あとがきにこうある。
あなたはこの本を書くことで、いったい社会に対して何を訴えたかったのか。
(角幡唯介『空白の五マイル』集英社文庫 299p)
これは、「この本が発売されるかされないかという頃」にアウトドア系雑誌のインタビュアーがおこなった質問。これに対し著者は「思わずうろたえてしまった」という。

「何を訴えたいのか」という質問は、裏を返せば「どんな意味があるのか」とか「どんな価値があるのか」ということである。
勉強不足のため今回の読書までまったく知らなかったツアンポー峡谷。そこにおいて単独踏破を挑んだ作者の冒険について、なにかの価値に置き換えられるのかという、これほど無価値な質問もないだろう、と僕のように何も知らない人間でさえ本書を読んでからはそのような感想を抱いてしまう。
本書では、具体的で強固な一回性を持つ冒険が描かれているのと同時に、そもそも冒険というものが現代においてなにを意味するのかという大きな問いが投げかけられている。前者の「冒険」が必ずしも歴史的・地理学的成功を収めなかったとしても、いささかも本書の価値が減ずることはない。価値うんぬんというのなら、冒険家が死に直面し、体力的にぼろぼろになり絶望の底から生還することだけで大きな価値がある。
最近、ある登山家が遭難し死亡した。あのとき、多くのメディアが「真実」というようなタイトルを付した記事を発表し、それを読んだ僕は「なるほどそんなものなのかなあ」とわかったような気になった。しかしそれは、「わかったような気」でしかなかったのだと思う。世のため社会のために「真実」を訴えた人たちも、所詮はわかったような気でいただけなんだろうと思う。死に直面した人間の思いを、その場にいない人間がいかに語ることができようか。客観的事実とやらを積み上げれば語れるはずだという信念は、冒険という圧倒的事実の前ではあまりにも無力だ。死者に対する礼儀とかうんぬんではなく、そう感じられた。

たまたまNHKのカルチャーラジオで近代文学の講座を連続して聴いていた。そのなかで近代の文学者たち(鷗外、漱石~太宰まで)は、もしかしたら同時代の多くの人間たちですら理解できなかった文学というものに、人生を捧げたり、あるいは人生を捧げるほどの価値があると信じていた。
その価値観を現代人が理解するためにはときおり、身に染みついてしまっている現代の価値観というものをいったん保留して思考操作をしなければならなくなる。つまり、「いまではちょっと考えられないことだけど、むかしの人たちは、文学のために人生を捧げる、なんてことも珍しくなかったんだなあ」と。近代人でもなく、かつ文学に対して一定の興味の範疇を出ない程度の人間であれば、そのように考えるのはごく自然のことだ。
この文学の「価値」の変容と似たようなことが、冒険においても言えるのではないか。著者が本書エピローグ部分で述べているように、冒険の本質も変容している。
どこかに行けばいいという時代はもう終わった。どんなに人が入ったことがない秘境だといっても、そこに行けば、すなわちそれが冒険になるという時代では今はない。
(同上 292p)
それでは現代はいったいどういう時代なのか。
それは、読者ひとりひとりが感じることである。著者はそれに容易に答えを与えないし、そもそもわからないというようなことを書いている。死のリスクに直面し、その瞬間に凝縮された生を感じるという点に冒険の意味を見出しているようではあるが、しかし次のようにつづけているのだ。
とはいえ究極の部分は誰も答えることはできない。冒険の瞬間に存在する何が、そうした意味をもたらしてくれるのか。なぜ命の危険を冒してツアンポー峡谷を目指したのか、その問いに対して万人に納得してもらえる答えを、私自身まだ用意することはできない。そこはまだ空白のまま残っている。しかしツアンポー峡谷における単独行が、生と死のはざまにおいて、私に生きている意味をささやきかけたことは事実だ。
冒険は生きることの意味をささやきかける。だがささやくだけだ。答えまでは教えてくれない。

(同上 295p)
僕がこの記事の冒頭で雑誌インタビュアーの質問を無価値だと断じたのは、著者の冒険が、「社会」などという不確かで漠然としてコミュニティに対しなんらかの意味をもたらすのかと問うているからで、そもそもを言えば、そんなもののために著者の冒険はあるわけではない。
(しかしもうちょっと深く読み解こうとすれば、著者の冒険の意味するところはきっとあり、それは「社会」に対してもきっと大きな意味をもたらすものだと僕は信じるが、しかしそれは上述したように、読者個人個人が読書という体験を通じて得るべきものであって、ガイドブック的にあらかじめ著者や出版社などによって提示されるものではない。そのようなショートカット的PR文を著者本人に吐き出させようとするインタビューこそ無価値である)
著者はあとがきのなかで「私が書きたかったのは自分自身のひとりよがりな物語だった(300p)」と告白している。そして僕は、この点に、この本と文学との共通点を見出したのだった。かつては定義の容易だったもの、無条件に称讃を得ていたもの、目標がもっと明瞭であったもの……。もっと言ってしまえば、エゴイスティックであり、ときに非道徳的であり、社会的な意義や価値の有無などというものとは独立して存在しているものでもある。
本書が僕につきつけたのは、「おまえはなにをして/なにのために生きているのか」という問いであった。「毎日が平穏無事であるならそれでよい」というような常套句的/無思考的解答ではなく、まさしく僕個人の体験によって生まれた答えが、はたして僕のなかにあるのか。その問いもまた、文学と共通なのである。

なお本書は、著者が単独行を思い立った発端や経緯、顚末と、人類によるツアンポー峡谷の「発見」の歴史が交互に描かれ、そのような構成のためもあって、非常に読みやすく引きずり込まれる。いい読書だった。