていたんですよ」
「ほうかぁ。まあ、いま身体をついばんどるから、虫もとれるわ」
「それならよかった」
「はじめは四羽いたわしよなあ」
「そうでした。でもずいぶんと早いうちに一羽はいなくなっていましたから、落ちたところをノラにでも喰われてしまったのかもしれません」
「おおよ、あんたのところのネコんところにも遊びにきとるやろ?」
「あの顔のでっかいやつですか?」
「ほうや」
「あのノラちゃん、かわいい子ですよね」
「かわいいけど、あんなんに喰われんで、今朝のも、よう助かったわしよ」
「ほんとに」
おしゃべりをもう少しつづけたあと、もう一度礼を言って別れ、わが家の庭のほうへ回ろうといったん玄関近くへ行くと、ヘビが這っていた。面白かったのでYさんを呼ぶと、「こら、だいぶ大きいなあ。いったん雛らが落ちて、そこに匂いがついたんわしよ」
ヘビを逐ってから雛を見上げると、まだ自らの身にせっせと小さな嘴を入れていたが、もう心配はなさそうだった。


現時点では、雛は無事に生育し、明日あさってにも飛び立ちそうなほどである。
けれども、その二羽の未来はどうなるかわからない。彼らの生命に筋書きはないからである。
対して、小説やドラマ、映画には物語がある。そこには始まりがあって、必ず終わりがある。ハッピーエンドであろうとバッドエンドであろうと、ともかくもひとつの終焉がある。そういう視点に慣れてしまうと、実人生までも物語化してしまいがちだ。
生きている人間に対して「人生」という言葉を遣うことに、僕は違和感を覚える。まだ終わっていないひとりの人間――たとえそれが自分自身であっても――の生を俯瞰するような視点は、誰ひとりとして持っていない。
巣に戻したツバメの雛の身体に無数のダニが這っているのを見たとき、この世界は実に厳しいものだと思った。血を吸われて死ぬということはなかろうが、ダニを媒介にして病原菌に感染する可能性もある。三羽(しかももともとは四羽)のうちの二羽も、明日の朝は地面に落ちて硬くなっているか、あるいはヘビや野良猫に喰われているのかもしれない。そんなことは誰にもわからない。
けれども、おとといの記事を書いたときの僕の頭脳にあったのは、「一羽は犠牲になったけれども他の二羽はまさかそういう不幸な目には遭うまい」という思いだった。思い込みというよりは、願望だ。それは、大地震に見舞われ、ようやく復興の目処がつきはじめた被災地を、ふたたび大地震が襲うことを想定しないのと同じだ。可能性をあらかじめ考えないようにすることによって、言霊の作用が生じないことを期待している。

物語は終わらせることができるが、生はつづいていく。いくら美しく恰好のよい部分だけを切り取って額縁に飾っておいても、生はときおりそれを裏切る。現在とは、賽を振る直前の状態のことを指す。われわれ存在する事物は、つねに運の海原を揺蕩うている。螢自身に自らの航跡をとらえることができないように、われわれも、どのように波間に浮かんでいるのか計り知ることができない。


二羽の雛を巣に戻すとき、親鳥であろう二羽のツバメがかなり僕に接近してきて、ぐるぐると旋回した。さすがに突っついてくるようなことはしなかったが、警戒行動であり威嚇行動だったのだろう。
調べていないのでわからないが、ツバメの雛は、大きくなる前に巣から落ちてしまえば死を待つばかりなのではないか。まだ小さい時分なら親鳥が必死に持ち上げて巣に戻すことも可能かもしれないが、ある程度大きくなればそれは難しくなる。となれば、落ちた二羽の雛は「自然状態」であれば、死の宣告を受けていたのと等しかったはずだ。
しかし、ある偶然と気まぐれから、彼らの「死の運命」はとりあえず回避された。僕とYさんは「自然」に介入したのだった。そのことが、なんとなく面白く感じられた。ときには、いい目だって出ることはある。ときには。