ちょうど十日前、アイドルネッサンスの解散が発表された。その時期は2月の末あたりになるとのことだが、来年の2月じゃない。なんと今年の2月だというのだ。なんとも唐突なニュースだった。


ボブ・ディランがノーベル賞を受賞したというニュースが世界中を駆け巡り、ノーベルのアカデミーが連絡を取ろうとしても当の本人が居留守を決め込んでいたさなか、あるミュージシャンがその受賞を、「エベレストに対して、『世界一高い山です』といって表彰するようなものだ」と評した。
その意味はつまり、「ボブがすごいってこと、もうみんなとっくにわかっていただろう?」ということだ。
けれども、誰もがボブ・ディランになれるわけではない。
アイルネ解散の報を受けて動揺を隠せない人たち――簡単に「お疲れ様でした。みなさんの今後の活躍を期待しています」の一文で終わらせられない人たち――はみな一様に、まだじゃないか、という思いに駆られ、場合によっては憤っているのではないか。まだ、彼女たちにふさわしいステージや、功績、栄誉が与えられていないじゃないか、と。
あるアイドルについて、認識したその瞬間から、将来やってくるであろう解散や卒業を山頂としてあらかじめ設定し、そこに至るまでの彼女たちのステップアップをよろこびをもって追っかける、という愉しみ方がある。ひねくれすぎてしまっているとは思うけれど、このアイドル飽和・爛熟時代における多様化しつつある「消費」の一手段としてはしょうがない部分もある。
そういう意味では、アイルネの初期メンバーたちがはじめて自分たちのMVを観て感激していた動画を観た日から僕は、彼女たちの解散というものを避けがたい宿命として覚悟していた。覚悟してはいたが、やはりそれにしても、早すぎである。

思い入れのない人たちであれば、アイドル解散や卒業のニュースは「あらら……やっぱりアイドルブーム終わってんだな」のひとことで済ませられるだろうけれど、残念ながら今回の僕は、そうは済ませられない。ファンともいえないし、ましてやヲタクだなんて口が裂けてもいえないけれど、それでも強く関心を持ってきた者としては、辛い。
「いつまでも同じものはないのだ」という人類史上何億回繰り返されたかわからない慰めだか諦めのための言葉があるということは知っていた。けれどもそれは、ただの聞き飽きた格言として知っていただけであり、なんの実感もともなわない文章でしかなかった。それがいま、深い含蓄と意義とをともなってこの僕の前に立ち現れている。
それでは、その言葉によってすこしくらい気分がスッとすることでもあっただろうか。すんなりと事実を受け容れられるようになったか。答えはノーだ。そんな言葉なんかではとうてい慰撫されることのない荒れた心のままで、いまこの文章を書いている。憤怒の矛先をどこに向けるべきか、いまだにわからないままでいる。

解散の第一報を知ったときまずまっさきに、彼女たちを急にほっぽり出すような運営側のやり方に猛烈に腹が立った。憶測を書いても仕方ないし思い浮かびもしないので、解散の理由を深読みすることはしないしできないが、メンバーだって相当に悔しいし悲しい想いをしているのだと思う。たしか受験を控えているメンバーだっていたはずだ。大学受験じゃない。高校受験の、だ。そういう時期に、こういう決定をくだすなんて。というかそもそも、メンバー個人個人の非常に大切な時間を預かっている、という意識が運営側には欠落していたんじゃないのか。
ビジネスの観点に立てばアイドルというのは、彼ら彼女らのその貴重な人生の一部を切り取って売ることによって商売を成り立たせている。これは認識の仕方によっては、という問題でなく、れっきとした事実だ。
その残酷な現実をきちんと理解したうえで、だからこそ彼ら彼女らには、その行為にふさわしい栄誉が与えられるべきだと多くのファンたちが思っている。そして、見返りという言葉は適当ではないかもしれないが、アイドルネッサンスのパフォーマンスや努力に対してなにがしかがあってしかるべきだ、と僕も思っていた。
それがどうだ。繰返しになってしまうが、ことアイドルネッサンスに関しては、いよいよこれからだという段階で捨てられてしまった。言い方は悪いが、「大人のビジネス」の実験台になっただけじゃないのか。当初の意図とは別に、結果としてそう映ってしまうところに、この怒りの原因はある。
けれども、第一報のすぐあとに出た制作スタッフの方のinformationを読んだとき、「この人だって、この文章を苦しみながら書いているのではないか?」と感じられた。「ブレイクスルーさせることが出来ませんでした」だなんてことを無表情・無感動で書ける人間なら、そのあとにつづく、いちいちのライブでの感動場面を詳細に書くだろうか。

結局、もやもやとした思いをどこにぶつけることもできず、消化不良のまま解散の日を迎えることになるのだろう。そしてその日でさえ、ほかの一日と同じように過ぎ去っていくのだろう。
それは、ある程度年齢を経た人間ならけっこう身に染みついている感覚であって、もうちょっと年若い人からすれば「冷てえなあ」ということになるのかもしれない。たぶん僕だって、二十代の頃にそんなことを耳にしたらまっさきに批難していたと思う。
でも、そもそも現場に行っていないということを考えれば、冷たいもなにも論ずる資格すらないのだ、ほんとうは。
ただ、年をとることにはいい面もあって、それは、若い頃よりもう少しだけ視野が広くなることだ。
アイドルネッサンスというグループが解散する日は、メンバーそれぞれがあらたなステージへと移行する日でもある。詭弁ではなく、ほんとうに言葉のとおりそうなのだ、ということをこれまた感覚的に知っているのだ。
勝手に「終わったこと」にしようとするのはむしろファン――それも特別な思い入れを抱えている熱烈なファンだったりする――のほうで、彼女たちの生活はもちろん終わらない。むしろこれからの人生のなんと長いことか!
ファンは、彼女たちの不在をいまから案じても仕方がない。その胸苦しさは、不在が現実のものになったときにはじめてやってくるのだろう。彼女たちのいない夏。彼女たちのいない冬。そして、彼女たちのいない一年間。そういうものに出会ったときに、はじめて自分たちのなかにあるほんとうの空虚さに気づくのだ。
門出の日にさみしさや悲しさはつきものだが、けれども同時に、晴れがましさや華やかさだってあるはずだ。進水式にシャンパンのボトルを割るように、彼女たちには派手なお祝いこそがふさわしい。彼女たちのあらたな航路が幸多からんことを祈る。そう祈ることくらいしか、われわれにできることはないのだ……。

彼女たちのカバーによってBase Ball Bearの『17才』をはじめて知った。詞曲の小出祐介は、「自分が17才のときにこういうことを唄ってほしかった、というつもりでつくった」ということを発言していて、この発言をもとにして、自分が過ごしてこなかった17歳の短歌をいくつかつくってきた。こんなことがあったのかもしれない。もしかしたら、こんな振る舞いをすることができたのかもしれない。そういう想像は、現実よりずっと面白かった。
教科書も電線も眠る薄明の朝 ネコがいたら抱きしめたのに
不意打ちの映画のようなサボタージュ -1℃の鼻がしらに触(ふ)る 
7.9(7コンマ9)秒を切る恋があり 動悸も怯えも置き去りにして
年明けてぎこちないふたりに戻り 粉雪のなみだミトンに滲みて 
境内の砂利道 振り向きざまのいま リンドグレーンの少年おぼゆ
近くても斥力感じる美術室 「できる子」「よい子」じゃなくたっていい
本棚の陰で心のコイントス 図鑑広げて「きみは、なに好き?」
新しくした髪留めに込めた暗喩 「めかし込みすぎ?」鏡に問うて
新井乃亜(あらい・のあ)さん、南端まいな(みなみばた・まいな)さん、比嘉奈菜子(ひが・ななこ)さん、石野理子(いしの・りこ)さん、宮本茉凜(みやもと・まりん)さん、百岡古宵(ももおか・こよい)さん、原田珠々華(はらだ・すずか)さん、野本ゆめか(のもと・ゆめか)さんに、それぞれの歌を捧げます。
単なる修辞としてではなく、心の底から、みなさんの今後がこれまで以上のすばらしいものになることを願っています。


ちょうど十日前、アイドルネッサンスの解散が発表された。唐突なニュースだった。僕はまだ、この現実をはっきりと受け止めることができていない。喪失の予感が空虚さの輪郭みたいなものを生み出し、いまはそれが薄ぼんやりと感じとれるだけだ。