前の記事とはあえて独立して書く。
当該書には、自殺未遂に至った経緯として、自分を特別な存在と考えて、それが実現されないことへのフラストレーションからそうなった(かなり簡略しているけれど)、という人が登場していた。
また、著者自身は「表現者」としての自負があったみたいで(彼は自殺未遂は起こしていなかったはず)、また、親の遺体の前で笑ったという女子高生も、表現に興味があって、みたいな記述があった。はっきり言ってしまうと、こういうくその役にも立たない自意識を自分でコントロールできない人たちにわざわざ近寄りたいと思わないのだ。当然、興味も湧かない。

ちょっと曖昧に書くのだけれど、自意識の暴走からいろいろなものが手詰まりになってしまって心身不調を起こしていた人を近くで見ていたことがある。そのときは、話を徹底して聞いてみたり、あるいはアドバイスしたりしてみたんだけど、その人自身が閉じてしまっているというか自分の信じ込んでいるループの中から出て来ようとはしなかった。そこで僕も閉じてしまって、いやいや、家族でも友だちでもないんだし、もう放っておいていいだろうという気持ちになった。というか、友だちでも限度がある。その人が自分のなかにとことん沈み込んでいるのであれば、おれだっておれの好悪にとことん沈み込んでしまおうと考えてしまうと、結局突き放すしかない。それを諦めずに何年もかかって彼/彼女を救うことができた、みたいな話は他人から聴けば美談かもしれないけれど、僕の場合は、僕自身が自己中心的にできているので、他人のために自分の人生を費やすみたいなことはとうていできなかった。その人間にかつて救われたことがある、というのであれば話は別だけれど。

『自殺』の作者は、恋愛関係もめちゃくちゃだ。結婚しながら愛人関係をいくつも(!)持っていて、そのうちひとりは自殺未遂して重傷を負ったりしているようだ。作者はそれを心の底から反省しているみたいなのだが、そういう反省をしたとかどうとかは別に、こういう人たちっていうのは、自分を「弱い」とか「不器用だ」とかいうことを言い訳にして周囲を傷つけまわる人間だと僕は思っているので、いま現在は幸福みたいだけれど、いつ破壊マシーンに変容するかわからない。言い方は悪いが、そういう症状を起す病気を持っているのだと考えている。
そういう人が、他人の自殺を止めるために本を書く、というのはたぶん嘘偽りのない本心からのことで、それはそれでいいことだと思うが、それによって救われるのは、もしかしたら同じ症状を抱えた人たちだけなのではないか、とも思ってしまう。同病相憐れむというか。
また、かなり深刻に自殺をしようかどうか迷っている、という人はこのような本を読んで「当たるも八卦当たらぬも八卦」に賭けるよりは、心療内科なり精神科なりに行ってきちんと治療を心がけるほうがよっぽどよいのではないだろうか。素人の体験記みたいなのを読んで「救われた!」みたいに思える人は、それほどシリアスな状況じゃないのかもしれないし、そういう人だって、医療にかかることが悪いことだとは思えない。たぶん医療従事者のほうが数多くの人を診ているはずで、そういう人たちの知見やアドヴァイスはバカにしたものではないはずだ。
専門家を頼るのがいちばんの近道で、素人のもっともらしいご託宣(「おれ/わたしのときはこうだった」話)を盲信するのがたぶんいちばんの遠回りだと思う。でも、だいたい逆を選びがちなんだよね。

人ってわりと簡単に死ぬことを考えがちだと思う。それは上から下までっていう言い方はおかしいかもしれないが、さまざまな理由から「もういいや」っていう気持ちにすぐ振れてしまうものなのではないか。
そういう「病んでいる」状態を誇る人たちっていうのが昔からいて、僕はそういうのが大っ嫌いなんだよなあ。嫌いだと言うと、それは強いからだ、みたいな批判がそういう自称弱者さんたちから返ってくるのだけれど、じゃあ反対に訊きたくなるのは、(僕のことではないけれど)死にたいという気持ちを振り切って社会に勇気をもって関わっていく人たちの大変さ・苦労ってものを斟酌したことはあるのか、ということだ。
たとえば、自分は不器用なのだ、とか、人見知りするので、というのを言い訳にしていつまでも黙っている人たち(このあいだの場面緘黙であるとか吃音症の人たち、あるいは失語症だってあるだろうけれど、そういう人たちのことではもちろんない)は、けっきょく誰かが話しかけてくれるのを待っているわけだけど、その話しかけてくれる誰かっていうのは、「いつまでもしゃべり始めない人たちに対して話したくてたまらない人」とは限らない。その人たちだって、ほんとは話しかけてくれたらそれに越したことはないとは思っているのだけれど、それだといつまでも事が進まないので、その人たちなりの勇気を振り絞って話しかけてくれているのかもしれない。
自分はつまらないやつだ、という自己嫌悪に陥っていると、他者の大変さまでは見えなくなって、あるいは見えたとしても、その大変さ・苦労を比較して自分の自己嫌悪のスパイラルをより深めていくというだけで、まあ結局は自己中心になるだけなのだ。そういう人が「もういい! 死にたい!」と思っているのを、僕は無理に止めようとは思えないんだよな。めちゃくちゃ迷惑になる死に方さえしなければ、どうぞお気の済むままにすればよろしいのでは?と思ってしまう。

『自殺』の作者であるスエイさんは、いまはもう鬱から抜け出て幸せを感じているのだと思う。不倫の末の結婚もうまくいっているようで、そりゃよかったですねと思う。
本をひとつの区切りとして読んでしまうと、「作者はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」というふうについ感じてしまうが、これで終わりだというのでは予定調和で面白くないでしょ。「表現者」や「特別な人」たちには、やっぱり特別な展開がふさわしいと思うんだ。
僕がストーリーをつくるのであれば、自殺に失敗して一生癒えることのない傷を負ったという昔の愛人がここでやってきて、「幸せなふたり」に刃物を振りかざすっていうのはどうだろう。
冗談じゃねえやな。好き勝手やったあげく、やっぱりてめえ勝手で後悔して悪かったって泣いて反省して、それから改心して幸せになって、誰かの救いになれれば、だなんて。あんたに不幸にされたわたしはどうなんだよ。このわたしを救ったのかよ、あんたは。このわたしの憎しみをあんたは受け止める必要があるんだ。この憎しみは愛なんだ。愛を受け止めろよ。死ぬほどの愛だ。
こんな台詞はどうかな。陳腐だねえ。月並だねえ。心底凡庸だ。けれども、安っぽい台詞で因果の輪が閉じるのなら、それこそ予定調和で、同じ予定調和ならバッドエンディングも悪くないでしょ。
もちろんふたりのあいだになにがあったか全然わからないし上の「台詞」はフィクションでしかない。しかし僕は、愛人とのやりとり、つまり個人間のプライバシーを勝手に書き晒している部分を読んでいて、腹が立って仕方なかった。こういうことを藝術だと称していとも簡単にやってしまう連中がいつの時代もいて、僕はそういう人間をクズとしか思えない。
この本を褒める人間は、その自殺に失敗した人がいまどういう気持ちでいるのかということを少しでも考えたことがあるのだろうか。そういうことを、少なくとも本の中では忘れたふり(いまどうなっているかまでは書いていなかった)をしている作者と同様に、賞賛者たちも気がつかないふりをしつづけていられるものなのだろうか。
本に書き残した以上は忘れているわけはなく、もちろん悔いているであろう作者のその悔いは、簡単に言ってみれば自己満足でしかない。「表現」という名を騙ったそのちんけな自慰行為と、(もしあるとするならば、だが)相手に残っている復讐心とはまったく無関係・別問題であって、その報復行為がたとえどんなものでも成就すればいいと僕は思っている。そういう連環が完成したときこそ、本当の作品となるんじゃないですかねえ。凡庸なおれはそう考えるのだ。