読んでからずいぶんと経っているのに、きょうのきょうまで感想を書けなかった。
というか、このマンガを読んでいるあいだに浮かんだ言葉を、まとめ・要約することに意味を見いだせなかった。そのままにしておこうとも思っていた。
それがきょう、机の引き出しの整理をしていたらしまいっぱなしの本書を見つけてしまい、深呼吸してから読み直す。

……やっぱり、自分の魂の一部が殺されたように感じた。特に「夕凪の街」のほうを初回に読んだときもそうだった。心がすうっと冷えて、すこしだけ死に近づいたような気がした。けれども実際には僕は殺されず、かわりに、ある女性が死ぬ。
このわづか三十ページあまりのマンガには、ひとりの殺された人間のことが描かれている。架空の人物の死ではなく、きっと実在したであろう人物の死。それは、昭和二十年八月六日、広島に落とされた原子爆弾によってもたらされた。
元プロ野球選手の張本勲は原爆によってその姉を亡くした被爆者であるが、その姉やその他大勢の人たちの死を、「犠牲ではなく身代わりだ」と表現していたことがある。誰が死んでもおかしくなかった、ということなのだろう。そのような意味において、「夕凪」の女性はまったく空想の存在ではない。
そして、実在したであろうからその個人の死の重みが読後を支配する。その死が、読者の魂の一部を損なう。傷つき欠損した部分を充填するように、悲しみや怒り、そして恐怖などの綯い交ぜになった感情が生じるが、癒やしは与えられない。カタルシスは得られず、いつまでも魂に穴の開いてしまったことを感じつづけることになる。当然のことだ。これは、癒されるための作品ではない。

ほかに収録されている「桜の国」もすばらしい作品だ。これとて、前後篇あわせて六十ページあまりしかない。けれどもそのなかに、人間のやさしさ、人間が生きていくことのかなしさ、そして作者の慈愛に満ちたユーモアが余すことなく描かれている。
しかしそれ以上に強調したいことが僕にはある。それはこのマンガの持つ、表現のすばらしさ・美しさである。
この非常に短い短篇は、「ヒロシマ」を扱っているということでともすれば「戦争もの」「原爆もの」というタグを貼られ、恭しく奉られておしまいということになりかねない。しかし、このマンガのかけがえのない部分は、けっしてそれだけではないのだ。
たとえば、凪生のいる病室で姉の七波がベッドの上に立って大量の桜の花びらをばらまき、桜吹雪を演出するシーンの美しさ。そして、若い頃の七海の父と母とが、東京の橋の上で桜吹雪を眺めながら笑っているシーンの尊さ。
大胆な省略法を用いて「夕凪」からの物語を結びつけ、さらに、「夕凪」の持つ絶望を超えて、「それでもなお生きていこう」と思わせる構成がみごと。端的に言って、読者はすこしだけ救われるのである。

しかし、また「夕凪」のほうに話を戻そう。ほぼ半世紀経った時代の物語(「桜の国」)でちょっとだけ救われた気分になること――もちろん話はそんなに単純ではないのだが――はそれはそれでありがたいのだが、やはりこの短篇集でより重要なのは、「夕凪」における死だ。
前述したとおりここに描かれているのは実在したであろう人物の死であり、おそらく同じ時期に同じ場所で――あるいは長崎において――同様に命を落とした何十万人のうちの、たったひとつの例でしかない。これは、めまいがするほどにおそろしく、しかし残酷な事実である。
この想像もつかない膨大な数字は、まさにその想像のつかなさゆえに、えてして捻じ曲げられた「利用」のされ方をしてしまう。いわく、「これに較べたら○○なんてたいしたことない」というような。
冗談じゃない。死はつねに究極的に個人的な行為であり、死んだ人・殺された人は、つねに独りである。また、他者の死について悲しみ、怒り、恐怖する主体であるわれわれも、それぞれに独りなのである。
この孤独で唯一の<私>が死んでしまえば、事象の大小、犠牲者の多寡など無意味となる。誰かの死というのは、ひとつひとつがそのような代替不可能な死なのである。その部分を矮小化してはならない。
「夕凪」には、呪いの言葉が描かれている。この作品のなかで失意のうちに死んでゆく人は、「戦争の悲惨さ」とか「生き延びていくことの無常さ」なんていう抽象的なものについて不満を述べるのではなく、はっきりと、原爆を落とした人間、落とした国に対して、呪詛を投げかけている。これは、非常に重要なことだ。
現代において――特に八月ともなればどのメディアにも戦争報道が増えるが――戦争や戦争行為中における犯罪について批判をおこなうとき、ときどき「原爆を落としたアメリカだけが悪いのではない、悪いのは戦争そのものだ」というような抽象論が聞かれるが、あれは欺瞞だ。
Aという国だけでなく、Bも悪いことをしていた。いやいや、CもDも被害者のような顔をしているけれど実際は加害者でもあるのだ、という事実があったとして、それらは、Aの行為の罪の重さをいささかなりとも減ずるものではない(慰安婦問題においても、「他の国だってやっていたじゃん説」を主張する人間は多い)。昭和二十年当時、広島と長崎に原爆を落とした主体であるアメリカは、まずはっきりと批難されなければならない。「戦争そのものの罪」を問うていくのは、そのような個別の反省のうえではじめて成り立っていくものであろう。抽象的な問いや、抽象的な批判で済ませられるのはきっと、先述の死の代替不可能性というものを自分に照らし合わせて考えてみたことがないからなのではないか。学者や研究者でもないのに、歴史を為政者の視点で語る人間が多すぎる。われわれのほとんどは、戦争が起こった際には理由もなく殺される側の人間だ。理不尽に、無慈悲に殺される存在であるという認識のうえに立っても、まだ「よい戦争」や「よい攻撃」というものを想定できるのだろうか。


去年のノーベル平和賞をICANの人たちが受賞した(個人的素人的感想としては、最貧国のひとつであるバングラデシュがロヒンギャを受け入れたことのほうがよりすごいと率直に思った)が、その意図は、彼ら/彼女らの運動に承認を与えるということにあるのだろう。
であるならば、この『夕凪の街 桜の国』の翻訳ヴァージョンをICANに贈ってみてはどうだろうか。はじめは英語で、それから次々といろいろな言語に訳していけばいい。
『この世界の片隅に』はなかなかに大部だから読みづらいかもしれないけれど、この作品であれば、すぐに読めるし、ストーリーが短いだけにインパクトも大きい。
この作品が強く喚起するものはいろいろあるし、その最たるものは藝術的感動であると僕は思っているのだが、しかし客観的にいって、多くの読者にまずもたらされるのは厭戦感ではないだろうか。残念ながらこの世界から戦争がなくなることはなさそうだが、独裁国家ならまだしも民主主義国家であるならば、厭戦感情、反戦感情を持つ市民たちが大きな声で主張して政治を動かしていくことはそれほど難しいことではないのではないか。
われわれの誰ひとりとして、「死なずにすんだ人」になれる保証はないのだから。