久しぶりに警官の綿引がやってきて、みね子の父親情報が更新され、そのことについて、あかね荘の管理人室の電話をつかって実家の母ちゃんと会話をし、思わず泣いてしまうみね子。
それを聴いていた白石加代子が、みね子にずんだもちのようなものを「あーん」させて食べさせる。これはかつての乙女寮での愛子さんとのやりとりの、いわばリフレインである。つまり、乙女寮で愛子さんが甘いもの――たしか甘納豆だっけか――をみね子が「あーん」と開いた口に入れてやるシーンで、みね子が「実はここ(乙女寮)が、東京での”帰る場所”なんだ」と気づいたであろうのと同様に、あかね荘が、今後はそれに取って代わることを脚本は示唆しているのだろうが、いやはやなかなかどうして、観ている側としてはそう簡単には問屋が卸さない。
また、みね子が泣きながら電話するのを聴いていたアパートの住人たちとの会話で、いままでひた隠しにしていた父の行方不明ということをやっと打ち明けることになるのだが、打ち明けるまでに一悶着があり、そのユーモラスな悶着によってあかね荘住人たちとの心的障壁が取り除かれる……ということを描きたかったのだろうが、これまた観ている側としては軽々には問屋が卸さない。
いやいやむりむり。気にしない人は気にせずに、むしろ積極的に好感を抱いていくのだろうけれど、僕はまだこの時点ではあかね荘の連中に対してまったく親近感を持てないままでいた。僕からすれば書割がしゃべっているようなもので、そこに価値や愛着を見いだせなかった。いっそあかね荘なんてなくなってしまえばいいのに、とさえ思っていた。
なお、焼きうどんを食べながら、堰を切ったようにこれまでの身の上をしゃべるみね子は、僕の好きなみね子。大好きな側と、まったく興味の持てない側。このあいだに横たわる溝は深かった。

場面は変わって、奥茨城でみね子母(美代子)とムネオさんが話している。
夫の状況が少し知れたので呼んだムネオに、「ごめんなさいね、なんかあるたんびに来てもらって」と謝る美代子。それに対して「なに言ってんだって、ねえさん。もうやめよう、それ?」と制するムネオなのだが、なんかもうこのセリフひとことだけでグッときてしまう。
いったいなんなのだろうか。峯田和伸のこのセリフは、けっして”感動的”なそれではないのだが、しかし僕の心にはやけに響く。彼のセリフ――というか振る舞いすべて――はすべてそうだ。気にとめずに済むセリフを吐くことはなく、いつもどこかに引っかかるものを残す。たぶんそれは、彼のセリフなり振る舞いなりが、「この世で起こったたった一回のこと」のように感じられるから。
舞台演劇において最も重要なファクターと言っても過言ではないことに、「一回性」というのがある。けっして取り返しのつかないこと。舞台上では巻き戻しも、一時停止も、やり直しもきかないがゆえに、そこにある種の尊さが生まれる。それは、たった一回を生きているわれわれの生そのものの尊さに通じる。ひいては人間の尊さ。宇宙の尊さ。
峯田の演技は、おそらくはさまざまな演劇技術に裏打ちされていないがゆえの一回性に満ち満ちており、そこに当人の一所懸命さが加味され、類のない熱量が生まれる。ムネオはつねに本気であり、正直であり、必死である。だからこそ、愛すべき、非常に愛すべき人物としてわれわれの目に映る。
そのムネオが、ビートルが来日するといって狂喜する。だからこそわれわれは、それがものすごいことだと知る。ビートルズだからすごいのではない。この物語のなかでは、ムネオが認めるから、ビートルズはすごいのだ!

ムネオから「ビートルズ ガ ヤッテクル」の電報をもらって以降、ドラマは急激にまた面白さを取り戻す。ムネオ夫婦のやりとりや、すずふり亭でのみね子の歯磨き粉の押し売りなど、愛すべきキャラクターたちが、しかるべき立ち位置を取り戻し本領を発揮し始める。
特に、歯磨き粉の応募券でビートルズのチケットを当てようというみね子に、すずふり亭の人たちはもちろん、商店街の人たち、あかね荘の人たちまでもが協力する。そして、「当選の知らせ」が来るのを、みね子と一緒になって待ち望む。われわれが、ずっと観てきた構図だ。
そしてまた、応募に落選したことにしょげているみね子の目の前で、コネをつかって易々とチケットを手に入れた女性が喜ぶ。これは、向島電機での初給料時に、ほしいと思ったブラウスが高価すぎてみね子には買えずに、別の人に買われてしまったのと構造的には同じだ。
望んだものが手に入らない者。手に入る者。向島電機でブラウスを買った人は、おそらくは一所懸命働いた結果ほしいものを手に入れたのだろう。対して、サングラスをかけた”業界人”の恋人らしき女性は、指すら動かさずにビートルズのチケットを手に入れた。
世の中は不公平だとか不平等ということを描きたいのではなかろう。というより、世の中は不公平とか不平等ってことは、このドラマではずーっとあたりまえの大前提として描かれつづけてきたので、いまになってあらためて「発見」されるものではない。
かといって、みね子は諦念にとらわれてはいない。そしてこのドラマは、所与の不運や不遇を飛び越えようとするみね子サイドの人間たちを応援する。
これは次週分を先取りしてしまうが、自らの境遇を切り開こうと努力するみね子に、島谷は負い目を感じ、羞恥さえ覚える。島谷の口数が少ないのはその羞恥のためで、それはみね子だけに感じているものではない。彼にとっては、ほとんどの足掻く人物たち、自らの運命に抗おうとする者たちが羨ましいのだ。すずふり亭のヒデがちょっと言っていたような、生まれが裕福だからといってその人たちなりのさみしさがある、というようなことは、ほんとうはほとんど関係ない。島谷が羞ずかしさを覚えることが指し示すのはただひとつ、彼がそれくらいにはまともだってこと。
そしてもし、彼のキャラクターが大化けするのだとすれば、その殻をいかに彼が破るのか、そしてその破る様を役者がみごと演じられるのか、にかかっていると思う(現在、次週分までしか観ていない)。僕からすれば、ヒデのほうがよっぽどいいのだけれど、物語的にはすくなくともしばらくはこの島谷をキーマンにするだろうと見ている。

そして、ムネオがついに東京にやってくる!
彼があかね荘の連中とはじめて会ったとき、「東京の若者よ、世界を変えるのはきみたちだ!」と宣言するが、ほんとうにそう思っているんだろうな、と二回目を観ているときに思った。
しかしながら、彼らは平和や希望の象徴というよりも先に、対SNSへの撒き餌にしか見えない。
これがあかね荘編が始まって以来ずっと僕が感じていたことで、彼らの人工的で強引すぎるキャラクター主張は、「もうなんでもいいから、炎上でもなんでも、引っかかってくれればいいから」という制作側というか放送側(?)の浅ましい意図が透けて見えるようで、たとえばマンガ家の片割れが実家からひさしぶりに帰ってきたとき、増田ナレーションは、「どっちにせよ、みね子の人生にはたいして影響をあたえないようですが」てなふうに彼のことを紹介していて、なんじゃそりゃと思った。
現時点でも、マンガ家の話は笑い話のネタ、いわゆるオチにされているだけで、たとえばシシド・カフカがみね子に、「この広い東京で人探しをするなんて、見つかる可能性は相当低い」といういつもの意地悪を言ってしまい、「ま、(マンガ家を指して)この人たちが売れるよりは可能性高いでしょうけれど」とフォローをするためのネタにしてしまっていた。
マンガ家たちはそれを笑って受け止めるのだが、島谷が「彼にもさみしさはあると思いますよ」などといってめちゃくちゃ好意的に解釈されているのと、同じ地平にあるとは思えない扱われ方だよな。
とにかく、このあかね荘の人間関係が非常につくりものっぽく、物語上での必要性があまり感じられないし、上記のように、このドラマの持っている基本路線、つまり弱者をこそ応援し、救うというスタイルからはかなり逸脱した、非常に「らしくない」部分がいくつも見られるのだ。
あるいは、第1週で増田ナレーションがムネオの登場に際して、「朝ドラってヘンなおじさんがよく出ますよね。なんででしょうね?」みたいなことを言ったのに対し、そのようなメタ的な語りは、物語を矮小化することになるからやめたほうがいい、と指摘したが、むしろこういう、目先の笑いを拾ってりゃあとはどうでもいいよ的な姿勢のほうが、このドラマの基本路線だったのだろうか。そんなふうには考えたくないよな。

「ロックンロールだっぺ!」と華々しく東京に登場したムネオに話を戻す。
みね子の父、実が目撃されたという場所に、ムネオとみね子で訪れる場面。
ここで突然、ムネオが叫ぶ。いままでへらへらとにたついて、ふらふらと左右に揺れながらしゃべるようなムネオが、真剣な表情で、身体のなかにある思いをすべて絞り出すようなやり方で、「兄貴!」と大声で呼びかける。
胸が撃ち抜かれた。「うわっ」と実際に声が出た。なんだこれは? なんなんだ、これは!
不意打ちで、怒濤の演劇的感動にのみこまれた。
片肘ついて寝そべり、リラックスしたモードで画面を眺めていたところ、急に胸ぐらをつかまれ、頭の芯、身体の奥底からぐらぐらと揺らされた。一気に、予定調和やお定まりの領域の外へ抛り出された。
次になにが起こるのか予測がつかなかった。というか、いま画面のなかでなにが起こっているのかもにわかには理解できなかった。ムネオは兄であるミノルの姿を見かけたのだろうか。否。そこにはいないということがきちんとわかったうえでムネオは、ミノルの耳に入るような大声で叫んでいた。
100人中95人くらいの役者は、このような発声の仕方はしないだろう。叫んでいるように見え、大声に聞えるようなやり方で、セリフを吐くはずだ。しかし峯田和伸は、ほんとうにミノルに聞えるように、まちがっても聞き逃されないように、必死に叫んでいた。いや、吼えていた。
すぐさま理解できないことは不安を生む。しかし同時にムネオの咆哮は、昂揚感を生んだ。感情の混淆がざわめく震えとなってあらわれる。
人間は、感動して心が震えると涙が出てくるということをあらためて知る。単に悲しいとか嬉しいとかいうことではなく、身体が抱えきれなくなった感情を涙で外に放出することしかできなくなるのだ。
これだよ! これこそがおれの観たかったものだ!
思いもしなかったような表現。予想をはるかに超えるような表現。こういうときこそ、生きていてよかったと心の底から思う。つまらない現実生活のなかにも、ときおりではあるが価値観が書き換えられ拡張されていく瞬間があるのだ。捨てたもんじゃない。ぜんぜん捨てたもんじゃない。

けっして批難の意図はないが、隣にいた有村架純が峯田のあとに「父ちゃん!」と叫んだとき、その声は、あくまでもこちらの予想の範囲内にあった。下手とかそういうことではない。有村架純、ぜんぜん下手じゃないよ。すごく成長していると思う。
しかし、目の前にいない人に向かって叫ぶとき、そう叫ばざるを得ないような心境のとき、人はどのような声の出し方をするのだろうか? 「叫ぶ」という行為の非日常性がほんとうに考え抜かれれば、峯田和伸のやり方のほうが正しいように思えてくる。というより、峯田の演技を観て、これ以外にやり方があるとはとうてい思えなくなってしまったのだ。第9週の感想のところに書いた豊子の「非合理な行動」と同様、ムネオの行動も論理的ではない。そして論理的ではないがゆえに、そこには多大な説得力がある。
例によってとんちんかんな記憶違いの可能性大なのでタイトルを挙げるのを控えるが、あるアメリカ現代小説で、主人公が、誰かが亡くなったのを知って悲しみのあまりゴリラのようにドラミングする、という表現があった。左の文章だけを読めば「まさか」と思うだけだが、その小説を読んでいる最中では「きっとそういうものなんだろうな」としか思えなかった。

とにかく、峯田和伸が最近のクソ停滞した心持ちの暗雲をすべて吹き飛ばしてくれた。
僕は、彼の人物をまったく知らないので、もしかしたらファンからすれば「峯田っていっつもそんな感じじゃん」の話かもしれないのだが、それはそれで全然いい。
そしてそして、この週の最後で、ムネオの音頭であかね荘の連中と一緒に、夜中の空に向かって「ビートルズーっ!」と叫ぶエンディングはほんとうにすばらしかった。なぜって、あのシーンだけで、たったあのカットだけで、あかね荘の連中がゆるせるようになってしまったのだ。
無邪気に叫ぶマンガ家ふたり組も、声を張り上げるのが不得意そうながらもリンゴに呼びかける早苗さんも、声の全然でない島谷も、ゆるせてしまったのだ。その中心にはムネオがいて、ロックしていたから。
チケットが手に入ったのか、と島谷に訊かれて、「いや。いいんだよ、そんなもんなくても」と応えるムネオは、最高にロックで、最高に恰好よかった。
おそらく『ひよっこ』をあとになって思い出すとき、必ず思い返すことになる週のひとつになるだろう。