半分、だな。

先週ぶんが終わって、たぶんもうこれ以上の感動は得られないだろうなという予感があって、だから期待はしていなかった。
乙女寮の残務処理というべきか、みね子と澄子の話がちょっと残っていて、募集人数が減った石鹸工場には澄子が行くことになって、週タイトルからすればまあ当然というか、みね子はすずふり亭で働くことになる。で、このときだけど、オーナーの鈴子さんもコック連中も、みね子が店で働くことは大賛成なんだけど、佐藤仁美演ずる高子が若いみね子のことを「女の敵」と見なすんじゃないかと懸念する、っていう構図がなあ……。
「高子は薹が立っているから嫉妬深く思うんじゃないか」みたいな意味を当人のいないところでみんなでわいわい話している感じがしてさ、なんだか女性をそうふうに扱うのって、すくなくともこのドラマの雰囲気にはそぐわないように感じられた。
たとえば、これまでに佐藤仁美が意地悪な人間と窺える部分があったのなら、懲罰的な意味合いでそう扱うのもわからないでもないのだが、彼女、いままでだってみね子に優しかったじゃん。そういう人物に、そういう仕打ちをするわけ? まあ1、2話でその話が済んだからいいようなものだけど。
いやたしかに佐藤仁美、『ママさんバレーでつかまえて』(2009)のときよりだいぶふっくらとしちゃったけれどさ、なんか一定の年齢や一定の容姿だと一定のキャラクターになる、みたいな単純さってものすごく嫌いなんだよな。

mamasan

(上段右から二人目が佐藤。ちなみにその下が向井理。若い!)

まあ当時(昭和40年頃)は現代と違う感覚だったといえば違うんだろうけれど、一方で現代製作されているドラマでもあるし、そういう現代的感覚をもとにして感動を創出している部分もあるわけで、都合の悪いところだけ「時代ですから」というのはちょっと言い訳が立たない。僕が細かすぎるのかな。


また、「新キャラ」なるものにも、たいそう失望させられそうだ。

慶應ボーイ(KOB)の登場シーンで「なんだかすてきな男の子ですね」という増田明美のナレーションが、もうちょっとお腹いっぱい。いいかげん空回りにしか聞えない。

以前にもちょっとは出てきた光石研も、視聴者に強い印象を植え付けるがために無理して頑張っている感じがあって、苦しい。最近はいいおじさん役が多いというイメージだが、やっぱり笑いながら人を殺すようなのが光石芝居の身上よ。『Nのために』で、愛人と一緒に暮らすためにいきなり笑いながら子どもたちに「さあおまえたち、ここから出て行け!」みたいに言ってのけた、あの感じがいちばん好き。

和菓子屋の親子はもっときつかったな。
古舘伊知郎の息子は、演技下手(というか初心者?)特有のうるさい芝居をしていた。いまどき高校演劇でもそんな力みすぎはいないよって思った。
親父の三宅裕司も、観ていて辛かった。
SETを一回テレビで観たときはものすごく面白くて、舞台上でもともと半分アドリブみたいな場面を仕切り、お客さんの盛り上がりをうまくコントロールして必要とあらばアドリブをどんどん引き伸ばしていくやり方に、さすがの役者・演出家としての年輪を感じたものだが、劇団の主宰って他人の演出を受けるとあんがい面白くないっていうのが僕の持論(野田秀樹がよそで芝居をして、驚くほど魅力を失ったのを観たことがある)で、三宅は今回のドラマでそれを証明してくれそうだ。そうそう、松尾スズキは例外ね。

で、最悪はアパート大家の白石加代子な。つらすぎた。
彼女をはじめて観たのはテレビかDVDで観た蜷川版の『天保十二年のシェイクスピア』で、「読売演劇大賞を獲っているらしい」みたいな情報つきだったのだが、案に相違して「あれ? こんなもん?」と肩透かしを食らって、それ以来、食らいっぱなしですよ。まあ、顔をがちゃがちゃ動かしたり、聞こえづらいひとりよがりのくどすぎるしゃべりを聞いて、「わーおもしろい」とか「個性だね」とか「味がある」なんてことを簡単に言えちゃう人たち向けとしては、たいへん便利な役者なのかな。
個人的嗜好として、こういうキャラクター芝居っていうのはあまり好きではなく、若い役者が演っていると「もったいないことしているなあ」という気分になるし、年とった役者が演っていると「まだそんなことやってるんだ」って気分になる。
それまで漠然と感じていた不安が、最終的にはこのキャラクターが出てきたことで具体化し、それまでのドラマとの耐えがたい断絶を感じた。深い溝。


時間的には前後するのだが、振り返ると横たわっているその溝の向こう側にはまだ乙女寮が、ほとんどの登場人物たちがいなくなりながらも残っていた。
みね子の就職と住むところが決まってから、自分の職探しをする、なんていう愛子さんのやさしさよ。すずふり亭というかすずふり亭周辺の人物たちにがっかりしていたのでなおさら、がらんとしてしまった乙女寮での愛子さんとみね子のやりとりに、僕がたのしんでいた物語の残滓を見つけ、その名残を愛おしんだ。
紅白を観終えて、みね子の寝顔に自分が持っていたかもしれない家族の面影を見いだす愛子さん。けれども同時に彼女は、寝ているみね子に「つきあわせてしまったね」と謝る。つねに明るく振る舞う彼女の、ふだんは見せない遠慮。きっと傷を抱えている人間のやさしさということなんだろうな。
明けて元旦、みね子に「おかあちゃん代わりじゃなくて、東京のおねえちゃん」と言われて、ほんの一瞬だけ愛子さんが複雑な表情を見せた気がした。これはほんとうに「気がした」程度の動きなのだが、自分の仮想の家族を投影していたことを、みね子自身に指摘されたように感じ戸惑う気持ち半分と、母ではないにせよ姉として、つまり家族として見てくれているのだということに対する嬉しい気持ち半分、といったものが彼女にはあったのではないか。
その彼女にお年玉として田舎に帰る切符をプレゼントしてもらい(このときに「ありがとう、愛子ねえちゃん」と言うところもものすごくよかった!)、急遽、奥茨城の家に飛び込んで来るみね子。あまりにも突然に帰ってきた娘/孫娘/おねえちゃんを、驚きながらも大喜びで迎える家族たち。
第1話からずっとつづいてきた物語に愛着を持っている僕としては、これらのシーンを格別の思いをもって観ることができた。たとえば古谷一行のじいちゃんは目元をゆるませっぱなしでみね子を見ていたのだが、それは彼女がまだ家にいたときには見せなかった表情だ。
みね子が寝つづけているところへ、ムネオや時子の母や三男母子や田神先生たちが戻ってくるあのにぎやかな感じにも、懐かしさを覚えながらたのしめた。


またまた時間的に前後するのだが、すずふり亭のほうでも、いいシーンがあった。みね子に付き添って愛子さんがはじめてすずふり亭を訪れる場面。
これからみね子が住むことになるアパートのほうへ案内しようというところ、鈴子さんが愛子さんに思い出したように呼びかけ、彼女が東京生まれ東京育ちだということがわかると、急に表情を変えて、「じゃあ、あの?」と尋ねる。「はい、戦争中もずっと東京におりました」「たいへんでしたねえ、お互いに」「はい」「よく頑張って、生きたね」「はい、ありがとうございます」
東京で罹災した人たちのなかに、この感慨っていうのはほんとうにあったのではないかと思う。このあいだ半藤一利の『昭和史』を読んでいて東京大空襲の被害が甚大だった(たしか犠牲者は10万人近く?)というのをあらためて知って、広島や長崎や沖縄というのは、太平洋戦争という歴史的出来事には必ずセットになっている地名だが、東京はもしかしたら忘れられてしまいがちなのかもしれない。もちろん、犠牲者の数で程度の大小を測れるものではないが。
この鈴子さんと愛子さんのやりとりはちょっと不思議で、前後とあまり脈絡がない。この会話が終わるとすぐに鈴子さんは話がどんどん飛んでしまって……という言い訳をするのだが、もしかしたらこの会話の唐突さをカヴァーするために、話が脱線しがち、という設定を鈴子さんに与えたのではないかと勘繰ってしまうほどだ。

なんでもかんでも『金八』に結びつけるのは悪い癖だが、くだんの第2シリーズ、文化祭の催しものが終わって有志によるサプライズで特攻服に身を包んだ3Bの生徒がちょっとしたパフォーマンスをするのだが、それについて校長役の赤木春恵が、涙を流して神風特攻隊をかっこいいだなんて、どうか思わないでください、というようなスピーチをする。彼女は兄を特攻で亡くしたという設定になっているのだ。
はじめて観たとき(もちろんリアルタイムではない)には、そのあまりの唐突さにちょっと違和感があった。しかし、時間が経って自分が歳を重ねるにつれ、きっとこれは脚本家の小山内美江子がなんとしても書きたかったことなんだろうなあと思えるようになった。

翻って鈴子さんと愛子さんとのやりとりも、明るく笑っていて高度成長期にある日本だけど、ちょっと心の蓋を開ければみんな戦争によってもたらされた暗いところ(いまの若い人たちが抱えているものとは種類が違う)があるんだよ、というのを、突飛な形でも描きたかったのかもしれない。まあいづれ愛子さんの過去についてはもう少し掘られるのかもしれない、と思っている。


「乙女寮後」に対する失望・幻滅を強く感じた週でもあったが、「乙女寮とそれ以前」の部分が描かれたことに対して驚き・嬉しく感じた週でもあったので、がっかり半分・よろこび半分の週といったところだった。
願わくは、この先にまた愛着を持てるような人物やエピソードが出てきますように。
まあしばらくは適当に済ませられそうなので、録り溜めたものをどんどんと消化していく予定。