先週ぶんは最高だったなあ、と思っていたらこの週はそれを超えた。超えちゃったんだよなあ。

そもそも、ビートルズがやってくるっていうネタを、時代風俗の記号的に扱うっていうやり方なら容易に想像のつくところだが、『ひよっこ』においてはまったく違う角度から、しかも音楽性とはかなり遠いところから料理している、ってところにまずわれわれは驚かなくてはならないだろう。
「記号」で済ませるのなら、あの例のハッピ姿でタラップを降りてくるところに、ナレーションで「前座は、なんとあのドリフターズでした」とでも言わせておけばいっちょあがり、ってなもんである。けれども……違ったんだよなあ。

この週の、というか、先週から引きつづき今週も主人公はムネオである。
上滑りしつづけている印象の三宅裕司の店の手伝いで、商店街のみなさん&あかね荘のみなさんで、赤飯づくりをするわけだが、みんなの一服中、シェフの省吾が、「おい、ムネオ」と呼んで戦争中どこに行っていたのかを問い質すところからクライマックスは始まる。
まず、省吾に呼ばれたムネオが「なんですか、シェフさん?」と応答し、へらへらと近づいてくるところからして、もう違う。
このときの峯田に感じたのは、丸腰にもかかわらず、帯刀している人間に負けない武術の達人。

演劇の舞台っていうのはほとんどの場合、虚構であるし、また、たとえもともとが実話だとしてもそれを仮想の世界において再現するという意味で、やはり虚構である。
虚構の中にはその世界ならではのルールがあって、われわれはもはや何十何百というフィクションに接しているからそのいちいちに引っかかりはしないけれど、ときおり、違うルールが実験的に持ち込まれたり、あるいはもともと違うルールに則った表現などに接すると、そのルールを自分のなかで適用させるのに戸惑いを覚えたり、あるいは拒絶したりする(前者の例をこれまでのところで挙げるとすれば、乙女寮時代、『ウエストサイド物語』を観に行ったことを表現するのに、乙女寮のエキストラメンバーたちによって、当該映画をダイジェスト的に擬似再現したこともあった。後者の例としては、ミュージカルそのものだったり、あるいは舞台)。
で、ある役者について俗に「演技がうまい」と評価をするとき、多くの場合は「リアリティを感じさせる」ということを意味するのだと思うが、その「リアリティ」とて、現実世界におけるリアリティというよりは虚構内におけるそれのことを指し示している場合が多いだろう。
つまり、いわゆるうまい役者というのは、虚構内マナーに熟知し、かつそれを正確に再現できる者、と定義できる。反対に言えば、『ひよっこ』における有村架純はとても上手だと思うが、あのハキハキした調子でしゃべる女の子が現実世界にいたら、「あれ? なんでこの子、こんなに歯切れよく大きな声でしゃべるわけ?」ときっと違和感を持つに違いない。
長々と書いているが、『ひよっこ』には、もちろん有村以外にもフィクション内表現に長けた俳優は大勢おり、そのすぐれたやりとりをこれまで何度も観てこられたのだが、峯田が登場して以降、それらの上手なやりとりは非常にすぐれた剣道の試合のようだ、と意識するようになってしまった。竹刀を遣い、防具をつけて戦う、あの剣道である。

ところが、峯田がへらへら笑いながら歩いて省吾に近寄っているときに感じたのは、「これは真剣試合だぞ」ということだった。真剣を振ったことがある人がどれくらいいるか知らないが、僕は高校の剣道の授業中振らせてもらった。もしかしたら模造刀だったのかもしれないがすくなくとも先生に「真剣だ」と言われた。竹刀に較べてものすごく端正で細いのだがずっしりとした重さがあり、振ると「ひょうっ」というような独特の音がして、空気が冷えるような感じがあった。
その空気が変る感じを、峯田は持っている。ビギナーズラック的なものかという懸念がないわけではなかったが、この週になって初めに抱いた、「彼は違うぞ!」という直感は確信に変った。
佐々木蔵之介や宮本信子っていうのは、あの場では百戦錬磨の試合巧者であり、安定感のある技術を身にまとっているために揺るぎない強さを持っているが、峯田はまたそれらとは別種の剣術・戦法の持ち主であり、それだからこそ、観ていてドキドキしてしまう。平田弘史や白土三平のマンガに、よくこういう異形の剣士っていうのが登場するけれど、まさにあの雰囲気。「むむ、遣うぞ」と正統な剣士が冷や汗をかいて剣を構え直す感じ。

さて、そのムネオが省吾に問われて戦争中の話を語る。この独り語りはほんとうにすばらしかった。
ちょっと前に佐々木蔵之介も独り語りをしていたが、あれはまた種類が違っていて、蔵之介の場合は、戦時中の心象を語るというものであれはあれで凄みがあったのだが、峯田の場合は、そこに戦場での情景描写もくわわっていて、より難易度が高かったのではなかったか。
しかし、僕には真っ暗なジャングルの夜のふたりの兵士がはっきりと見えた。そのムネオが語っているシーンを何度目かに観直した際に、他のキャラクターたちの顔のアップなどが映っていることにやっと気づいたくらいなのだが、それに気づかないくらい、僕の頭のなかを、ムネオの語っている内容が映像化されたものが占めていた。
これは、すぐれた噺家や語り手(たとえば小沢昭一など)たちだけができる芸当であって、下手では観客にまったく貧弱なイメージしか喚起させることができない。
たとえば役者のせいだけではなかろうが、マンガ家コンビのうちのメガネを掛けたほうがなかなか実家から戻らなかったことを語った際に、結局「(惚れた女の子が似ていたのは)内藤洋子っちゃぞぉ?」みたいな話になって、内藤洋子のイラストを書いて、さらに島谷くんが「内藤洋子じゃしょうがないですね」みたいな話に持って行って、つまりいろいろゴテゴテとデコレーションしてうまくごまかしたことがあったが、ああしたのはおそらく、情景が見えにくく、かつ視聴者が退屈してしまっただろうから。おそらく脚本も力を入れておらず、うまく浮かび上がるようなものを書けなかったから飛び道具的な逃げ方をしたのだろうけれど、まあそれがふつうっていえばふつうかもね。再現映像みたいなのを挿入するパターンのほうが、もっとありきたりかもしれないしね。

あと、このシーンで特記すべきところは、いままでなにやらその影だけがちらちらと物語の背後に見え隠れしていた「戦争」が、たぶんこの場面ではじめて具体的な形をともなってあらわれた、ということ。
たしかに省吾の語りの部分も戦争について触れてはいたのだが、虐められたものはどこかでそれを返さなければやっていけないのだ、という人間全般についての語りにも昇華されていた(反対に言えば、戦争という異常な状態が、人間の醜い部分を先鋭化させてしまうのだ、というようにも読み取れた)のに対し、ムネオのジャングルで命を拾ったエピソードは、紛うことなき戦争体験で、しかしそれが、――ムネオも言っているように――必ずしも悲しい話で終わらないところが、すごい。
だからといって底抜けに明るい話なわけはないのだけれど、実際にインパールを歩き抜き、生き抜いた人間として話すムネオを、そう話すほか考えられないような話し方をもって、峯田和伸は演じる。いや、ムネオそのものだった
真剣の遣い手である彼がしゃべっているあいだ、僕は息を止めて耳を澄ませていた。語りの途中、彼がすこし笑えば、こちらも頬を崩し、彼が困ったような表情をすれば、こちらもできるだけ理解できるようテレビのほうに耳を傾けた。共鳴しているのだった。共感したいと思ってしまったのだった。
先週の感想において、峯田の演技の衝撃で、「頭の芯、身体の奥底からぐらぐらと揺らされた」と書いたが、やはり今回のムネオの演技にも、グサッと心臓を刺し貫かれるような思いをした。竹光のチャンバラだと思って油断していたのが、いつのまにか真剣で鎬を削り合っていたらしい、ということに肝を冷やしながら気づくのであった。

すぐれた演劇の前では、われわれは傍観者ではいられなくなる。登場人物になにか困ったことがあれば、自分のことや自分の大切な人間が困ったように感じ、反対に喜ばしいことがあれば、わが事のように喜べる。それが、演劇の醍醐味だ。
辛い体験の中から、それでも明るい部分を見出し、それを語るムネオ。だから彼が「笑って生きている」という言葉にはしっかりとした重みがある。
しかも、ムネオを救ってくれた英兵をわざとビートルズと混同させて、そのビートルズに「おれは笑って生きてっとう!」と言い、「おまえも笑って生きてっか!」と尋ねる、というこの構成が心憎すぎるほど。
このあとの展開がどうなるのか知らないし、そもそも1980年までやるのかどうかわからないのだが、僕にはジョン・レノンのことがどうしても頭に浮かんでしまって、「おまえも笑って生きてっか!」という問いかけは、若くして死んでしまったジョンへの「おまえは笑って生きていたのか?」という問いかけにしか聞えなくて、よけいに胸に迫るものがあった。
冒頭、ビートルズの扱いがすごいと書いたのは、こういう部分。ただの記号じゃない。作者独自の、ビートルズへの感謝なり哀悼なりが、心を込めて表現されており、だから、ムネオが武道館の裏手に回って、しずちゃんと並んで叫ぶ場面では、またしても不意の落涙を体験してしまうのだ。
ちなみに、ムネオが叫ぶ隣で、「ありがとう! ありがとう!」と泣きながら叫ぶしずちゃんの演技も、掛け値なしにすばらしかった。彼女、ほとんど出演していないのに、たぶん感覚だけで演技しているのだろうけれど、とても魅力的だった。にこっと笑うときは「満面の笑み」という言葉が指し示すものはどういうものかということを教えてくれたし、義理の姉である木村佳乃がときどき夫のことを忘れてしまいそうになる、と言うのを怒って諭す場面では、「この世にあってはならないものごと」があるということを一途に信じている人物が、本気で怒っているように見えた。演技というのは小手先のものではない、というのが心より実感できた。

話はちょっと戻って、ビートルズのチケットを持っていることをずっと言えずにいた島谷が、ムネオに渡そうとするところもよかった。
起き抜けにチケットを見せられて、「すげーなー、どうしたのこれ?」と子どもみたいに驚くムネオに、愛おしさを覚えない人間がいるのだろうか。
このとき、チケットを隠していた島谷が心情を吐露するところもなかなかよかった。彼なりの誠実さがあるし、そりゃあみね子も好きになるよなと納得できる。
でも、みね子のことを好きだとはじめて認めた島谷に、「へえー」と笑うヒデのほうがもっとキラキラしている感じがあってよかったけどね。
僕は『みをつくし』の小松原・源斉パターンがこのドラマでも再現されると固く信じているので、8/23のきょう現在、本放送がどうなっているのか全然知らないのだけれど、最終的にはみね子はヒデとくっつくと思っている。

そのチケットのゆくえだが、結局ムネオは受け取らず、街角でチケットを入手できずに泣いていた女の子にくれてやる。
この構図に、なんだか『文七元結』を想起してしまった。
父親の借金を返すために、自ら吉原に身を沈め金をつくる娘。その心意気を感じた店のおかみが左官の父親を呼び出し、期日までにきちんと金を返せたら娘は店に出さずに済ませる、と約束する。はじめは冗談や見栄や照れ隠しで逃げていた父も、しまいには泣きべそをかきながら娘に感謝し、店をあとにする。
その帰り道、身投げをしようとするどこかの手代にでくわし、慌ててそれを止める。訊けば店の掛け金を盗まれたとのことで、世話になった旦那に会わす顔がないので死んでお詫びをするのだと言う。
盗られた金は、と尋ねれば五十両。娘がそれこそ必死で拵えてくれた金も、ちょうど五十両。
ひと悶着もふた悶着もあった末に、左官屋は手代に金を渡そうとする。この金をおめえにやっちまえば、どうあったっておかみさんに金は返せなくなる。そうなると、娘は店に出て、そうしたら客をとらされて瘡にでもかかってしまうかもしれない。それでも、命がなくなるってわけじゃない。おめえはいますぐ死ぬってえじゃねえか。だからこの金をくれてやるってんだよ。店に帰ったらおめえの信心するお稲荷さんでも金毘羅さんでもなんでもいいから、毎日祈ってくれ。佐野槌という店にいる今年十七になるお久という娘がどうか病にかからねえように、と……そう祈ってくれ。
そう言って、五十両の入った包みを投げつけて左官屋はその場を走って逃げる。
まあ噺のゆくえは置いておくとして、たぶんここがいちばんのクライマックスであろう。しかしそれと同時に、はたして娘の身の安全を差し置いてまで一見の他人の命を救おうとするものか、という疑念は簡単には払拭できない。だからたぶん、演者は説得力のある演技や構成によって違和感を持たせないよう努力をしているはずだ。演技力については各人の技倆というものがあろうが、その動機については、それなりの数の『文七元結』を観た結果、たぶんいちばん単純な言い方をすれば、「江戸ッ子だから」なんだという認識に至った。江戸ッ子だから、抛るように手代に金をくれてやるのだ。もうちょっと言えば、江戸ッ子だから、心意気というものを見せつけているのだ。
ただしここで言う「江戸ッ子」というのは、ファンタジー内存在としての江戸ッ子であり、三代つづけて東京うんぬん、という血統的なものとは別物と考えたほうがよい。
落語というフィクションのなかに登場する江戸ッ子であれば、大事な大事な金をなげうってまで、見知らぬ他人を救うだろう。捨てる金は大切であればあるほどいいし、渡し相手については、知らなければ知らないほどいい。ああ、そうだ。あれでこそ江戸ッ子だ。おれたちの代表が、あんなに気持ちのいいことをやってくれたんだ。おそらくそうやって鑑賞者たちは気持ちのいいカタルシスを得、自己満足感に浸ったことだろう。

じゃあ、ムネオだ。なぜ彼は、島谷が持っていたビートルズの武道館ライブのチケットを受け取らず、見知らぬ女の子にやってしまったのか。江戸ッ子だからか?
んなわけねえっぺ! 決まってるじゃねえか、それが、ロックンロールってもんなんだっぺ!
音楽史的なことはまったくわからないし言えないが、ロックンロールという音楽は、いつのまにか反体制の象徴となっていった。いうなれば、反骨精神だ。そしてそこが、『文七元結』の左官屋にも通ずる。「まさか、そんな自分の損になるようなことはしないだろう」なんていう合理性や常識を飛び越えることこそ江戸ッ子の心意気だ。つまり、江戸ッ子というのはロックなんだ。

なんやかんやありまして、そのムネオが帰るという。
さみしい。それだけで、もうやたらとさみしい。別れのとき、すずふり亭のみなに頭を下げ、みね子のことをよろしく頼み、ひとりづつ挨拶をしていく。そして、最後にゲンジに「おれはさみしいよ」と伝える。もう泣けちゃうんだよな、ここが。げらげら笑っちゃいもするんだけど、でもほんとうに不思議なことに、泣けてしまうのだ。いや、不思議はないよな。それがムネオというキャラクターだから。その存在のかけがえのなさを、わづか2週間でこれでもかというくらいに見せつけた、ムネオなのだから。

父親の実との再会フラグはどうでもいいし、乙女寮の同窓会に関連して無理やりあかね荘の連中をからめようという人工的なプロットもどうでもいい。
けれども、そう! 乙女寮のメンバーが! ということで、この週は最後の日に僕にとってのスペシャルボーナスがあったのだ。彼女たちがいるだけで、なんかもう画面上がきらきらしている感じで、うれしい。
そして最後の最後に菅野美穂に登場して、どうなる、どうなる? ……と7週前の話題でいまさら盛り上がっているのだが、当然、つづく!