まあ、もとのマンガの絵柄をはじめて見たときから、センスのまったくないやつの描いたもんだってことはわかっていた。ネタとして、装置として、ファッションとして、あるいはコスプレとして落語というジャンルがたまたま選ばれただけで、そういう即席の、対象に対する知識や愛着、それに敬意というものが完全に欠落しているであろうイラストの集まりみたいなものを、すこしでも落語を聴いて心を動かされたことがあったればこそ僕は、とうてい受け容れることができなかった。読んでないからわかるはずない、みたいなバカなことを言うアホのことなんて気にしても仕方ないけれどそのくらいはわかるよ。そのくらいには落語を聴いてきたから。
それがアニメ化されていたというのは風の噂で聴いていて、それが今回ドラマになったという。とりあえず一回目を観てみようかと録画してみたが、これがひどい。なにがひどいかって、きっと(原作者からしてそうなんだろうと踏んでいるくらいなんだが)制作スタッフの誰一人として落語というものを見聞きしたことがないんだろうなという出来。外国人がつくった「ジャパニーズ・カラテ映画」のはずが、いざ蓋を開けてみればみんな柔道をやっていた、程度の内容、レベル。ああそうか、いまは「異世界もの」なるものが流行っているというから、これはきっと異世界におけるコメディショウのことをたまたま「ラクゴ」と呼んでいて、それを観ている側(時代遅れの僕のこと)のほうがうっかり勘違いしてしまったということか。20分しか観ていないのに「総じて」なんていうのもおかしいが、総じてデキの甘いヅラ(刑務所のところも含めて)をかぶった連中の演技は、さながらコントである。
役者もひどい。岡田将生は『ゆとりですがなにか』でとても好きになった役者だが、特殊メイクをして老人めいたしゃべり方を強制され、あまつさえその口調で落語のマネゴトをさせられるという、いったい彼の前世にどのような悪業があればこんな仕打ちを受けることになるのかと同情さえしたくなる。その弟子役の竜星涼は、同じ『ひよっこ』に出演(彼は警官役だった)した者同士で負けてなるものか、と古舘息子へ猛追撃、これまた「下手」の概念を根底から揺るがしにかかっている。しかも今回は成海璃子――こちらは確実に呪われているレベルの芝居下手――という超強力なライバルがいて、このふたりが落語の稽古らしきものを演じた時点で、はい終了。笑いすぎてもうやめます。まあたしかに、大笑いできるハートウォーミングなドラマだとは思うけれどもさ。

大学2年のときだったかにアルバイトをしたリストランテでの初日、同じ大学の同じ学部出身者――僕が学外で出会った同学部生三人のすべてが留年していて、もちろん僕も二年当時ですでに留年が決定していたのだが、それだけでもひどい大学のひどい学部だってことがわかる――である先輩バイトが僕にハウスワインを紹介してくれ、それに「まあ、こんなものでもおいしく飲める人たちがいるんだもんね。幸せだよね」とつけくわえたことをよく憶えている。それに対する僕の心の中での反応は、「ひどいな」の一言に尽きる。なお、同リストランテでクリスマスを迎えた日のこと、イタリア人のシェフがスタッフを集めて言ったことには、「きょうは、いつも来るお客さんと種類が違うから、適当にあしらってどんどん回転させてね」だった。当時は(いまでもそうなのかもしれないが)、クリスマスといえば日頃外食に慣れていない人たちでもそれなりに有名なレストランをガイドブック片手に調べ、予約し、カップルでやってきて食事をしたものだった。もちろんそのシェフの言葉に対する僕の反応も、「ひどいな」だったが。
けれども、いまとなっては――ハウスワインうんぬんはともかく――「こんなものでもたのしめる人たちがいるんだもんね、幸せだよね」というのは、発言の背景が異なればあながち間違った言説ではないのかもしれない。キャスティングの「○○くん/××ちゃんだー」というだけで喜ぶ人たち、原作/アニメのファン、それから、とにかくもう批判なんてしないんだ、ただ受動するだけなんだ、そのなかからいいところを見つけるだけだ、という死ぬほどポジティブな方々。そのいづれか、あるいはその全部に該当するのであれば、たしかにドラマを観て苦しみに悶えることもないかもしれない。それはそれで、皮肉や嫌味ではなく幸せなのかもしれない。たとえ皮肉や嫌味だったとしても、「向こう」のほうからしてみりゃこっちの方が、頑なに「新しいもの」を拒みつづけてコムズカシイことをネットに垂れ流している性格破綻者ということになるんだろうから、なにお互いさまよ。

およそ落語を題材にするフィクションが陥りやすい罠として、落語を過度に藝術的にとらえ、その技術を神格化し、粋だの色気だの艶だのと言い出すんだが、そういうことを言うやつに限って、実際のものを見聞きしたことがないんじゃないかな、なんて思っちゃう。で、それを読んだり観たりした人間が、同じように落語を神格化しちゃう。めちゃくちゃ極論だけど、このマンガの作者、古谷三敏の『寄席芸人伝』を読んだだけなんじゃねって思っちゃうのはそういうところから。僕も大昔に流し読みしただけだから断言はしにくいのだけれど、誰それが『鰍沢』を演ったら真夏なのに団扇を振る手が止まった、とか、誰それが『時そば』を演るとそばがよく売れた、とかそんな感じで、ただの噺家目録漫画という印象だった。代表作『レモンハート』同様にね。あれをまさか、酒と人生ドラマの物語なんて言う人はいないでしょうよ。ただのアルコール商品のカタログだよ。
そういう実感を伴わないイメージ商品に汚染された感覚によってあらたに生み出されたイメージ商品のアニメ化、さらには実写化、をまともに受け取っちゃだめだろう。ははは、まあこういうファンタジーもあるよね、みたいな寛大な態度で鑑賞するという自覚を持っていないのならば。



……という批判をして、さあ寝よかいと思ったのだが、しかしこれでは夢見が悪かろうと成海璃子の『死神』の後を観たのだが、まあやっぱりひどいもんだった。ただ、ひよっこ警官がいちばんまともだったのは、実は初高座の『寿限無』――これがガチガチに緊張していて客も見えておらず大失敗した高座だったという設定なのだが――の導入部でのやりとり。感情を入れずに(芸が未熟すぎて入れられない、ということなんだろうが)いちおうは上下(かみしも)に振ってセリフをしゃべっているところ、これが意外に口についていて驚いた。監修が喬太郎なのだが、たぶん彼について一所懸命稽古したということが伺えて、なんだよ、その熱心さをほかの演技にも活かせよ、と思った。
談志だか米朝だかどっちか忘れたが(えらい違いだが)、入門者にはまずそれ用の噺(米朝一門だったら『鶴』だったはずだけど、立川だったら『子ほめ』とか『たらちね』かな?)を与え、上下に分けてセリフを丸覚えさせ、とにかく棒読みでよいからひたすらしゃべるという稽古をさせる、みたいな話をどこかで読んだ憶えがある。そういうやり方をこのひよっこ警官もしたのかもしれない。ともかくも、ド下手だと思っていた役者の口から、思いもしなかった練習量の感じられる発声が聞かれたのは面白い体験だった。
そして、想定外のことにそのあとの『出来心』もけっこうよかったのである。僕は『花色木綿』という題で憶えていたが、これをやはりひよっこ警官は一所懸命演じていて、その一所懸命さがちょっとよかったのである。地の演技、というのか、与太郎役(ややこしいが「与太郎」というのが役名なのである)としての演技は死ぬほど受け容れられないものの、若手噺家としての彼の演技はアリかなと思ってしまった。文字通り懸命に練習したのだろうなと思った。稽古は嘘をつかない。その先に巧拙があるわけだが。
で、成海璃子なんだが、彼女はなんだか可哀想になってきてあまり言わないでおこうと思った。手を抜いているというわけじゃないんだろうがもう決定的にいろいろなものが欠如していて、古舘息子へ向けた「下手だなコノヤロウ!」というようなある意味ポジティブな批判を、彼女に向けてはいけないような気がしてしまう。それだからこそ、彼女の成長をこれ以上期待できないことになってしまうわけなのだが……。
なので、『西郷どん』に出てきた大村益次郎役のこぶ平のいろいろがひどすぎて、セリフがまったく耳に入ってこなかった件について問題を提起して擱筆する。甲高い声、いわくがある特殊メイクのようでいて実は当人が老けただけじゃね?と思わなくもない容貌、観ていないけれど前作にそういえば昇太が出ていたんだっけなあ、これ(噺家の大河出演)ってシリーズ化するのかなあという連想、意外に長い芸歴の途中でごっそり落としてきた貫禄という概念、そして甲高い声等々。