何も知らず朝寝せし朝 世界では 「パリ」の名響(とよ)む悼みとともに

もちろん先週土曜日の話。起きてもテレビニュースも見ず、またネットのニュースも見ずに前日から書いていたブログ記事を一本書いてアップし、それから本でも読んでいたか。
死傷者の数は、時間を追うにつれ増えていったようだ。もちろん僕は、ニュースサイトに張り付き、事あるごとにchromeの「更新」ボタンをクリックするというようなことはしなかった。「TLを眺めている」なんてこともしていなかった。

それから数日経って、銃の乱射が行われたライブ会場で当日パフォーマンスをしていたバンドがどういうものだったかを紹介する文章を読んだ。そこへやってきた人たちがほんとうに自由や平和を愛する人たちだということが怒りをもって伝えられていた。そして、ライブ直前のステージをたのしみに待つ多くの人たちの写真も紹介されていた。
そのとき、死者百数十人という文言にはじめてリアリティを感じられた。そのときまでいっさいのニュースを絶っていたせいもあったけれど、たいへんなことが起こったということがそのときはじめてわかった。といって、僕はなにもしなかった。なにもできるはずがなかったし、そのことについてなにか言うことができなかった。
アマゾンやYouTubeのトップ画面にフランス国旗が掲げられていた(?)のは知っていたし、Googleのホーム画面にも黒い喪章をあらわすリボンがあったことは知っていた。けれどもこういうときのこういうやり方は僕にはどうも馴染みのないもので、「JE SUIS CHARLIE」とか「I AM KENJI」だとかにもピンとこなかったくらいなのだ(そもそもシャルリー・エブドのあの表現は間違っていると思っているし、今回のテロ事件直後の諷刺画だってどう考えても品のあるやり方だとは思えない)。

そこへきのうの夜、たまたまYouTube上でZazという歌手の音楽を探していたら、「Paris sera toujours Paris」という曲を見つけた。
toujoursはalwaysというのはなんとか憶えていたが、seraともなるともうお手上げ。êtreの活用の一種だろうけど……と思っていたら、英語字幕でそこに「Paris will be always Paris」と書かれていた。一年以上前の曲だが、フランスではいまこれを聴いてなにがしかの感慨を抱く人もいるだろうと思う。

そしてきょう、永田和宏の『現代秀歌』について書かれたあるブログ記事を読んでいたら、永田が機会詠の重要さを訴えている部分が引用されていた。機会詠というのはある事件や出来事に対して歌を詠むこと。
それを踏まえて今回のテロ事件を考えたとき、これからしばらくのあいだは「パリ」という固有名詞が口に出されるたび、特にヨーロッパなどでは痛ましい感情が同時に喚起されることになるだろうということが直観された。広島や長崎と同様、いまでは福島という単語にも日本人のほとんどが敏感に反応してしまうように。
その経緯となる朝、僕は仕事を休みぼうっとしていた。そのことを記録しておく。