最近の仕事上のトピックといえばスクラップ&ビルドでしかなく、とりあえず、肉体作業に従事している間に時間がいともたやすく流れ去っていく。10年前の僕は、将来防護メガネをつけて、サンダーやら小型切断機なんかを使って鉄管相手にバチバチと火花を散らすことになるなんて想像もしていなかった。仕事は強制されているものではないのでその内容にはまったく不服はないのだが、しかしもともと体力が存分にあるという人間ではないので疲れてしまい、帰宅してからなにかをしようと思ってもその気力が残されていないのが残念なところ。
満を持していまさらながら『逃げ恥』を観ようと思ったがTBSのオンデマンドは月額いくらという設定になっており、この月末で加入するのはいささかもったいないということで来月はじめのたのしみにとっておくこととし、かといって早々に大河ドラマは見切ってしまったので(一点、柴咲コウは歌はうまかったということを思い出させてくれた、というのがほぼ唯一の発見)、特段テレビをつけても観るべきものは発見できず、仕方なしにというわけでもないが積読になっていた本を読んでみるとこれが実に面白いものばかりで、「こりゃあネットを眺めているバヤイではないぞ」とひさしぶりに読書にひたることをたのしんだ。
小説なんかもう読めないだろうなあなどと漠然とした悲しさを覚えていたものだが、ジョージ・オーウェルの『動物農場』をぱらぱらと読んでいたら実に面白く、その流れで最近またベストセラーにリストオンされたと評判の『1984』をつづけて読み、いまやめられなくなっている最中。もちろんドナルド・トランプ政権との相似という点で本書は話題になっているわけだが、その予言性にだけ着目するだけではもったいない(ただし、二回目以降の読書という意味ではそれもアリだとは思う)。まだ途中なのでなんとも言いがたいが、純粋に小説としてたのしめるもので、ディックのような――時代的にいえば、オーウェルのように書いたディック、なのかもしれないが――切実さと悲しみがあって、いまのところは僕ごのみの小説である。
トランプといえば、昨年の大統領就任または一昨年からの大統領選で日本では一般的に注目されたように思うのだが、僕の場合は2000年にリリースされたm-floの『Planet Shining』のなかのinterlude 4におさめられたフリースタイルに「ビル・ゲイツ、yo! ドナルド・トランプ」という言葉があって、そこで漠然とそういう金持ちがいるんだなあ、程度の受け止め方をしていたし、なんといっても、マクドナルドとかドナルドダックを連想させるファーストネームと、トランプというファミリーネームが憶えやすく、爾来その名前はなんとなく頭のなかに残っていた。
そのことを確認するために当該CDアルバムをひさしぶりに聴いてみると、アルバム内の設定として2012年(当時から見て12年後)の近未来ということになっていて、いまだにこの仕掛けに新鮮さを感じてしまう。interlude 4では、「saywatchugotta」という曲へのフリとして、3人のラッパーが好き勝手にしゃべっている(という体をとっている)のだが、そのなかで「むかしはCDなんてものを出していたし、デモテープなんてものがあったねえ。今や『デモレコード』をつくっているくらいで、レコードを自分ちでつくれるアナログのいい世の中になった」みたいなところがあるんだけど、これが現代の「一部」を予言していて面白い。実際にCDの流通は、日本はともかく世界的には減少しており、アメリカかイギリスか忘れたが、CDはもちろんもはやDLの売上よりもアナログレコードの販売金額のほうが上回った、ということがニュースになっていた。これはアナログ回帰ということも部分的には指摘できるのだろうが、より定額制のストリーミング配信に移行したユーザーが多いということの証左であるってことをどこかで見聞きした。まあ、それでもレコードが売れているということは面白い現象だとは思うし、2000年当時におそらくは「面白おかしく」のつもりで発したジョークがそれなりの意味を有してしまった、という事象もまた面白く感じられる。

話はがらりと変わるが、例の極右学校法人に対する報道を見ているといろいろな疑問が噴出して仕方がないのだが、当該理事長は、「安倍晋三記念小学校」なんて名前を考えだしたり、夫人を名誉校長に置いたりと、まともな頭の持ち主にはいっけん見えない。ものすごくストレートにとらえてしまうと、現政権と親和性の高い極右思想組織およびその構成人物が、その権力を笠に着て行政と癒着したというふうに見えるが、はたしてこの問題に出てくる登場人物たちは、大阪の財務局も含めて、それほどバカなのだろうか、とその点にまず疑問を覚えるのだ。億単位の国有地の払い下げ契約について相当恣意的な9割のディスカウントを行って(なおかつ交渉記録をすみやかに廃棄して)バレずにすまそうだなんて、マンガ家が発案して編集者に見せたら「いくらなんでもこんな設定は読者をバカにしている」と突っ返されるレベルだろう。
そう考えると、どうもあの学園の理事長が、安倍や日本会議を貶めその陰部に捜査の手が伸びるよう企んだとしか思えなくなってくるのだ。保護者への恫喝、狂信的に映る思想教育、隠そうともしない民族差別主義。そして例の事件についての、もはや矛盾のないところを探すほうが難しかった説明は、ツッコミ待ちをしているとしか思えない。こうなってしまうと、政権に擦り寄ったり、はたまたその顔色を窺ったりして様子見をしていたメディアまでもが動かざるを得なくなり、結果、現政権への痛烈なダメージを与えている(はず)。
陰謀論を支持することはあまりないのだが、しかしこの場合は、まさに有志の理事長と財務局トップとが密かに諮り今回の問題を企図したと見るほうが自然に感じてしまう。彼らは自分たちが罰されることを前提としていろいろなところで餌を撒き、それがじゅうぶんに達せられたと認識した時点で自らリークしたのではないだろうか。はじめはわかりやすい左右の対立構造を引き出し、そこから現在の「右」がいかに極端な場所に位置しているのかを明らかにし、右傾というよりは右落状態にある潮流を押しとどめ、あわよくば政権を打倒するとそこまで考えての行動、と読み取ることのほうが、「安倍晋三記念小学校」の設立を意図して行政に不当な癒着を持ちかけた(あるいは忖度させた)という構造よりよっぽど自然に思えるのだが。

またまた話は変わって。
小説だけではなく、積読本のなかにはドイツワインについて書かれたエッセイもあって、それをなんとはなしに読んでいたら非常に面白かった。岩本順子の『おいしいワインが出来た!』というものと『ドイツワイン 偉大なる造り手たちの肖像』 というもので、特に前者が面白い。
いままでなんとなく目にしていた、ワイン用のぶどうというものがどのように収穫されてうんぬんという記述は、ほとんどがワイン商の視点、つまりマーケティング戦略の一環として描かれているものであったが、本書は作者が実際にケラーというドイツの醸造所に飛び込み、一年間栽培に携わった記録となっていて、これを読むと、ワイン用のぶどうとはいえ、ほんとうに野菜や他の果樹の栽培と通底するところがあって実に親近感をもってたのしむことができた。もちろん醸造は、田舎の家庭菜園の視点からでは想像するべくもないが、それでもぶどうにはできるだけ手をくわえないでワインにするという思想は、商売者というより農家・百姓の考えのように感じられた。ごく単純に言ってその醸造所のワインに興味を持った。
きっとおいしく感じられることだろう。人間は舌だけで味わっているではないし、もし「純粋に」舌だけで味わおうとしたら、それ相応の訓練を自分に課さなければならない。しかしそのようにして得られるものは、じつは少ないと僕は思っている。味覚を業務の中心に置くような職業にでも就かないかぎりは。
誰々がこのようにして作った、とか、どこそこという場所には伝統的な栽培方法があって、とか、そのようなイメージが味覚に及ぼす影響は小さくないし、そこにいい意味で騙され乗ってしまったほうが、食はたのしめる。ワインでいえば、テイスティングとは試飲とか味見のことだ。それは試飲会やそれに類する場所で行えばいい。けれどもそんな場所にほんとうの食のたのしみがあるのだろうか。 ひとりでも複数でもいいけれど、僕は食卓にこそ食のよろこびやたのしみを見出す。料理自慢はあってもいいが、供された食事や飲み物に対して批判するなんて野暮の骨頂で鼻つまみ者。どうせならおもしろいエピソードを披瀝できるほうがよっぽど好まれる。僕は、嫌われる人間より好かれる人間になりたい。