予想通りこの週の放送は、心が引き裂かれるような思いで観ることとなった。

まず、昭和40年は高度成長期唯一の不況の年、というのは興味深い情報だった。
松下さんが向島電機が倒産する旨をみなに告げたとき、涙を流していた幸子さんなどと比較してみね子の表情があんがい呆けて見えたのがリアルだなと思った。そういう予感がない限りは、涙すら出てこないものかもしれない。
いつもの6人がばらばらになってしまう。幸子さんがへたっぴ雄大先生と一緒の工場へ。時子が喫茶店。で、われらが豊子は食品会社に就職し、かつ定時制高校にも通えることとなったという。みね子と澄子は石鹸工場。そして、優子さんは秋田の田舎に帰ることとなった。
優子さんがそれを打ち明ける場面も辛かったなあ。訥々とお故郷言葉で心情を吐露されると、ああ、秋田もこんた小っちぇくて病弱なおなごに出稼ぎすでもらわねどなんねがったんだなあ、と言葉以上の背景を読み取らざるを得ず、よけいに悲しくなった。

で、乙女寮最後のコーラス。なにを唄うか……っていうのはこの週のタイトルからしてもうわかっていたよね。倒産にショックを受けているみんなに愛子さんが「下を向くのはやめよう」と言っていたのもこの歌(『見上げてごらん夜の星を』)にかかっている。
この歌をバックにした回想シーンは、視聴期間に直せばわづかひと月ちょっとでしかないはずなのに、やはり泣けてしまった。合唱しながら各メンバーが涙を浮かべているのは、もちろんそういう演出であるからなんだろうが、きっとそれだけではない。
ドラマの撮影というのはわれわれが思っている以上にタイトで、そしてシステマティックにこなされていくものなのだろうが、それでも、お馴染みとなった役者たちの表情、スタジオのセット、それぞれの衣装、くわえて撮影時にあった些細なエピソード、個人的な感慨等々の集積が、この乙女寮という空間とそこで共有した時間とを特別なものへと強化したであろう、と想像することは難くない。
すぐれた歌のメロディと歌詞であれば、引き伸ばされた時間のなかに点在する感情を、つなぎ、圧縮して目の前に差し出してくれる。だからわれわれは、歌を聴いて/唄って、涙を流す。

歌が終わって、これはまあ予想通りだったけどへたっぴ雄大が幸子さんに、へたっぴにプロポーズする。雄大のしゃべりのいちいちに澄子がツッコミを入れるくらいここはコミカルな場面で、緊張した様子で下手くそなりに頑張って演技してはいたものの、しかしほんとうに雄大だけが同じ場所にいるように見えてなんだかひとつかふたつ次元のずれたところに存在しているんじゃないかっていうくらいに場違いであったから、幸子さんも下手したら断るか、もしそうでなくても喜劇調にサゲてうやむやにするんじゃないかとさえ思った。
ところがさにあらず、幸子さん、というか小島藤子は、感に堪えない様子で涙を流しながら承諾をする。話の展開というより、その演技に感動してしまった。あまりにも下手くそでまるで人間ではないような芝居に対しても、きちんとした芝居で応答できるものなのだなあ。

そして、優子さんは去っていく。この頃はもちろん携帯電話もなかったし、電話そのものがすべての個人宅にあったかどうかは怪しい(みね子のところにはなかった)。もしあったとしても、長距離電話は相当に高い料金だったはずだ。
そのため、戦中戦前よりはさすがにマシであろうが、「今生の別れ」とはならないまでもかなりの覚悟を必要とした別れだったに違いない。反対に言えば、そういう場所からみなが独りで東京にやってきた、ということでもある。だからこそやっと根付くことができた職場や寮を失ってしまうことが、現代以上に辛く悲しく、また不安でもあったのだろう。

工場の最終日。ラインが最後の基盤をゆっくりと流していく様子が美しかった。ひとりひとりが組み立て、調整して、検品したトランジスタラジオは、大げさに言えば彼女たちの魂の結晶だ。
その結晶が、退職時にひとつひとつ渡されるというのを聞いたら、たぶんここまできちんと視聴してきた人なら「うわー、なんてすごいことなんだろう!」とみね子たちと一緒に驚き、心はずませることだろう。
松下さんの最後の挨拶は「ご安全にー!」だった。この言葉は当初は、向島電機のラインが動きつづけるという前提をもとにした、そこで働く彼女たちに向けられた安全管理の掛け声でしかなかったが、それがいまや、工場での仕事が完全に終わったという宣言でもあり、仲間たちを互いに送り出し合うための声援ともなっていた。非常に、なんていう形容じゃまったく間に合わないほど、さみしいことである。

で、豊子が工場内に立てこもってしまう。
ここはもう、兼平豊子というか藤野涼子の独擅場だったので、彼女の行動の詳細は書かずに、その周りのことを書く。たぶんあの演技のことを文章で伝えることは相当難しい。
セリフというのはもともと文章であって、ただそれだけなのであれば、文章によって再現することは論理的に可能だ。しかし実際は、ただそれだけではない。ただそれだけなわけがないのだ。
人間の声で発せられることによって、文字は言葉となる。と同時に、表情がつくられ、動く。周囲にまた別の役者が配されていれば、彼/彼女たちがそれを聴き、間が生まれ、距離が生まれる。空間が広がる。大きな意味で、時間が動き出す。生きている。
僕もたしかに1965年の12月末のあの場所にいて、閉じこもった室内で兼平豊子が切々と訴えるのを聴いていた。

藤野涼子の演技に圧倒され感動に打ちのめされてしまったのだが、すこし冷静になって考えてみた。なぜこのような心情の吐露をするのが豊子でなければいけなかったのか。
寮長である幸子さんや舎監である愛子さんが言ってしまえば、みね子や時子の視点と同化してしまっている視聴者からすると、「まあ、長く働いているからそんなものなのかなあ、ちょっと想像するしかないけれど」と多少の置いてけぼりを食らってしまう感覚になるだろう。
ルーキー4人組のうち、時子の目的は乙女寮を出て少しでも早く女優の仕事に就くことであるから(もちろん乙女寮のことを二の次にしているというわけでもなかろうが)、最も適任とは言えないだろう。
澄子は、中卒でやはり豊子と同様に家庭環境が決して豊かではないと推測されるが、彼女自身が楽観的でのんびりしているという設定なので、「ここじゃなければだめなんだ」と声を上げても、「食事がおかわりできるから?」とか「休日は好きなだけ寝られるから?」なんていう彼女にとってきわめて実利的な動機が観ている側に思い浮かんでしまうので、これも適任とは言えまい。
となるとみね子が候補の最右翼のように感じるのだが、しかし向島電機が倒産すると知ったときからみね子の態度というのはけっこうニュートラルなところがあって、倒産によってもたらされる同僚との離別については強く悲しんでいる様子は見受けられたが、倒産そのものについての拒絶の意思が強く感じられる場面は少なかったように思う。
これはやはり、一人称のヒロインとして基本的には「目撃者」に徹するという立場上、さらに言えば豊子を説得する最後の要となる立場上によるものなのだろう。また、もうちょっとひねくれた見方をすれば、朝ドラのヒロインに、今回の豊子のような激情型の振る舞いというのはあまり期待されていないようにも思う。
いや、そもそも、倒産そのものへの拒絶というものがいったいどれほどの意味を持つのだろうか。同じような出来事に遭遇した場合、僕を含めほとんどの人は仕方ないなと思い、次のこと(就職など)を考えるに違いない。己がどうやったってコントロールできない事実は、それがいかに自分の望まないものであったとしても受け入れざるを得ない、というのがたいていの大人が採る振る舞いと言えよう。

それでは、豊子は消去法で「籠城者」の役に選ばれたのだろうか。
ふだんは合理性に重きを置く彼女だが、このときは非合理的で自分でも利口だと思えない行動に走り、そしてその思いをみなに伝える。生まれてはじめていやだと言いたい。この場所が好きだ。はじめて自分自身でいられるようになったこの場所が。バカだってことはわかっている。バカでいいじゃ。
この誰に対してとも言えない叫びは、まさに彼女が別の場所でつぶやいた「人間ってそったに簡単なものでねぇ」を体現するものだった。
彼女は、時子との諍い(第5週)のなか「もういいでしょ」と言われたことが「嬉しかったんだ」と自ら告白する。そのように見えないよう振る舞っていたが――そして視聴者は絶対に気づいていたと思うが――、彼女は乙女寮での生活によっていちばん変わった人物なのだ。だから、「いやだ」と叫ぶのは彼女でなければならなかった。

しかし彼女の拒否に対して、僕は、愛子さんの、そしてみね子の説得すらも弱いと感じられた。もし豊子が論理に説得されるのであれば、たとえば「回収業者との板挟みになっている松下さんに迷惑がかかるから」とか「みんなにとっての最後の日を台無しにしてしまう」とか、様々な理由によりすぐに部屋から出てくるだろう。
けれども、彼女自身が無意味だと知っている行動=非合理の強さは、論理(=合理)では克服できないはずなのだ。
みね子の言う、「わたしたちが忘れなければ工場はなくならない」というのはそれだけをとってみれば非合理的であって非合理な言説/行動に対抗する力は持ちうるものの、この場合ではいかにも合目的的な言説であり、頭のいい豊子であれば「ん?」と感づいたのではないか。ましてやそのあとの「泣かないって決めたじゃない」というのはとってつけたような言葉で、非力どころか(誤用ではない意味においての)姑息にも感じられた。

つまり、説得という観点からは、僕はカタルシスを得ることができなかった。ドラマとしては形式上の答えを見つけそれによって解決させはするものの、実際には、「なぜこの場所がなくなるのだ」というのは不条理に対する問いであって、簡単には答えを得ることはできないのではないか。
けれども、「不条理なるが故に我信ず」ではないが、ときに非合理であるからこそ言葉は説得力を持つ。豊子の言葉/振る舞いは、現実面では、奇しくも回収業者の主任格の人物が言ったように「そう言われても困る」と受け止められがちが、感情面では、理解され、共感される。
だから彼女の言葉は、意味の有無で言えば、それが発せられた時点ですでに意味を為している。彼女の訴えが、特に同室のメンバーたちに一瞬にして共有され、同じ悲しみや苦しさ、切なさを味わったのだ。

なお、この一連の場面から、『金八先生』の第2シリーズのクライマックス、加藤優と松浦悟が荒谷二中に行き、その放送室に他の不良生徒と一緒に立てこもるという場面を思い出した。
加藤たちは荒谷二中の校長と体育教師を軟禁しているし、彼らから謝罪を引き出したいという確たる目的を持っていたが、しかし、思春期にある若者が、密室にこもり、その中から懸命になにかを主張し、しかもそれを、理解のある大人たちが忍耐づよく見守り、いっぽう職務に従順な大人たちが排除しようという構図はとても似ている気がした。
乗り込んで強制排除しようと目論む警察を必死に止める坂本金八のごとく、『ひよっこ』では主任の松下さんが業者に頭を下げて押しとどめ、ときに涙を流して豊子の気持ちを察してくれと言い、愛子さんに言われた「男だろ、松下明」の「男」をこの場面で上げていた。いやあ、よくこんな(いい意味で)古臭い顔の人を見つけてきたもんだな、と好ましく思っていたキャラクターが土壇場で大活躍したことにも感動した。

まあ、どんな理窟を書き並べようと、藤野涼子の演技はそれを易々と飛び越え、感動をもたらしてくれたことは間違いようがない事実だ。上にだらだらと書いたのは、何度も繰り返したあと、やっと落ち着いて観ることができてからひねくりだした考えをもとにしたものであり、1回目~3回目くらいまでは、頭をぶっ叩かれ、心を撃ち抜かれ、身体に震えを感じながら観た。

回収業者の主任格の人物についても少し触れておきたい。
この人は出演時間はきわめて短時間なのになかなか印象的で、はじめ乙女寮の人間たちが工場から出てくるのを「ごくろうさまでした」といちいち声をかけていて、けっして悪い人物ではない、ということが示されていた。そのうえで、豊子が立てこもり、松下さんとの交渉においても「わかるけれど」という前置きを何度も繰り返し、それでも時間がないこともわかってくれという論理的な応対をしているところが、(ほんとのことをいえば現実的ではないものの)相当に心ある人で、最終的には突破を試みようと実力行使に出てしまったが、ぶじ豊子が自ら部屋を出てきてからは穏当に仕事を済ませ、最後、向島電機の人間と対して挨拶されたときも、なにか文句を言うでもなく、むしろ帽子をとり少し頭を下げ、そしてなにも言わないまま己になにか言い聞かせるようにして頷き、そこを去っていった。
このやりとりが、非常に魅力的に感じた。
彼はなぜなにも言わなかったのか。彼はなにも言うべきことがなかったのだろうか。
「ほんと頼むよ、こういうことをやられちゃ困るんだから」なのか。それとも、「まあわかりますよ、あなたたちも仕事を失ってたいへんでしょうから」なのか。それとも。
相手を詰るのは論外として、相手に安易に理解を示すのもまた失礼と感じたのだろう。松下さんが言ったように彼らは「働く人間」であり、彼女たちもまた「働く人間」なのである。その立場や矜持が理解できるからこそ、軽はずみな慰めをするべきではない、と彼は判断したのではないか。
しかしそれにしても、脚本家はよくぞここで「なにも言わせないこと」を選択できたものだと感心してしまう。

豊子への説得ではちょっと首を傾げるものがあったみね子(有村架純が、ではない)だったが、この回の最後のナレーションはとてもすてきだった。
「豊子の小さな反乱」は「歴史に残るようなことではない」のかもしれないが、わたしにとっては非常に重要である、ということを語っていて、また、乙女寮にいるひとりひとりが、それぞれに物語を持っていて、その物語の集積が東京なのだ、と。ほんとうにそのとおりだと思う。

泣き疲れて土曜日。真知子巻きした米屋の娘にちょっとほっとする。それでも、豊子が寮を出ていってしまうときは、つらくてつらくて……。澄子との友情の確認、「まだな」「達者でな」「ありがとう」「ありがとう」では、やっぱり笑って、泣いたな。卑近な例でいえば、ドルヲタが推しのアイドルグループを失うとこんな感じなんだろうな、と思った。みね子の東京篇はまだまだつづくのだろうが、同時に豊子篇も観つづけたいよ。
そして時子ががらんとした工場で泣いていて、そこでみね子との別れを惜しむシーンもさみしかったなあ。そもそもこのドラマを「よし、観よう」と思えたのは、第1週、みね子が時子の家にやってくるとき、自転車を漕ぎながら、満面の笑みでおーいと手を振り、それを見た時子が「毎朝会ってるのに、なーにがそんなに嬉しいんだか」みたいなこと(けっこう不正確)を言いつつ嬉しそうな表情をしている、っていうカットがきっかけだったのだ。
工場内で抱擁し合うふたりは、役柄上、離れてしまうのだろうけれど(まったく登場しなくなる、というのは考えにくいが)、それだけではない、演技というものを超えた現実の佐久間由衣と有村架純との関係性における喪失感、みたいなものも感じられ、二重にさみしかったのだ。

というわけで、みごと乙女寮は解体。そして、予告編を見て、今度は文字通りの意味において悪い予感しかしない。「新キャラ」とか、話の流れ上しょうがないのだろうが、いらねーんだよって感じだし、そもそも増田明美の(ふつうのものはともかく)メタナレーションがいよいよ鼻についてきた。これははじめの頃から指摘していることだけどさ。
あーあ、とりあえず東京篇のピークが終わったという感じ。これからの下り坂の勾配がどうかゆるいものでありますように。急落、は哀しいから。