警官と指揮者がラーメンの屋台で話すシーンが週のなかで2回出てくる。
セリフ回しや表情が拙いもんだから、以前にも書いたように悪い意味で意識が引っかかってしまう。せっかく乙女寮のやりとりに没入していたというのに……。
それでも観ていくと、「あれ、もしかしたら」と気づいてしまった。もしかしたらこのふたりの役って、このふたりの役者じゃなかったらもっと好きになれていたかもしれない、と。
綿引と雄大。なんとなく間が抜けていて、それでも愛しくなるような、そんなふうな思いを込めて作者はこのふたりのキャラクターを設定したんだろうなと考えた。

お盆休み、たのしみにしていた海水浴はどしゃぶりで流れてしまい、かわりに映画『ウェストサイド・ストーリー』(劇中では『ウエストサイド物語』)をいつもの6人組と警官・指揮者とで観に行く。
そのあいだに乙女寮の他の同僚たちによるちょっとしたダンスの披露があったりして、こういう演出はとっても好き。
あと、『ウェストサイド~』のインパクトは相当大きかったようで、小林信彦の自伝的小説『夢の砦』のなかでも触れられていた記憶がある。たしか「何回観たか?」というのが挨拶になるほど業界で大いに話題になった、みたいな書き方だったような。

映画から帰ってきてなんとなく時間を過ごしているうちに雨が晴れて、みんなで海岸に行き、セピア色の色調を背景に大きく波が浜辺を打つなか、綿引が大声をあげてへたっぴな歌を思い切り唄うところがとてもよかった。このとき、この綿引という警官だけでなく、竜星涼という役者のことをすこしゆるせるようになった。好きになった、とは言えないけれど、でも「ま、いいか」と思えるくらいにはなった。そんな、いいシーンだった。

三男が奥茨城に帰省するというほほえましい話がちょっとだけ挿入され、それから向島電機の売上不振というシリアスな話になる。
それまでに、みね子たちの給料がいかほどなのかというのが具体的数字をもって描写され、さらに当時の日用品の価格などもその都度表示されていただけに、生産調整のために給与が一割減じられたということがどれほどの影響があるのか、というのが視聴者にもより共感できるようになっていた。
このドラマが案外ふわんふわんせず地に足がついているように感じられるのは、生活というリアリティをもっとも直接的にあらわす記号――お金について何度も何度も触れられるからである。
乏しい鑑賞経験からでしか言えないが、主人公や他の登場人物が貧困であるということを特に訴えるものでなければ、なんとなくドラマ内で金銭について触れられることは少ないように思う。ファンタジーというフィルターが、排泄やセックスなどと同様、財布という概念をその世界から払拭してしまうことが多いのではないか。
しかし当然のことだが現実世界では、金銭は最大と言っても過言ではないモチベーションのひとつだ。われわれはそのために住むところや買うものを決定し、それらの積み重ねが将来の行動を規定している。
あらためて書くのもマヌケなことだが、賃金が下がることを聞かされ、部屋に帰った豊子が腹を立て、周りのみなが不安に駆られるというのは至極まっとうな描写だ。
これと好対照なのが、たとえば現代を舞台にした『逃げ恥』。当該ドラマでは、リストラの対象となったことを告げられた星野源が、再就職に一所懸命画策しているかと思いきや実はガッキーと一緒に食べに行くレストランを探していた、という、まあもちろんかなり意図的であるということは強調に強調を重ねておくが、あの表現にはやはり時代性を感じないではいられない。
(けれどももう少し深く読み解けば、「きっと再就職先を必死に探しているのであろうな」と視聴者に期待させる前提を採っているということは、すなわち2016年現在は「再就職先を必死に探すのはあたりまえ」の時代だからで、これがもう少し前のドラマであれば、「あーあ、リストラされちゃった。すこしのんびりでもしてみようかなあ」などとノンキなことを言いつつ、わけのわからないほど広い部屋で一人暮らしをして外食ばかりしている主人公がいたかもしれない)。
思えばみね子が(本来の希望とは別に)上京したのも家族のために稼がなければならないからだし、その仕送りの額を維持するために自分の自由になる小遣いの額が減り、結果、すずふり亭で毎月あたらしいメニューを註文するという目標が怪しくなってしまう、というこの流れは実に説得力のあるもので、その脚本の巧みさに感心する一方、ひと皿60円のビーフコロッケを食べながら涙をこぼしてしまうみね子の気持ちを推し量ると、視聴しているこちらの胸も苦しくなってしまうのである。

ここでもう一度あの俳句を書き記しておく。
弁当を分けぬ友情雲に鳥 清水哲男
また、今回は作者による解説を、作者の高名なサイト『増殖する俳句歳時記』より引用する。
どこかに書いたことだが、もう一度書いておきたい。三十代の半ばころ、久しぶりに田舎の小学校の同窓会に出席した。にぎやかに飲んでいるうちに、隣りの男が低い声でぼそっと言った。「君の弁当ね……」と、ちょっと口ごもってから「見たんだよ、俺。イモが一つ、ごろんと入ってた」。はっとして、そいつの横顔をまじまじと見てしまった。彼は私から目をそらしたままで、つづけた。「あのときね、俺のをよっぽど分けてやろうかと思ったけど、でも、やめたんだ。そんなことしたら、君がどんな気持ちになるかと思ってね。……つまんないこと言って、ごめんな」。食料難の時代だった。私も含めて、農家の子供でも満足に弁当を持たせてもらえない子が、クラスに何人かいた。イモがごろんみたいな弁当は、私一人じゃなかったはずだ。当時の子供はみな弁当箱の蓋を立て、覆いかぶさるよにして、周囲から中身が見えないように食べたものである。粗末な弁当の子はそれを恥じ、そうでない子は逆に自分だけが良いものを食べることを恥じたのである。だから、弁当の時間はちっとも楽しくなく、むしろ重苦しかった。食欲が無いとか腹痛だとかと言って、さっさと校庭に出てしまう子もいた。私も、ときどきそうした。粗末な弁当どころか、食べるものを何も持ってこられなかったからだ。何人かで校庭に出て、お互いに弁当の無いことを知りながら、知らん顔をして鉄棒にぶら下がったりしていたっけ。そんなときに、北に帰る渡り鳥が雲に入っていった様子が見えていたのかもしれないが、実は知らない。でも、私の弁当のことを気遣ってくれた彼の友情を知ったときに、ふっと見えていたような気になったのである。『打つや太鼓』(2003)所収。(清水哲男)
みね子が自分だけが取り残されているような思いをいだきながらひと皿の料理と向かい合っているのを見て、声をかけないのもやさしさである。「どんな気持ちになるか」と想像し、声をかけないのである。
しかし「隣の男」が――三十代半ばになってからではあるが――「私」に声をかけたように、いつかその気持を打ち明けてしまうときがあるのかもしれない。
鈴子(宮本信子)が「みね子、ちょっとおいで」と声をかけたとき、泣いているみね子の身体に手を触れるのかどうか注意深く観ていたが、ついに触れずじまいだった。触れても不思議はない場面だと思うが、しかし触れないのが正解だと思えた。宮本信子のたたずまいが、この距離感に正当性を与えているようにも思う。
そして、そのような距離感を持っている人間が、いとも簡単に「あんたのお父さんとお母さんのことが好きなのよ」と言ってのけてしまう。それぞれたった一度づつしか会っていないというのに、だ。
それじゃあ、いかにも口から出まかせを言っているかといえばもちろんそんなことはなくて、彼女の言葉にはきちんとした重みがあり、だから説得力がある。その彼女が「なにか、辛いことがあったんでしょ?」とみね子に尋ねる。
この場面での宮本信子と有村架純のやりとりはほんとうにすばらしかった。今後このふたりの並びを見るとき、「『あまちゃん』のふたり」でもあると同時に「『ひよっこ』のふたり」と言われることにもなるだろう。
なお、鈴子に店外に連れ出されたみね子を心配する厨房の若手コックに、「任しとけば大丈夫だ」と声をかける鈴子の息子・省吾(佐々木蔵之介)には省吾のやさしさがある。それは「弁当を分けぬ友情」のほうだ。

綿引が故郷(くに)に帰るという。親が怪我をして、一人息子の彼が帰らなければいけなくなったのだという。
「お互い親で人生が急に変わっちまった」とみね子に同意を求め、みね子の長い逡巡の末の首肯ののち、「でもイヤなだけじゃないよね、子どもとして嬉しいことでもあるよね」と不器用に、しかし切々と訴える綿引には感動すら覚えた。そして、クリームソーダのアイスが溶けたのを見て、「えらいなあ。頑張んなあクリームソーダ。働きもんだなあ」と一所懸命に言うのを含め、たぶんこの瞬間、僕は役者の力量がその限界を超えるのを見ることができた。綿引という役柄とそして演者の必死さが、彼の演技力を一段上に引き上げたのだと思う。
舞台だけでなく、ドラマや映画を観ていてもこういう瞬間にはときどき出会うことができる。だからといって彼がものすごくうまくなるかどうかはまた別の話で、間断のない努力が今後も必要なわけだが、すくなくともいまこの場面で、彼の演技にはすこしだけ光がともった。そのように感じられたのである。

今週2回目、都合3回目となる屋台での綿引と雄大先生のやりとりで、その会話を耳に入れているラーメン屋主人の頬を緩めるような表情がすこしだけ映る。
また、綿引が帰る直前まで例の場所でみね子の父を探している場面で、その姿をじっと見ている商店街の店の人間の後ろ姿があり、綿引がその人に会釈をすると、彼が後ろ姿のまま、「わかってるよ」とでも言うように大きく頷くのが映る。
これらの物言わぬ人たちの姿にもまた、僕は「応援」を感じてしまう。田舎から出てきて、そして結局はふたたび田舎に帰ってしまう青年が、たしかにいっときであったかもしれないが東京にいたこと、そのことを記憶しているのは、なにもみね子や乙女寮のみんなや雄大だけではない。
毎日すれ違う顔でも、その名前まではとても知らない。都会は、そのような関係性を無数に結ばなくてはいけない場所でもあるが、しかし同時にそのなかで、ほんの小さな好意もまた無数に生まれつづけている。
タイムリミットとなり荷物を持って帰ってゆく綿引の後ろ姿を、とてもさみしい思いで観た。石田波郷に名句「雁や残るものみな美しき」があるが、去りゆく者もまた、美しい。

さて、この次の週の予告を見て、「あれ、乙女寮編が終わってしまうの?」と、そこからいっさい録画分を観る気が起こらなくなってしまったのだが、いよいよ腹を決めて観なければなるまい。