もうひと月半ほど前になるのか。

そうそう、前回は乙女寮に綿引巡査があらわれたところで終わったのだったけれど……。
はじめての休日で、乙女寮のあの部屋のメンバーの一部が外出したのだが、各々があまりいい結果を得られない。時子、幸子、そしてみね子たちがひとりひとり失意に沈みつつ帰ってくると、向島電機の中庭で、仲間がベンチに腰掛けていて「おかえり」と言ってくれる。「ただいま」
ここは、みね子に限らず、故郷を遠く離れてやってきた女性たちの、東京でできた初めての居場所なのだ。もしかしたら、そんなことが言えるとは期待すらしていなかったかもしれない「ただいま」をここでは言うことができるし、「おかえり」と応えてさえくれるのだ。わたしはひとりじゃない、と思える場所。あまりにも幼い女の子たちの口に、愛子さんが甘納豆を一粒づつ入れていくのは、ほんとうにすばらしいシーンだった。

この週は指揮者も出てくるんだよな。警官にしても指揮者にしても「ハンサム」とか「すてきな人」ってことになっているのだ、設定上。まあ、それはいいとして。背は高い。顔も小さい。清潔感はある。これは、すずふり亭の若い衆にも共通していることでもある。でも、なーんか小粒感が否めないというか、まったく感情移入することができないのだ。
僕が男だから、というわけでもあるまい。三男も三男の兄ちゃんも時子の兄ちゃんも、みんな好きでそれぞれの演技をずっと観ていたい。でも、警官と指揮者が出てくると、「あらら」と急に気持ちが醒めてしまって、「ああ、そういえばいまドラマ観ているんだっけな」とか「いま8:06だからあと十分弱ほどか」とか、そういうふだんなら気づかない部分に気づいてしまう。
しかし、このふたりが出てきたことによって、僕はすこし安心もしたのだ。ああそうだ、きっとこの大好きなドラマにだって、自分の気に入らない部分や首をかしげる部分が今後でてくるはずで、彼らの存在がそのことを先行して僕に知らせてくれている。そう思うことにした。
彼らは、「人生はままならないもの」であり「物事に完璧を期待することなどできないこと」の象徴なのだ。僕の不満の対象が、彼らの存在にとどまってくれるのであれば、どんなに幸せだろう。それにすら耐えられないというほど、ひどくはないのだから。
余談だが、このあいだシャムキャッツの新曲のMVを観ていたら、この指揮者の雄大先生が出演していてかなり驚いた。ドラマに出演しているのがいろいろと奇蹟的なレベルなのに(詳しくは書くまい)、他の場所でもニーズがあるとは!

みね子父を見かけた人がいるらしい、と警官に伝えられ、そのことを電話のある時子の実家にかけて時子母に伝える。時子母は、夜にもかかわらず自転車に乗ってみね子の実家に行き、みね子母にそれを伝えるのだが、すでにわれわれは同様のシチュエーションを二度も経験している。
田神先生が、みね子の働き口が見つかったことを知らせに来てくれたときと、みね子がそのことを時子に知らせに行ったときと。
コミュニケーションツールの未発達がゆえ、というひとことで済ませることもできるが、やや過剰かつコミカルではあれこういう部分を執拗に描くのは、あまりにも情報伝達が簡易になってしまった現代へのアンチテーゼととらえられなくもない、などと僕などは感じてしまうのである。
たいせつなことを、相手に一刻も早く伝えたいというとき、汗をかいて喉をからからにさせなくてはいけない時代もあった、ということだ。それだからよい、というわけではない。この時代の人たちにスマホを渡せば、100人中100人が喜んで使うだろう。それはあたりまえのこと。
ただ(以下はドラマとはまったく関係のない話だが)、以前から書いているように、コミュニケーションツールが発達したおかげで、人々が簡単に他人を罵倒できるようになった点は否めない。
ツールの「向こう側」にいる相手が、自分にとって必ずしもたいせつな人間であるとは限らなくなったし、場合によっては、その相手とはずっと匿名同士のままでいられることもまったく可能だ。
だからこそわれわれは、挨拶のように「死ね」だの「殺す」だのを顔の知らない相手に簡単に投げかけられるようになった。

ドラマに話を戻す。給料日にみね子が妹・弟のためにノートと消しゴムを買い、そしてかわいらしいと手に取ったブラウスについている値段があまりにも高くて(みね子が一ヶ月稼いでやっと自由にできる金額とほぼ同じ!)、ハンガーをもとに戻し、それを別の誰かが買う場面があった。
みね子はこのあと、田舎の気の利きすぎるお母ちゃんからすてきなすてきなブラウスをプレンゼントされることによって、ある種の救いを得られるのだが、たぶんこの一連のシーンの本質は、お母ちゃんの優しさ・ありがたさだけにあるわけではない。
ちょっと考えればわかることだが、みね子のようなラッキーな人間のほうが少なかったはずで、お金のままならなさ、生まれた場所・環境によって出稼ぎして仕送りしなければいけないという理不尽さ、をぐっと飲み込まなければいけなかった人間のほうが多かったに違いない(たとえばこの翌週の澄子がそうだったように)。
ドラマではあえてそこにスポットライトを当てているわけではないものの、みね子が買えなかったブラウスを買ったのが、どこかのお大尽の娘というわけではまったくなく、みね子と同じように、きっとどこか遠いところから向島電機に働きに来ている女性だった、と描くことによって、よけいにその「ままならなさ」を際立たせているようにも感じられた。
もちろん、これらの不条理に対してなんらかの解決策が提示されているわけではないし、今後も提示されることはないだろう。
ドラマの表の部分、つまり陽の当たっている部分では「あなたのことは、きっと誰かが応援している」というのがテーマになっているはずだから、お母ちゃんに限らず、みね子や時子を助けてくれる人間は多い。われわれ視聴者はまず、その優しさや温かさを素直に受け取ろう。
けれども陽の当たっていない部分――より現実に近い部分――においては、有史以来ほとんどの人類が対峙してきた問題がこの時代のあちこちにもあり、残念ながらそれらに打ちのめされてしまった人間も少なからずいたはずで、そのことを忘れ去らないようにはしたい。なぜなら、このドラマにはそのヒントがたくさん隠されているのだから。

この週の最後の日、みね子がもらった給料ですずふり亭で食事をしようとする。シェフの佐々木蔵之介はなんでも好きなものを食べさせてやろうとするのだが、それを宮本信子が止める。
このとき、僕の頭のなかにはひとつの俳句が浮かんでいた……のだがとりあえずここに掲げておくだけにしておこう。たぶんあとでも言及するだろうから。
弁当を分けぬ友情雲に鳥  清水哲男
一ヶ月の生活費が1,000円のみね子にとっては、60円のビーフコロッケを註文するのがやっとなのだが、これを食べているとき、宮本信子と蔵之介の親子はもちろん、佐藤仁美(むかし大好きでした……いや、いまでも好きですけれど)やコックふたりもホールに出てきてみんなでそのみね子の様子を嬉しそうに眺めている。コックのうち、やついいちろうは、後輩にあたるヒデに対していつも小者っぷりを露呈しているような人物なのだが、この人間も、みね子が嬉しそうに食べているのを、嬉しそうに眺める。こういうシーンに、作者の平等な優しさみたいなものを感じる。セコくて小狡いところがあるかもしれないけれど、けっして悪人ではないのだ、とわざわざ視聴者に教えているのだ。
しかし、宮本信子はあたりまえだけど、佐々木蔵之介もめちゃくちゃ自然でうまいよなあ。ずっと観ていたい。
「ビーコロ」を食べたみね子が心の底から「うめえうめえ」と喜んでいるのを観られることに、心の底からの幸せを感じながら、翌週へ。