※はじめ、このブログ記事は「今年の夏もアイドルによって救われた、という話」にする予定だった。

ひと月ほど前、いや、もしかしたらもう何ヶ月も経ってしまっているのかもしれないけれど、菊地成孔がそのラジオ番組でジャニーズアイドル(キンプリというらしい、初耳だった)を取り上げ、くわえてそのファンの動向も追っている、というようなことを話していた。いわく、インスタグラムにキンプリのチケットの画像をアップし、「#これで生きていける」というような彼女たちのコメントが宗教告白のように感じられた、というような。彼の当該アイドルに対する分析――音楽というよりむしろダンスや歌の歌詞部分についてのものがメイン――はいつもながら華麗なものではあったが、しかしファンに対するそれはなにも目新しいものではない、というのが僕の率直な感想だ。アイドルファンなんて前々からそういうものだよ、と。むろん彼は、いままでほとんどスルーされてきた(であろう)中高年世代の女性ファンがその歌詞のなかではじめて承認されたということが感動的なのだという説明をしていて、たしかにそれはそうなのかもしれないが、しかしだからといってそのことが、僕の価値観を揺るがすということはまったくなかった――つまり、ファンたちの献身性やひいてはそこから見えてくるアイドルそのものが持っている宗教性および偶像性などについてはずっと以前から認識しており、それらは確固たる事実としてこれまでも存在してきたし、またこれからも存在していくだろうということだ。これは、僕なんかよりもっとこの界隈を体験し味わっているアイドルオタク(ドルヲタ)の人たちの実感の総体でもあろうと思う。日頃あまりアイドルについて興味がないというかむしろ小馬鹿にするのをマナーだと思っているような人たちは「菊地さんがまたすごいことを言っている!」という驚きとともに新たな「発見」として捉えのるかもしれないけれど、日常からアイドルに慣れ親しんでいる人たちにとっては「なにをいまさら」の一言で終わってしまうようなことにも感じられた。アイドルそのものに対する「尊い……」というジャーゴンはあるし、すくなくとも僕はそれをファンに対して何十回使ったかしれない。ちょっと正確ではないかもしれないけれど、でんぱ組.incの夢眠ねむ(=ねむきゅん)だって、ヲタクへの愛着からアイドルそのものへ興味を持ったというような経緯があったという記憶がある(どうでもいいけれど、夢眠って「むーみん」って読めることにいまさら気づいた)。そのような「視点」は、目新しいどころかむしろとても古典的だということだ。
まあ、いいんだ。誰かがいまさら発見したり指摘したりしたくなるのがアイドルのすばらしさというもので、これまでもずっとそういう「新発見」や「価値観の大転換」というものはあったし、これからもずっとある。いや、それはアイドルに限らないことなのだ、ほんとうは。僕はこの世の中に野球がなくたってまったく構わない人間なのだが、そのファンたちが熱く思いを語るのは大好きでいくらでも聴いていられる。実際、去年観た多くのミュージックビデオのなかで最も感動したものは、難解で前衛的なミュージシャンのものでもなければ、マニアックでエッジの効いたアイドルのものでもなく、オジロザウルスの『OUR TIME IS N.O.W.』だった。

これを、何十回再生したかわからないってくらいに時間さえあれば観ていた。去年はまったくの0回、この数年間あわせてみてもたぶん一試合すらまともに観たことがないくらいだから、もしかしたら野球というものは誰か大勢の人たちが時間と手間をかけてそういうものがあるのだというふうに見せかけているだけの壮大なフィクションなのではないかと思えることもしばしばあって、たとえそうであっても、前述したように僕は一向に気にしない。そうでしたか、野球っていうのは実在しない想像上のスポーツだったんですね、へー、というふうに。そんな、村瀬秀信『4522敗の記憶』を耽読したとはいえ横浜ベイスターズに対してはほとんど感情移入もない僕だったけれど、上掲動画0:54に登場する女性の祈る姿、この一瞬が、去年観た他のすべての動画を圧倒した。これこれこれだよ、と。この姿によって、野球というものがやはり実際にあるらしいということが確信される。大阪ローカルラジオ局を聴いていた時代によく耳にした六甲おろしも、架空の楽曲ではなく実在の球団への実在の応援歌なのだということも確信される。さらには、そのファンたちの自分の人生の一部を惜しみなく捧げる美しい姿を見てはじめて、その対象の尊さを知ることができる。もしこんなふうに人間を本気で怒らせたり笑わせたり泣かせたり悲しませたりするようなものがあるのなら、それはきっと尊いものに違いないと。
アイドルもそういうものなのである。僕の現在のアイドルへの関心が生じたのは3回ほどきっかけがあって、軽いものでいえば、AKB48の『大声ダイヤモンド』を地元の中学生たちが一所懸命フリコピしているのを見かけて「こんなに男子女子とも本気になれるAKBってどんなのよ?(実はインディーズデビューシングル『桜の花びらたち』はそのリリース当時にCDレンタルしていた、彼女たちが有名になるずっとずっと前のことだ)」と気になったことがまずひとつ。もうひとつは知人の薦めで観たももクロの『Z女戦争』のライブ動画で、彼女たちがかなりキーを外しながらダンスしていることに衝撃を受けそこから気になりだしたのだが、やはり最終的な沼に落ちた瞬間は、でんぱ組の『くちづけキボンヌ』の動画で、間奏明けのねむきゅんパート(3:15~)のケチャの美しさを観たときだった。
これはいままでに何度か書いてきたことがあるのだが、このときはもちろん「サイリウム」とか「ケチャ」なんて言葉も知らず、ただ「ミントグリーンに光る棒」としか認識できないもの、それを何本も持った客席の男性の文字通り捧げるように振る姿に、「おれはいま、ものすごいものを目の当たりにしている!」という謎の感動を覚え、涙が出そうになった。実際、泣いたのかもしれない。余談だが、島本和彦のマンガ『アオイホノオ』第1巻の第2章の最後で、マンガ家を目指してはいるもののまだ何者でもない大学生のホノオが、ふと入ったうどん屋でマンガ雑誌を手に取り、そこに載っていた高橋留美子の『うる星やつら』を読んで「いかん、俺の心の何かが持っていかれる!?」と衝撃を受ける。この回の最後のコマは、無理言ってうどん店主に譲ってもらったその雑誌を片手に、彼が泣きながらうどんをすするシーンなのだが、この回を僕はリアルタイムで読んでいた。コンビニで今はなき『ヤングサンデー』をたまたま立ち読みしたとき、たしか今のような連載という形式ではなく、何回連続だかの読み切り短編ということで掲載されていたと記憶するのだが、このシーンを読んで、まさに僕自身が主人公のホノオのように感動を覚え、やはり「おれの心の何かが持っていかれる!」という気持ちに陥った。それを別の言葉で言い換えれば、「おれはいま、ものすごいものを目の当たりにしている!」というものだ。人生のなかで、そういう瞬間はときどきある。意図せぬ方面から、また期待などまったくなかった方角からそれは、予兆なしに刹那的に暴力的に一方的にやってきて人を襲う。それを知る前と後では、人生がちょっとだけ、あるいは大幅に変ってしまう。ねむきゅんに捧げられたケチャの美しさ・尊さによって僕は、アイドルというより、アイドルファンに興味を覚え、爾後、YouTube上ででんぱ組ヲタたちのコール動画というものを漁った。彼女たちのオリジナルMVはそっちのけで。そういうものを何十回と再生していくうちに、大学生と思しきヲタたちのたのしく踊っている様子を見て「ああ、おれが大学生のときにもしでんぱ組がいたら、こういうサークルに入ってみんなと踊っていたかなあ」と夢想することもまたたのしみのひとつとなっていた。もちろん、「いや、やっぱり踊っていなかっただろうな」という結論でその夢想は毎度打ち破られるのであるが。しかし、ファンをずっと観察していくとそのうち、上述した野球の例のように、そのファンたちが尊敬し愛してやまないアイドルそのものに対しても興味を抱くようになる。全通することなどまったくいとわないおまいつと呼ばれるようなディープなファンたちが、人生のかなりの部分を割くことにまったく躊躇しない対象というものはいったいどういうものなのか、それが知りたくなってくるのである。結論からいえば、これでもかってくらいにめちゃくちゃ言い訳をつくって遠回りした挙げ句、問題に正対し直視した瞬間に簡単に恋に落ちちゃったっていうそういう話。
ここでまた話は変るのだが、僕の仕事は春先から秋にかけてだいたい忙しい。忙しい自慢というわけじゃないけれど、「自慢するわけじゃないけれど」という言葉につづくのはだいたい自慢話であって、そりゃあ失業している人からすれば自慢みたいな内容になってしまうのかもしれないが休みなんてまったくとれない。忙しさのピークに入ってしまえば連休どころか半日休みをとることすら難しく、毎朝毎朝4時に起きて5時くらいにはもう車をぶっ飛ばす日々が最低2ヶ月間はつづく。しかも(これはもう100%自己責任で仕事とはまったく無関係なのだが)夜遅くまで起きているせいで、朝は眠い。脳味噌が半分以上夢の世界に浸かって半液状化しているようなこんなとき、いったいどうすればガードレールを突き破って谷川に落ちて行かずに済むのであろうか。きついメンソール系のガム? 強烈な炭酸飲料? あるいは覚醒するためのおクスリ? Creepy Nutsじゃないけれど合法的なクスリは、やっぱり音楽だろう。それもBMPの速い。となると途端にアイドルソングがプレイリストの上位に並んでくる。激しいリズムと、エモーショナルなリリック。そして、それを唄っているカッコいい女の子たちの映像が付随してイメージされる。2018年の夏ってどんなだった?という問いがあったとする。ヘビに喰われた四羽のツバメの雛たち、旱天の八月に長雨の九月、一件の葬儀と、大きなふたつの台風の直撃、およびそのうちのひとつによってもたらされた七十二時間の停電と二十四時間の断水など、それなりの小さな出来事があったが、それらのことはほとんど忘れ去ってしまった。ただひとつ、この曲に僕の記憶のすべてが詰まっている。今年の夏のすべてが。
やっぱり今年の夏は虹のコンキスタドールの『ずっとサマーで恋してる』が最もすばらしかった。いまだに、いまだにこの曲のDメロを聴くと涙が出てきてしまうのだが、これはきっと「夏のおセンチな気分」によるものなんかでは決してなく、この歌詞の持っている力強さによるものなのだと信じている。
生まれた意味が"キミに逢う事"
ただそれだけだったとしても最高じゃないかっ!
今を生きる わたしたちは 無敵だっ!!
勝手な推測だがもともとこの歌は、虹コンの夏ソング、『THE☆有頂天サマー!!(2015)』『限りなく冒険に近いサマー(2016)』『キミは無邪気な夏の女王〜This Summer Girl Is an Innocent Mistress〜(2017)』につづく4作目というふうに位置づけられるもので、ひとりの女の子の成長のようなものが感じ取れる。『有頂天サマー』では、「人生は欲張って いいのだ」「青春は胸張って いいのだ」として、けれども最後に「ぜんぶ ユメでも いいのだ」とサゲる。オチといってしまうと言い過ぎで、これはもちろん積極的になりたい女の子の自己防衛本能みたいなもの。それが、翌年の『限りなく冒険に近いサマー』のなかでは「去年みたいに全部が  夢でいいなんて思えない」という歌詞がでてきて、前曲にあった保険みたいなものも取っ払ってより積極的になるという宣言をしているが、その一方で「少し背伸びな 女の子でもいいよね?/なんたって 夏が悪いんです♪」と、自分の積極性を「夏のせい」にしている。夏を理由にしてちょっと頑張っちゃいますよ、という歌ね。それが、その翌年の『キミは無邪気な夏の女王』のはじめのほうでは、「パリピになりたいなーーーっ!!!/なんちゃって♪」とか「ギャルならモテるかなーーーっ!!!/なんつって♪」などと韜晦しつつ、最後の最後でひっくり返す。
わたしは わたしを生きてくんだ! わたしは わたしで生まれたんだし!
わたしは わたしを生きてくんだ! もうっ!(夏のせいじゃない)
わたしは わたしを生きてくんだ! わたしは わたしで生まれたんだし!
わたしは わたしを生きてくんだ! もう…
(夏のせいにも 恋のせいにも 誰のせいにもしないっ!!)
これ、毎年一曲づつ聴いてきた人間からすると、グッときちゃうんだよね。ただのラブソングっていう言い方もないけれど、彼氏がほしいとかたのしい夏を送りたいなんていう牧歌的なところから一段高次の話になっていて、人生肯定の歌、まさしく人生讃歌になっている。それが今年の歌でどうなったのか。
『ずっとサマーで恋してる』では、ヒロインの好きな男の子が別れた過去の彼女のことを引きずっていて、それをもどかしく思っているところから始まる。ここにいるぞ、と。あなたはそこでまだウジウジしているけれど、ここに、「思い出の中のあの子」なんかじゃなく、「リアルすぎるくらいにリアルなわたし」がいるぞ、と。と言いつつも、それじゃあ自信満々なのかというと、ほんとうはそうじゃない。「あの子」との比較のなかでヘコむこともあるし、ムリと思ってしまうこともある。けれども、それでも、「夏を一緒にはじめよう」「どうかミライを探そう」という。そこで先述したDメロになる。
生まれた意味が"キミに逢う事"
ただそれだけだったとしても最高じゃないかっ!
今を生きる わたしたちは 無敵だっ!!
上の2行だけでも最高。まごう方なき人生讃歌であるし、これ以上ない自己肯定感に満ち溢れている。けれども、最後の行で「わたしたち」と出てくる。単なる「わたし」ひとりの肯定だけではなく、「わたし」と「キミ」ふたりだけの肯定でもないのだ。僕はこれを、「”現在”を生きている」と実感しているすべての同時代人たちへの讃歌、エールだと受け取った。言うなれば人類讃歌である。なので、何度聴いてもこの部分が流れるたびに感動してしまう。まだ気の遠くなるほどの暑さの予感はないとはいえ、泥のように重たい頭を抱えた早朝に聴けばなおさらだ。また、「無敵」という言葉もいい。でんぱ組.incの『Future Diver』のなにがいいかって、「無敵だもん」という歌詞。無敵という単語のこのような遣い方というのは、たぶん、スーパーマリオなどのゲーム界から来たものだという実感があるのだが、この単語を非常にうまく作中で扱ったものに、松本大洋のマンガ『ピンポン』がある。ふたりいる主人公のうちのひとりがもうひとりに「(卓球が)強いんだ?」と訊くと、「無敵だよ」と答えるシーンがあって、ドキドキした。すくなくとも僕がそれまでに見聞きしていた無敵という言葉は、ゲーム中やごっこ遊びの中にしか出てこず、幼稚で言葉足らずな世界でしか通じないという印象だったのが、『ピンポン』の上記セリフによって市民権を得たというか、シリアスな場面でも通用しうるもの、という認識を得たはじめての体験だった。つまり、言葉の意味がアップデートされた瞬間だった。そのような僕の個人的な経験に照らしてみるとさらに、「今を生きるわたしたちは無敵だ」というフレーズは響く。そしてさらに歌はつづき、最後に「この夏が過ぎ去っても歌い続けようぜ」と出てくる。形式的にいえば、この部分はそのあとの「わたしの声よ届け」にかかっていくわけだが、けれども独立してとらえることも可能で、この歌の持っているテーマ「人類讃歌」は、夏が終わっても響きつづけるという宣言のようにも聞えるのだ。
こうして夏のあいだ、この曲が僕を励ましつづけてくれた。YouTubeからモニョモニョした音源をウォークマンに入れ、何十回何百回とリピートした(もちろん9月12日リリースと同時に盤は入手したのだが、それにしてもサマーソングだというのにこのリリースの遅さよ!)。ちなみにオススメはライブ版で、アイドル横丁のVer.も、TIFのものもいい。ところどころ息が切れ、多少の音ズレがあろうと、いや、それだからこそこの歌は心を打つ。つまり今年の夏も僕は、アイドルの曲によって救われたのだった。いかに音楽史的・藝術的価値があるとはいえ、もしもジョン・ケージの『4:33』がウォークマンのイヤフォンから流れていたとしたら、確実に僕の軽トラは僕を載せたままガードレール――それは9月4日の台風による倒木で縦方向にぺしゃんこになる運命を同時に有していた――を突き破っていただろう。静寂と眠りとが渾然一体となり、形而上学的な死と、時速80kmで迎える物理的な死を同時に経験したに違いなかった。
虹コンについて蛇足を二、三点。個人的に水着モノのMVが苦手で敬遠しがちだったが、YouTube上にアップされているライブの動画などはほんとうにすばらしく、これはぜひ盤で発売してほしいもの。また、必ず盛り上がる名曲『トライアングル・ドリーマー』はレズビアンとストレートとの思いのすれ違いを描いた意欲作ではあるものの、その同性愛の扱い方がネタ的というか、いわゆる「百合モノ」の範疇に収めているところが非常に残念。友人だと思って恋バナ相談をしていた女の子に思いもよらず告白され困惑している、という内容だが、
普通の恋 夢みてたのに
ノーマル設定のわたしじゃちょっと無理ゲーすぎます!
という歌詞は、リリース当時(2015年)にはどうにかこうにか通用したかもしれないが、2018年ではどうしても周回遅れな印象。「ノーマル設定」なんていうキーワードは、いかにもゲーム好きへの目配せとしてかなり気の利いているリリック(もちろんその直後の「無理ゲー」にかかっている)だとは思うが、「普通」とか「ノーマル」という価値観の再考・再認識が問われているのが現在。唄っているアイドルたちには毫も文句はないけれど、歌詞の一部をちょっとでも変更してくれれば、より多くの人間が愛唱できるいい歌だと思うので、実現可能性は低いけれども運営に期待したい。虹コンって、上述したとおり水着モノのアピールでなんとなく男性向けみたいなイメージを作り上げようとしているのかもしれないが、めちゃくちゃカッコいいので、異性愛・同性愛にかかわらず女の子にこそ聴いてもらいたいと個人的には思っている。あと最後に、「虹コンって、12人もいますけどみんな憶えるんですか?」という無邪気な質問には、上條恒彦の声真似でこう答えよう、「仲間はずれをつくっちゃかわいそうじゃねえか!」 

……なんてことを書いてきたところで、偶然だが、夢眠ねむが来年はじめにでんぱ組卒業&芸能界引退をするというニュースが飛び込んできて、衝撃を受けた。今年は、2月にアイドルネッサンスの解散があって、それ以上に心に傷を受けることはないと思っていたし、アイドルに心を奪われるなんてこともきっともうないのだろうと思っていたところ、その傷を癒やしてくれたのが、3月にYouTube上で公開された、でんぱ組.incの『ギラメタスでんぱスターズ』だったのだ。
これは嘘偽りなく本当のことで、「このタイミングで青春してんだな」とか「新しいって最高だ」なんていう歌詞のいちいちが、僕のようなアイドル初学者にもグッと響いた。以前にも書いたことがあるとおり、アイドルは文脈を消費するコンテンツ。彼女たちが唄うからこそ、この歌詞にはものすごく大きな意味が付与される。だから、僕の今年のベストはすでにこの歌に決定していた(ちなみに、2位が『ずっとサマーで恋してる』)。しかも3:53あたりの彼女のパート、「いち に さん し ご ろく しち」がとても気に入っていて、彼女の、いつもどおりのアニメ声ではなく、ときたま出るこのような芯のあるしっかりとした声がとてもいいなあ、とうっとりしていたくらいで、それだけに、きょうのニュースは辛く、苦しい。11月にソロアルバムがリリースされ、また、来年はじめにはでんぱ組のニューアルバムがリリースされるというニュースが出たばかりだった。いやあ嬉しいなあ、今年のアイドル業界は暗いニュースばかりだったけれど、でんぱだけは希望の光を感じるよなんて思っていたところだったので、当然のことながら、まだ心の整理はついていないし、きっとつかないままなんだろうと思う。すでに書いたとおり、彼女こそが、僕がアイドルに興味を持つ大きなきっかけとなった張本人であり、彼女は僕のなかではとても大きな象徴的存在だった。彼女が自身を「夢眠ねむの中の人」と呼ぶことからわかるようにとてもクールなメタ視線を持つアーティストという側面も含めて。
いつもどおり、悲しみはなかなかやってこない。ショックや驚きがあるだけで、これからやってくるであろう大いなる喪失感の準備すらできていない。彼女がいなくなるということで、成瀬瑛美(えいたそ)までもがいなくなってしまうのではないか――新メンバーの根本凪、鹿目凛のカラーはグリーンとたまご色で、オリジナルメンバーである夢眠ねむのミントグリーン、成瀬瑛美のイエローと酷似している、というのが気になっていたので、今回ねむきゅんが辞めてしまうということは、えいたそまでもが?とつまらぬ予想をしてしまったのである。つまり、混乱しているのだ。けれども、時間は止まることはないし、彼女だけに限らず、一度アイドルたちが決定したことを、他の人間たちは快く見守っていくしかない。われわれにはそうすることしかできない。とても無力なのだ。
これから5年後、あるいは10年後となって、いまの時代を振り返ることがあるだろう。もしかしたらそのときも僕はアイドルに興味を持ちつづけているかもしれないが、あるいは、すっかり遠ざかっているかもしれない。けれども、たったひとつのことだけはきっと憶えているに違いない。狭く小さなステージで唄う彼女に向けられた、あの美しい手振りと、その手に握られたサイリウムのミントグリーンの光のことを。それはもちろん、いまの僕の心のなかにもあるし、5年後、10年後にも光りつづけていることだろう。彼女の明るい未来を照らすために。
夢眠ねむさん、ありがとう。