まーったく身を入れては観ていないのだが『この世界の片隅に』が実写化されている。
まあ、予想どおりというか、すんごく安っぽいアレンジになっていて、まあこんな感じになるよなーというのが感想のすべて。
でもまあ、これってアニメ映画からの劣化コピーって感じなんだよね。アニメ映画じたいが、僕からすると劣化コピーぎりぎりで不満あったし。のんだって、日常パートはともかく、心情を吐露するような重要な場面では、「ええ? これでOKになったの?」って思ったもんなあ。
彼女のなにが嫌かって、のんって、作品にしがみつくのよ。あまちゃんのときもそうだったんだけど、あのドラマが終わったときの公式会見かなにかの場でもうつづきを書かないと明言していたクドカンに「ぜひ続篇を!」みたいな主張をしていて、演技以上に、「こいつ、他に売りものがない一発屋の芸人みたいでみっともねえな」と思った記憶がある。その後、干されてしまったということは知っていたので、いやそれはかわいそうだろと思っていたんだけど、今度はアニメが当たったら「すずさんでござい」ってやっている。
しかも、アニメの別ヴァージョンの公開が決まったとかで、このアニメに対してはいよいよ鼻白んでしまうなあ。こういうタイトルの付け方、監督というかプロデューサーの感覚が死んでいると思うんですがね。口ではなんとでも言えますが、原作や原作者への敬意がまったく感じられん。まあ、原作が売れて広く読まれてくれれば僕は文句ないですけど。

で、実写化して失敗している最大の部分は、原作の持っている軽さがないということ。どんなに辛いこと・悲しいことがあっても、連載の一回一回はたいていオチがついた面白い終わり方をしていて、そこで、すずと一緒に読者のわれわれも救われる、という仕組みになっている。それが、あのマンガのすばらしいところだ(もちろん、ほかにもすばらしいところはいくつもある)。それに、ただ笑えるというだけではない。悲劇的なことがあえて少ない分量で描かれているからこそ、悲しみ・辛さが余韻となって読者に響くという効果もある。
たとえば、原爆の被害を受け、集会所の隣でぼろぼろに焼け焦げている男性がすわっているシーンがある。頭から布切れがかぶさってあるので、顔は見えない。男性が登場するのはこのたった一コマだけ。しかし、このコマの内容的にも形式的にも中心にあるのは彼ではなく、その彼の存在にまったく気づかずに歩くすずと町内の女性たちなのである。読者ですら、はじめ、そこに気づく人はほとんどいないだろう。
しかし次のページで、その場所を囲んだ女性たちが、そこにすわっていた男性がすわりながらすでに事切れていたらしいということを語る。男性はもうすでに運び去られたのか、そこにはいない。その会話によってあらためてページを戻し、そもそもそこに男性がすわっていたということに気づく。風景の一部のように見えた人が、その瞬間、息も絶え絶えになっていたのかもしれないのに、主人公たちとともに、<私>も気づかなかった。そのように感じた読者は多かったのではないか。僕は、この人物を見殺しにしたような感覚に陥り、鳥肌が立った。
このたった一コマのたったひとりの男性の存在によって、原爆が落とされた直後、何万人という人間が同じような境遇を味わったのかもしれない、ということが暗に表現されている。いままさに死んでゆくということに誰からも気づいてもらえず、静かに、打ちのめされたまま生命を失っていく。場合によっては、そのそばでは誰かが話しながら歩いていたかもしれないのだ。
この2ページを超えられるとはいわない、せめてこれに追いつくだけの表現を、ドラマ版脚本家は想定しているのだろうか。あるいは演出は? この2ページに込められた静謐な怒りや悲しみ。そういったものを十全に感じ取ったうえで、実写化に踏み切ったのだろうか。その覚悟はあるのだろうか。
このマンガはいわば、「ノーベル平和賞」をもらったアメリカの大統領、バラク・オバマが広島にやってきたことをただただ手放しで喜ぶような感覚で描かれたものではないだろうし、読み手もまたそれほどの鈍感さで済ませてはいけない。そうではなくオバマが、原爆資料館の見学をたった5分で済ませたことや、スピーチのなかで原爆投下を「死が空から降ってきた」というような主体不在の文章で言い換えたことに対して注意を払う、そのような神経の細やかさでもって読むべきものである。こんなのを「細やか」だなんてことはほんとうは思ってはいない、むしろあたりまえの感覚だと思っているけれども。

ドラマ版に話を戻そう。このドラマは、マンガ版1ページのところを十数分もかけて演出したりするもんだから、重い重い。そこに意味や「人間ドラマ」なるものを隠そうとするから、なおさら。
くわえて人間の声は、思いのほか生っぽいということがこのドラマの場合とくに強く感じられる。マンガのすずの声が読み手の好きな声で響いているのに対し、のんや松本穂香の声は、上手下手とは別に、動かしがたい個性をもって響いてくる。それもまた重さなのである。それを好ましく思う人も多かろうが、違和感や嫌悪感を覚える向きだって、原作ファンの思い入れが強ければ強いほど、多くなる。もうちょっと言うと、のんや松本穂香がしゃべる「すずの声」によって、すずの鈍さやおっとりした性格が具体性を帯びるのである。そういうのを単純に「かわいい~」という人だけで世の中は成り立っているわけではない。カリカチュアライズされていた、とまでは言わないが、マンガ版のすずの性格は、ある程度のマンガ的誇張表現のうえに成り立っているものだ、ということをこのドラマを観たことによってかえって強く思い起こされたし、そういうものをそのまま違うフォーマットに移すことはたいへん難しいものであるとも知ったのである。前半はキャラ芝居でやっていけるだろうが、さて後半がどうなるか。松本穂香はめちゃくちゃ応援しているけれど(『ひよっこ』観てそう思わないわけがないだろう)、かなり不安だ。

いっつも書いていることだけど、悲しいことを深刻に重々しくやることは簡単だ。戦争や病気や事故だかで誰かが死んで、それを悲劇的なトーンで演出すれば一定の人たちは簡単に感動してくれる。ちょろいちょろい。たとえば、眠っているようにしか見えないが実際には死んでいることになっている母親を背負って桜島に向かって泣く、みたいなのを恥ずかしくて観てられなかったよって話。ギャグだったらすばらしいシーンだったけどさ。でも、こういう安直な手法はもはや時代遅れで、すくなくとも僕は観ていられない。いやいや、幕末だし戦争ものだし時代遅れで構わないじゃないかというフォローはさておき。
なお、このドラマが安直であるとするには明白な証拠があって、第一話のときの次回予告編のときのテロップに「小姑、襲来」「波乱の新生活」とあり、第二話のときのそれでは、「切ない三角関係の行方は」「かけがえのない日常を守り抜けるのか」とあった。こういう、いやらしいまでにわかりやすい誘導・矮小化もないよな、いやしくもあのマンガを原作にしたドラマに対して。脚本家や演出は知らないことかもしれないが、いかに作品の価値を知らない人間たちが関わっているのか、ということがこれだけでもわかる。
マンガ版『この世界の片隅に』の持っている軽さは、安易な作法に凭れかかっているだけの凡百な表現に対して、明らかな一線を劃している。そこにはただの線ではなく大きく深い溝があると思ってよい。そこを飛び越えるのはけっして容易ではなく、おそらく今回のドラマは無残に深淵に落ちていくだけだろう。

そうそう、村上虹郎が千鳥の大悟みたいだなと思いました。