選挙の前日になって、あらためて思ったこと。

僕がふだんから聴いているラジオ番組ではこの2週間ほどを選挙関連情報に注力していて、その内容は、主に各党のマニフェストに掲げられた政策を取り上げるものだった。
番組のMCやゲストたちはなるほど専門家と呼ぶにふさわしい人たち(すくなくとも付け焼き刃ではない人たち)で、各自が重要とする論点をそれぞれの観点からとらえていた。
はじめに断っておくと、僕はこの番組をおおむねのところ気に入っていて、この期間の選挙に対する態度もとてもいいものだと感じている。しかし手放しでよいと思っているわけでもない。

番組では、自公から、はては社民、日本の心まで八つの政党の主張をとりあげ、その是々非々を論じていたが、聴いていて、「眠たいことを言っているな」という思いがないわけではなかった。
ふだんの政治を是々非々で論じるというのならわかる。現政権の悪いところがあれば指弾し、あるいは国会での追及などに手ぬるい場面があれば野党を叱咤し、とやりようはある。もちろん、称賛を送る場合においても。
しかし、こと選挙となれば、是々非々などと言っている場合なのかな、とも思う。僕は、物事を慎重に考え行動する、ということは重要だと思っているが、世の中には、「慎重に考えなければならない」というフレーズを日頃から多用する人が、えてして、「慎重に考えたその結果」に行動を移せないことの多いことを経験的に知っている。この場合、「慎重に考える」ことだけが目的になってしまっているように見える。

「正しい」という言葉をまさしく括弧つきで遣うことが前提となっているような世の中だとして、だからといって自分の心のなかにまで両論併記を持ち込む必要はないだろう。
大西巨人『未完結の問い』という本のなかでの以下の語りが、僕のなかでは非常に強く印象に残っている。
最近は、たとえば「Aがいい」と思っても、それをまっすぐには言わない方がいいという論調があるね。「AでもないBでもない」というふうに言っておく方がいい。本当は、「世の中はAじゃなきゃいかん」という「A」を探り求めていかなければいけない。むろん、なかなか不動のものに到達しないということもあろうが、それを見つけて、言わなきゃいかんわけ。ところが今は、どうもみんなが、「AでもなければBでもない」というようことを言う。わかりやすく世の中に当てはめたら、「右翼でなければいかん」という奴がいて、一方に「左翼でなければいかん」という奴がいる、そうではない「右翼でも左翼でもないのがいい」という論調がいっぱい出てきているように思うがね。その右翼でもない、左翼でもない、AでもないBでもないという言い方が、実は戦争やらファシズムやらを呼び招くんだと思うが。でも、一所懸命「不動のA」を追究して、そのことを言う人間がいなきゃいかんな。
(84p)
このなかで重要なのは、どっちつかずの態度が「実は戦争やらファシズムやらを呼び招く」という部分だろう。この文章に行き当たったとき、心の底から合点が行く思いだった。
いまの言葉に直すと、「俯瞰」になるのかな。おれ/わたしは当事者ではなく、あくまで観察者としてものごとを冷静にウォッチしているのだ、と。そういう態度を恰好いいと思っているような人たちをネットで見つけるのはそう難しいことではない。

で、話は戻って、くだんのラジオ番組のその態度は、公正な情報をリスナーに提供するという意味においては理解できなくもないが、しかしリスナー自身は、端から端まで熱心に聴く必要もあるまいと率直に感じた。
すごくわかりやすい例で言うと、なにかというとすぐにナチスを引き合いに出す副総理を抱えた内閣にそう簡単に信任を与えてよいのだろうか、とか、関東大震災の朝鮮人虐殺についていまさら疑義を唱えるような人間が党首の政党に野党第一党を任じるのか、とか、その政策がどうのこうの以前の人間が簡単に見つかる――強調しておくけれどこれらはすべて表面的なことで、ちょいと調べれば「最低基準」に満たないようなひどい連中はダース単位で見つかるだろう――ようなところで、なおも「公正さ」を保とうとし、その政策をきわめてフラットに銓衡するというのであれば、その危機意識のなさこそ国難なのではないか。いや、国難という言葉をむりやり遣うとすればだけど。

一週間ほどまえ、その番組内で最高裁裁判官の国民審査についての特集がおこなわれたのだが、その際、番組のリスナーから「毎回、判断材料がないために苦しんでいます」という内容のメッセージが送られてきた。聴いていてむかむかした。
ああおれは、ネトウヨ系のアホどももそうだけれど、こういう「イイ子ちゃん」たちも大っ嫌いなんだな、と感じた。
「苦しむ」とはまた大仰な表現をするものだ。「困る」とか「悩む」ではなく、「苦しむ」だ。すごいな。
この言葉を聴いたときに、「迫害に苦しむロヒンギャ難民」というフレーズをすぐに連想した。あるいは、「大病になり、苦しむ生活困窮者」だとか。苦しむというのは、そういう言葉だと思う。
簡単にツッコむと、苦しむくらいなのに、公報見てないのかよ。各家庭に送られ来るはずのそれを見れば、すくなくともまったく判断する材料がないということは言えまい。現に、前回の国民審査の際には、僕はひととおりそれに目を通していた。
あるいは現代のことだ、ちょっとネットで「国民審査 裁判官」とでもやれば情報はたくさん出てくる。それを見ればいいじゃないか、苦しむくらいなら。その人が目が見えない人なら全面的に謝るけれど、そうじゃなければ、大げさな言い方で、さも自分が一所懸命に考えていることをアピールするのはもうやめたらどうだろうか。

極論かもしれないけれどその番組の、すべての政党の政策を吟味するというようなやり方は、AでもないしBでもない、というある種の「冷静」で「公正」な観察者的態度というものをどこか助長させるところがあるのではないか、と思っている。これはなにも今回に限ったことではなく、ずっと感じていたこと。歴史的にも、「冷静」で「公正」だった人たちが戦争やファシズムを追認したってことは実際に多かったろうと思う。
そして、メディアに出てくる専門家というのは、われわれ一般人とはまた違うということを強く意識しなければならない。彼らは、意図して対象と距離をとり、そうやって観察・比較し、研究している。その研究結果を参考にするのならまだしも、なにかを決定しなければならないという場面にいるわれわれ自身――なんといっても当事者であるわれわれ自身――がそのやり方まで模倣しなくてもよいのではないか。そして過程をすっ飛ばして手法だけを真似できると考えているのであれば、それはある種の思い上がりなのではないか。あるいは、稚拙な猿真似か。

政治を批判するときの、「野党は野党でだらしない」というのはものすごくよくできた言葉で、与党の批判者で、かつ冷静な観察者を自認する人たちにとってはこれ以上ないというくらいに便利な免罪符だ。だからこそ、そういう言葉を聴くと僕はげんなりする。いじめはよくないけれど、いじめられる方にも原因がある、という言葉にかなり近いものを感じるからだ。そういう歪んだバランス感覚が生むものは、発言者の自己満足以外になにがあるというのか。心のどこかに疚しいものを感じてはいないのだろうか。
現政権の熱狂的な信者たちの過激な発言には、その点いささかの曇りもない。ストレートに、しかもしつこいくらいに主張を重ねる。応援する対象がフェイクニュースやデマ、下品な誹謗中傷を撒き散らすことがあっても、彼らにとってはそれは些細なことで、かまわないのだ。「小さなこと」とか「それをいうなら」なんていう言葉を繰り返し繰り返し重ね、敵対する側への攻撃はやめない。冷静さなんていう言葉の無意味さ・無力さを彼らは熟知している。愚かしさも、ある点を超えれば強さに変わる。気取った、照れと気恥ずかしさに隠れて慎ましく発せられる言葉は、それらによって簡単に掻き消されてしまうのだ。

一方で僕は、その目的はどうあれ、感情に訴えるやり方、言い方を換えれば扇情的なやり方というのは、手段としては適切だとも思っている。好きかどうかは別として。
政治について理性的に考える、ということを勧める人は多いのかもしれないが、理性的に考えるためにはまず判断が偏らないようより多くの情報を得るところから始まるし、その情報を得るためには、それなりの時間と労力が必要だ。そういうコストを払う覚悟を、「政治が趣味」以外の人たちは持っているだろうか。はっきり言って僕にはそんな覚悟はない。
この選挙期間中、僕の職場の前を通った選挙カーは一台だけだった。たしか前回の参院選でも、同じ政党の一台だけだった。都会では、選挙カーはいつも「うるさい」のひとことで片付けられてしまうのかもしれないが、田舎では「誰々は来た/来ていない」ということのほうが話題になる。来たからどうだというわけではないが、来ていない人間がテレビなどで立派なことを言っていても響かないということは、おそらくある。そんなつまらないことで判断するのは愚かしいことだろうか。遅れているのだろうか。
愚かしいのかもしれないし、遅れているのかもしれないが、それが現実でもある。

今回の選挙の結果を知ってもきっと失望はしないだろう。へたな希望を持てば失望するだけということを体験的に知っているから。むしろ、その先――もしかしたらすぐそこ?――にあるであろう絶望をたのしみにしておく。そのときになっていったいどれくらいの人間が、そんなはずじゃなかったと慌てふためくのか、それだけをたのしみにしておく。われながら悪趣味だとは思うが。