前に書いたことがあるかもしれないが、「ブログ、まだ書いているんですね。がんばってください」みたいなコメントをもらったことがある。
どうもその人は、検索で飛んできてなにかの記事を読んで、トップページを見たら「お、こいつ最近また更新してんじゃん。まだブログなんてやってんだ。珍しいじゃん」みたいに思ったようで、上のようなコメントをしてくれたのだろうと思う。
「まだブログをやっている」の言葉の裏には、「SNSじゃなくて」という価値観が隠れており、さらにその後ろには「そっちのほうが人多いし、盛り上がってるのに」という価値観が潜んでいるのではないか。いまどき盛り上がっていないブログなんてまだ書いているんですね偉いですね、みたいな意味での応援をもらったのであれば、次のような返答をしたい。
ちがうちがう、盛り上がっていないからこそブログに書いているんだよ、と。別に誰かに読んでもらいたくて書いているわけじゃないんだ。


「新潮社出版部文芸」の公式アカウントが例の『新潮45』の批判ツイートをRTしていることが注目を浴びているらしいんだけど、まあなんというか、その界隈すべての反応がばからしい。
なにかやらないよりはマシ、の話ではあるんだけど、それ以前にそのSNS脳をなんとかしたらどうなんですかねって思う。ツイッターやフェイスブックなんかで変えられる世界、なんてものを頭っから信じてしまうような価値観を文学は与えたのかね? むしろ逆に、そういう甘ったれた安物エンターテインメント的な価値観に対して疑いを持つ目を与えてくれるもの、それが文学だったのではないか。
リツイートがなにかの意見の表明だなんて勘違いを素人がするのならまだしも、出版界の人間ですらそう思っていてしかも実行しちゃうんだっていうのが、しょぼい話だよな。てめえの責任でてめえの言葉でてめえの会社の批判をしないってのを、どうやって応援するの? どこに応援する要素あるの? まさかあれ? 組織に属する人間のその苦しい事情を汲めっていうの? 生活を捨てるわけにいかないじゃない、そういうぎりぎりのところで彼/彼女はがんばっているのよ、なんていうそういうクソみたいな日本的察しみたいなのを求めるの、こんな重要な場面でさえも? これ、政治家(特に小泉進次郎)がやったら確実に「出た! ガス抜き要員!」って大笑いされる案件だと思うんだけど、ブンガクの愛好家のみなさんは、美談にしちゃうの? そんなにエンタメ脳なの?
「応援ツイート」なるものをしている人たちも、そのプラットフォームの脆弱性に対して目を瞑っているという点において、やはりエンタメ脳、SNS脳の持ち主だと判断せざるを得ない。言論というのはSNSの中にあるだけではないのに、なぜかヘビーユーザーたちは、そこが世界のすべてだと勘違いしてしまっている。そんなのものからまったく隔絶した世界に住んでいる人間だって山ほどいるというのに。『新潮45』が紙媒体で発信した以上、もし「心ある人」なるものが「中」にいるのであれば、(オピニオン誌ではないけれど、だからこそ)『新潮』を使って一大展開をして反論すべし。そのなかで、文学ならではの実験や皮肉も織り込むことができるだろう。そこまでやってこそ、言論だと僕は思う。SNSで済ませるのはつまり、RTをするのにも「応援」するのにも、コストがかからないからだ。言葉に関わる世界の人間のそういう安直な姿勢を、僕はほんとうに情けないと思う。情けないというより、卑怯にすら感じる。

このあいだの台風・地震のときに「情報がなくて不安、情報がないから困った」なんていう意見がよく聞かれた。僕からするとまったく意味不明で、水が切れた・電気が来ない、なんてことが不安になる理由だと思うのだが、どうもその人たちは違うらしい。しかもよくよく聞いてみると、情報ってのはつまりスマホと同義のようで、スマホの電池が切れたとかつながらないってことがその人たちの「困ったこと」ということのようだ。しかも僕がラジオで聞いた例では、たかだか数時間つながらなかったことをもってして、いつつながるのかがわからないから不安だったと言っている人がいた。言っちゃあ悪いが、僕はその札幌のリスナーの話を大笑いして聴いた。ラジオ局も、もうちょっとまともなメッセージを読んでくれよ。
うちの近所で、高齢の家族が自宅で人工呼吸器を使っているところがあって、停電したときにその機械が止まってしまうということで緊急に行政が発電機を供給するという対応をし事なきを得た、ということを後から聞いた。われわれが直面する/した深刻な問題というのは、つまりこの種のものではないだろうか。
これに対し、スマホがなくて/使えなくて不安というのだって立派な困難じゃないか、不幸や災難は相対化されるべきではなく、みなそれぞれのフェイズで苦しんだのだ、という批判もあろう。それはそうだ。決して相対化なんてされるべきじゃない。けれども、ほんとうに苦しんだ、悩んだ、困ったなんていうのなら、一旦落着したのちにでもいいから、心療内科行って、スマホ依存症なのかどうかを調べたほうがいいと思う。
僕が上のリスナーの話で興味深く感じられたのは、「(SNS上で)自分の安否の状態を伝えられない」という点に特に困っていたことだ。情報うんぬんといって、自分の家族なり友人なり恋人なりの安否が確認できずに不安だ、とこう言うのならものすごくよく理解できる。大きな災害があったらそんなことをすぐに確認できることのほうが少ないよという冷静なツッコミもあろうが、心情はよくわかる。けれどもその人は、自分の安否を(おそらくはSNS上の知り合いに)伝えたいのにそれがかなわなかった、という点に拘泥していた。まあこれは僕にもそう言う資格があると思うから言うのだけれども、自分のことを心配している人がきっといる、なんていう前提がSNS脳のなせる業というかもうかなりおかしくて、そんなことねーよって言いたい。というか、実際ラジオを聴いていてそうつぶやいた。
(地震ではなく台風のせいで)停電したおかげで自宅からは電話もできず、PCのメールもできなかったので僕の場合、誰かに連絡するなんてことを考えるのはすぐにやめた。実家の家族はもしかしたら心配しているのかもしれないけれど、その心配や不安は僕のものではないので、僕がわざわざ積極的に抱えようとするものではないし、家族のほうはやきもきしているかもしれないけれど僕が技術的にどうこうできる問題でもないので、しょうがないけどやきもきしていてくれ、という思いだった。それだけだった。結果的に面白かったのは、やがて連絡ができるようになって、家族のうち両親は心配していて、弟は心配していなかった(「え? 停電してたの?」って感じだった)、ということが判明した。家族ですら確率50%よ。また、知り合いでも停電中に心配のメールをくれた人たちが幾人かいて、電気が復旧したのちその方々に返信したが、その反応を見ても、体裁だけの確認メールと、ほんとうに心配してくれたメールとで半分半分という感じだった。ま、こういう場面で「ありがたいことだなあ、心配してくれたんだなあ」と100%感謝するという姿勢にならず「うーむ半分か」なんて生意気な感想を持ってしまうこの僕の人間性と、あまり心配してもらえないという結果との相関性は大いにあると思うのだが、けれども、他人はけっきょく他人でしかなく、「その人のいちばんの関心が自分の安否にあるとは限らない」という前提くらいは、緊急時の飲料水やラジオ、懐中電灯なんかと一緒に、持っておいたほうがいいと思うよ、ほんとに。そうしたら、SNSに投稿しなくちゃなんてよけいな不安も抱えずに済む。なにかあったらすぐにポストしなきゃみたいな思考は、病気だと思う。病気だから悪いとかそういう話ではなく、せめて病識くらい持っておけば不安も軽減されるでしょって話。こういうけっこう親身なアドヴァイスをたとえ耳にしても、「情報がなくて不安」なんていう人たちはたぶん聞き入れないんだよな。「いやいや、この情報化社会においてね、スマホがない/使えないとかマジでありえないから」みたいな話でシャットアウトしちゃうのよ。たとえば誰かが、物流がぜんぶ止まってしまったおかげで酒が飲めない不安がずっとつきまとっていた、なんて言ったら、「あー、そりゃまず、依存症に向き合ったほうがいいかもね」って思うでしょ。それとおんなじよ。

話は新潮社に戻って。
実存と仮想のうち、われわれが実際に生きているのは実存の世界だし、社会問題――杉田アホとかそのサポーターとかバックの全員を含めたクソみたいな価値観の持ち主たちは立派な社会問題だし、僕の望む社会にとっては害悪でしかない――もまた、実存の世界の問題だ。上で書いたとおりそっちで応答すべきなのだ。
「内部からの批判ツイートRT(※繰り返すが、直接の批判ツイートですらない)」や「応援ツイート」なるものは、「正義」のツイッターユーザーたちの夕飯前のちょっとした前菜にすぎない。指先ちょちょいで得られたちょっとした達成感や爽快感を肴に、「きょうのメシ/酒もうまい!」ってしたいだけでしょ。ちょっと意地が悪すぎる言い方だろうか。けれども、喉元過ぎれば熱さを忘れるし、TL流れりゃ話題も変る。一瞬のうちに得られた熱狂はまた次の熱狂に取って代わられ、病的に主張を繰り返す連中の醜い呪詛だけが結果的に残ってしまう。それがあの界隈の特徴なんじゃないかと僕は思っている。だから、そんなプラットフォームでなにかした気になってんじゃねえよって僕はずっと主張している。
せめて応援ツイートなるものをしていたクリエイターたちは、紙媒体で杉田水脈批判批判批判特集が組まれた際には、ぜひ寄稿してくれよな! 後世にきちんと形を残そうぜ。