とはいえ、わからないでもない

2010年01月

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タイトル通り。そのまま引用する。

弊社の写真事業への取組みについて



弊社は1934年の創業以来、感光材料を中心とした事業を開始し、一般コンシューマーの皆様をはじめ、販売店様、写真卸売業様等、様々な方々のご支援とご愛顧を受けて今日まで写真事業を展開してまいりました。しかしながらここ数年の予想を上回る急速なデジタル化の進展により、フィルムを中心とした感光材料の需要が大幅に減少し、弊社をはじめ写真業界全体が厳しい市場環境に置かれているのは事実です。弊社もこのような市場変化に対応するため、大幅な構造改革を推進しております。

しかし、人間の喜びも悲しみも愛も感動も全てを表現する写真は、人間にとって無くてはならないものであり、長年のお客様のご愛顧にお応えするためにも、写真文化を守り育てることが弊社の使命であると考えております。その中でも銀塩写真は、その優れた表現力・長期保存性・低廉な価格・取扱いの手軽さと現像プリントインフラが整備されている点等でデジタルに勝る優位さもあり、写真の原点とも言えるものです。

弊社はそのような銀塩写真を中心とした感材写真事業を継続し、更なる写真文化の発展を目指すとともに、写真をご愛顧いただけるお客様、ご販売店様の支援を今後とも続けてまいる所存です。
*下線部: 引用者)

下線部が素晴らしい。

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ちょっと間が空いてしまった。#3の答え。
9.『坊っちゃん』(夏目漱石/岩波文庫)
10.『中二階』(ニコルソン・ベイカー著 岸本佐知子訳/白水uブックス)
11.『黒い時計の旅』(スティーヴ・エリクソン著 柴田元幸訳/福武文庫)


9.
『我が輩は猫である』とともに余りにも有名な書き出し。『猫』よりも読みやすいため中高生の夏休み向け読書本としてピックアップされることも多く、その際によく「痛快小説」という惹句を目にしたものだが、それを期待して読むととんだ肩透かしを食らうことになる。
主人公の「おれ」は旧時代の人間で、ぶつぶつと愛媛松山の子供たちと新時代のスタイルとに不平を漏らし、ときたま無茶をする。話の中身はそんなところである。これを中高生が読んではたして面白いと思うだろうか。素直な子は「面白くない」と言うだろうし、気弱な子は「難しい」と言うだろうし、ちょっと小賢しい子は「(「面白い」と言った方がウケがいいから)面白い」と言うだろう。つまり純粋に「面白い」と思えるのは、(たとえ思えたとしても)もっとずっと後のことに違いない。
文章を採り上げていえば私は漱石が大好きで(もちろん中身も)、この人は江戸落語がベースになっているところがあるから(特に『坊っちゃん』『猫』はそう)、馴染みやすいし気持ちがよい。漱石も自身の「江戸ッ子」の部分を強く意識して書いたのだろうと思う。
内容については、関口夏央・谷口ジローの『「坊っちゃん」の時代』(現在双葉文庫から出版されているらしい)を読んだ方がよくわかると思う。もちろんある程度はフィクションと思って読んだ方がいいのではあるが。

10.
採り上げた文章中で、エスカレーターに乗り中二階に行くことが示唆されている。本書は新書サイズで約190ページの小説だが、ストーリーは、「エスカレーターで地上から中二階まで昇るあいだに主人公がいろいろ考える」ということだけである。この小説がすごいのは、それだけのことをいかに膨らませていくかという作者の伎倆にある。
引用には棒線が一本引いてあるが、あれは主人公がリアルタイムで考えていることの註釈であり、これがこの小説の第二の主人公であるといって間違いない。ときおり、註釈が本文を無視して数ページにわたることもある。
ただ思いついたことをダラダラと書くのは、ブログや日記だってできる。よく、相手のブログを褒めて「うまくまとめれば小説になる」というようなお追従(コメント)を見かけるが、0をいくら積み上げても0にしかならないのと同じように、ブログはブログのままで、永遠に小説にはならない。
結構笑えるので、実験小説というものを読んでみたいという方にお奨め。

11.
日本の私小説に飽きて、「なんだよこんなもんかよ、いわゆる純文学系の小説って」と思っている人は、たまにはこういうアメリカ小説を読めばいい。頭をガツンとやられることになる。私小説にありがちな、読者へのわかりやすさがまったくないからだ。
かといって意味不明でもない。絶対にたどり着けない場所で確実にひとつの世界が構築されているのを眺めさせられている気分に陥るだろう。小説内においてその強固な世界は、われわれが住んでいる世界とは完全に別物だが、確実に存在している。これが世界小説の途方もないところなのだ。
と言いながら、十数年前に読んだためこの小説の細かいところは覚えていない。ただ、ふたつのアメリカが出てきたはず。アメリカA とアメリカB。そういう物語なのだ。
なお、本文庫は絶版だが、同じ訳者で白水uブックスから出版されているらしい。興味があれば。

【関連記事】

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さんざん激賞していたくせに『アオイホノオ』の3巻が出ていたことを知らず、慌てて買って読んだ。
今回もげらげらと大笑いしたのだが、中でもすごく気に入ったのは、

「あだち充がいつまでも『いつものとおり』などと思っていると……いつか火傷をするぜ! お姉さん!!」
わからない人はわからなくていいが、なんだろうと思った人はぜひ買って読んで欲しい。

また、小田扉の『前夜祭』も購入。
これは『モーニング2』に第1回が連載されているのをたまたま見た。というより、表紙に小田扉の文字があったから『モーニング2』を立ち読みしたんじゃなかったか。
相変わらず、ぽんと傑作を生み出しちゃうよねえ、この人は。この絵柄からして傑作が描かれているということに気づかない人は多いのだろうな。最後の台詞なんてすごいよな。
ちょうど『浦安鉄筋家族』がすごいギャグ漫画だということにあまり気づかれていないのと似ている(と言いながら浦安は全部読んでいない)。
(そうそう、『バクマン』の作中でなんとか賞を獲った『べるぜバブ』を褒めていたけど、そういうのとはワケが違う。『べるぜバブ』は大したことない漫画、『浦安』はすごい漫画、そこらへんの弁別くらいはしないとね)

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まさかの四連続である。昨日のつづき。
2009年の候補作で気になったのは、2つ。

2009年候補作
『宇宙兄弟』(小山宙哉)
『3月のライオン』(羽海野チカ)


『宇宙兄弟』は既出なので触れない。『3月のライオン』は2巻まで読んだ。『ハチミツとクローバー』を超える作品にはならない感じはあるけれど、相変わらずキャラクターが可愛らしい。そもそも『ハチクロ』を読むきっかけは、この人の絵だったんだよなあ。

で、以上と2009年の候補作を踏まえて、私が候補に入れてほしいのは以下。


1. 『アオイホノオ』(島本和彦)*1
2. 『宇宙兄弟』(小山宙哉)*2
3. 『シグルイ』(山口貴由)
4. 『団地ともお』(小田扉)
5. 『あたらしい朝』(黒田硫黄)
6. 『ダニー・ボーイ』(島田虎之介)
7. 『へうげもの』(山田芳裕)
8. 『ハチワンダイバー』(柴田ヨクサル)
9. 『スケットダンス』(篠原健太)
10. 『鈴木先生』(武富健治)
11. 『ヒストリエ』(岩明均)



思いついたところを思いつくままに挙げたので十一作ある。
「マンガ大賞」の規定に「最新刊が八巻以下」とあるので、3,4,7,8,9が規定外だし、6は連載が終了している。くわえて、その賞の性格という視点を含めるとからして、5,10,11も適しているとは言えないだろう。となると、やはり1,2が残るということになってしまうのだなあ。
逆の見方をすれば、よくぞ1,2が残ったというわけで、それだけでもこの賞の意義があるように感じる。ガンバレ、「マンガ大賞」! くれぐれも『バクマン』には獲らせないように。大場も小畑も集英社からたっぷりもらっているんだから大丈夫だ!
なお、上記候補作はすべて面白いと断言できる。その一々についてはあまりにも長くなってしまうのでまた違う機会に。

*1:2010年候補作

*2:2009年/2010年候補作

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前篇と後篇とすればよかったのに、#1と#2という風にナンバリングをしてしまったから、収まりが悪いので#3を無理矢理作る。ということで、つづき。

昨日、予想をしてしまったので、今回は私だったら何を候補に入れるか、ということを少しだけ書きたい。
まず過去(といっても2008年からなのだが)の候補作品を見るに、以下の作品が目についた。


2008年候補作
『岳 みんなの山』(石塚真一) 『君に届け』(椎名軽穂)
『もやしもん』(石川雅之)
『きのう何食べた?』(よしながふみ)



2008年からいくと、まず『岳』の受賞を本当に喜ばしく思う。この受賞がなければ、私はこの作品に永遠に出逢うことはなかっただろう。「ビックコミックオリジナル」という立ち読みすらしない漫画雑誌に掲載されているからだ。「山に登る人間に悪いやつなんかいない」というテーマを直球で描き、しかもそれに成功しているという素晴らしい漫画。画力は秀逸だが山に人間のドロドロを持ち込んで裏目に出た観のある『孤高の人』(坂本眞一)とは対照的だ。特に、後者のここ最近の凋落ぶりは目にあまるほど。急降下ぶりということでは『バンビーノ』(せきやてつじ)が連想される。伴省吾がアメリカ行ったあたりからあの漫画の迷走が始まったのだった……。
『君に届け』もイイ! なんというか大事にしたい漫画だし、大事にしなきゃならん漫画だとも思う。この感想は私が男なのと関係があるのだろうか。あるいは女が読めばまた違った感想を抱くのかもしれない。いわく、カマトトすぎる、とか。どちらかというと、主人公の爽子より、爽子を見守る連中のことが気になって読んでいる。個人的には、ウメちゃんがキャラクターとして優れている印象を受けた。
『もやしもん』はちょっと特殊な漫画だ。「醸造・発酵専門漫画」だからというわけではない。また、「日本一の柱漫画」だったり、「日本一のフィーチャーリング漫画」だったりするからではない。なるほどそれらは、当作品において実に重要なファクターではあるのだが、この漫画を興味深く読めるのは、実はキャラクターの面白さという、漫画にとってはごくごく基本的な、あまりにも基本的な特徴に因っている。登場人物たちの嗜好がまったくばらばらということが、作品全体に深み(まさに発酵している、ということか)を与えている。ちなみに、私はこれを読んで東京農大に入学しようかと本気で考えた。
『きのう何食べた?』はよくできた小品。主人公たちがホモセクシャルということ以外は、これといった設定はなく、ただただ料理をして食べるというだけの漫画。料理の前ではエピソードすら脇役である。弁護士の筧が第一話(だっけ?)で夕食を作り終えたときの台詞が印象的だ。
「うーん、仕事で案件をひとつキレイに落着させたくらいの充実感を一日に一回も味わえるなんて、夕飯って、偉大だよな」
なお、作者のよしながふみは、この作品以外に二作品が同大賞の候補作となっていた。おそるべし。

ちょっと思っていた以上に長くなった。つづきは明日。2009年の候補作をちらっと見て、2010年の候補作にいれられるべきだった作品について触れる予定。

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さて、昨日のつづきだ。


1. 『アイアムヒーロー』(花沢健吾)
2. 『アオイホノオ』(島本和彦)
3. 『宇宙兄弟』(小山宙哉)
4. 『娚の一生』(西炯子)
5. 『海月姫』(東村アキコ)
6. 『高校球児 ザワさん』(三島衛里子)
7. 『テルマエ・ロマエ』(ヤマザキマリ)
8. 『バクマン』(大場つぐみ・小畑健)
9. 『虫と歌 市川春子短編集』(市川春子)
10. 『モテキ』(久保ミツロウ)



2が受賞しなくてもよい。ただその代わり、8だけは受賞しないでほしい。その理由はごく簡単、『バクマン』は作られた作品だからだ。
作品は作者や編集者によって作られるべきで、出版社や、あるいは初めからメディアミックスを見越した多様な媒体によって作られるべきではない。それは広義の漫画なのかもしれないが、私の知っている漫画ではない。
『バクマン』には連載当初からその匂いがぷんぷんとしていた。大場つぐみと小畑健という『デスノート』のスターコンビがゼロ年代(もう10年代に突入したが)の「まんが道」を描く、というそれだけでずいぶんな企画モノということがわかる。青春的要素(軽い挫折)も入っていたような気がするが、途中から読まなくなったのでよくわからない。
わりあい長いあいだ不遇をかこっていた小畑が、トントン拍子のサクセスストーリーを描くこと自体、結構な皮肉にも感じられる。はたして本人はどう考えているのだろうか? やっぱり「嘘を描いている」という気持ちが強いんじゃないか。
おそらく『バクマン』の目的は、集英社による若い読者への洗脳であって、漫画家へのリスペクト(死語)を高めるのと同時に、一人でも多くの漫画家志望者を増やしたいのだろう。サッカーのJ1 に対するユースみたいなものね。もちろん集英社は、「漫画界の発展のため」にではなく、「集英社の発展のため」に「『バクマン』企画」を推進している。
商品と見事にタイアップしている「コロコロコミック」の連載漫画となんら変わるところがない。絵は相変わらずうまいが、大人の事情があまりにもシースルーすぎて読む気が起こらないのだ。こんな企画漫画を、「企画モノ」として愉しむのならまだしも、「マンガ大賞」を授賞していいというのだろうか。
同賞の真価が問われる。

1は、最初の二ヶ月くらいは面白く連載を読んでいたが、今はちょっと読む気がなくなった。始めの頃の不気味な日常の雰囲気の方がよっぽど怖く、不思議な話だが、ゾンビ化が起こってからは安心して読めるようになった。というより、興味が失せたのだろう。少なくとも「ドラゴンヘッド化」しないことだけを祈る。それよりこの作者、絵がうまくなった気がする。見せ方がうまくなったのかな。

6もスピリッツに連載中で、これは好みの漫画である。なぜかいつも気になってしまうのだ。ただし、これは「大賞」と名のつく賞をもらってはいけないような気がする。あくまで小品。この連載が十年ほどつづけば(あり得ないとは思うが)、そのときに初めて「大賞」を与えるべきだ。

となると、やっぱり本命は3の『宇宙兄弟』になるか。
残念ながら、シリアスさでは幸村誠の『プラネテス』、せつなさでは柳沼行の『ふたつのスピカ』にはかなわないが(両者とも内容は宇宙を扱っている)、それは仕方あるまい。この二作は名作中の名作で、相手が悪すぎる。
『宇宙兄弟』は、もっとキャッチーである。そして、げらげらと笑える。それでいて、結構じーんとしてしまう。私が『プラネテス』『ふたつのスピカ』『宇宙兄弟』の三作のうち、他人にお勧めするのは、間違いなく『宇宙兄弟』である。きわめて(いい意味で)優等生的な作品であり、おそらく大多数の人間のウケがいいと思われるからだ。すなわち、この作品もまた名作なのである。


ということで、
本命: 『宇宙兄弟』
対抗: (気乗りしないけど)『バクマン』
大穴: 『アオイホノオ』
と予想する。

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タイトルの通りである。
候補になっている十作品は以下。便宜上、番号を振る。


1. 『アイアムヒーロー』(花沢健吾)
2. 『アオイホノオ』(島本和彦)
3. 『宇宙兄弟』(小山宙哉)
4. 『娚の一生』(西炯子)
5. 『海月姫』(東村アキコ)
6. 『高校球児 ザワさん』(三島衛里子)
7. 『テルマエ・ロマエ』(ヤマザキマリ)
8. 『バクマン』(大場つぐみ・小畑健)
9. 『虫と歌 市川春子短編集』(市川春子)
10. 『モテキ』(久保ミツロウ)



4、5、7、9以外は知っていた。7をアマゾンで探したら本屋で積んであったのを見た気がする。
私のイチオシはなんといっても2の『アオイホノオ』である。
業界ウケしかしないと思っていたのでまさかこのようなメジャーな場所に来られるとは、ファンながらも夢にも思わなかった。
もちろん『アオイホノオ』は当然持っている。
というより、今はなきヤングサンデーで、たしかまだ連載が決定していなかった読み切りみたいな状態のとき、たまたまコンビニで立ち読みし、感激のあまり涙を流したという思い出がある。主人公のホノオモユルが、とあるラーメン屋(うどん屋だったかな?)で読んだ『うる星やつら』に感動し、人生の転換期を感じるというシーンだ。たしか、ホノオが「このマンガはおれの人生を変えそうな気がする」って言うんじゃなかったっけ。
まあ、エントリーされただけでも奇蹟なので、大賞は期待しまい。おそらく同業者の漫画家たちに多く読まれたであろう『燃えよペン』『吼えろペン』『新吼えろペン』のシリーズも残念ながらメジャーヒットしていないし、この『アオイホノオ』も一部のマニアにしか受けていないのかもしれないが、しかしそれでも、一番大賞を獲るべき作品であることは間違いない。それは私たちの世代の「まんが道」だからだ。


次回につづく。

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9.
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りることは出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかといったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

10.
一時少し前、私は黒い表紙のペンギンのペーパーバックと、上にレシートをホチキスで留めた「CVS ファーマシー」の白い小さな紙袋を手に、会社のあるビルのロビーに入ると、エスカレーターの方向へ曲がった。エスカレーターは、私のオフィスがある中二階に通じていた。並んで身を起こし、中間の重みを支える支柱も桁もなく自立してフロアを結ぶ、二つの積分記号(∫)だ。よく晴れた日には、今日のように、複雑に交錯するロビーの巨大な大理石やガラスが、束の間、さらに勾配の急な光のエスカレーターを作り出した。真ん中より少し上で本物と交差した光のエスカレーターは、ブラシ地の金属のサイド・パネルに当たって細かい針を散らしたように輝き、かすかにでこぼこしながら上っていく黒いゴムの手すりの一本一本に細長いハイライトをつけ、それがまるでうねりながら回転するLP の縁に置かれたラジアン角の光沢のように見えた。(1)



(1) 回転する物体の縁に当たった光が、その場所で静止しているように見えるのは美しい。プロペラや卓上ファンのようなものでさえ、回転する羽根がぼんやりと輪郭を失う中で、常にある一定の場所が光っている。これは一枚一枚の羽根のカーブが回転の途中で一瞬光を受け、すぐに次の羽根にそれを引き渡すために、そんな風に見えるのだ。

11.
本土の船着場とダヴンホール島を行き来するあいだ、いつも一瞬だけ、船着場も島も見えなくなる瞬間があった。その瞬間には、霧に包まれて水上に浮かぶ彼の船以外、もはや何ひとつ存在しなかった。空から太陽がなくなっても、国と名のるものがすべて消滅してしまっても、何も変わりはしなかったことだろう。この仕事にありついた当時、マークはまだこの瞬間の存在に気づいていなかった。ジーノ老人を手伝って、観光客を乗せて本土と島を日に三往復するのが彼の仕事だった。老人は彼が来た七週間後に死んだ。マークは老人の商売を受け継いで、初めて一人で船を出した。そしてその瞬間に入り込んだのだった。霧深い甲板に立ち、何も知らぬ顔の旅行者たちに囲まれて、彼はもう少しで口に出しかけた - 僕は宇宙のどこにいるのだ? と。やがてダヴンホール島の輪郭が、灰色の空間の中に現れた。その後の日々、この瞬間は船着場から島のあいだのいかなる地点でも起こりうることがわかった。まん中あたりで起きることもあれば、島に着く寸前のこともあった。そんなとき島は突如ぬっと目の前に姿を現わし、川べりの土手に船をぶつけてしまうのではないかと思えるほどだった。時には最後の最後までその瞬間は訪れず、今日はもう起こらないのだろうと思うこともあった。その瞬間が来ると、彼はいつも恐れと侘しさに襲われた。彼は船上の観光客を見回した。彼らはみんな揃って予定表と睨めっこをしている - いかなる予定表も無意味であるこの瞬間、いつか別の時間、どこか別の場所の時計から盗んできた死海文書と同じくらい無意味であるこの瞬間に。それはこの瞬間に先立つ場かもしれないし、あるいは来たるべき瞬間の場かもしれない。いずれにせよこの瞬間の場所ではない。いまこの瞬間に属する場ではないのだ。

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まず始めに。今回の記事は『ハンター×ハンター』のことを知らなければ読まなくてよいと思う。なにを言っているのかわからないだろうから。


一年ぶりに『ハンター×ハンター』が「週刊少年ジャンプ」で再開された。
作者の冨樫義博は「急病のため」という名目で休載をつづけているが、本当のところはゲームをするために休載しているのだというウワサが後を絶たない(コミケのため、というのも聞いたことがある。出店するということか?)。
しかし、それは信じがたい。少なくとも100% の理由ではないだろう。
本当の本当のところは、描けないからだ。病気でもなければ漫画家が休載する理由なんてこれくらいしか思いつかない。


冨樫はキメラアントとのうまい決着の仕方をまだ考えついていないのだろう。
冨樫の数ある悪い癖の中に、「キャラに愛着を持ちすぎて殺すに殺せなくなる」というのがあり、そのためキメラアントの幹部連中や主人公の味方連中に対する処置をためらっている節がある。『NARUTO』や『BLEACH』などのいい加減漫画だったら、「仲間は絶対に死なない。敵だったら仲間にしてしまう」という安直な解決方法が選択されるであろうが、それは冨樫が貫きたがっている「脱・和気藹々路線」に矛盾してしまう。その痛し痒しの一例として、幻影旅団の扱いが興味深いと言えよう。
幻影旅団は、クラピカの仇敵として登場したが、冨樫が(ない頭を?)必死に絞って考え出したキャラクターに溢れている。敵キャラが魅力に溢れている、というのは本当は素晴らしいことで、『ジョジョの奇妙な冒険』のディオをその例の筆頭として挙げたい。ただし、『ジョジョ』の作者、荒木飛呂彦がディオを潔く殺すのに対して、冨樫はなかなか殺すに至らない。そんな冨樫が、心中血の涙を流しながら(作中で)殺したのがウヴォーギンというキャラクターで、彼の死を以て他の旅団員の命を救ったというのが、非常にわかりづらい冨樫の落としどころだった(パクノダはウヴォーギンの死のデコレーションのためだけに存在した)。全員併せて十人いると紹介された陰獣のうち、たった一コマで五人が瞬殺されたのに較べれば天と地の扱いだ。


そんな冨樫のキャラ殺しのジレンマが今回のキメラアント篇でも勃発しており、敵キャラではネフェルピトーの処遇に困っていると思われるが、おそらく現在の冨樫がもっとも迷っているのは、味方キャラの生き死になのではないかと思う。
主人公のゴンのチーム内では、死亡フラグを立てすぎていたモラウにヒヤヒヤしていたが、なんとか無事に済みそうだ。彼の死を生け贄にすることで、「振り返ると凄惨だったキメラアントとの戦い」を演出するつもりなのかと考えていたのだが、冨樫はより大きな生け贄を考えているのかもしれない。それがコミック第二十七巻を飾っているネテロ会長である。
ネテロの推定死亡率は高すぎる。なにせゴンチームのうち、いまだ一人も死んでいないのである。当初はモラウとシュートとノヴをポックリ殺してそれでお茶を濁すのかと思っていたら、読者同様、冨樫がモラウに感情移入をしてしまったようで、同じく殺されキャラとして登場したはずのモントゥトゥユピーに理性的な人格を与えるという、またしてもよくわからない交換条件で、生かされることになった。ちなみに、ノヴはストーリー上は生きているが、キャラ的には死んだ。ノヴのハゲが示しているものが、死である。
ネテロに対する冨樫の愛は、キメラアント篇への登場当初はごく稀薄なものだったような気がするが、いったん殺すと決めてから(「あいつワシより強くねー?」以降)キャラクターが豊かになってきた。そして、今週の描きっぷりときたら……。久しぶりの大ゴマも散りばめられ、念の「百式観音」の線も太く、久々に「絵」に感動した。これは冨樫の気合いがノっている証拠である。いよいよ、ネテロは死ぬに違いない。
ただ、後顧の憂いとして、ネテロの死後、どうやって王を倒すかが不明。キルアの父ちゃんは帰っちゃったし、幻影旅団の団長も登場しないだろうし、大穴としてはゴンの親父の登場か? まあ、王の台詞に「(ネテロを)殺さない程度に」云々という記述があったことも忘れてはいない。結局みんな死なないで終わるかも。冨樫には、「敵も味方も、犬死にするのは雑魚キャラで結構」という割り切りがある。
ところで、現在のところ一見ナックルがその生死判定ライン上にいるように見えるが、彼は無敵属性なので大丈夫。「幽☆遊☆白書」における桑原と考えて、まず間違いない。ゴンより生存率は高いと考える。


ともかく、休載するたびに「くだらねえ漫画なのに」とぶつぶつ言って批判するくせに、いざ連載が再開されると昂揚してしまうところを自省するに、やはり私は『ハンター×ハンター』に一定の好意を持っているようだし、その昂揚せしめるテクニックを冨樫は有している、ということは忘れてはならないだろう。
ほぼ連載をつづけている「ワンピース」の方がはるかに高レベルのことを描いているのに較べてしまえば、たしかに休載するのは好ましくない。
だが、作者は悩みながら『ハンター×ハンター』というストーリーを作り、その中のキャラクターに命を吹き込んでいる。それは『NARUTO』や『BLEACH』とは別の、難易度の高いアプローチによってであり、そのため、ときには作者自身が矛盾に陥り、自暴自棄に奔ってしまう。無慈悲なキャラクターの惨殺(ex. 肉団子にされたポックル)や、休載がそれである。読者は冨樫の「もう描きたくないよー」という悲鳴を何度聞かされたかしれないだろう。
それらを超えて、今日の『ハンター×ハンター』がある。『ハンター×ハンター』はゴンの成長の物語ではない。冨樫義博という子供みたいな漫画家のリアルな成長の物語なのである。


……と、話を締め括って、「なんだかんだ言って、やっぱり『ハンター×ハンター』のことが(好き、とははっきり言えないまでも)気になっているんだなあ」と気づいた。

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年始としてこんな話もどうかと思うが、旅順攻撃の話を。

『坂の上の雲』(文春文庫)の第四巻を読んでいたら、かの有名な旅順攻撃の話が出てきた。まだその結末までは読みいたっていないのだが、その第一回総攻撃において、日本軍はわづか六日間で一万五千八百人という死傷者を出した。総攻撃をかけた第三軍司令官は乃木希典、参謀長は伊地知幸介。この二人の名前は日本戦史においてだけではなく、精神史上でもぜひ銘記せられるべきである。
乃木についての司馬遼太郎の批判は有名なものらしく、たしかに現在四巻まで読み進めている時点では、その無能ぶりを匂わせる点が多々出てくるのに対しその優れた点の描写は皆無といってよい。それよりもなによりも、当時の日本陸軍、いや日本全体の癌となっていたのが、伊地知幸介という存在だった。


司馬の説明によれば、伊地知は英独仏にそれぞれ留学する一方、当時新設されたばかりの参謀将校の養成機関である陸軍大学校で学ぶこともなく、また実戦経験もないまま、参謀本部第一部長になった。なぜそんなことになったかについて、司馬はこう書いている。

かれが(日露戦争)開戦の四年前に日本の作戦計画の中枢ともいうべき参謀本部第一部長になったのは、この当時の日本の気分をよくあらわしていた。舶来品とか帰朝者、洋行がえりといったようなことばがきわめて権威的につかわれていた時代であったから、それからみると少尉任官のころから少将になるまでほとんど西洋で送った伊地知は、当時の日本人からみえれば準西洋人というべき存在であった。
「伊地知ならなんでもできるだろう」
と期待され、その職についた。

(前掲書 P196: 括弧内は引用者が補足)
残念ながら、この舶来信仰はいまだになくなったとは言えない。

伊地知は戦争経験がないだけではなく、物事を柔軟に受け止めるという態度も欠如していたらしい。その証拠として、日本人兵士の屍体を量産するだけで「敵にあたえた損害は軽微で、小塁ひとつぬけなかった」(P184)第一回の総攻撃ののちに行われた第二回総攻撃でも、なんの工夫もなく正面攻撃を行ったがために、ロシア軍の籠もる旅順要塞にいささかの損害も与えることなく、いたずらに四千九百人を死傷せしめた。
また、これがもっとも彼の人格を疑う点になろうが、「第三軍司令部は、敵の砲弾がとてもとどかぬほどの後方に位置し」(P191)、「伊地知が得る前線状況は、多くは第一線の青年将校からのまた聞き(職階的段階をへての)であった」(P192)。戦争という現場においてのそのような関わりあい方で、わづかの期間のうちに二万人近くの命を奪えるという感覚が、既にこの頃の陸軍には生まれていたらしいということがわかる。もちろん、伊地知の場合はそれでも特別のようで、のちに満州軍総参謀長の児玉源太郎が同軍に訪れた際、参謀部が前線に立っていないということに激怒し、彼らの参謀という胸章を引きちぎったという熾烈なエピソードがあったはずだが、司馬の文章は行ったり来たりのため、その記述を見つけることはできなかった。


とにかく、この伊地知の不明さ、頑迷さは、無能を通り越して罪悪ですらある、と私は感じた。そして、これは現代人たる私たちにも非常に重要な示唆を与えているとも感じた。
上記したように、舶来信仰を土壌とした倣岸な人格の培養は今でもよく見かけられる。舶来だけではなく、学歴、収入、権威という背景に対し、日本人はそれらを無抵抗に受容する性癖を持っているといえるだろう。
それが正しい場合もあろうが、同様に正しくない場合もあるということをあらためて銘記し、もって自らの新年の戒めとすることを、元日の夕べに思った。

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