年末は三谷作品にどっぷりという感じで、年が明けてから軽い喪失感。
とはいっても、『真田丸』ではない。あれは大坂城で哀川翔と岡本健一とがやたらと幅を利かせて「ザ・学芸会」をかましてくれたので辟易し、ついに我慢ができなくなってネットに避難していた際に、たまたまYouTube上で舞台版『ラヂオの時間』を観たのであった。いまこれを書いている現時点でも、『真田丸』は残り2回を残して未見のまま。うーむ、興が削がれすぎてしまったんだよなあ、あの2人のせいだけで。
それはともかく、『ラヂオの時間』が予想以上に面白かったのでほかになにかなかったかと検索してみると、『王様のレストラン』がヒットした。第1話から最終話の第11話まですべてあって、それぞれ2回~3回観た。
1995年のリアルタイムでは家族が観ているものをちょこちょこと覗くといった程度で、本腰を入れていなかった。いまになってその家族に訊いてみると、両親にしても弟にしてもやはり本腰を入れて観ていなかったようで、特に弟はギャルソンやコック連中の態度がどうにも好きになれなかったということを言っていて、それを聞いてたしかに僕も、稲毛(梶原善)や梶原(小野武彦)らが松本幸四郎演じるギャルソンに陰で文句を言っているという点に苛立ちを覚えてなんとなく距離を置いたことを思い出したのだ。

といっても時は20年以上経ち、それなりに感ずるところも変っているであろうと観てみたわけだが、これがとても面白かったのである。
とりあえず観終えて日も浅く役名を書くほうがラクなので、参考となるよう役名/俳優名をリストアップしておく。
  • 千石 武 - 松本幸四郎
  • 原田 禄郎 - 筒井道隆
  • 磯野 しずか - 山口智子
  • 三条 政子 - 鈴木京香
  • 水原 範朝 - 西村雅彦
  • 梶原 民生 - 小野武彦
  • 稲毛 成志 - 梶原善
  • 大庭 金四郎 - 白井晃
  • 和田 - 伊藤俊人
  • 畠山 秀忠 - 田口浩正
  • 佐々木 教綱 - 杉本隆吾
  • ジュラール・デュヴィヴィエ - ジャッケー・ローロン
  • ナレーション - 森本レオ
当時を知る人にとってはなんとも懐かしい顔ぶれということになろう。和田役の伊藤俊人はすでに故人となっているし、そのほかにも、自らがそのキャラクター演技に縛られ飽きられてしまった者(僕の印象では三谷組はそういう人たちが多い)、スキャンダルによってあまりその名前を見なくなってしまった者、代替する役者に取って代わられてしまった者、などもいないわけではないが、しかしこの当時はまったく輝いていた。この作品になぞらえて言うならば、「誰かが言った、すべての舞台には光がある、と。このドラマには、いわゆる奇跡が詰まっていた。脚本家は脂が乗っていたし、役者たちは、その誰もが、掛け値なしにぴかぴかに輝いていた。まるで、まだ誰も使っていない厨房のように(森本レオ)」ということになる。


松本幸四郎はまぎれもない日本の伝統文化の担い手の中心人物であり、そのような人間をこともあろうにフレンチレストランのギャルソンに据える、というのはいまとなればものすごい奇策のようにも感じるが、どうあれ、それは最高のマリアージュとなった。彼の持っている独特なブレスの使い方があまり類を見ない間(ま)をつくりだし、エレガントかつコミカルなキャラクターを形成させた。彼のいない『王様のレストラン』は考えられないし、またこの作品を観た者は、彼の役者人生のなかに千石という役名が大きく刻まれているのを見るはずだ。

オーナー(ロクロー)を演じる筒井道隆は、20年前はどうにも好きになれなかった。優しすぎてただのマヌケに見えるし、彼の一本調子のしゃべり方も気に食わなかった。それが、いま見ればなんとなく許せるようになった。思えばこの「優しさ」というのは三谷作品にはけっこう見られるもので、いまより若い頃の僕には優柔不断のようにも映ったのだ。そして、優柔不断は僕にとっては非常な悪だった。
いまでも優柔不断は好きではないけれど、それでも「そういうこともあるかもね」という一定の理解を持つことはできるようになったし、そもそもこのロクローというのは優柔不断ではなく、情の深い芯のある人物だということもわかった。ただ、底抜けにお人好しだったわけだが。そんなキャラクターを愛せるようになったというのは、僕にとってはちょっとした驚きで、嬉しくもあった。
後に詳述するが三谷の作品には、日和見主義だったり、すこし意地悪だったり、裏表のある人物が出てくることがある。しかし、彼らは底の底では悪人ではなく、どこか愛すべきところが残されている。少なくとも作者はそう思って人物をつくっている。たしかカート・ヴォネガットが父親に「おまえはほんとうに悪い人間を描くことができない」と言われたと記憶しているのだが、三谷にもどことなく同じ言葉が言えそうだ。そしてまた、ロクローのみんなに対する優しさは、上に挙げたような小人物たちの救いにもなっている。そういう意味で、このドラマのシンボルにもなっている存在なのだと気づいた。

シェフ(しずか)の山口智子はとてもキュートで、同じような言葉を重ねてしまうがとにかくまあチャーミングなのだ。
女性でいえば、三条さん役の鈴木京香は対照的に美人で、自ら「愛人顔」と称し、実際に愛人役でもあるのだが、こちらはごくごく一般的な恋愛をしていると感じてしまう。こんな美人だったらまあ愛されるし、くわえて当人も他人に優しいのだから、それってつまりあまり変化球のないストレートな恋愛だよね、と憧れを抱きながら思うわけだ(鈴木京香は鈴木京香で、他には得難い個性というものを魅せていることは註記しておくけれど)。
けれども千石に対するしずかの言動っていうのは、男子学生のファンタジーみたいなところがあって、あまりにも天衣無縫でうぶでそのくせ天邪鬼で、観ているとこちらが赤面してしまう。これは万人の好むものではなく、なかにはものすごく嫌いという人もいるだろう。だが僕の場合はいまだにティーンエイジ・スピリッツを抱えて生きているので、ああいうのは全然アリなのだ。

他を一挙まとめて書くと、メートル(梶原)の小野武彦と、コミ(和田)の伊藤俊人、パティシエ(稲毛)の梶原善と、スーシェフ(畠山)の田口浩正は、先に書いたような小人物ということになる。それぞれが心中で相手を見下してはいるもののなにかというと結託をし、すぐれた者や意識の高い者の足を引っ張ろうと躍起になる。
しかし第6話で、梶原(小野武彦のほう)が別れた妻に、ほんとうはメートル・ド・テル(食堂主任)なのに見栄を張ってディレクトール(総支配人)だと嘘をつき、それによって大混乱が起きるという回がある。これぞシチュエーションコメディの見本というような大傑作回で、結局はすべて露見してしまうのだが、そこで梶原の元妻が千石に、「どうしてみんな梶原の嘘につきあったのか?」と問う。このときの千石の答えがなかなかいい。
「彼には、人を不愉快にさせない人柄というものがあって、それは、ギャルソンにとってなにものにも代えがたい宝物なんです」
そして最終回の第11話でも、このベル・エキップの面々をナレーションが紹介するとき、梶原・和田のコンビを指して「愛すべきメートルたち」と言っている。
しずかに惚れていることが最大でもしかしたら唯一のモチベーションであるパティシエもスーシェフも、お世辞にも誰もが好きになるようなキャラクターとは言えない。でも、三谷は暗に「日本人ってだいたいそんなもんじゃない? 真面目で、立派で、どこに出したって恥ずかしくないような人って、逆にいる?」と問いかけているような気もする。別に彼がそんな発言をしたという記憶も記録もまったくないのだが、しかし彼の描きたいのは、完全無欠の高邁な人格の持ち主などではなく、それよりは、いろいろと欠点はあるけれど、どこか愛すべきところが残っている人物、なのではないだろうか。彼の優しさは、そこをすくい上げたいのではないか。

ソムリエの白井晃には、少し変った立ち位置が用意されていて、かなりおいしい役どころだ。自尊心が高く物知りでちょっと気障だが、最終話で千石にまたベル・エキップに戻ってこいと言ったのはオーナーのロクローを除けば彼が最初だし、自分の考えをきちんと明言し、周囲を叱咤するときもあれば(第10話)、そうかと思えば「同僚を裏切ることはできない」とある意味同志であるオーナー&千石組に反抗することもある(第4話)。それだけならかなり完全無欠のソムリエになってしまうが、音痴だったり真面目がゆえの失敗などが用意されているので鼻持ちならないやつとは受け取られない。白井自身は、この役どころのイメージがあまりにも定着してしまって困ったことはなかったのだろうか、とこちらが心配してしまうほどだ。


と、わざとここまである人物に触れないで書いてきたが、そこに行く前に、「もし2017年に『王様のレストラン』をリメイクするのなら」という設定で、頼まれもしないのにキャストを考えてみた。ことわっておくが、かなりの自信作である。
重複すると煩瑣なので、左にわかりやすい役名/呼称/役職と、括弧書きで名前や渾名、右に新キャストを配した。
  • 千石さん - 堺雅人
  • オーナー(ロクローさん) - 東出昌大
  • シェフ(しずか) - 長澤まさみ
  • 三条さん(マーシー) - 吉田羊
  • ディレクトール=ソウ支配人(ノリトモさん / のりたま) - 松尾スズキ
  • かじわらさん(くどいようだけど、おれ「かじはら」だから。間違いないでくれる?) - 生瀬勝久
  • パティシエ(稲毛) - 濱田岳
  • ソムリエ(大庭さん) - 山本耕史
  • 和田くん - 野間口徹
  • 畠山 - 松尾諭
  • 皿洗い(佐々木くん) - 細田善彦
  • デュヴィヴィエ - 特になし
  • ナレーション - 窪田等
ちょっと注釈を。
まず千石には、やっぱり『真田丸』における演技で僕のなかで急激に株の上がった堺雅人を任せたい。松本幸四郎とはタイプがまったく違うけれど、それはそれでどういう表情を魅せてくれるのかたのしみ。次点で長谷川博己。彼は『デート』でみごとコメディを演じてくれたし、もともとスマートな感じなので、エレガントさについては問題なく表現してくれるだろうと思う。
オーナーは、東出昌大。身長と棒読み感がぴったり。
シェフは、 長澤まさみかなあ。これもやっぱり『真田丸』の印象が強くて、かのドラマでは一年を通して(といっても最後の2回は未見だけど)ほぼ一度として美人という扱いを受けてこなかったという事実に、資生堂のCFだかに出演しているのを観て愕然として気づくという逆説的な認識をしたわけだが、まあこういう役どころを受け容れられるというのは将来がたのしみである(小者ほど、役柄についてあーだこーだ言いそう)。次点で優香。これはやっぱり『ちかえもん』の印象。かわいらしくて優しくて、でも気が強くて、ものすごく魅力的だったもんなあ。
三条さんは、吉田羊。当時の鈴木京香よりは年齢が上かもしれないがどうせ年齢非公開(なはず)だし、美人だからよしとする。次点は若い頃の和久井映見。いまでもとても素敵で、僕個人としては露ほどの不足もないけれど、とりあえず「若い頃の」という条件を付しておく。こっちは『デート』や『ちりとてちん』での印象がある。
かじわらは……え? あ、かじらね。わかったわかった。かじはらは、生瀬勝久なんだけど、あれ? 生瀬って一回梶原やっていなかったっけ? ってくらいのハマリ役な気がする。 次点で近藤芳正。95年版にはゲスト出演しているけれど、あの頃よりさらに味が出ていると思うから十二分に演じられると思う。
パティシエは濱田岳。濱田岳はきちんとその演技を観たことはないんだけど、まあ背が小さいところが採用した一番の理由。東出と反対だね。
ソムリエは山本耕史。といっても、石田三成の印象からではなく、『夜のせんせい』の、外面は怖いけれど中身は抜けているヤクザ、がとても好演だったため。
和田くんは野間口徹。メガネだから。
2番シェフの畠山は、なんといっても松尾諭。以前から言っているが、少し前まで田口浩正が独占していた「小太り・メガネ」の枠は、現在すべて彼が総取りしようとしている。
皿洗いの佐々木くんは率直に言って誰でもよかったが、せっかくだから最近頑張っている細田善彦にしたい。
あと、ナレーションは窪田等。任天堂のCMをやらせている場合じゃない。日本の宝やで。


で、ここでもやはり触れなかったのが、つまり僕が最大のお気に入りのキャラクターである、水原範朝または「のりたま」、あるいはディレクトール、a.k.a ソウ支配人だ。
95年のリアルタイムで観たとき、西村雅彦をきちんと評価できる眼を僕は持っていなかったのだと思う。なんだか西村雅彦はまたヘンなしゃべり方してるなあ、辛気臭いなあ、くらいで止まっていたのではないか。
しかししかし、西村雅彦はそんなもんじゃないのだ(ということを、この記事を書く前に弟に言ったら、「そんなのわかってるよ! 西村雅彦、超うまいよ!」って言われた)。彼の実力がいかんなく発揮されるのが第9話。借金を返すために店の売上に手をつけて、しかもそれが従業員にバレてしまい、みんなの前で弾劾されるとき、弟のロクローが必死にとりなすのをよそに、自ら店を去ろうとする。それを止めようとするロクローに対するセリフ。
悪いがおれにだってプライドがある。親父がいた頃は親父にさんざんバカにされてきた。
やっと死んだと思ったら、今度はおまえらだ。いつだっておれはダメな男の代表だ。
ロクローは「そんなことないよ」と応える。
おれを、ただの役立たずだと思うな。運が悪かっただけなんだ。ほんのちょっと歯車が噛み合わなかっただけなんだ。とてつもなく長い厄年がつづいているだけなんだ。
ロクロー「(強くうなづき)そう思う」
ノリトモ「ばか言え、おまえにわかるか」
「わかるよ」
「わかっていない」
「わかってるから、役に立ちたいんだよ!」
おれは兄貴で、おまえは弟だ。おまえから、優しい言葉をかけられるたびに、おれの心はずたずたになっていくんだ。
もう、ここらへんの西村雅彦のセリフの吐き方がものすごくて、というのも全然感情的ではなく反対にまったく抑えたようにしゃべるのだが、かえってその淡白な部分に兄としてのやるせなさが滲んで感じられ、こちらの胸が詰まってくる。これが情熱にまかせて叫んだり、あるいは自己憐憫にひたりきったモノローグに堕してしまえば、視聴者はかえって冷静になってしまう。
強く断っておくが、淡白とはいっても、たとえば上のセリフの「とてつもなく長い厄年がつづいているだけなんだ」の部分は、「とてつもなく、」でちょっと切れて、「長い厄年が~」とつづく。あるいは、「おまえから優しい言葉をかけられるたびに」のところの、「かけられるたびに」も、少しだけ声量が落ちる。これらはおそらく、情感が溢れてきてしまって一瞬だけ言い淀んでしまったのではないだろうか。
また、この回のエンディングちょっと手前で、やっぱりみんなのことを考えて店を去ろうとするノリトモを、今度は千石が呼び止めて説得する。「自分を信じるんです。ノリトモさん、あなた自身が信じてやれなくて、いったい誰が信じるんです」
このあとの西村雅彦は、きちんと松本幸四郎に向き直って、
ふしぎだなあ……、あんたと話してると、親父を思い出すよ
と感に堪えない様子でつぶやくのだが、このときの「ふしぎだなあ」にも、辞書的な意味における言葉とは別に、思わずこぼれてしまった情緒というものが込められている。
これらの表現は、単なる棒読みとはまったく一線を劃すものである。西村雅彦はけっして器用ではないが、けれども感情の込め方がわからないような、そんな二流三流の役者ではない。三谷幸喜は当て書きをするとはよく言われているが、これらのセリフは、西村雅彦の口から出てくることでより強度を持った言葉になっている。
そうなんだよなあ、「とてつもなく長い厄年」というのも、「ほんのちょっと歯車が噛み合わなかっただけ」というのも、ほんとうにあることなんだよなあ。20年が経ってそんなことがじんわりと理解できるようになったよ。
そしてこの場面では、ロクローの優しさが万能というわけではないことをはっきりと描いている。他のスタッフたちの救いとなってきた優しさも、ときに人を傷つけていることがある。それも、いちばんたいせつに思っている相手を。
しかしそこは三谷幸喜、無邪気な善意で失敗して兄に文句を言われても、さらに「覚悟の善意」とでも呼ぶべき優しさで相手を包み込むことで解決させる。互いに理解のできぬまま別れてしまうというのは、リアルなのかもしれないが、カタルシスがない。プロセスはリアルであってもよい。あーだこーだと登場人物が視聴者を引きずり回し、感情をぐらぐらにさせたっていい。けれども、われわれが最終的にドラマに求めるのは、なんだかんだいってカタルシスなのだ。最後までぶちまけっぱなしの物語なんて、誰が必要とする?
ディレクトールのノリトモは、運がなくて、頭もそれほど切れるわけじゃなくて、小心者で、小ずるくて……、けれども、そんな彼にも陽の当たる日が来る、というのがこのドラマのクライマックスだと僕は感じた。なんといったって彼も、こと動物に関しては優しいし、動物を愛する者に対してはロクロー並のお人好しを見せる。彼こそ、このドラマのほんとうの主人公なんじゃないかと感じた。よく、「本当の主人公は○○だ」と指摘して得意げになっているやついるけどね。


もう書きたいこともだいぶなくなってきた。
あ、新版(って勝手に名づけちゃっているけど)キャストのディレクトールが松尾スズキってのもいいでしょ。これはもちろん『ちかえもん』での好演が頭に残っていたから。なお、このドラマ(『王様のレストラン』のほう)に興味があればVHSなりDVDなりをレンタルして観るべきだと思う。YouTube上にアップロードされている動画はかなり音質・画質が悪いので、かなり苛々することになるからだ。
ドラマ全体については、格別の言葉をくわえる必要もないだろう。脚本や配役やその演技だけでなく、構成、演出、音楽など、どれをとってもたのしめる箇所が多い。特に音楽であるが、服部隆之のサントラは一聴どころか所有する価値あり。アマゾンレビューには、「人気があるようなので」結婚式用に購入した、というレビュアーが、「(あまりにもいいので)ドラマのサントラにしておくには、もったいない」と書いていたが、こういうのを厚顔無知というのだろうな。違う違う、そうじゃ、そうじゃない、という90年代的ツッコミをした御仁よ、わかってま。けれども、無知は無恥であり、それをさらけだすのはやはり厚顔なのだ。まあ、この人間はドラマを観ていないでそう書いているのだろうね、というところで筆を止めておくが。
構成といえば、やはり最終話で千石が戻ってくることを決めたセリフに、物語上ずっとつかわれていた「あの表現」を持ってくるなんて、と思い出すだけでしみじみしてしまう。
そういえば僕のアルバイトしたことのあるイタリアン・フレンチのシェフは、けっこう「あの言葉」を多用していた気がする。書き言葉ではよくつかわれるけれど、口語ではあまりつかわれないものだからとても印象に残っていて、「ああ、『王様のレストラン』の影響かな」と思ったものだ。影響といえば、千石が一度ベル・エキップを去るとき、すべてのテーブルの準備をし、すべての鍋をぴかぴかに磨いておく、というのがあって、あれは一度真似をしたいと思っていたが、ついに叶わなかったな。いざやるってなると、「めんどくせーし、まいっか」となった。
話を戻すと、この記事においても「その言葉」はあえてつかわずにここまで来た。とても気に入ったドラマに対して精一杯の愛情を表現したいのに、この言葉をつかわないことがどんなにたいへんだったか。それでもそこそこの記事が書けたのではないかと自負はあるのだが……、それもついに解禁だ。ん?


この記事が「そこそこ」ですって? ふふ、ご冗談でしょう。
この記事の書き手は、ドラマへの愛情とやらを示すためにいろいろと書いていますが、そのどれもが冗長で、これでは読んでいて退屈してしまう。
また、「ぼくのかんがえたさいきょうのきゃすと」をつくるのも結構ですが、脚本家の他の作品に依拠してばかりで、オリジナリティが低すぎる。
そして構成。文章というものは、はじめから整然と論理立てられて書かれるべきものであり、進んでいくほど濃密になり、また感動があるべきです。最初からあっちゃこっちゃに話が飛んでしまっては台無しです。
 要するにこの記事は、「そこそこ」にも程遠い、「そこそこ」を気取っているだけの、最低の記事です。最低の。……がしかし、最低ではあるが……ドラマはほんとうに、すばらしい!