わたくし、馬齢を重ねてことし四十になる者ですが、1996年あたり(忘れもしない、大学附近で0円携帯というものが頒布されておりました)から薄ぼんやりとあった「時代」というものから遅れ離れている感覚/実感が、十五年近くを経たあたりからいよいよ目を背けていられない次元に突入し、またそのスピードも等比級数的に速くなっている、という認識をけっして見誤っていないつもりでおりましたが、なんたらという知らない女性芸人さんの名前を、マラソンをしている(していた?)という情報とともにたまたま目にし、自身の旬のお笑い芸人の知識がたぶんスギちゃん(もうちょっといえば、ラッスンゴレライはわかる)あたりで止まっていることに、思わず「思えば遠くに来たもんだ」というフレーズを口ずさんでみたくなり、思わず思えば、って相当な矛盾だなと思いつつも、スギちゃんのギャグでいちばん笑ったのが、彼当人のものではなく、松尾スズキがラジオでやっていた「きれいな顔だろう? 死んでるんだぜ」という『タッチ』に寄せたモノマネヴァージョンだった、ということを書いてもなかなか多くの人には共感してもらえないのは非常に残念なことで、しかし話を本筋に戻してこうなってみると、定年間際の男性が会社でPC操作にまったく慣れることができず他の若い社員たちから「おっさん、少しは順応しろよ」と陰口を叩かれまくる、というあのシチュエーションを想起するとき、叩く方ではなく、もはやとっくのとうに叩かれる側に移行してしまったのだ、ということもじんわりと理解できるようになってきて、あらためて、若いうちに年長者に石を投げるような真似をしてこないでよかったなと思うきょうこの頃、石といえば、「石」という人物が主人公のマンガ『バンデット』が『モーニング』に連載されているのをここ数ヶ月で知り、これがなかなかに面白く、その影響で岩波文庫で『太平記』をゆっくりと読み始めたところ、「悪事千里を走る」というあの俚諺の前に「善事は囲みを越えず」という言葉がくっついているのを知り、なるほどそうなると逆説的に、大々的に行われている善というのには(本来は「囲みを越え」ないわけだから)なにか不自然なところがあるはずだ、という一種の真理にも到達するわけで、「地球を救う」などという気宇壮大な言葉の陰に当然のように隠れてしまうものを(まさか「隠されている」なんてことはないだろうけれど)考えるのに、きょうはぴったりの日なんではないかと愚考する次第です。