サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は原題が『The Catcher in the Rye』で、村上春樹訳ではタイトルものそのまま『キャッチャー・イン・ザ・ライ』としている。
これは主人公のホールデン君が自分の夢だか理想を語っている部分で出てくる言葉で、ライ麦畑で遊んでいる子どもたちが崖から落ちないよう自分はそれを救ってやる(=キャッチする)のだ、という意味。要は、イノセントな存在である子どもたちが道を誤り、薄汚い大人にならないよう僕が守ってやるんだ、というとてもセンチメンタルな話なんだよね。大人になってから読むと「ふうん」で終わってしまうかもしれないけれど、二十歳前後くらいに読むと、いまでも感銘を受ける人は多いんじゃないかな。


話は変るけれど、『西郷どん』を例によってまーったく身を入れずに観ているというか視界の端に入れているのだが、最近の西郷は慶喜打倒の鬼になっている。それが視聴者にあまりにも共感を得られないと製作側が察知したのか、関ジャニ(従道だっけ?)の視点を第一人称的に入れて「兄さ兄さ」言わせてなんとか興味・関心を引き延ばそうとしているようだけど、なんかもうちょっと違うやり方なかったのかなと思わないでもない。つまり歴史的事実はともかく、いままで「敬天愛人」を実践してきた「吉之助さ」が人が変わってしまったかのように見えるのには実はのっぴきならない理由があってうんぬん、みたいな近年大河でも採り入れられている手法をすりゃよかったのではないか。もしかしたらすでにやっているのかもしれないが、きちんと観ていないのでわからない。でもファンは毎週毎週殺気立った鈴木西郷を観ていてたのしいのかな。
ほかにもいろいろな点で不満があるのだが、なにかあると鰻が出てくるのにも食傷気味。家族への愛情の象徴としての鰻、郷里の幼馴染たちとの思い出の象徴としての鰻、江戸から遠く離れた薩摩の象徴としての鰻、命からがら逃げてきた旧体制の権力者がすがりつく栄光の象徴としての鰻等々、これらがまったくくどいように出てくるのだが、ここで伝えたいのはつまり……絶滅危惧種とかなんとか言われてるウナギだけど、われわれ日本人はこうやって昔から食べてきたんじゃい! よそから文句言われる筋合いあるかい! ということなのかもしれない。
桜田門外の変が死ぬほどちゃちかったとか、風間俊介の扱いがひどすぎるなとか、いろいろと言いたいことはあるけれど、松田翔太(慶喜)と高梨臨(ふき)の芝居のひどさが何物にもまさってしまうので、ついつい興味はその学芸会っぷりに集中してしまう。
以前、西郷と仲違いする直前に、慶喜が腹に一物を隠しながら西郷ににっこりと笑うみたいな場面があったのだが、ふつうに考えれば慶喜はなにか企んでいるんだなと視聴者にわからせる、ある意味では記号的説明シーンであるはずなのに、松田が下手すぎて、「いや待てよ、この表情はさらに裏の裏の意味があるのかもしれない、ということは……本心で笑っているのか、いやでもやけに不自然な笑いのような……いやでも、松田は以前から不自然な演技だったし……うーん、この慶喜、頭がおかしくなったのか?」みたいに深読みの泥沼にハマってしまった。ふきどんも、子役があんなにうまかったのになあ。
弟と電話で話すたび、このふたりのひどさで盛り上がっていたものだが、あるとき、その二強体制を崩そうという猛者が出てきた。エンケン海舟である。『氷川清話』をたのしく読んだ者としては、イメージがまったく違っている。江戸弁らしきものをしゃべっているつもりらしいが、そう聞えない。と思って調べてみると遠藤が東京の品川出身ということで二度驚いた。エセ関西弁をしゃべるなこいつ、と思っていたらホンモノの関西人だった、みたいな驚きよ。でも江戸弁というのは、すくなくともだいぶ耳にしていないと話すことはできないのではないか。
ということで、いまのところの西郷どんは二強+α体制が中心に据えられてあって、そこにしょうもない鶴瓶がちらほらするという形かな。

同じNHKでいえば新しい朝ドラが始まって、安藤サクラが痛い演出をつけられているのを確認した。まだ2話目くらいしか観ていないのが、まず、NHKが松坂慶子になにか借りがあるのかってくらい重用していることにそろそろ腹が立ってきた。貧しいという設定のはずなのにどうにもそう見えない原因の半分くらいは彼女の肥え具合――お上品に言えばふくよかさ――にあるし、どの時代の誰をやろうと金太郎飴みたいに松坂慶子をやっているだけであって、いっそ、もう誰かが背中におぶって桜島に連れて行ってほしい。内田有紀も「またおまえか」みたいな状態で、同じ年のなかで大河と朝ドラを掛け持ちする意味ってなんなの?って思う。そんなに役者足りてないのかね。
あと全体的に「これは、こういう意味なんですよ、わかりましたかー、それじゃあ次は、こういう意味ですよー、わかりますかー」といちいち噛んで含めるようなカットが多くてまだるっこしい。バカにしているのかと腹が立ったが、実際バカにしているんだろう。
また、安藤サクラが同僚のコックに缶詰もらったときに、「なんで、うちにくれたんだろう?」みたいな独白をしたのだが、こういう、朝ドラのヒロインゆうたらうぶでっせ、おぼこでっせ、どや、かわいやろ?みたいな演出(しかも、それを強調するために、この部分はとてもゆっくりと発声させていた)はいいかげんやめたらどうか。
20年近く生きてきて、たとえ女子校だったとはいえ、異性にものをタダでもらったのなら、「うちに気があるんかな?」くらい考えないのだろうか。もしそう思えなかったら反対に、「お、なんやわからんけど、もうけたわ」じゃないか? そのいづれでもなく、「なんで、うちにくれたんだろう?(ゆっくり)」って、これ、壊れかけのポンコツ機械並の反応で、うぶとかおぼことかじゃなくて、人並みの働きができるかどうか心配になるレベル。そいつが家に帰ればよく肥えた金太郎飴がでーんといて、いまのところ腹を痛がっているんだが、これ、どこをどうやって「あしたも観よう」と思えるのだろうか。土曜日分まではなんとか観てみようと思うのだが、いまのところは苦行でしかない。

ついこのあいだまで、今年の演技力ワーストは松田翔太と高梨臨とで決まりだな、なんて思っていたのだが、さにあらず、『この世界の片隅に』の古舘息子が易々と彼らを上回って……いや下回ってしまった。彼の榮倉奈々との会話での第一声で、「あれ? これが本番テイク?」と不思議に思わなかった人がはたしてどれくらいいただろうか。いままで、けっこうな下手くそな芝居というものを目にしてきたつもりで、実際、西郷どんにおける松田も高梨も「これほどひどいのはそうそう観られんなあ」と却って嬉しかったくらいなのだが、実はその芝居というものがそれなりに演技として成立していたということを、古舘の存在をもって認識するはめになった。
下手ということは実はどういうことなのか。そもそも、セリフとはなにか。表情とはなにか。演技とは、いったいどういうものだったのか。古舘の存在がわれわれ視聴者に突きつけた問いは、非常に大きい。もちろん、小さな問いもあった。われわれは、贅沢を言い過ぎてはいなかっただろうか。まずい料理に対して「こんなの食えないよ」とブーイングしたことがあったかもしれないが、食卓に昆虫が並べられたとき、「ああ、あのときの料理はたしかに『料理』だったのだなあ」と懐かしむことに似ている。そのような再認識を促す異次元の演技(?)を見せてくれたのが古舘息子なのであって、われわれはある意味では彼に感謝しなければいけないのかもしれない。
そしてまた同時にこうも思ったのである。「ああ、彼は2018年第3クールのキャッチャーなのだ」と。今季のあらゆる役者たちが崖に落ちそうになっても、古舘息子がそれを救ってくれる。だいじょうぶだ、おれより下に行くことはない。おれが、ここで、このいちばん低いところで踏ん張っているから。だからきみたちは、すくなくとも『いちばん下手』の汚名を受けなくてもいい。おれが、ぜんぶ引き受けるから。おれが、ここにいて、みんなをきちんとキャッチするから。J・D・サリンジャーの1951年の比喩は、現在でも通用したのだった!
と、むしろ古舘の登場をたのしみにしながら、それでもまーったく身を入れずに視界の端に入れていたのだが、そのドラマの終わり間近で、いきなり松坂桃李の同僚がしゃべりだした。近所の者を呼び集め、その前で伊藤沙莉の兄貴が死んだという話と、伊藤沙莉と婚約したという話を同時にする、みたいなかなりシリアスな場面でのセリフが彼の初回(たぶん)のメインカット(それまでモブ的には出演していた)だったのだが、彼の第一声によってそれまでの緊迫したムードがぶち壊しになり、それどころか悲劇が喜劇になってしまって、画面上の人物たちの嬉し泣きの様子が、純粋な笑い泣きにしか見えなくなった。もし、それ以前に松坂の同僚として話すシーンがいっさい放送されていなかったら、カメラテストのためだけにしゃべらされたスタッフ(国民服は着ていたものの)のシーンをそのまま放映したのかと訝しむくらいで、芝居の上手/下手という概念が、これまた瓦解することになった。そして、あらためて松田・高梨(そしてエンケンも)の演技が、まだ演技の形態を保っていたことに気づかされたのである。あれでもまだましなのだ、と。
つまり、キャッチャーはふたりいたのである。