再読したのは一週間前に同作者によるヴェルーヴェン三部作の第一作『悲しみのイレーヌ』を読み終えたから。
『イレーヌ』は、ネタバレなしに書くのはなかなか難しいので触れないようにするが(傑作!)、あの作品を読み終えただけのままだと読者にはかなりのショックが残るだけなのではないだろうか、ということに気づいた。
僕の場合、そしてけっこう多くの日本の読者も、まずはじめに翻訳されベストセラーになった第二作『その女アレックス』を読み、それから『イレーヌ』へと読み進めたであろうから、あらかじめそこでなにが起こるかわかっているという、ミステリーとしてはいちばんあってはならない環境のなか読書を強いられることになるのだが、その反面、『イレーヌ』でどうしようもなく打ちのめされるカミーユがそののちに復活することを知っている、ということに少しだけ救われもするのだ。それが、第二作→第一作という順番を不本意ながらもたどってしまった読者の享受できる、数少ないメリットだろう。

『アレックス』をふたたび読んで、あらためて感動しているが、この感動は初回以上のものだ。
これまたネタバレしないように書くけれど、初回には理解・共感できなかった彼女の残酷さが、二回目からはまったく違うもののように見え、そのいちいちに胸を締めつけられる。
絶望の淵へと涙を流しながら沈んでいくアレックスと、やはり絶望の淵でその底を覗き込みつづけ、そして物語の最後にそこから救われるカミーユ。
このとんでもなく哀しい物語の最後の2ページで、読者は人生の輝きといっていいようなものを見ることになる。こんなことはファンタジーで、現実にはありえないことかもしれないけれど、それでも、その幻想を知っていることに小説読者は確実に励まされる、そんな輝きとしか呼ぶことのできないようなエピソードに、ふたりの主人公ほどではないだろうが暗く沈んだ気持ちに浸っている読者たちは、ちょっとした浮揚感さえ与えられる。
それと最後の最後に、それまでさんざん気障ったらしく間抜けでどうしようもないと思っていたわれらが予審判事が、読者がいちばん聞きたいと思っている言葉を言ってくれるというのが、とてもしゃれているなとあらためて思った。
この小説が個人の復讐譚であることはまちがいないのだが、この予審判事の言葉のおかげで、現実において痛めつけられている弱く小さな者たちに代わって作者が、世界という無慈悲な存在に対して大いなる復讐を試みているようにも見えてくる。フィクションは微力かもしれないが無力ではなく、ときに大きな力を持つ場合もある。感傷的な読み方かもしれないが、そのような感想を得たのだった。