世の中で、食べものについていろいろと難癖つける輩は大っ嫌いなのだが、それと同じくらいに、食べものを他人にたかるような輩も嫌いだ。
で、新たに登場人物にくわわった大家の白石加代子は、その演技のワンパターンも相俟って、見ていられないってくらいに気持ち悪い。赤坂の売れっ子芸者って設定なはずだが、東京者は見栄が身上、しかも芸者・芸人ってのは見栄の商売だろうに。それがタカリ屋のように田舎から出てきた女の子の荷物にいちいち口出しするっていう行動がまったくリアリティを感じさせない。
同じ観点から、みね子のお土産をひったくるように持って行ったマンガ家も見ていて気持ち悪い。なら働いて稼げよ、と。
そもそも、このマンガ家がどうやって食べていっているのかが不明。いちおうこの翌週分くらいまでは観ているのだが、稼ぎがどこらへんにあるのかわからない。相方とのいづれかの家が金持ちで仕送りしてもらっている? アルバイトしているようには見えないのだが、そのくせ夢だなんだとうるさい。この当時、そんな人がいたのかな。細かいことを設定せず「新キャラありき」で登場させて、富山だという田舎の部分をブラックボックスにして辻褄合わせをしようとしているんじゃなかろうか。
もちろん、演出上ある種のブラックボックスは存在せざるを得ないし、それを役者の語りによって視聴者があたかも実際に観たような気分にさせるっていうのも重要な演出方法だと思うが、この役者がなあ……。知らない役者じゃないけれど、なんかキャラクター優先で現実感ゼロなんだよな。
このあかね荘の連中もみんなそう。いままで昭和39年~40年という舞台に生きている登場人物たちを間近に観ている気分だったのが、先週分あたりから途端に「そういう設定のお芝居」を見させられている気分に早変わり。
みね子も一歩引いた立ち位置の「紹介者」となってしまって、ほとんど主張がなくなってしまい、さみしい限り。紹介された連中は学芸会のお遊戯で大忙しだ。
ちなみに、若い役者や役者候補生たちがチャンスを与えられる、ということについてはあまり文句を言わないことにしている。誰だってデビュー作あるいはメジャーデビュー作はあるはずだし、それが本人が思ったほどにはたいしたものにならない、ということについて彼/彼女に責を負わせるのはかわいそうだ。批判すべきは制作サイドだろう。きちんと演出つけりゃいいのに、とか、脚本が雑だよ、とか。

なお、みね子が初仕事としてホールに呼ばれるとき、みんなに「がんばれ」と言われる。なので、僕が個人的に設定している「あなたのことは、きっと誰かが応援している」というテーマはまだ踏襲されているようで、ちょっとほっとした。もう全然違うドラマだと思って観ることにしたけど。

気になったのが2点ほど。
ひとつは、みね子の「手」がすげー止まること。これはこの週に限ったことではないのだが、なにかというとみね子の「手」が止まっている。これが、ほんとうに許せない。
仕事って大事、とか、仕事のありがたみ、とか言っているくせに、その手が止まっていてどうするんだよ。仕事場で大事なのは手を動かすことで、口を動かすことじゃない。口を動かしていても手は決して止めない。なんでそんな簡単なことがこのドラマのなかでは無視されているのだろう。
みね子が働き出した初日、鈴子さんが仕事のときには上下関係なんてない、と説明したり、みね子が勉強のためにメニューを持って帰ろうとすると「仕事は時間内だけにしなくちゃ、いい仕事はできないよ」みたいなことを言ったときに、「あ、これってまさにプロパガンダだな」と思った。つまり、いまの政府が建前上主張している「働き方改革」の広報の一環じゃないか。
現在においても、日本では長時間労働によってかえって生産効率性を落としている点が指摘されているし、あるいはそれによってもたらされる労働者たちの深刻な過労が社会の重大な問題になっている。そしておそらくその源流は高度経済成長期にあって、みね子たちが働いているまさにこの時代に端を発しているはずだ。
ああそれなのに、それなのに。そんな時代の経営者がめちゃくちゃ「ホワイト」な労働観を披露し、あるいは、考え事などをしてぼうっとしがちなみね子に対して「こら! 手ぇ止まってるぞ」と叱る人間が出てこない。
これってあれですか、あとで厚労大臣とかが「朝ドラに出てくるすずふり亭のような、いい職場になるようにしましょう」みたいなことを言うつもりなのかね。
いやたしかに、そういう経営者がやさしくてすばらしい労働環境は当時にしたってあったでしょうよ。ないとは言わない。けれども、それは絶対にレアなケースであって、過去を描くときにそんなレアなケースを以てするというのは、表現者としていちばんやってはいけないことだと思っている。
みね子に対してやさしく気を遣うのはいい。けれどもそのことと、仕事の厳しさ(ときには理不尽さ)を伝えることは、決して矛盾しない。厳しくたいへんな時間を共有することではじめて互いに信頼感を持てるということは実際によくあることだ。なぜそういうきわめて現実的なプロセスが描かれなかったのだろうか。そのことに、非常な違和感を覚えた。プロパガンダというのは、半分冗談で、半分本気だ。

で、もうひとつは、食事のときに手を合わせる問題。
みね子の実家、奥茨城での食事のときは、たぶんみんな手を合わせて「いただきます!」としていたのだが、鈴子さん、高子、みね子、中華屋の奥さんの4人であんみつを食べに行ったときも、4人ともが手を合わせていた。まあ宮本信子はちょこんと下のほうで手をおざなりに合わせていただけだったので、「ああ、ほんとはやりたくないんだろうな」ということが察せられた。
この問題、けっこう前から感じていて、なぜあまり問われていないのかがむしろ不思議なくらいだ(問われているのかもしれないが、「ネットでの議論」みたいなくだらないことには興味がないので知らない)。
僕は少なくとも20代後半くらいまで東京に住んでいたが、それまで生きていて、誰ひとり食事のときに手を合わせる人間に出くわしたことがなかった。誰ひとり、だ。
東京生まれの父に訊いてみても、「家でそんなことはしていなかったし、友だちの家に行ったときもそんなことをしている人はいなかったし、もしそういう人間を見たら珍しいから記憶に残ったはずだけど、見たことがない」という答えを得たし、それは北海道生まれの母も同様だった。
そんな父が加えたのは、古い日本映画で手を合わせているシーンなんて目にした記憶にないけどなあ、ということだったが、それはもちろん検証したわけではないのでたしかなことは言えない。でも調べる価値はありそうだ。
僕は、手を合わせるのがおかしいと言いたいわけではない。現に関西生まれの同年代の人間がそういうふうにして育った、と言うのを聞いたことがあるので、おおまかにいって、西日本ならそういうことがあったかもしれないと思っている。すごく直観的な話になってしまうが、西日本のほうが関東とくに東京より信心深い人たちが多そうで、まだいろいろな習慣が残っている可能性が高いと思っている。それだから、当該地域において手を合わせることはごくごく当たり前のことのようにも思えるのだ。
僕が奇妙に感じているのは、そのような一部の地域にはあって一部の地域にはなかった習慣が、日本全国、過去からずっとあったように描くというその単純さだ。
卑近な例を採れば、戦後直後の東京の子どもたちが、節分に「きょうは恵方巻きを食べなくちゃね。なんたらの方角へ向かってうんぬん」とやっていたらおかしいだろう。あるいは、10月末に「わーい、きょうはハロウィン、たのしいなあ」などとは言わないだろう。
恵方巻きやハロウィンなどのマーケティングによって広まった新しいカルチャーについてならすぐに理解できそうなものを、手を合わせる習慣における地域分布性(?)についてなかなか理解が得られなさそうなのは、たぶん「合わせたほうがよりよさそうだから」という直感があるからではないか。
食べられることに感謝して別の生物の生命を「いただく」という行為に合掌を伴わせるというのは、たしかに理にかなっていそうだ。それまでそのような習慣がなくても、「大人になってはじめて知ったことだけど、それからはずっと手を合わせることにしています」という人がいたら、それはそれで大いに結構だと思う。なんの不思議もない。
でもそれは、「手を合わせない人がいたらその人は野蛮である」とか「手を合わせない人の家庭はきっと躾がなっていなかったのだ」なんていう価値観や一方的な批難を導くものではない。雑煮の餅が丸いとか四角いとかその種の話題と同じで、優劣はないし、地域によって差異があるというだけなのだ。
僕は、東京のすべての場所において手を合わせなかったはずだ、と主張するわけではない。手を合わせたところも当然あったろうと思っている。ただ、みんながみんな手を合わせたわけではないということが重要であって、どうかその時代を描くのであれば、手を合わせる人がいたり、あるいは手を合わせない人がいたり、というばらばらの状況を正確に描いてほしいのだ。
僕の勝手な妄想だが、宮本信子はずっと手を合わせて来なかった人間で、「ここは絶対に手を合わせてくださいね」という具体的な演出指示があったとは思えないが、彼女よりずっと年若い周りの出演者がみな手を合わせるのを見て、内心「そんなことなかったんだけどねえ」と思いながらも、妥協の産物としてちょこっとだけ手を合わせたのではないか。
とにかく、ここらへんはきちんと時代考証をやってほしいもんだ。ここらへんの地域は合わせていた、ここらへんはない、などと。

この週でとても(という副詞じゃ足りないな、とってもとっても)よかったのは、佐々木蔵之介の過去語り。やはり、このドラマの後景には戦争が影を落としている。そしてこれこそがはじめのほうに書いたブラックボックスを語りで済ませる部分で、非常にうまく行った例。
蔵之介の芝居は非常にナチュラルで、かつきちんとした演劇性をともなっている。しゃべりのテンポの緩急がスリリングなほどで、観ていて飽きない。一点を見つめ、深いところから記憶を掘り出し、それを聴かせている人間の前に現出させるようなやり方に、一瞬、渡辺謙の姿を重ねてしまった。これを傍で見聴きしている有村架純やヒデ役の男の子は成長の糧としてほしいものだ。
安定したコメディエンヌとして佐藤仁美は頼もしいし、ときおり彼女やヒデと掛け合うやついいちろうもいい味を感じる。ということはつまり、まだまだすずふり亭にはたのしみを見いだせるってことで、これはとても嬉しいことだ。

そうそう、手が止まっちゃうみね子については少しイヤだけど、ポニーテールにした有村架純はまだ好きなままですよ。