『新潮45』が休刊を決めたらしい。直観的にちょっと気になる終わり方だと思った。

かつて麻生とかいう人間が首相をしていたときに「未曾有」という漢字を「みぞうゆう」と読んで失笑を買った。あの頃はまだマスコミも元気がよかった印象で、こんな愚かな人間を頭にしているんだよわれわれは、みたいな空気感を漂わせてご満悦という感じだったし、それを嘲弄してネタにするという例もいくつもあったように記憶している。
かくいう僕も「おいおい」と笑ったものだったが、けれどもいま冷静に考えてみれば、「未曾有」という漢字を読める/読めないということは、(あたりまえのことだけど)政治家の能力あるいは個人の人格とは無関係だ。そして、「未曾有」という漢字をパッとは読めない人間はこの日本に麻生しかいないわけではない。
あのとき、「へー、未曾有って『みぞう』って読むんだ」とか「へー、『みぞう』って『未曾有』って書くんだ」と思った人たちは世間のあの空気をどう感じたのだろうか。たしかに「総理大臣のくせに」という前提条件が必ずつく嘲笑ではあったものの、読めない人たちはいちはやくから「別にそんなもの読めなくたって人生、生きていけるし、仕事だってできるよ」と程度の差こそあれ反感を持ったのではないか。
それとはちょっと種類が異なるのだが、最近の話。安倍とかいう人間が自らを「立法府の長」と発言したことがあって、呆れられたことがあった。ただしこのときはマスコミもだいぶ穏やかに扱っていたように感じられたが、その穏やかさが、「教養のなさ」や「言い間違い」をあげつらうのはもうやめようという理性的な判断に基づいているのか、はたまた別の理窟によるものなのかはわからない。
ちなみにこのとき僕は、「内閣総理大臣は行政の長であるし、立法の長ではないのは簡単にわかるけれど、じゃあ立法の長って誰なんだろう。国会議員全員ということなのかな? でも『長』が複数っていうのはピンとこないしなあ……」と自らの不勉強を恥じることになった。調べると、衆院議長、参院議長のふたりで、なるほど「長」はふたりいるのである(同時に、議長ってそんなに重要な仕事してたっけ?と思わないではなかったが)。
自らの不勉強を棚に上げて指摘すれば、たしかに総理大臣という、ある意味政治家のトップに立つ人間がその仕事の根幹に関わる重要な政治システムを理解していないのは致命的だが、けれどもそんな人間でもトップに任ぜられたりするのは、国民の側に「そんなことたいして問題ないじゃん?」という思いが強まったからではないか。より正確にいえば、その種の知識や教養、言う人に言わせれば常識の欠如をたいした問題ではないとする国民が相対的に増えていて、結果彼のような人物が支持されているということ。もちろん、日本では総理大臣を直接選挙で選ぶことはできないし、彼の「立法府の長」発言は選挙後ではあったが、しかし、あの発言で著しく支持率が低下することはきっとなかったろうし、このあいだの自民党総裁選でもなんなく三選を果たしてしまった。おそらく支持率の劇的な低下というのはここしばらくはちょっと見られないだろう。

ここで僕の立場を鮮明にしておくと、麻生の「未曾有」も安倍の「立法府の長」も、総理大臣としてはありえない発言であるし、致命的に常識が欠如していると考えている。けれども、「そんなことも知らないのか」という指摘はそれほど効果をもたらすものではない、むしろ逆効果であるとさえ思っているので、批判は違う場面の違う文脈でやったほうがよかった。前者については漢字を読めない人たち全体への侮辱につながりやすかったし、後者については、そもそもそういう政治的知識の欠如を問題とする人たちが支持しているわけではないからである。
後者についてさらにもう少し考えるに、医者が内臓の位置を正しく把握していない、くらいの無知を露呈してしまった現首相への根強い支持というものがいったいどこからきているのか。
上に書いたような有権者側の姿勢を掘り下げていくと、知性に対する強烈なカウンターというものが見えてくる。麻生の「未曾有」のときに「みぞうゆう」側の抱いた、読めなかったからってどうってことない、むしろ読めたからってなんか偉いのか、という知的階層・エリート層に対する鬱屈した感情が、いままさに爆発しているように感じられる。そういう面も、すべてとは言えないが一部にあるのではないか。もちろんこれは、米大統領選におけるドナルド・トランプの支持者たちの一部の傾向から得られた知見である。ポピュリズムのエネルギー源は、エリート・エスタブリッシュメントたちに対する積年の怨嗟なのであるから。

で、件の『新潮45』である。
まず、いまさらああいう雑誌に驚いたとか、杉田水脈雑文に驚いたなんていう、カマトトなリアクションはやめてくれよなってことは思う。なにも『新潮45』に限らず、ひどい出版社のひどい出版物ってのはあるし、伝説的な『ガロ』を出版していた青林堂は、いまや悲しいことにネトウヨ出版社に成り下がってしまっている(ガロ系の編集者はみな青林工藝舎に行ったはず)。もともと『カムイ伝』の発表の場として創刊された雑誌であったことを考えれば、現在はまったく正反対の態度である。また、そこでの執筆陣というのは、きちんとしたウォッチャー(僕は違うけれど)からすれば「いつものみなさん方」だったりするし、そういう連中はインターネット、テレビ、新聞、雑誌なんかでそれぞれ大活躍なさっているよ。それにまったく気づかなかったというなら、はじめにそのアンテナの鈍さを疑ってかかったほうがいい。
そのうえで、ああいう雑誌の愛読者層というのはやはり一定数いて、そのことは動かしがたい事実。その場所を一気になくしてしまうというのがリベラル側の勝利、なんていうふうにはなかなかとらえられない。
ツイッターやウェブメディアを中心とした言論でひとつの紙媒体のメディアを潰したことがもし成功体験となってしまうのであれば、その逆のアクションも起こりうる。この場合の「逆」は、思想や価値観の逆転Ver.ってことで、もしネトウヨ的な価値観がほんとうのマジョリティとなったとき、マイノリティな立場にある人たちの社会的地位をすこしでもよくしていこうという運動――そういう運動は往々にしてゆっくりと長くつづけられてきたものであるのだが――を、「ネットの運動」で簡単に潰しにいくということがありうるということだ。
そもそも、今回の休刊はほんとうに「リベラルの勝利」なんだろうか。冷静に考えれば違うだろう。新潮社の単純なリスクヘッジであろうし、臭いものにふた的処理の結果に過ぎない。その理由はどうあれ、今回「弾圧された」などと考えている連中は、この恨み晴らさでおくべきかと思っているよきっと。「『みぞうゆう』ぐらい読めないからってなんだ」という思いをずっと持っていたのと同様に、今回の件を親の仇のようにしっかりと記憶に刻みつけることだろう。もちろんここで挙げた「みぞうゆう」の例は象徴的なものに過ぎず、自分と価値観を異にする人たちが寄って集って自分たちの側を攻撃した、と記憶するすべての案件こそが彼らのモチベーションである。
そういう人たちが愛読する雑誌を急になくすということは、不満や恨みを抱えたまま彼らが、おそらくはよりひどい吹き溜まり、もっと濃度の濃い悪所へと移動することを意味し、それは彼らの攻撃をより先鋭化させることにつながると思う。
僕がなんとなく思い描いていたのは、
  1. 杉田批判特集をメインに置いた紙媒体の雑誌を出版し、徹底的に論戦の構えを見せる
  2. 1. の批判に対する応答が『新潮45』から出た場合、さらなるカウンターを1. 側が出版
  3. 2. の批判に対する応答が『新潮45』から出た場合、さらなるカウンターを1. 側が出版
  4. 以下つづく……
というように、何回もの議論を以て『新潮45』側の「全然お話にならない感」を炙り出して、その読者に「なんかおれ/わたしの読んでいる雑誌って言われっぱなしじゃん、ちょっとカッコ悪いな……」と思わせ離れさせていき、またそのファン自身の考えも少しづつマイルド化させていくという流れだった。2.以降は、テレビやラジオ、新聞などその論戦の場を違うところに移してもよいと思うが、ネットだけというのは悪手、避けるべき。長く、手間のかかるやり方かもしれないが、それが言論というものだと僕は思う。

あと、新潮社の看板に「あのヘイト本」という落書きをくわえ、「あのヘイト本、Yonda?」と読ませようとする愚かしい行為があったらしい。あのクソ忌々しいChim↑Pomのやり口を想起させるけれど(彼らは渋谷の岡本太郎の作品に原発事故の絵?みたいなものをくわえたという例がある)、まあ同一人物でなければ、手垢にまみれすぎた手法で藝術性のかけらもないが(Chim↑Pomにすら感じられないのだからなおさら)、それでもアートなんて持て囃すバカがいるもんだから始末が悪い。絶対安全地帯でやっている限りは表現でもなんでもないと僕は考えているので、実行した人物が特定され、新潮社に賠償請求されたり、器物損壊で実刑食らったりすれば面白いなと思っている。いざとなって「そういうことになるなんてまさか思いませんでした」なんて泣いて詫びを入れたら、例の弁護士たちへの大量懲戒請求をやったネットDE真実のみなさん方とおんなじだから、まさかそんなことはなかろうけれど、クラウドファンディングで賠償金を集めようなんていう「運動」にも発展したりしそう。そうなりゃなんだかんだで結局売名行為に加担させられるだけなんだろうけれど、加担する方は加担する方で、「おれたち/わたしたち、正義やってます!」みたいな自己満足感も得られるから、まあ利害は一致しているのかな? よくわかんねーけど。

ついでの蛇足ではあるが、新潮社を批判していたツイートのなかで、「新潮文庫に育ててもらったぼく/わたしだけど、」と前置きしたうえで、いまの新潮社の出版態度は度し難いみたいなものをいくつか見たんだけど、こういう連中の火事場泥棒的態度も見逃さないようにしような。
「度し難い」という意見の表明だけでよいはずなのに、なぜか「新潮文庫で育てられた」みたいな文言をつけくわえる。みぞうゆう側(僕も大別すればこっち)にいればなかなかわからないのだけれど、ある種の文系コミュニティにはウケがよいからではないか。
僕みたいに本をあまり読まない人間からすれば、国書刊行会、みすず、白水社なんていうところならともかく、新潮社ってけっこう大手でそんな名前を出してもむしろ「それほどでもない感」を感じてしまうくらいだし、またそれ以上に大切なのは本の作者と中身である。でもまあ、ある種のクラスタにはそういうちっちゃな(ちゃちな)コメントが訴えるものがなにかあるんでしょう。僕がひっかかるのは、いまそれを言う必要ある?ってことで、火事場に来て「たいへんだーたいへんだー」と大声出して人を集めて、それから自分の商売を始めているって感じがするんだよね。まあ、みんなビョーキですから当人も含めそんなの気にならなくなってしまっているんだろうけれど。