福田和也が、「入れ替わりもの」というテーマの裏で書きにくい父娘の淡いエロスを描いていて巧妙、と評価していたことを記憶していたので読んでみたが、その点は僕のなかであまり興味のない部分だったせいか、そうかなあという程度。
エンディングあたりで、「せ、せつねー」ってことになるんだろうけれど、たぶんそう思うのは男の読者のほうが多そう。ストーリーも、いちおうその視点で描かれているわけだし。
でも、女性の読者は心の底ではどう感じたのかな、ってことに興味ある。たぶん作者は、読者の感動する方向性として「せつねー」のほうに持っていきたいのだろうけれど、もうちょっと複層的に解釈すれば、奥さんの視点もあるはず。
そこから見ると、妻離れできない夫へのささやかな復讐のように見えなくもないのかなあ、なんて。
ずっと愛情がつづいている、という幻想のもとに生活をつづけている夫に対して、嫌いになったというわけではないけれど、関係性が再構築されているこの状態で、その愛情がつづいていると信じきっている夫の想いそのものが重い(シャレじゃなくて)、と妻は思っているのでは?
小説内でそのような両者の視点が巧みに描かれているということはなく、あくまでも夫視点だけなので、福田が言うほど巧妙な感じはしない。むしろ単純かと。すっかり内容は忘れてしまったけれど、安部公房の『他人の顔』のほうが、もっと面白かった記憶がある(全然テーマも違うのかもしれないが)。

ただ、単純な「入れ替わりもの」だけで終わらず、妻が死ぬきっかけとなった事故の加害者家族の問題(『手紙』に通ずる)や、被害者の真の救済についてにもちらと触れられているところが、この作者が誠実だと感じられるところ。特に後者。事故の賠償金によって焼け太りしたかのように見える遺族を揶揄するその部下に対して、主人公が心のなかでつぶやく言葉――目に見えるものだけが悲しみではない(文春文庫版 409p)――が全編を通じていちばん印象的だった。

……と、いま奥付を調べてみたらもう20年前の作品なのか。やけに舞台設定が古いなあ、と思ったし、とくに、主人公がほとんど料理しないで、娘の身体に憑依した妻に任せっきりという点がとても気にかかったが、当時は「家事は女性がするもの」という感覚がまだ一般的だったのかな? にわかに首肯しがたいが。
このように主人公があまりにも家事をしないもんだから、あまり感情移入できなかったんだよな。(別に逃げられる話ではないが)逃げられてあたりまえだよ、と。まあ、時代とともに価値観が変わったことで作者を責めることはできないが、20年前に読んだ人も、いまあらたに読み返してみると、また違う感慨を覚えるかもしれない。そういう感想を聞いてみたい。