前篇

私の読書メモによれば、7月15日にある本を読み始めたことになっている(より正確を期すならば、7月15日に読了したことになっている)。
何を隠そう、その本の名は、北方謙三著『水滸伝』、通称「北方水滸」(註: 作者の名前通り、「きたかたすいこ」です。私の弟は、はじめ「北方水滸伝」という字を見て「ほっぽうすいこでん」と読んで、北国のヤクザの争いの本か何かと勘違いしたそうです)


まあ、多くの読者に読まれているわけだから、今さら「何を隠そう」も何もないのだが、これは本当に名作。同作者の『三国志』が霞むくらい。ネタバレはしませんが、やはりどこかしらは褒めちぎりたいので、ぼんやりと紹介することにいたしますが、その前に簡単なワタクシ的水滸伝の話を。あらすじとか概略を知りたい方は、ウィキったほうがいいです。


そもそも、横山光輝の『三国志』が小学生の頃に流行りました。と言っても、全巻(60巻)を揃えている友人など私の周りにはひとりもいませんでした。私は私で、1巻から買うのがイヤで、なぜか38巻を最初に買い、以後も24巻、42巻・・・などと飛び飛びに買い、話のつづきを楽しむというより、戦をしているシーンを楽しむという読み方をしていました。しかしこの読み方に途中で飽きたのか、漫画自体を買うことをやめ(そりゃそうです、1冊350円だとしても60冊で2万円ちょっと、子供が買える金額じゃありません)、そこで、同じ金を使うなら、と吉川英治の『三国志』を読み始めることにしました。これにはハマりましたね。今じゃあほとんど記憶に残っていませんが、繰り返し繰り返し読んだと思います。
お年玉をためて『三国志人物事典』を買ったのはちょうどこの頃です。これはずっと読んでいた。家で寝っ転がってぺらぺらとページをめくり、字(あざな)を覚えていたりしました。いつのまにか、友達が知っている「三国志」と私の知っている「三国志」には大きな差が生じていました。
挙げ句の果てには、学研の出している「歴史群像シリーズ」の三国志特集だけを買い、読んでいました。この「歴史群像シリーズ」は今はわかりませんが、当時としてはマニアックで、小説とは全然違った解説がなされていて、子供ながらに「へへ、勉強のしがいがあるなあ」と嬉しく思っていました。ここまでが、だいたい六年生くらいまでのことじゃなかったか。
ところが、中学生くらいでぷつりと興味が失せた。学校で私の話についていける人が誰もいなくなっていたんですね。今でこそインターネットがありますが、当時はコミュニティーと言えば学校だけで、話に誰もついていけなければマニアックに「研究」をしても、仕方がないと感じたのでしょう、私らしくあっさりと方向転換をしました。
そのときの転換先が、『水滸伝』でした。水滸伝は明の時代にもともと講談で広まった物語らしく、108人の好漢たちが、宋政府に叛旗を翻すという話です。まず、横山光輝のマンガ版全8巻を読み(これは図書館にありました)、その後吉川英治の『新・水滸伝』を読みました。但し、吉川版は全4巻で未完のまま終わっているので、108人揃ったあと何をするのかがよくわからなく、私の中での水滸伝への興味は三国志ほど広がっていきませんでした。
私が高校生くらいの頃だったか、二つ下の弟から駒田信二訳の『水滸伝』を読んだという話を聞き(弟は私と違って読書家)、トライしたのですが、どうにも読めずに挫折。というのも、人を殺すシーンが不必要に陰惨で、しかも書いている側(駒田は訳しているだけで、書いていないはず。ややこしいが、吉川英治版はタイトルどおり新作)、つまり講談する側は面白おかしく表現する傾向にあったのです。また、人食いの話も結構出てきます。しびれ薬を飲ませて殺し、その肉を饅頭(「まんとう」と読むそうですが)にして商売をしているのが108人の中にいます。当時は時折そんなことも起こったのでしょう。
駒田版を諦めてから十年後ほどに、偶然見つけた岩波文庫の吉川幸次郎訳の『完訳水滸伝』を試そうとしたのですが、今度は全10巻のうち4巻で挫折。この理由は、「ただなんとなく」というところで、別段不満もなく(だが面白さも感じずに)読んでいたのですが、たまたま興味のある本を併読し始め、そのため先に読んでいた「水滸伝」を忘れてしまったまま時が経ち、ついに諦めてしまっていたのです。

・・・とまあそんな具合にして、「水滸伝」とは随分のあいだいい関係性を保ってこられなかった。「どうにもご縁がありませんなあ」というところです。
そこに、ついに転機がやって来たのですが・・・すいません、長すぎるのでつづきは後篇。


後篇

さて前篇では、北方水滸の面白さを紹介する前に私個人の水滸伝との関わり合いを話しているうちに時間が来てしまいました。今回は、いよいよ北方水滸の魅力について、ネタバレにならない程度にご紹介いたします。


原作とは違う設定が多い

というか、原作を知っている人にこそ読んでほしい。あの登場人物が? あの設定が? そういう驚きで圧倒されることと思います。それにオリジナルキャラクターも登場し、原作のどうもスッキリしない関係性(つまり登場人物同士の結びつきがイマイチ不自然)は雲散霧消し、複雑に絡み合っていきます。そこでは、「え? あの弱小キャラと、この主役クラスキャラが親友?」みたいなことも当然起こってくるわけで、そういう友情シーンにハっと胸を衝かれることが度々あります。
108人の登場人物たちはすべて描かれます。これが今までの「水滸伝」と決定的に異なる部分かもしれません。108人もいれば、お座なりな扱いになってくるキャラクターも当然いそうなものですが、たとえ兄弟や双子ですら描き分けられます。ここに作者の気合いが感じられます。


モダンでハードボイルド

好みはあるでしょうが、登場人物たちは、ほぼ全員、北方ワールドの住人です。原作水滸伝の登場人物は概して罪人が多く、現代的に言えば結構な割合で殺人犯です。しかもその殺す理由が、「ちょっとこらしめてやろうとぶん殴ったつもりが死なせてしまった」とかそんなもんで、「人道的見地」に立てば、許し難いところがあるかもしれません。そういう「お尋ね者」連中が、自分たちの数十倍もの兵士を擁する宋軍(政府軍)と戦うということに、少し納得がいかないところもあります。
北方水滸伝の登場人物たちは、ほぼ全員が「志」を持っており、108人がその「志」で繋がっています。「ほぼ全員」という回りくどい書き方をしたのは、志など関係ないと公言する者も中にはいるのですが、そういう人物たちは概して志を持っている人物と親友であったり義兄弟の関係を結んだりしていて、その親友のために軽々と命を投げ出すシーンを見ると、歴史小説に欠かせない「義侠心」と、ハードボイルドに流れる「騎士精神」とがうまく融合されていると感銘を受けることでしょう。
ただし、これは女性が読んでも同じ感想を持つかどうかは不明です。ハードボイルドは、(男からすると)意外に女性のウケがよくありません。北方水滸伝の「男臭い」部分に対しては好みが分かれるところだと思います。


戦争は細かいことの積み重ね

『三国志』でもそうでしたが、北方水滸は調練ばっかりやっています。調練とは兵士を鍛えることですね。ときには兵士が死ぬくらいの調練をするので、梁山泊(本拠地の名前から、叛乱軍をこう称しています)の連中は強いということになっています。対して宋軍は賄賂等で腐敗しているため腰抜けばかりという設定です・・・最初の方は。(←ちょっと意味ありげですが、これ以上書くとネタバレになってしまします)
また、兵站(へいたん)が非常に重要視されています。兵站というのはわかりやすく言えば「後方支援」というところでしょうか。武器・騎馬の補充や、兵糧の輸送、これらを管理する人間たちの苦労もところどころに出てきます。具体的に言えば、敵が打った矢を戦場で回収し、殲滅した騎馬隊からは馬を回収します。剣が不足すれば、官軍の武器庫を襲い、兵糧が足りなくなれば、城郭(こう書いて、「まち」と読ませています)に出向いて、商人のふりをして麦を買い付けます。
これ、実際の戦闘では、本当に大変なことであったろうし、また現代でも戦闘と同程度に重要視されていると思います。通常の小説では、こういう部分はたいてい無視されています。武将たちがヤアヤアと大きなことを言い、そこで数万人の兵がザっと動く、というような。でも、その数万人の装備はどうやって手に入れたのか、または、その数万人の兵士が動くにはどこからお金が出ているのか、そこら辺がまったく触れられません。多くの現代小説で主人公たちがトイレに行くことがほとんどないのと同様です。そんなもんは必要ないだろ、と言わんばかりです。
北方水滸は、「収入源」まで明確です。ある「モノ」を闇ルートで中国全土で流しているために莫大な資金があるという設定になっており、この「モノ」を政府軍の目から隠すために、この作品の重大なテーマのひとつとなる諜報戦が繰り広げられます。諜報線ともなれば、暗殺もありますし、ときおりむごい拷問もあります。この部分にも、女性は嫌悪感を示すかもしれませんね。


まあ、この程度で北方水滸の魅力など全然お伝えできません。ここまで書いてきませんでしたが、なんと全十九巻もあります。7月15日に読了したのは第1巻で、第19巻を読了したのは、8月26日でした。なんとも時間がかかりましたが、それは間に運転免許学科試験の勉強があったためで、それがなければもっと早く読めたと思います。それくらい長さを感じさせないような読み易さになっています。
とにかく、「北方水滸伝」、これを読まずには死ねません。


先の直木賞発表の直前報道で、NHK のインタビュアーが選考委員に北方謙三に「選考の基準はなんでしょうか?」と訊かれ、北方はいともたやすく「そりゃあ、文学のためになるかどうか、だよ」と答えていました。
他の選考委員たちにも同じ質問が投げかけられていましたが、みんなムニャムニャ言っているだけでハッキリとしない。まるで北方謙三ひとりだけが、ブンガクの未来を考えているように感じた次第でした。