図書館の優れているのは、いまでは本屋に並んでいない小説を簡単に手に取ることができるところ。
源氏鶏太って名前は聞いたことがあったけれど、いまは昔の人だよねえ、というつもりだったが、どこかの出版社が復刻していた気もする。そういえば獅子文六も最近ちくまが復刊していたっけ?
とにかくサラリーマン小説として有名な作家だそうだが、この小説はタイトルどおり、漱石『坊っちゃん』のストーリーにその骨格をなぞらえている。
なので、文庫本の後ろに書かれたあらすじにある「痛快小説」という説明は、本家と同様、いまいち当たらない。痛快な部分はあるにはあるのだが、それが最終的に苦さをともなって終わる、というところまでがひとつのセットになっているから。

読み始めは、なんともつまらん、という感想しか生まれなかったが、次第になんとか体裁をなしていくというか、こちらの感情もやや乗ってくるところがあり、とりあえず最後まで辿りつけた。
昭和二十年代半ばごろ、大学を出た青年が就職早々に田舎の工場に出向となる。東京の人間らしく主人公は田舎での日常をただでさえ面白く思わず、そこへ来てホワイトカラー特有(?)の組織内処世術のあれこれに嫌気を覚える。そこでまあてんやわんやの大騒ぎをするのだが、登場人物も意外に多く、それらが適度に、というかほとんど戯画化された造形をもってあらわれるので、飽きないようにはなっている。
しかし、なにしろ主人公が女性にモテすぎなのがこの小説のいちばんの瑕疵だ。また、腕っ節も立つときている。この二点が漱石『坊っちゃん』の「おれ」にはなかったところで、僕も読んでいて、ご都合主義にもほどがある、と鼻息を荒くしたものだ。
特にモテる部分。いまのマンガやアニメでいうハーレムものというか、主人公の男がやたらと多くの女性キャラにちやほやされるというジャンルがあるが、その源流ともいえるような(すくなくとも上流であろう。古くは西鶴とか?)設定で、こういうものがウケる素地みたいなものはいまも昔も変わらないのかなあとも思った。

ちょっと話題は逸れるかもしれないが。去年の秋、小沢昭一のCDボックス10枚組というものをまとめて聴いていた。全体的にいえば話芸とすれば超がつく一流で耳に流しているだけでも非常に心地よかったのであるが、けれど一点だけ、なかなか手放しで喜べなかったのがいわゆるお色気話に属するものが多かったところで、「一皮剥けば男も女も好き者ですよね。ねえ旦那! そうでしょ奥さん?」みたいな価値観で語られ、そしてそれらが当時は(?)広く受け容れられていたのであろうが、これが聴いていてなかなか辛いのである。なお、「すじがき」は小沢本人がつくっているものではない。
林家じゃないけれど、下ネタと楽屋オチってのは僕のなかでは芸として認めたくないところがあって、小沢昭一はたいへんすばらしい芸人だし、その考え方にも非常に同意するところは多いのだけれど、その「下ネタ多し」の点だけは非常に聴き心地が悪かった。
ここ数年、関西のローカルAMラジオを聴かなくなったのも、ほかに聴くものが増えたということもあるけれど、それ以上に下ネタが多すぎるってのが理由だ。なーんか、いやなんだよね。
「ハーレムもの」についてだって、結局はそれに付随するエロシーンがウリなわけであって、そういうのって急激に醒めてしまう。「下ネタは万国共通だから」みたいなことを言う芸人がときどきいたりするけれど、自分の無芸を棚に上げてなに言ってんだって思う。落語の艶笑噺はまあ笑えるものもあるけれど、あれもまたそれだけしか演らない人間に名人はいないでしょ。
「万国共通」で思い出したけれど、あのクソ漫画『こち亀』にもそんなことが書かれていた気がする。あのマンガは、当初は括弧つきの「女子供」を見下して、趣味(プラモとかサバイバルゲームとか)に走るのが男の道よ、という括弧つきの「硬派」なギャグ漫画だったのにも関わらず、長期連載がつづくようになってから、転向。やたらと女性キャラが出てくるようにもなったし、それに、当初はバカにしていた関西がいつのまにか一目置かれるような存在に変わっており、しんそこ八方美人マンガになってしまったんだよな。

『坊っちゃん社員』のほうに話を戻すと、主人公がやけにモテるという部分が描かれるのはやっぱり読者にそういう設定なり展開なりを喜ぶ向きが多かったからではないか。モテりゃその先があって……ムフフと読者が先を読んでくれるだろう、そういう目算があったのではないか。そういう底意が見えるようで情けなくなってしまうのである。
ただ、会社に隠れて取引先からマージンを取っていたという男が、その責を負って辞めさせられたときの顛末などにはなかなかにリアルと思われる点もあって、カリカチュアライズされたなかにも、本音をすこし加味しているようで、ゆえに多くの読者を得た(?)のではないだろうか。

まあ最終的には章題にもあるように「青春悔多し」といった展開になる。
はっきり言って青年は敗北するわけだが、その敗北感はなにも青年だけにではなく、当時のサラリーマン社会全体がなんとなく担っていたものなのかもしれない。
作者は本家『坊っちゃん』の「おれ」のような無鉄砲な人間を(当時の)現代に呼び戻し、くさくさするような因果なその稼業を一時的にでも破茶目茶に掻き回そうとしたのではないか、読んだ人たちの一服の清涼剤となるように。
ただし、総体の感想としては、二十一世紀となった現代で風俗的資料価値を認めない限りは、あまり読む必要のない小説だと思う。だからといって、図書館の書架からはずされる必要もないと思うが。