こういうことを書くと、自分でも保守的な人間だなあと思ってしまうのだけれど、やっぱり例の赤ちゃん連れの市議の行動については疑問を持たざるを得なかった。

あの人のインタビューも聴いたし、主張も理解したうえでやはりそう思っている。
あの件を認めるとなると、形式論的にいえば、「ある目的を正しいと信じた人間が確信してルール違反を犯したことを認める」ということになる。
その結果よりよい社会になるではないか、というのは実は論理的な反論ではない。どちらかといえば感情に訴える話だ。しかし一方で、今回の件の主体は、立法者である。感情論に任せていいものだろうか。

こんな場合はどうか。
「この愛する国をよりよくし、そして守り抜くのだ」と信じた人間が、かなりイレギュラーで強引なやり方をもって法案を通し、立法化する。
どこかで見たような例だが、この場合は、形式論的には法律(≒ルール)違反を犯していないので、「赤ちゃん」の場合より適切である、ともいえる。

このふたつを同時に支持する人は少ないと思う。
けれども両者は、細かな違いをちょっとだけ無視すると、「正しい」目的の実現のためなら多少の違反(ルール違反だったり前例違反だったり)は許されるべきだと考えている(ように見える)、という意味において同じような行為なのではないか(ルール違反だとは思っていなかった、は個人の内心の話になるので、あくまで形式に拘泥している)。

一般的な話でなら、感情論に傾くことはあるかもしれないが、立法者や行政者など、権力が与えられている者であればこそ手続きに則ることが大原則で、そこから逸脱するには相当の理由がなければならない、と僕は考えるが、今回の問題でも、あるいは他の問題でも、たいてい我を通した人間は「相当な理由があった」とする。
あと、「赤ちゃん」や「愛国」がなにかひとつの暴力性を持っていることも気になる点だ。それを片手に抱いているだけで相手を黙らせられるような場合がある。「○○のことだから、プロセスは気にしなくていい」という考え方は、自分の嫌う概念が「○○」に代入されることを想定し、それでも許せる場合にだけ認めるべきだ。

件の市議は、市議会だけにとどまらずに県議会や国会に呼びかけ、議員(なにも女性に限ったことでなくてもいいはず)が子どもづれで議会に参加できることを認める法案を提案するよう促してみてはどうだろうか。
ワンアクションで変わることなどほとんどないと思っているし、もし変わったとしても、それは別のワンアクションで簡単にひっくり返ると思っている。
ほんとうに大切だと思っていることなら、腰を据えてじっくりとやってみてほしい。そういう行動のほうが、より多くの人間の賛同を得られるはずと思うのだ。