たぶん今年、というかここ数年のうち、ラジオ関係のトピックでいちばん大きなものは、村上春樹のラジオ番組が来月に放送される、ということになるだろう。なんと春樹がDJをするのだという。ちなみに上記公式サイトのイラストレーションの作者(フジモトマサル)はもう亡くなったんだよなあ……。

(僕ですら興味あるけれど)それはそうとして、僕的に驚いたのが、このあいだのラジオドラマ。28日に放送されたFMシアター、柴幸男の『大工』は、おそらく今年のラジオドラマのベストになる。
ベートーベンの交響曲第九番に乗せて、語られる「大工」の話……ではあるのだが、はじめは「家」をつくるのは大工、というところから、彼らが、やがてもっと大きな家=国家をつくろう、というようなより大きく、そしてより抽象的な物語になっていく。これは現代日本語で書かれた新たな創世記、あるいはその可能性なのだろう。
物語を駆動させていくのは具体的なプロットではなく、むしろ言葉の持つ多義性や音韻であり、言い換えれば、物語によって詩が生まれるのではなく、詩によって物語が生まれるということなのだ。
名前も家も持たない少年に、「名前も家もないということは、すなわちいないということだ」と、「いぬ(犬)」と名づけたり、国家のすべてを決める場所が「白い家」と呼ばれ、この白が城にもかかっているなど、言葉遊びの例には枚挙に暇がない。
しかし、単純な言葉遊びだけでは終わらない。換喩されてはいるものの震災、放射線汚染、難民等の現実問題にも言及があり、ユーモアとシリアスな現実認識が表裏一体となっていて、その目配せの広さにインテリジェンスを感じる。
これら言語による飛躍や表現される対象や地平の広さに既視感を覚えた人は少なくないだろう。ラジオという想像力を必要とする装置をうまく利用することで、時間や歴史をあちこちと飛び回り、現実と空想の境を破壊し、あるいはめちゃくちゃに繋ぎ合わせることを可能にし、それによってリスナーは心地よい遊泳感覚に包まれ、演劇的愉悦に浸る。そう、どうしても野田秀樹の舞台が思い出されてしまうのだ。
そもそも、野田『半神』のオープニングあたりで、大工姿の人間がひとり通行人のように登場するのだが、そのとき『第九』がかかっていて「なあんだ、だいくかあ」というギャグがあったので、この『大工』の冒頭でもすでにそのことを想起しながら聴いていた。もちろん「第九」と「大工」なんていうシャレは古今東西さまざまな媒体で用いられたことであろうが、こと演劇となると、僕の場合はやはり野田を思い出してしまうのだ(野田だけに)。
であるから、大工の親方が自分の若い衆に「これからは棟梁と呼べ」と言いつけ、「さらに大きな国家を」と宣言したときには、「ははん、これはやがて『大統領』が出てきますな」とニヤニヤしてしまった。野田マナーを愛する者としてはこれは初級問題。

キャストがラジオドラマにしては珍しく、ものすごく豪華だったということにも触れておく。鈴木杏、吹越満、富田靖子、田中要次、山下容莉枝、山崎一、村岡希美……NODA MAPでこんなキャストありそう。いや、新感線のほうか。ちなみに音楽は蓮沼執太ね。
はじめ、(褒めすぎかもしれないけれど)作者は野田秀樹が変名で書いているのかなと思ったくらいなのだが、「ままごと」という劇団の主宰らしい。2010年に岸田國士賞も獲っているそうで、すみません、まったく知りませんでした。『大工』も昨年上演されているらしい。さもありなん。東京にいたらこの人たちの芝居は観に行くだろうなあ。演劇に関してかなり億劫にはなっている昨今だが、ひさしぶりに演劇的昂揚感というものを味わうことができた。ブラボー!

最近のFMシアターは放送後一週間ほどは聞き逃し対応をしているので、興味のある方はぜひ。この期間(2018.07.28~08.06)が終わったらYouTubeとか探してみると、たぶんあると思う。毎度毎度アップしている人がいるので。
こんなことを書いているワタクシもまだ一度しか聴いていないので、繰り返し聴いてみることにする。