おっさんたちの方が常軌を逸したひどさだからといって、それにひきかえ学生のほうはきちんと謝っていて誠実だ、よろしい、っていう意見は誤っていると思う。
あのような実際の行動について、たとえどんな説明をしようと――それが虚偽だとは思わないけれど――許されるべきではない。謝罪とかなんとか口で言うのはたやすいが(それすらしない人間が多いけれど)、極論すればそれはたった一日の苦痛でしかない。やられた側にもし後遺症がのこった場合、たとえン百万円の賠償金を払われたって、それで麻痺やしびれが消えるわけではなく、とりかえしがつかない。すくなくとも現状では、被害者はそのような不安のもとにあるはずだ。翻って、加害者はひと月後くらいにはどうせみんなから忘れられているだろうから、大手を振ってあのすばらしい大学のすばらしいキャンパスを闊歩することだって可能だ。また、クソ気持ち悪いナチス礼讃野郎からご指名なんかいただいちゃって、よかったよかったと笑みさえこぼしているかもしれない。もちろんこれは想像でしかないが。
驚いたのは、あの卑劣で理不尽な暴力行動を起こした人間に対して、意外にも寛容な人間が多いということだ。すごいな日本。五・一五事件の実行犯たちが、殺人をおかしたのにもかかわらず、世間の同情からごくごく軽い刑で出てきてしまったというエピソードを思い出す。この一連の結果がその後の日本に悪影響を与えたのは明らか。いっときの感情に流され短絡的な思考に直結してしまう人たちって、いつの時代もいるんだね。
指導者たちはあたりまえの話だが、こういう話は、「組織の論理」に流されてしまう実行犯たちに対しても厳しい目を向けるべき。日本には組織大好きな連中が多すぎて、そういうやつらが、いじめという名の暴力や、セクハラという名の性暴力などを、たとえ消極的ではあるのかもしれないが容認している。「いじめ/セクハラは悪いことだけど、でも被害者だって、そうされるだけの理由があるんだよね」みたいなゴキブリ並のたわごとをいうやつは少なくない。そういうのを見聞きするとき、もう無理するなよっていつも思う。無理して人間のマネをしなくていいんだよ、ゴキブリはゴキブリでしかないんだから、物事を考えているフリなんかしなくていいんだ。はい、フマキラー。
なーんか、学生のスポーツマンっていうのを世間が信用しすぎな気もする。爽やか? スポーツマンシップ? 人それぞれなんだろうけれど、僕は運動部の連中がひどいいじめをやっていたのを知っているから、とてもじゃないけれど「ああいう連中」って見方を変えたことがない。で、ああいう連中の行動規範が、やっぱり組織の論理だったりする。

あるひとつの事件に対して簡単に意見を言いたくなる場合、自分あるいは自分のとても親しい人間が被害者になった場合を想定しても同じことが言えるか、を自問すべきだ。全治三週間のケガを負わされたのは誰だったのか。
五・一五のとき、犬養毅の遺族が「わたしたちのほうが被害者なのに、世間からは冷たい目で見られた」という証言を残しているそうだ。また、当時、決行者たちの親を訪ね、「どのようにしてあのような立派な国士を育てることができたのか」というインタビュー記事がつくられたこともあったらしい。これらは、いまの時代から見れば、大本末転倒だということが火を見るより明らかではあるが、当時の世論というか一般庶民たちは大真面目だったに違いない。自らを無辜であると盲信する一般庶民たちは。
話はちょっとずれてしまうが、二・二六事件で殺された渡辺錠太郎という当時の陸軍教育総監がいる。その人の娘が渡辺和子といって、ノートルダム清心学園理事長になった。NHKラジオの「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス 声でつづる昭和人物史」という番組で、今年の2月に3回にわたって彼女の特集がされたのだが、二・二六事件当時、9歳だった彼女の証言が非常に生々しく、また、聴いていてつらいものだった。父錠太郎は、彼女の目の前で惨殺されたのである。
二・二六もやはりその後に政治へ大きな影響を与えたのは間違いないのだが、いっぽう、昭和天皇が大激怒したせいか五・一五のような「同情の声」で罪が軽減されるということはなかったようだ。しかしあの事件の根底にある、目的のためなら手段の如何を問わないという姿勢・思想は、現代にも一部引き継がれているようで、このあいだの自衛官が国会議員を「国民の敵だ」と罵倒したという問題を、心情は理解できるといってけっして少なくない人間が共感を示したようだが、愚かである。それは自分たちがてっきり「国民」の側にいると信じきっているという愚かしさでもあるし、上に書いたように、目的主義的な愚かしさでもある。
まあいい。大事なのは、二・二六事件という歴史的問題にわれわれ一般人が接するとき、青年将校側の思想背景であるとか、あるいは鎮圧した政治側の視点などで総括されてしまい、被害者または被害者の家族側の視点が忘れ去られてしまいがち、ということだ。われわれの多くは、加害者や、加害者を裁く側に回ることより、被害者になる蓋然性のほうが高い、ということを銘記しておかなければいけない。
テレビであの信じられないほどの醜態をさらしつづけるおっさんたち(非常にアクロバティックな擁護をすれば、加害者学生から目を逸らすために愚行を重ねている、と思えなくもないという予感がちらと頭をかすめるかどうか、というところ)を裁いたり加害者側に同情したりすることよりも、まずは被害者側への支援や寄り添いが重要。加害者側を「赦せる」と思うのは勝手だが、いづれにせよおまえは「赦す」主体ではないし、たとえそうであっても、加害者が罪を償い贖ったあとからでもじゅうぶん遅くはないはずだ。その時点までおまえがこの事件を憶えているとしたうえでの話だが。