台風がまた去っていった。

災害がすっかり年中行事化してしまったものだから「被災地」も全国に点在するようになった。本心から信じているかどうかはわからないが、「日本全国、どこでも『被災地』になる可能性がある」なんて言説がそれなりの説得力をもって流布されてもいる。
なもんだから、災害の範囲外の人たちも被災地に気を遣うというのがある種のネットマナーになってしまっているみたいだが、僕はこれにあまり賛成しない。
たとえば雪が珍しい地域であれば雪降りは素直に嬉しいものであるが、「大雪で困っている地域もあるかもしれないから不謹慎なんだけど」みたいな前置きをしてから喜ぶ、みたいなのを見るたび、そんなに気を回さなくていいのにと思ってしまう。いやまあいいじゃん、配慮しておけばよけいな衝突を防げるんだから、という人もいるかもしれないが、そういう妙なマナーが広まってしまうと、そういう前置きをしない人間がマイノリティになってしまって、彼ら/彼女らを不謹慎だと詰る風潮が広まってしまう。日本のネット空間に特徴的なのかもしれないが、なにか大きなことが起こると「不謹慎」批判の大合唱がよく起こるでしょ。ただでさえ息苦しいのに。
そもそもね、どこまでを配慮の範囲とするのか、だ。日本国内で天災が起こっていなくたって、地球規模でみれば、自然災害から戦争まで悪いことが起こっていない瞬間はただの一度もないと言ったっていい。バカのひとつおぼえで「不謹慎」と弾劾する人たちは、この先ひとつも歯を見せることはできない覚悟で生きているのだろうか。「きょうも一日しあわせでした」みたいな何気ないツイートに対して「シリア難民はいまだに故郷に戻れないというのに!」とか「ロヒンギャの人たちが受けた苦しみを考えてみれば!」なんていうコメントが大量に投げかけられる、そういう世界をあなたはお望み? わしはイヤじゃよ。
せめて同じ日本人として、みたいなことを言う人もいるかもしれないが、そういう「きずな」系のストーリーもさすがに色褪せているんじゃない? ネットが身近になったせいでいろいろな情報が望むと望まざるとに関わらず入ってくる。そのせいで、隣人のことはあまり知らないのに何百kmと離れた場所の情報を必死になって集めているなんて事態があたりまえになってしまっている、悪いことばかりではないけれど。でもさ、そういう「同じ日本人として」みたいな幻想だってそろそろ捨てたっていいんじゃないか、という幻想もその代替品として検討され始めてもいいのではないか。他者に対して、ときにシンパシーを感じることもあるし、そうでないときもある。でもそれは不謹慎だとか無関心を意味するわけではなく、われわれが知りうることや意識の範囲には限界があるということしか意味しない。
それに、日本日本とおっしゃいますが、日本といったって相当広い。どこまで想定した上での日本なのか。


唐突に話は変って、ヤフコメがたのしい。
2ちゃんとかはてブとか小町とかにかまけている場合ではない。やっぱりヤフー。
先月の27日にいよいよ週末に台風24号が来るというニュースが出たとき、そのニュースに以下のコメントがついた。
週末には舞浜の施設に行くつもりでしたが、台風上陸との事なので、延期するしかありません。子供達も久々に舞浜の施設に行く事を楽しみにしていましたが残念です。
この「だからどうした感」あふれるコメントにひっかかってはいけない。僕はまだヤフコメ素人なので、このコメが釣りなのか素なのか判別できないのだが、この時点ではとりあえず反撥せずにそのまま受け止めて、その反応(他のユーザーによるこのコメントへの返信)をチェックする。これがヤフコメをたのしむコツ。
そうすると、こんな反応が見られた(以下、すべて原文ママ)。
遊びが中止にことなんて大したことことはない。生きることが中止になる人がいるんだから。
いきなり怒られてしまった。これは「だからどうした」という感情を率直にあらわし、かつ大上段から説教をくわえるというパターン。書いている本人は「また名言を残してしまった……」と自己満足していそう。
その次がこれ。
ディズニーランドって言っちゃいけないの?
なるほど。たしかにコメ主は婉曲表現をしていて、それが気に食わないという反応は一定数起こるものなのかもしれないが、なにか思ったことがあったらすぐに言ってしまおう・書いてしまおうというのがヤフコメ民のルールなので、間合いなしでいきなり斬りつける。
金があるん羨ましいわ。俺にくれ
これまたストレート。ヤフコメ民に遠慮はない。説教やきついツッコミのみならず、いきなりせびるという方法もある。嫉妬から無心までノーモーションというこのスピード感こそヤフコメの醍醐味。さらに面白いのは、このコメントがけっこう支持を得ているという事実(そう思う: 21 そう思わない: 6)! まるで「せびられる隙を見せたコメ主が悪い!」と言わんばかりの空気感。そうそう、ヤフコメは基本、自己責任論者の溜まり場でもある。
おまえの予定なんかどーでもええわ。
生活にまだ苦しんでる人がおること考えろボケ
わかりやすい直の罵倒。いちおう被災者に寄り添っている体を装っているが、おそらく言いたいのは1行目だけ。
関東にも台風の影響あるでしょうが直撃する地域は行楽どこではない。
まさか1年にその日しか行けないの?
これも上と似ているやり方。被災者をだしに使い、かつ批難は婉曲表現。こんな見ず知らずのやつにスケジュールのことまでうんぬん言われたかないだろうが、逆にいえば、ここまでのコメントを引き出す元コメントの釣り力もなかなかのもの。
また、こういうのもあった。
舞浜の施設って(笑)
老人ホーム?
あるいは、
施設って?刑務所?(笑)
はじめはちょっと意味がわからなかったのだが、どうやらこの人たちは「施設(facility)」という言葉を、介護施設や刑事施設、あるいは児童養護施設などというなにか特定の場所のことだけを指していると思っているらしい。もっとフラットな意味での「施設(これ以上言い換えようがないのだが)」という言葉を知らないようなのだ。インターネットというのはこの種の基本語彙の覚束ない人たちが結構いて、たとえば「性癖」を「性的嗜好」の意味だと思っている人は実に多く、本来ならそんな意味はないということを聞いたらびっくりするんじゃないかと思うのだが、けれども指摘されたら指摘されたで、「言葉っていうのは流動的で、変化していくもんなんだよ」みたいなことをほざきそう。
……などなど、どのようなクリエイターでも、元コメからこのような多種多様の反応が導き出されるとは想像もできまい。興味深いのは、彼ら/彼女らのほとんどが、俯瞰の立場などではなく同じ地平・土俵でかつ全力でコメントし合っているというさま。そこらへんがはてブなどの、マウント目的のコメントや自称「大喜利」などという寒いコメント群に較べて100倍面白い。


話はまた戻る。
すくなくとも、ヤフコメに常駐している人たちも「同じ日本人」なわけで、「同じ日本人として」うんぬんというのならば、ここまでシンパシーの領域を拡張しなければ嘘になる。というか、「同じ日本人」発言って、ヤフコメ民こそ言いがちな気がする。
軽々に「同じ日本人」みたいなことを言う人は、日本人ならみな善良で慎ましくて、同情や憐憫に値する人たちばかりというイメージを持っているのかもしれないが、そういう発想の根本には人種差別的感情や自己民族優越感情のニュアンスが少し漂う。
昨今は小池百合子でさえ多様性を口にする社会ではあるが、その多様性を実現するためには、上記ヤフーコメントに見られるような、素朴で単純で想像力をあまり期待できない連中にも、その外部があるということを知らしめ、なおかつそこに参加させなければならないし、また一方で、自身を「そういう連中」とはまったく一線を劃していると認識している人たちも、「そういう連中」に対してある程度の歩み寄りをしなければいけないということでもある。
けれども、スポーツで活躍した人たちや藝術や科学などで表彰を受けた人たちを、簡単に「同じ日本人」として誇らしくなれるという羨ましいほどに単純なマインドをもってすれば、そのまったく逆方向に位置する人たちに対しても理解や折り合いをつけることは可能だろう。僕自身は、日本人というステータスにそれほど重要なものを見出だせないので、どちらに対してもフラットな感情しか持てないけれども、多様性という意識の訓練には積極的になろうとは思っている。