とはいえ、わからないでもない

2009年11月

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高二の夏休みに郵便局でアルバイトをしていたとき、休憩所に『週刊モーニング』があり、そこでいろいろな漫画を知った。『沈黙の艦隊』『ああ播磨灘』『国民クイズ』……、これら三作品だけでもその作品の目指すところがまったく異なることは一目瞭然で、『週刊少年ジャンプ』しか読んでいなかった私は、たいそう驚きを受けた。
たしか、『宮本から君へ』という漫画を知ったのもその頃で、しかし、絵柄の暑っ苦しさから大敬遠をしておりまったく読まず、後年、なにかの雑誌で「キライな漫画」の上位にエントリーされていたのを見て、「ああ、たしかに」と思ったほどだった。簡単に言えば、ウザイくらいに暑っ苦しいのだ。
それが最近復刊されて、新装版となり、その二巻のオビに『人間は感動するために生きている!』とあった。
土曜日、「世界・ふしぎ発見!」というテレビ番組を観ていたら、「モーニング・グローリー」という1,000kmくらいのひとつなぎの雲に、グライダーで乗るという特集をやっていた。左の説明だけではまったく「なんのことやら」なので、詳しく知りたい方には、リンクのWikipedia の記事を読んで欲しい(事実と異なることを書いてやしないかとおっかなびっくり書くのは面倒)。
ともかく、その長ーい雲には上昇気流が発生していて、その上をグライダーで飛ぶと、浮かべるということらしい(グライダーが上昇する際にはエンジンを起動させるが、気流に乗ってしまえばエンジンは停止させる)。そのグライダーに宮地眞理子さんという女性が同乗したのだが、このモーニング・グローリーというのはそう易々と現れる現象ではなく、待って待って待ちつづけ、「やっとのことで」、というタイミングで現れたようだ。
日の出とともにフライトを始め、ようやくあたりのすべてが陽に照らされるほどになってついに、彼女の乗ったグライダーが見たこともないような長い雲の上に乗り、エンジンが切られた。
その瞬間、彼女はどうしたか?
今はWindows の「7」が出て市場が盛り上がっているのだろう(?)が、私はひとつ前の世代の「Vista」が出たときに流れていたCF が大好きだった。
あまり細かい説明はなく、要はイメージCF なのだが、全体を通して貫かれているキーワードはただひとつ、すなわち「Wow」だった。
ワオ、というのはいかにも英米人らしい言葉かもしれない(日本人に当てはめれば「おぉっ」か、あるいは「うわっ」か)。なんにせよマイクロソフト社が「Wow」という言葉で伝えたかったのは、「感動の驚きを提供する」ということのようで、これはなにも、ビル・ゲイツが直接私にそのことを伝えたわけでもなければ、IT 系の雑誌に載ったプレスリリースを読んだわけでもない。そう諒解できるようにCF が作られていただけだ。
それ(CF)は、様々な場面での「感動」を次々と映していくだけだった。垂直の氷壁をのぼっている途中、後方から朝日が昇り、クライマーが振り返り、静かに一言。「Wow」
小さな女の子のすわったテーブルで、サービスマンがテーブルクロスを一気に引き去るのだが、グラスやら皿やらカトラリーは微動だにしない。女の子が囁く。「Wow」
上記の「Wow」はそれなりに視聴者の感情をそそるところがあるのだが、見方によっては芝居臭い。それに対してひとつだけ私が忘れられないシーンがある。
ゴルフ場で女性がショットを打つのだが、そのボールがグリーンに乗り、そのままカップに入る。打った女性は、あまりにも驚きすぎて持っていたクラブを落としてしまい、口を抑えながらも叫ぶ。「Wow!!」
これも演技っちゃ演技なのだが、その驚き・感動(もちろん、偽の驚き・感動なわけだが)はストレートに私に伝わり、初めてそのCF を観たときは、思わず「すげー」と呟いてしまった。
当然のことながら、「すげー」と感じたのは、ホールインワンしたことに対してではなく、その表現方法に対してだった。感動は、予定調和のものなんかでは全然なくて、驚きとともにまさに襲いかかるものなのだ、と感じたのだ。
さて、宮地女史をまだ遙か上空に取り残したままだった。
美しく朝陽に照らされたグライダーの翼にはカメラが取り付けられていて、そこに、まさに雲の絨毯が映し出されていた。機体はその上を、文字通り風と一体化して浮かんでいた。雲がつづく限り、機体は浮かんでいられた。信じられない現象と信じられない風景。
彼女は狭い機内の中でなにをしていたのだろうか。彼女の声をマイクが拾っていた。
「すごいっ!…………なんか、胸が詰まっちゃうな……同じ地球じゃないみたい」
彼女は泣き出していた。わんわんと泣くのではなく、理由のわからない涙が次から次と込み上げてくるという様子だった。
それを観ていた私も、なぜだか泣いていた。彼女が感じていたであろう美しさとか自然の神秘に対してではなく、人間が心を動かしている瞬間に(画面を通して、だが)直面したことで、私の心が共鳴していた。そのとき、私の頭の中にあったのは『宮本から君へ』のオビ文だった。
あなたのやりたいことはなんですか、と訊かれると、だいたい「うーん」と唸ってしまう。答えるのが面倒というのがその一番の理由なのだが、それ以前に、「やりたいこと」ってそんなに単純に規定できるものなのか、と質問者に問い返したいという思いがある。
石田依良や保坂和志が、「人間はみんな善くなりたいと願っているはずだ」と発言あるいは記述していたことを見たり読んだりしたことがあるが、私自身は「みんな」がそうだとは思っていない。そういう意味において、すべての人間が感動するために生きているとは思えない。けれども、少なくとも私はそのために生きているのであるし、またそれを誰かに伝えるために生きているのだとも思っている。抽象的ではあるが、私にはよっぽどリアリティーがある答えだ。
なんにせよ、人が心を動かしている姿は美しい。たとえ宮地さんが私の好みのタイプでなかったにしても、きっと同じ事を感じたに違いない。

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以下、『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』より。

2007年10月27日のメモ

森山 たとえば、ほんとに写真わからないんじゃない?と思う人もいるわけですよね、それはアマチュアのほうがわからないのじゃなくて、むしろ知識人のほうがかなりわからないと思うんですよ。知識人ってなんでも『意味』に取っちゃう。『意味的』に考えてって、わかるわからないに分けてしまう。一般的にいうアマチュアはある意味では、わからないのじゃなくて、わからなくされてるのじゃないかという気がする。好き嫌いは別にしてね。ほんとはわかってるけど、そのあいだの夾雑物がわからなくしているということじゃないかな。」(p.151〜p.152)
森山 結局、あるメディアを介するからわからなくなっちゃう。メディアを介さずに、個人的に写真見せると、面白い、つまらないという形でくる。つまらないのも、わかるうちの一つだからね。たとえば、ぼくが『アサヒカメラ』に載せると、批評家が『わからない写真』という言葉を次の号あたりにつけてきて、また『写りすぎるということを否定する』という言葉も用意するわけですよ。ぼくには撮ってる段階でもそのあとでも全然無関係なわけですが、ともかくもそういう形で、『わからない』ということになってしまう。」(p.152)
森山 写真をわかるわかんないという形で機械的に分けられる人は、その人自身もう可能性をシャットアウトしているわけだ。可能性をシャットアウトしている人に対してはもう関係ないと思うほかないね。」(p.170)
2年前くらいは、こういう言葉が引っかかってみたいだが、ただし、完全に肯定する意味でこの言葉をメモしていたわけではないように記憶している。

2007年10月28日のメモ

東松 (前略)この世とあの世というのはさ、なんか分かちがたくつながってるよね。それは濃厚にいまだに残っていますね。それに影響されてるかもしれないな、僕も。
森山 それはそう。僕がそんなふうに感じられるという人はまあほかにいないわけです、透明というより死ということで……なんかこう非常に濃厚に匂ってくるというね、僕はその匂ってこない写真家というのはつまらないと思うのですよ。(p.111)
これを読んでいる当時もそうだったが、写真家のこういう表現を素直に信じていいのか、という思いが私の中にある。なぜなら、彼らは写真に対しては責任を取るだろうが、こういう発言に対してまで責任を取るとは思えないのだ。

2007年11月9日のメモ

(前略)よく人と(安井)仲治の写真の話をするときに、仲治たちの時代は何をしても実験になったし、何を撮っても新しい受け入れ方をされたからって言う人がいるんだけど、ぼくはけっしてそうじゃないと思う。むしろ、何でも自由にやれそうな、ある意味でとてもいろんなことが可能性として考えられそうな現在、ほとんど何一つとして鮮烈な挑戦がなされないで、けっこう古くさい対象や方法があたかも一見新しそうなごまかしで焼き直されているばかりなのを見ていると、いま見る仲治の写真のほうがはるかに現在という時代への問いや答えをもっているように思えます。つまり、写真の時代性のさまざまなありようを、ぼくはむしろいま仲治の写真に感じるわけです。(p.279〜280)

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(註: 2007年12月29日に記す)

今年行われた第十回俳句甲子園における最優秀賞を獲得した句。

山頂に流星触れたのだろうか
愛知県立幸田高校、清家由香里の作品。
優秀賞(複数)の中には以下の句なども。
短調で鳴く墓フランスは雨か (熊本信愛女学院高校 西口希)
かき氷国家は突然に亡ぶ (高田高校 服部展喜)
ただ、これらの句は面白いのだが、いささか奇を衒いすぎなのではないか。
早熟なのは結構だが、若いうちに前衛ばかり目指しているのも後々苦労するのではないか、と三十路男は老婆心ながら心配するのだ。

いま詠んでも最優秀句はいいね。

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(註: 2007年11月29日に記す)
NHKの「迷宮美術館」で蔡國強というアーティストを特集していた。
彼は火薬を用いて絵を描く。だがそれだけではなく、いわき市の海上にて五キロの導火線を走らせ、点火し、彼の言によれば「宇宙と地球の輪郭」を描いた。
このプロジェクトのすごいところは、たくさんの市民が参加・協力しているということだ。当日、見物に集まった五千人の観衆すら、そのプロジェクトの協力者ということが言えるのではないか。少なくとも私は蔡がそのように考えてるのではないかと感じた。そして、プロジェクトの過程は事細かに記録され、それらもまたひとつの芸術作品の一環として残された。タイトルは『日々』。その中には、海上保安庁の許可証も収められており、その許可証を押した役人でさえ、芸術の立役者の一人となったのである。これは、ものすごいことだと思う。
『日々』より。
この土地で作品を育てる ここから宇宙と対話する ここの人々と一緒に時代の物語をつくる
これはたしかに面白い試みだったが、今の今まで忘れていた。

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昨日は宮崎駿のアニメ、『天空の城ラピュタ』が放映された。
もう何十回放送されたかわからないが、それでも一定の好ましい視聴率を叩き出したのだと思う。名作だからね。
私自身、既に何度も愉しんだのだが、やはり今回も愉しめた。
宮崎アニメがすごいところは、方々でもう何百万回と語り尽くされているのだが、私がいつも感じるのは、宮崎監督のそのだ。子ども向けだからとかアニメだからとか、そんなちゃちな問題ではなく、彼の作品には愛がある。こういう話は、「なるほど」と思う人と、「ははは、愛だってよ」と思う人の二種類しかいないので、結局そのことを語ろうとしてもたいていは無駄に終わる。わかる人はいつだってわかるし、わからない人はいつまでたってもわからない。
「愛してるよ」と人に伝えることが愛ではない。少なくとも私が考える愛は違う。それは、おはようとかおやすみとかありがとうのヴァリエーションにすぎない。そんな簡単に発せられるものが愛のはずがない。
『雲のまにまに』という絵本があって、そこにこういう記述があった。
今、ジョージに教えてもらった本を読んでいる。
40ページ目で本の中の男の妻が死んでしまった。
男はひどく悲しんでいる。わたしまでなんだか悲しい。
ここでいう「わたし」は、実は「ウージー」という名の羊なのだが、それはこの際あまり関係のないことで、私はこの記述を読んで以来数年間、ずっと愛について考えている。
ときおり、こういう話を人に漏らしても、あまり本気にはとられない。冗談の一種と受け取られるからだろう。

ラピュタの一番好きなシーンだが、ロボットが墓の前に花を捧げにやってくるところがある。そこでパズーが以下の台詞を言う。
ちっとも さみしくないみたいだね
友だちもいるし ヒタキの巣を
見回ったりもしなきゃならないし
これは、ロボットに対する宮崎駿の愛そのものだ。ストーリーとは直接関わりがないことだがパズーにそう言わせることで、ロボットはもとより、視聴者および宮崎駿自身が救われた思いになれる。血の通わないロボットに対して、しかも創作されたものに対して、私たちは救われた思いになれる。この台詞は絶対になければいけない台詞なのだ。このような心の動きを、私は愛と呼ぶ。
ちなみに、「愛」について深く考えている漫画家として、幸村誠が挙げられると思う(他にも大勢いると思うけど)。実際に『プラネテス』には田辺愛という登場人物がいる。現在連載中の『ヴィンランド・サーガ』もやはり愛という切り口で歴史が語られている部分もある。
高橋源一郎の『ゴースト・バスターズ』のエピグラフ。
一篇の詩を書く度に終わる世界に繁る木にも果実は実る

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(註: 2007年11月8日に記す)
萩尾望都の『半神』(小学館文庫)に収録されている『金曜の夜の集会』は間違いなく漫画の最高傑作のひとつに数えられる。
少年少女時代のわれわれが実際に何を考えていたか、はここには描かれてはいない。しかし、現在のわれわれが抱いている少年少女時代への憧憬がここにはまさに描かれている。
 家中ジンジャービスケットのかおり……
 そして明日は来ないんだ
 セイラと約束した金曜日も来ない
 いつかぼくの背が高くなる日も来ない
われわれが失ったと信じていて、実際には持ってすらいなかったもの、つまりイノセンスの結晶が、上のたった数十字の台詞に現れている。
絶対に萩尾望都という天才を忘れてはならない。
いつか町に明日が来たら
 
ぼくらは 熱と光の中で
ガブリエルのラッパの音を聞くのだろう
右に左に手をつないで
天の門へ至る階段を上りながら
そのときは
みるはずだった映画の話
みつけるはずだったセイラ星の話
なるはずだったおとなの話をみんなで話そう……
いま読んでも、この作品には胸が詰まる。

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そもそも『ROOM303』でなにかの賞をもらった時点で『リリエンタール』の作者、葦原大介はズバ抜けていた。
『少年ジャンプ』には、うまい新人漫画家なんて山ほどいる。特に最近のレベルは高い。『ワンピース』の尾田栄一郎がいま18歳くらいでジャンプ新人賞に応募したとしても果たして入賞できたかどうかというくらい、それくらい今の新人のレベルは高い。
がしかし、驚くほど中身が薄い。『ワンピース』だって有能なブレーンが数人いるはずだという話は聞いたことがあるが、それにしても、ストーリーに編集者の入れ知恵がつかなければこれほど十把一絡げだというのは、おそらく新人漫画家のデビュー年齢が低いということと無関係ではないだろうし、それに、トキワ荘にいた連中のようにがむしゃらにいろいろなものを勉強してやろうという気概がおそらく今の新人たちにはないのだろう。
『リリエンタール』はその対象読者をかなり低く設定しているようだ。というのも、たとえば来週の『ジャンプ』に掲載分では、「非合法」という言葉に*印がついてあり、註釈がついていた。
では、これは子ども向けのものなのか?
きっとそうではないのだろうと思う。子ども向けのふりをしているだけだ。
それではなぜそんな真似をするのか。子どもだけに読んでほしいのだろうか。
きっとそうではないのだろうと思う。自分を大人だと思っているガキに読んでほしくないためだ。
富樫義博が『レベルE』を書いてから、『ジャンプ』には屁理屈をもって漫画を読むガキが増えた。彼らは理屈っぽさと作品世界の完成度が比例していると思っている。だからこそ、主人公の強さには相応の理由が必要になり、さらに強くなるためには、さらなる理由が必要になった。たとえば、最初はいいかげんに始まった『NARUTO』の主人公たちの強さも、チャクラという言葉で説明されるようになり、また、『ハンター×ハンター』では「念」という概念が途中から登場した。どちらも、連載当初から考えていたとは思えない設定で、だいたいそういうものが登場してから、話は急速に辻褄合わせに走るようになり、テンションが低下していく。作者自体が設定に絡め取られてしまうのだろう。
そういうものがリアリティーだと信じているガキどもを排斥するために、おそらく葦原は『リリエンタール』を子ども向け風の作品にしている。
だが、その実『リリエンタール』の奥は深い。先々週にいたっては、幽霊を成仏させるのではなく、家に連れ帰ってきた。これはなかなかできることではない。たとえば『ムヒョとロージー』だったら、成仏させるときにムヒョが少し寂しそうな表情を見せておしまい、としていたところだ。
物語の人物を死なせて安っぽい感動を与えるというのは、誰でもできる表現であり、それが成功したのが、『世界の中心で愛を叫ぶ』や一連の「ケータイ小説」だった(もちろん、その系譜は古いのだが)。
だが本当は、物語の人物を幸せにして感動を与える方がよっぽど難しく、だからこそそこから得られる感動は、前者とは比べものにならないほど大きい。
『リリエンタール』がどこに行くかはわからない。それは人気にもよるからで、もしかしたらキャラクター萌え漫画に堕しておしまい、ということもあり得る。だがしかし、来週の『ジャンプ』の内容を見る限り、作者の試みは依然広がっていくようだし、私は楽しみにそれを見守っていくつもりだ。
なお、ある回に出てきた悪者キャラクターの名前が「ワリーゼ・カナリーナ」(悪ィぜ、かなりな)であったりするところ、細かなクスクス笑いも仕掛けてあって、なんとも大人向けの漫画なのであった。

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(註: 2007年10月27日に記す)

寺山修司詩歌選『ロング・グッドバイ』より

ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし
わが夏をあこがれのみが駈け去れり麦藁帽子被りて眠る
父の遺産のなかに数えん夕焼はさむざむとどの畦よりも見ゆ
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
麻薬中毒重婚浮浪不法所持サイコロ賭博われのブルース
老犬の血のなかにさえアフリカは目ざめつつありおはよう 母よ
降りながらみづから亡ぶ雪のなか祖父(おほちち)の瞠(み)し神をわが見ず
牛小舎にいま幻の会議消え青年ら消え 日の炎ゆる藁
はこべらはいまだに母を避けながらわが合唱の暗闇に咲く
鶏頭の首なしの茎流したる川こそ渡れわが地獄変
寺山修二の歌は、とにかく格好いい!

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(註: 2007年10月30日に記す)

悪人でなく あまりに無法者でさえないならば
国をささえる正義(いましめ)を知った健やかな人でさえあれば
私はそれで満足だ その人を咎めはしない
私は好んで人を咎める者ではない
愚か者の群れは数しれぬのだから

醜をまじえぬものはすべて美しい

プラトンの『プロタゴラス』に出てきたらしい。
ところで、この本、ちゃんと最後まで読んだのだろうか? まったく記憶にないな。一様にしてプラトンは面白くなく、いつもここで(こんなに入門の部分で!)哲学の勉強が止まってしまう。

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