とはいえ、わからないでもない

2010年04月

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今日の音楽。
Sexy Girl / Snow
懐かしいでしょ。
こんにちは またあした / コトリンゴ

もう初めて聴いたときから「好きっ!」って感じなんだけど、その好き具合がすごすぎて、「なんか騙されているんじゃないか」と少し距離を置きつづけてきたコトリンゴ。でもこうやって聴くとやっぱり好きなんだなあ。そろそろリミットを解除しようか。

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考察 #1

まずはジョン・スチュアート・ミルの言葉から。
個人の権利と正義は特に尊重されるべきである
なぜ「正義」が道徳の中で最も尊重されるべきなのかというと、他人を尊重し、利用しないことは、快楽や苦痛をものさしとして測るいわゆる「効用」をしのぐからである、とサンデル教授は説明している。
ここで「リバタリアニズム」が登場する。「リバタリアニズム」は「自由原理主義」あるいは「市場原理主義」と訳され、この主張者たちを「リバタリアン」と呼ぶ。
彼らは、まずなによりも自由が尊重されるべきと考える。そしてその主張はこうだ。
  • 干渉主義的な見方による立法の否定
  • 道徳的立法の否定
  • 富者から貧者への所得再分配の否定
講義にはなかったが、いまアメリカで国民皆保険制度に対して大反対し、オバマ大統領に大クレームを申し立てている"TEA Party"の連中がまさにこのリバタリアンだ。
私はアメリカともあろう国がなぜ国民皆保険にあんなに反対するのか、恥ずかしながらその事情を知らなかった。その内実に少し触れられたのは4月15日放送の「クローズアップ現代」の「アメリカ揺るがす“反オバマ”の衝撃」においてだった。
番組によれば、"TEA Party"*1運動をしている連中は白人中流社会に属する人々で、彼らは、(一部「名目上」かもしれないが)貧しい人々を救うことに反対しているのではなく、政府が国民の自由に干渉することに対して反対しているという。
また、銃の所持について、あれほど残虐・凶悪な事件が山ほど起こっているのにもかかわらず依然として規制はなされていない。これも、「国民が自身を守るために銃を所持する権利」に対する政府の「侵害」を許さないからである。
一般的な日本人の場合だったら、「ああ、貧しい人がいるんだね。それは国が助けてあげなきゃいけないね」と思い、「銃は危ないよね。そういうのは国を挙げて取り締まっていかなきゃいけないね」と思うだろうが、上記のように、(すべてではないのだろうが)アメリカ人にはまるっきり正反対の論理がある。
さて、ここでサンデル教授の講義でなにが問題にされていたかというと、ずばり「課税」だ。
日本人の感覚から言えば、決して「心から」というわけではないにせよ税金は納めて当然というもの。しかし、リバタリアンたちは課税を忌み嫌う。リバタリアンのうちのひとり、ノージックという人の言葉が引用されていた。
課税は最小の政府のための最小限のものでなければならない
つまり、課税というものをすべて反対しているわけではないが、まず政府というものが国民の権利を最大限認める存在であり(つまり、政府としての権限は最小限)、そして課税は、その最低限の役割を果たすのに必要な最低限のものしか認められない、という考えだ。
これは私の考えだが、ここに、自由を勝ち取ったアメリカの文化と、自由を与えられた日本の文化の相違が見られる。

考察 #2

今はどうだか知らないが、数年前のビル・ゲイツの資産は四百億ドルだったらしい。もう桁が違いすぎて想像もつかない。で、ある人がゲイツの時給計算をしたというのだが、その人の計算によれば、なんと150ドルになるらしい。もちろんで!
つまり、サンデル教授が言うには、
「ゲイツの場合、オフィスに向かう途中、道に100ドルが落ちていても、拾わなくていいんだ」
ということになる。
マイケル・ジョーダンも登場した。彼の稼ぎがどれくらいだか忘れたが、教授がこんな風な表現をしていた。
「ゲイツほどじゃないけど、彼だってかなりの金持ちだ」
そのときにスライドに映し出されたジョーダンの写真(Web 上で発見。なお、ゲイツの写真も面白かったのだが、それは見つからなかった)がこれだ。

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リバタリアンはこう言う。
課税は強制であり、権利の侵害である
と。
そして、アメリカの富の再分配についてのノージックの言葉が紹介された。
所得の分配を公正にしているものはふたつある
  1. 取得の正義
  2. 移転の正義
1.はつまり「最初の保有」のことである。ある人が荒れ地にやってきてそこを耕したら、それは彼のものとなる、ということだろう。
2.は、「公正な意志決定に基づく取引」のことである。誰かに強制されたり、奪われたりした場合でない富の移動のことを指すのだろう。
そしてやはりノージックも課税に対して反対をし、
課税とは、すなわち所得の取り上げであり、すなわち強制労働であり、すなわち奴隷制である
と考えを述べたらしい。まあ、この考え方に則るのであればそういう結論になるのは頷けなくもない。ある学生の発言がメモに残っていた。こんなことを言っていたようである。
ゲイツやジョーダンは、社会からも支えられている。だから、手に入れたものを還元すべきである
さて、私自身はどのように考えているのかというと、社会に還元する、という考えが一見与しやすいように思える。
だが、本当にそうなんだろうか、という疑念が起こって仕方ない。たとえば、ゲイツやジョーダンがその「社会」から支えてもらっているといった場合、それは純粋な慈善行為などではなくて、彼らから利益を享受できるためになにがしかの支援を行っているのではないか、と思えてしまうからだ。
代表的な例がスポンサーだ。ジョーダンが新聞配達のアルバイトをしてバスケットシューズやウェアを手に入れなくても済むように、代わりにTVCF に出演してもらい、彼に莫大な報酬を与える。大きな指輪の一つくらい欲しくなるほどの大金を。
このスポンサーの行為は「寄付」だろうか? この問いには誰もYes とは言わないだろう。彼がシューズとウェアを身につけることによって、その会社の年度営業利益の桁が跳ね上がることを考えれば。場合によってはジョーダンから受ける恩恵の方が大きいと言えるかもしれない。
また、「純粋な慈善行為」と上に書いたが、そもそもなにを以て「純粋」といえるのか、とも思う。慈善行為ですら、ほんのわづかなものかもしれないが、リターン(利益)を期待してのものではないのか。
ここでいうリターンは当然金額で測れないものも含まれる。「ほんの親切心から」という名目で誰かがなにかをプレゼントする場合、その相手から、毛ほどの笑顔すらも期待しないというのだろうか。
全く無償の親切心や慈悲の心というものがこの世の中に存在する、という確信を持てない以上、ある個人や集団の、特定の個人や集団に対する利益供与行為は、必ず利害関係を経たものか、あるいはこれから経ていくものと考える。だから、ゲイツやジョーダンに対する課税の理由として「社会への還元」を挙げるのなら、「これ以上払ったら過払いになっちまう」ということで跳ね返せるのではないか。
といって、じゃあ課税は廃止せよという考えかというと、まったくそんなことはなく、つまり課税は、思想や理論、理窟ではなく、一定規模の社会が構成されていく以上、制度が必ず要請するものである、という認識が私にはあって、それは税というものが発生した歴史的過程もほぼ同様なのではないか。要は、「まずは税ありき」だったのだと思う。
税を課すという行為の必要性が生じ、それでから、どうやって文句を言わせないで納税者をだまくらかせるかと、体制側の人間は頭を悩ませたのだろうが、さて私ならなんと言って自由主義者たちを黙らせようとするか。
うーむ。簡単に思いつかないから、これも補足行きだな。
先へ進もう。

考察 #3

さて、リバタリアンの基本的な主張は、
自分を所有するのは自分である
ということだった。この「自己所有原則の侵害」はリバタリアニズムの根底を揺るがすものであり、リバタリアンはそれを認めないだろう。彼らはアナーキストではないので、政府そのものを認めないというわけではないだろうが、「小さな政府」しか認めない。つまり、最低限の権限しか与えられていない政府である。
私のメモに、「フリードマン 社会保障制度は自由の侵害」という文章が唐突にある。おそらくフリードマンというのはリバタリアンの一人なのだろう。
そして「フリーライダー」というメモがあり、
活動の費用を負担せずに、集合財(公共サービス)の利益を享受するもの
という説明がついている。つまりこれも社会保障制度のデメリットとしてリバタリアンが挙げるものの一つなのだろう。これらの社会保障制度に対する反対は、前回採り上げた"TEA Party"の連中の主張と変わるところはない。
なお、前回の記事で、"TEA Party"のTEA は"Taxed Enough Already"の略だと書いたが、その大本のネタとして「Boston Tea Party」事件があるということに言及しなければならないのではないか、という指摘が弟からあったが、それについては上記リンクを参照してもらいたい。私自身は、今回の講義が終わるまではここらへんのアメリカの歴史に関わるWikipedia 等の情報は見ないことにしている。歴史の教科書に、大勢の人間が船から紅茶の荷物(?)を海に投げ捨てている絵があったと思うが、あの事件である。また、アメリカ人に紅茶党が少なく、コーヒー党が多いのもこの事件のせい。
このリバタリアンへの反論として、学生たちの意見をもとにサンデル教授が四つの箇条書きにまとめていた。
  1. 貧しい者はより金を必要としている
  2. 統治された者による同意に基づいて行われる課税は強制ではない
  3. 成功した者は社会に借りがある(?)
  4. 富は部分的に運によるので、自己所有権は当然のものではない
しかし、ここの部分は午前二時半を回って朦朧とした意識でメモしたものなので、いまいち覚えていない。私だったら、と考えてみると、あらためて「みんなが助け合わなければ」という考えがデフォルトになっていることに気づき、少し驚く。私のように比較的薄情な人間でさえ、互助精神というものが当たり前という意識が染みついているのだ。
それではそれを取っ払ってしまうとどうなるか。
つまり(私の考えでは)、リバタリアンの主張は突き詰めると「できるだけおれたちのやりたいようにやらせてくれ」になる。場合によっては「揉め事だっておれたちだけで解決できるさ」と言うかもしれない。
コミュニティーが、リバタリアンだけで構成されているのであれば問題はないだろう。だが、リバタリアンだけでなく、リバタリアニズム見地からすれば「独立していない弱者たち」がその共同体に加わったとしたら。そして、その「弱者たち」の割合がリバタリアンよりも多くなったとしたら、と考えてみる(「弱者」の割合の少ないうちは、リバタリアンの意見が通り、「弱者」は共同体を出て行くか、彼らの意見に従うしか選択肢はない)。
すると、非リバタリアン的人口が増えたことにより、ここで初めて非リバタリアン的思考が発生し、「自由にいくらか干渉するシステム」が構築されることになる。
(……自分で書いて自分で突っ込むのもなんだけど、私はどうも「制度ありき」で考えてしまっているようだけど、ここに根本的な間違いがあるのではないかと不安)
このシステムに参加するか否かは各リバタリアンの意思に委ねられており、共同体に残るのであれば、ある程度はシステムの要請に従わなければならない。たとえばそのひとつが課税である。
……という私の発想の元には、「自由の濃度」というイメージがある。この「濃度」は「○○%の食塩水」というときの濃度とまったく同じ意味合いを持つ。
リバタリアンたちが多い共同体(溶液)は「自由」についての濃度が高いが、非リバタリアンの割合が増えていくにつれ、共同体(溶液)内のその濃度は薄まっていく。
自由の濃度が比較的薄まった共同体は、共同体自身が存続するために個々の構成員の存続を優先するだろう。そこで初めて(?)互助的精神が発生する。
ということで、やはり「制度ありき」、「課税ありき」という結論に至り、繰り返しになるが、
維持存続のために「課税を行う」という判断を行った共同体に参加している以上、その規範には従わなくてはならない
ということになる(私がこう考えるのは、ソクラテスの「悪法もまた法なり」の言葉が背景にあるようだ)。
また「富の再分配=課税」の程度だが、リバタリアンの濃度が0ではない以上、「財産権を侵すほどではないレベル」で共同体の判断基準が設けられるであろうからそこは問題はないと思うのだが。
いづれにせよ、上記の通り、わりあいに一般受けの良さそうな結論になった。

そうそう。自然権というものがあるが、私個人の考えではあれらは「人間が本来備えているもの」ではなく、あくまで「その共同体が構成員に対して認めるもの」である。それだからこそ、サドの小説に恐怖を感じるのだ。ん? 医療保険改革を怖れるアメリカ人たちももしかしたら同根の恐怖を感じているのだろうか。
という話と、ちょっと前後してしまうが、いよいよジョン・ロックが登場する。
ロックは一見リバタリアンのようで、たとえば、
最高権力は本人の同意なしに財産権を一部たりとも奪うことはできない
と言っている。
しかし、だ。この言葉のあとにロックは重要な一文を付け加えている。
コミュニティーの法律により、財産権は彼らのものになる
と。つまり、その権利を規定するのは共同体だよ、ということ。
また、ロックは(うろ覚えなのだが)、
人間が自己を所有する権利は神から(?)与えられていて、それは不可譲である
と言う。つまり自分を抛棄する権利は人間には認められていないと言う。
リバタリアンは、つまりこの二点(以下に示す)において、ロックに反対をするとサンデル教授は説明していた。
  • 所有権が不可譲である
  • 同意に基づいた政府が、正式な手続きを経れば私有財産の侵害を認める
次回から「この土地は誰のもの?」へ。自然権の話はそこでちょっと出てくる。

 

*1:ちなみに"TEA"は、"Taxed Enough Already" (税金は充分払ってる)の略だという。

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考察 #1

「功利主義」が最大幸福を計測のために用いる費用便益分析の例がサンデル教授によって紹介された。政府が「喫煙」を問題にしたとき、あるタバコ会社が以下の費用分析を行った。
費用(コスト)
  • 喫煙による疾病が増加し、それに伴い医療費が増加する
便益(メリット)
  • タバコが売れることによって関連税収が増加する
  • 喫煙によって国民(高齢者?)が早期死亡し、それにより医療費が抑制できる
実際にはこれには金額が試算されていたのだが、私はメモを取り忘れてしまった。試算の結果は、便益の方が多いということになった。 そしてそのタバコ会社は、喫煙は政府にとってもいいものだと結論づけた。また、ある自動車会社でリコールが起こった。その調査を進めるうちに、実はその会社は発覚以前に当該脆弱箇所を既に把握していたということが判明した。
企業は費用便益分析を行い、以下のような結論をしていた。
費用(コスト)
  • 脆弱箇所を保護するシートの取り付け -11ドル × 1,250万台 = -1億3,700万ドル
便益(メリット)
  • 故障による事故死亡者への慰謝料 -20万ドル × 180人 = 3,600万ドル
  • 故障による事故負傷者への慰謝料 -6万7,000ドル × 180人 = 1,206万ドル
  • 破損した自動車の修理費 -700ドル × 2,000台 = 140万ドル
-4,950万ドルこれにより便益(-4,950万ドル)が費用(-1億3,700万ドル)を上回ることがわかる。ゆえに、保護シートの設置は必要ない、と結論づけられる。
これ以外にも「運転中の携帯電話の使用」についての費用便益分析の例が紹介されていたが、メモが残っていない。
いづれにせよ、企業はあらゆるものを比較対照でき、分析を行うことができるという功利主義の観点に立っている。だから上記のように、たとえ命であろうと単一の基準(この場合はドル)に換算し、分析を行ってきた。
功利主義に対する反論は以下の二つ。
  1. 少数派の権利を尊重していない
  2. すべての好み・すべての価値を集計することは不可能
2. についての反論として、ソーンダイクの以下の言葉が引用されていた。
望むと望まぬとに関わらず、存在しているものはある程度測定できる。

考察 #2

講義では以下の二つが功利主義に対する疑問として挙げられていたような気がする(なにしろ、深夜に番組を見たということもくわわって、私の記憶はどんどんと失われていくばかり)。
  • すべての価値を、(ドルのような)単一の基準で測れるのか?
  • 喜びに高級・低級の弁別はしないのか?
ベンサムが重要視したのは、(この世にある「苦痛」と「快楽」のうちの)快楽の量とその長さであり、次の言葉を残している。
喜びが同じであれば、プッシュピンは詩と同じように良い
同じく功利主義のジョン・スチュアート・ミルは功利主義の計算を拡大し、修正していきたいという考えを持っていた。
ミルの考えかどうかは忘れたが、
質の優劣を測るためには、比較する両方を経験すれば、道徳的義務感に関係なく、より質の高いものを人は選択する
という定義があった。
それを実感してもらうためであろう、サンデル教授たちが学生たちに以下の三つをビデオで見せた。
  1. シェイクスピアの独白シーン
  2. フィアファクター(バラエティ番組らしい)
  3. シンプソンズ(アニメ)
この中で学生たちが最も喜んだのは「シンプソンズ」で、次に「フィアファクター」だった。しかし学生たちに挙手をさせると、そのほとんどが一番素晴らしいものとして「シェイクスピア」を選択していた。「シェイクスピア」を素晴らしいと思うのは、文化と伝統の圧力があるからに違いないといったのは学生だったかそれともサンデル教授だったか。いづれにせよ、それも含めてここは実に面白い部分。面白いのだが、ここについては補足として私の感想を後述する予定。*1
あと、私のメモに残されていた言葉。

  • 高級なものを選択するには教育と理解が必要である
  • 正義とはある種の道徳的要請である
  • 満足な愚者よりも不満足なソクラテスの方がよい
一番上はおそらくミルのものだが、あとふたつはどうだったか。とにかくメモの取り方が下手すぎて後から読んで詳細がわからなくなってしまっていることにたいへん不満を覚える。
本当はじっくりとやっていきたいのだが、来週の日曜にまた講義は放送されてしまうので、それまでには第4回分まで(形式上の)整理をしておきたい。
次は「富はだれのものか?」へ。

*1:(5/15追記)「動機と結果 どちらが大切?」の「考察 #3」において、感想に近いことを記述した。

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サンペレグリーノが後援する2010年の「世界のベストレストラン50」が今月26日に発表され、そのうち「レ・クレアシヨン・ド・ナリサワ」(24位)と「龍吟」(48位)がランクインしたそうな。ま、それはどうでもいいんだけど。
公式ページによるランキングをちょいと見てみると……
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公式サイトより)
こうやって見ると、10位以内にはフランス料理が入っていませんなあ。1位はデンマークはコペンハーゲンのレストランだそうです。

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今日の音楽。
SWEET MEMORIES / 松田聖子

失った夢だけが
美しく見えるのは何故かしら
過ぎ去った優しさも今は
甘い記憶 sweet memories
松田聖子は本当にいい曲を歌っている。これ、なんと二十七年も前の曲。陳腐だが、今も色褪せない。山崎まさよしがカバーしたらしく、今日それをラジオで聴いたのだが、既に色褪せていた。
Fools / Diane Birch
キャロル・キングっぽくてよい。なんだかいま聴いても数十年後に聴いても、同じ「懐かしい」という感慨を抱きそう。
トワイライト / GOING UNDER GROUND
この疾走感。

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考察 #1

噂に聞いていた「ハーバード白熱教室」という番組を観た。
ハーバード大学のマイケル・サンデル教授による『政治哲学』の公開授業。千人もの学生たちと討論しながら授業を進めていく点がものすごくスリルがあって面白い。
初回は「殺人に正義はあるのか?」このうちレクチャー1で出された質問(うろ覚えだが)。
1
列車を運転していて、ふと目の前に線路上に五人の労働者がいることに気づく。ブレーキは利かない。このままでは五人を轢き殺してしまう。
だが、ハンドルを切れば待避線に入れることに気づき、そうすれば五人の命は救うことができる。しかし、待避線の先に労働者が一人いるので、そちらに行っても一人は轢き殺してしまう。
どちらを選ぶか。

2
今度は自分が傍観者の場合。橋の上から見ていて列車が上記状況に陥っているのに気づいたのだが、なにもすることができない。ふと、隣にものすごく太った男がいて、橋の下を覗いている。この男を突き落としたら線路に落ちて列車に轢かれて死んでしまうが、列車は停止し、五人の命を救えるとする。
さて、ものすごく太った男を突き落とすか。

3
自分が移植医だったとして、いま五人の瀕死の患者を抱えている。患者たちはそれぞれ、心臓、肺、腎臓、肝臓、膵臓の移植が必要で、健康なドナーからの提供を待ちわびている。
そこへふと、隣の待合室のソファで健康な人が居眠りをしているのに気づいた。
彼からそれぞれ心臓、肺、腎臓、肝臓、膵臓を摘出すれば、その健康な人は死んでしまうが、その代わりに五人の瀕死の患者たちは救える。
あなたは、摘出を行うか。
もちろん、哲学的設問であるから一般的な正解はないのだが、一番してはいけないのは直感やいわゆる「常識」を拠り所として回答を導くこと。

まず1の質問について。
ハーバードの学生のうちのほとんどは「ハンドルを切ること」を選択する。その回答の多くとして、「五人よりは一人」という数の理窟が多かったように覚えている。
私もたぶんそちらを選ぶことになろうが、大事なことは「なぜ一人の死を選択してよいのか」ということなのだと思う。そこに至るプロセスを熟考する必要がある。
私はすぐに「ああ五人より一人だな」と思ったのだが、その後、「あれ? でもこの場合、待避線の上で働いていた一人は死ななくてもいいのに死んだってことにならないか」ということに疑問を持つ。
五人を死なせることは、ある意味、限定された条件の中では不可避であると言える。「限定された条件」の中には、「壊れたブレーキ」、「スピードを出す列車の直進方向にいる」などが含まれ、これらに対して、当事者である運転手(自分)と労働者五人の責任はない(実際の事故ならば責任問題が必ず発生するが、この仮定では無視するものと思われる)。
だが、「ハンドルを切る」という行為には運転手(自分)の責任が発生し、その判断の根拠には、おそらく「少数より多数の幸福」(これはサンデル教授があとで述べる功利主義の理論)があるのだろうが、数秒前に「ハンドルを切ろう」と運転手が思い立つまではちっとも死ぬ運命になかった待避線の労働者の命を犠牲にしてまでその五人の命を選択しなければならないかというと、そこにちょっとしたつっかかりを感じる。
このつっかかりの原因はなにか。

考察 #1 補足

#1で「一番してはいけないのは直感やいわゆる「常識」を拠り所として回答を導くこと」と書いたが、その理由。まず、直感を根拠としてしまうと、考察あるいはもう少し言うと思索という行為から逸脱してしまう。ある問題に対して考えを巡らすこと、深く考えること、が哲学の大前提であり、直感を許してしまえば、それに伴い往々にして起こりうる論理の飛躍・破綻をも許してしまうことになる。また、直感には説明不可能な部分が多く、これまた哲学の大前提である「すべては言語化可能である」*1から大きく逸脱することになってしまう。次に、「常識」というのは社会が規定しているものだから、これを根拠とすることも哲学的見地からいって正しい態度とは言えない。個人が考え抜いて出した結論ではなく、予め誰かが考えたものに無条件で寄り掛かることは判断の放棄といえる。ただし、無条件ではなしに、熟考した末にいわゆる「常識」と同じ結論に至ることは当然あり得るし、認められる。以上の理由から、「直感」と「常識」を根拠とすることは思考の停止、判断の放棄を意味するので、それなしに考えていかなければならない、ということになる。

考察 #2

「つっかかり(=つまづき、引っかかり)」はひとまず保留しておいて、設問の2を見てみる。
2
今度は自分が傍観者の場合。橋の上から見ていて列車が上記状況に陥っているのに気づいたのだが、なにもすることができない。ふと、隣にものすごく太った男がいて、橋の下を覗いている。この男を突き落としたら線路に落ちて列車に轢かれて死んでしまうが、列車は停止し、五人の命を救えるとする。
さて、ものすごく太った男を突き落とすか。
この質問に対する学生の反応は、ほとんどが「突き落とさない」を選択した。その理由として「直接手を下す」ことへの嫌悪感を表明する学生がいたが、それはなるほどわかりやすい。
いま考えてみるに、1の状況においては二者択一であったのに対し、2の状況においては、数限りなくある選択肢のうち、わざわざ隣に立つ男を殺してまでする行為に、おそらく責任が持てないのだろうと思う。テレビを見ているときは気づかなかったが、自分が線路に飛び降りて、停車させる、あるいは轢かれることによって列車に制動をかける、という選択肢もないわけではない。そういう意味で選択肢は五人か一人か、だけではなくなっている。
この設問で意見が偏ったのは、不可避ではない状況で殺人 ―たとえより多数の命を救うためとはいえ― を犯すことに学生たちは強い抵抗を感じたからだろう。

考察 #3

今度は設問3について。
3
自分が移植医だったとして、いま五人の瀕死の患者を抱えている。患者たちはそれぞれ、心臓、肺、腎臓、肝臓、膵臓の移植が必要で、健康なドナーからの提供を待ちわびている。
そこへふと、隣の待合室のソファで健康な人が居眠りをしているのに気づいた。
彼からそれぞれ心臓、肺、腎臓、肝臓、膵臓を摘出すれば、その健康な人は死んでしまうが、その代わりに五人の瀕死の患者たちは救える。
あなたは、摘出を行うか。
これについても、学生のほぼ全員が健常者を殺さないことを選択した。これも前回の理由とほぼ同じであろう。不可避でない限り、殺人を犯すべきではないとほぼ全員が考えているのである。
2についても3についても、学生たちはおそらく多くの人々と同様に、能動的な殺人を選択しない。そして、私が1で感じた「つっかかり」もおそらくその点に問題があるのだと思う。
1において、設問の最初の設定では、五人が死んでしまうのは確実となっている。たとえば「死者のリスト」のようなものがあるとしたら、そこに五人の名前が書かれていた、ということになろう。そして、その名簿には待避線上で仕事をしていた男の名前は見当たないはず。
だが、運転手である自分が「五人のためなら」と待避線の存在を思いついた瞬間に、ふと「死者のリスト」の五人の名前が薄くなっていき、その代わりに新たに待避線上にいた男の名前がぼーっと浮かび挙がってくる様子が、私の中に想像される。
これは多分にSF 的要素が含まれる(そしてその多くは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のイメージに拠っている)が、私の言いたいことをイメージしやすいと思う。
死ぬ運命になかった男が、誰かの気まぐれにより、突然死ぬ運命に陥る、ということに公平さを感じないこと、言い換えれば不条理を感じることが、この嫌悪感の正体なのだと思うが、「運命」という概念が出てくる時点でフラットな思考と言えないかもしれない。
だが、現時点では「つっかかり」をとりあえずは「不条理への不快」と定義し、次へと勧めることにするか。
なお、不条理であることになぜ不快を覚えるかということも説明がつかなければならないが、マイケル・サンデル教授が「Justice (正義・公正)」というテーマで授業を進めていく以上、避けては通れないであろうから、これもまたいづれ。
なにしろ、ビデオに撮っているわけではなく手元にメモ書きをしていくだけだから早く記録(当記事)を進めていかないと次から次へと忘れてしまう。
おまけ。
「ほぼ全員」と書いたのには理由があって、ひとりだけ反対意見として手を挙げた学生がいた。「きみはどうする?」とサンデル教授が訊くと、その男はこう応えた。
「僕なら可能性に賭けます。五人の患者のうち、最初に死んだ患者の臓器を使って他の四人を救おうとします」
おおー。ウルトラC の回答。これには会場中が拍手の大嵐。これにはさすがのサンデル教授も「参った」の表情。ただし、教授がコメントを付け加えたことにより、会場は大爆笑の渦に。
「本当に素晴らしい回答だ。しかし、きみはこのわたしの哲学的設問を台無しにしてしまった」

考察 #4

レクチャー1の中で、教授は二つの考えを呈示していた。
「帰結主義的道徳原理」と、「無条件的(定言的?)道徳原理」だった。
この二つはそれぞれ、
「行為をその帰結によって判断する」というものと、「行為をその性質によって判断する」というものだったような気がする。
さて、やっとレクチャー2に入ることができる。
19世紀に起きたミニョネット号事件*2を題材にして殺人を正当化できるのかという問題を掘り下げていく。
登場人物は難破して小さなボートで遭難した四人。ダドリー、スティーブンス、パーカー、それともう一人の名前は失念した。
はじめ、ダドリーかスティーブンスのどちらかが、籤引きを提案し、それでハズレを引いた者がその身体を残りの皆に提供するというものであったが、それは受け容れられなかった。その後、海水を飲んだために瀕死の状態にあった若いパーカーが(死が近いから、という理由で)殺され、その血肉が残りの三人に分け与えられ、三人はそのおかげで一ヶ月間近い漂流を乗り切り、助かった。問題はその後の裁判(パーカーを殺した廉)でのこと。
これについての学生たちの賛否は、半々くらいだったろうか。
ダドリーらの擁護派は、「残りの三人が助かるというのなら仕方のないこと」という論理だった。対して、告発派は、「たとえどのような状況にあろうと、殺人は許されるべきではない」というのが多数はだったように思う。
面白い意見として、「パーカーに同意を得るべきだったのではないか」とか「やはり籤引きを実行すべきだった」とか「カニバリズムはよくない」というのがあったように記憶している。
この中で、「カニバリズムはよくない」という女子生徒の意見が私は気になった。こういう問題を(いかなる常識にもとらわれない、という意味で)原始的に考察していく場合、「○○だからよくない」という意見はあまり褒められたものではない。たしかにその学生は「カニバリズムはよくない」としか言っていないが、それがどうしていけないかを説明しなかった。それは、彼女がカニバリズムに対する考えが未整理であること、あるいはそこまで熟考していないことを示しているように思う。「○○だからいけない」というのは前に書いたように、判断停止、判断放棄を意味する。
「人肉を食べることがよくない」と言うとき、その人はなにかを根拠としてそう判断しているはずだ。ある人にとっては「自分の信仰している宗教上それは正しいことと認められていない」であるかもしれないし、またある人にとっては「自分の属している社会ではそれは正しいことと認められていない」であるかもしれない。おそらく通常は上の二つで説明はできるかもしれない。しかし、哲学的に考察する、と言った場合、宗教の教義や社会の慣習に依拠してはいけないのではないだろうか。
……と考えて、すぐに反論が私の中で浮かぶ。社会の慣習はともかく、宗教上の教義というものは、無神論者にとってこの地球が存在しているのと同様の大前提である場合があるから、それは認められるべきものなのかもしれない、と。
うーん。自分が無神論者であるから宗教という概念を簡単に取っ払えるけれども、信仰している人にとってそれはなによりも大事なことかもしれないから、一概に判断停止、とも言えないかもしれない。
ただ個人的感想としては、たとえ信仰を持った人間でも、いったん宗教的思想や教義から離れて対象を考察すべきだと思うのだが、断言はできない。
さて、サンデル教授はこの議論の前後で「功利主義」という考えを呈示したように思う。
ジェレミー・ベンサムは、「正しい行為というものは、世の中にある苦痛と快楽を計測したときに最大の快楽をもたらすもの、すなわち効用を最大化するもの」とし、そこから「最大多数の最大幸福をもたらすものが正しい行為」という結論に至った。
この考えには賛成者もいるが、当然のように反対者もいて、私もどちらかというと後者に属するのだが、その人たちの意見の根底にあるのは「いくら、より多くの人間が幸福になるからといって、それが、少数が犠牲になる正当な理由とはならない」というものだ。
しかしこの理窟、私個人の場合においては、少し違和感を覚える。
というのは、小中高の教育期間の中で「少数だからといって蔑ろにしてはいけない」という教育を受けてきたために、「最大多数」などという言葉を見聞きするだけで「それはよくないことだ」と判断する癖がついてしまっている。この態度はやはり正しくないよな。
で、先入観なしに考えてみると、「最大多数の最大幸福」という言葉は一見耳当たりが良くて、なんとなくうまく行くような気にさせる。しかし、それはあくまでもマジョリティーに属しているときの話で、永遠にマジョリティーに所属することが保証されているというのならまだしも、いつマイノリティーに転じることになるかわからないという点で、私個人は不安を覚える。やはり、私は「最大多数の最大幸福」という論理に手放しで与することはできない。
……おそらくこれが私の感じた先に書いた「不条理への不快」の原因ではないかと思う。

考察 #5

不条理についてもう少し。
不条理というと少し文学的・哲学的な意味合いを持たせてしまうかもしれないが、感覚として言えば、不平等と換言できると思う。
「機会は均等であるべし」とか「少数を蔑ろにしたくない」と思う気持ちの裡には、自身が少数派に属したときの恐怖が潜んでいるはずだ。
だから、不平等であることを非難するのには、いつか自身が不平等を被ることになった際の保険の意味合いが強く含まれている。少なくとも私の場合はそういう心理から、不平等であることへの批判が生まれている。
ちょっと脱線。
しかし、平等/不平等であるという概念も、もしかしたら人間が先天的に持っていた概念ではなく、(獲得したという意味で)後天的なものと言うこともできるのかもしれない。
それらは、もともと彼我の比較がなければ生じず、比較をするための一段高次からの視点を持ち、比較の対象を発見することができなければ、感じられることもないであろう。
これに似たような話として、最近見たトーク番組でのオノ・ヨーコの発言が私の中で印象的に浮かび上がる。彼女が子供の頃(第二次世界大戦中)には毎日のように空襲警報が出ており、そのたびに防空壕に急いで隠れていた。それが彼女の日常だった。聞き手が「怖くなかったんですか」と訊くと、「それがわたしの知っている唯一の世界だからそれ以外のことはわからなかった。それが当たり前だった」というような回答をしていた(正確なところははっきりとしない。そのように私が歪曲して記憶しているだけかもしれない)。
オノ・ヨーコって胡散臭い人物だなあと思っていたけど、この言葉だけにはすごく説得力があった。
ライフルを持った少年兵士のことをわれわれはかわいそうだとすぐに思ってしまうが、きっとその少年自身は己のことをかわいそうとは思いもしないだろう。それと同様に、ヨーコ少女は自らの生きている世界を「毎日戦争がつづく悲惨な世界」とは捉えなかった(捉えられなかった)。他の世界というものを知りうるはずもなかったから。
以上から、平等/不平等という概念は、人間が歴史の中で獲得したものなのだと言うことができるのではないか。
脱線終わり。
さて、ベンサムの「最大多数の最大幸福」を考えるとき、「不条理への不快」(=「不平等への恐怖」)から私はすぐに警戒心を抱く。だが、これに対する明確な反論は現時点では行えない。そのため、今は慎重に注意を払うのみにして話を次に進めていく。次回は「命に値段はつけられるか?」
 

*1:「哲学で問題とされる事象はすべて言語化可能である」というのは私個人の考えであって、学問上どう考えられているかは知らない。

*2:本シリーズの記事は、原則としてWikipedia 等をまったく参照せずに、すべて番組を観ただけの知識で書いているため、単語の間違いや人物の間違いは当然出てくる。本記事の目的は、「ハーバード白熱教室」を観た私個人の感想およびそこからの脱線であるので、当該番組のなんの参考にもならないことを強調しておく。

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『笑う科学 イグ・ノーベル賞』(志村幸雄/PHP サイエンスワールド新書)を読了。
もう少し面白いかと思ったが著者の頭がちょっと堅いらしくいまいちハジけない。
内容自体は面白い。カラオケの発明者、「バウリンガル」の発明者が受賞したのは有名だが、それ以外にも、「バニラの芳香成分『バニリン』を牛糞から抽出」する研究や、「ピカソとモネの作品を識別するハト」の研究についても同賞は贈られている。
研究タイトルを見ただけではその本当の面白さはわからず、本書はその内容(の一端)にまで迫る。それ自体は面白い。じゃあなにが不満なのかというと、やはりユーモアなのかな、と思う。
ユーモアが大前提の本賞を解説・紹介するというのに、紹介者のユーモアが欠如しているようでは力不足だと思う。また、量にしてもやはり新書サイズでは不足。
全体的に物足りなさが残った一冊だった。
本賞創設者のマーク・エイブラハムズの言葉が(毎回?)授賞式の最後に述べるという言葉を最後に引用する。
本年度受賞できなかった候補者には、来年の幸運をお祈りする。また、本年度受賞の栄冠に輝いた候補者には、来年はもう少しましなことが起こることをお祈りする

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明日は売りようによっちゃめちゃくちゃビールを売ることができますよ、という話。
その理由の前に、プレミアムモルツがドイツで限定販売されるというニュース
ドイツの「ビールの日」(4月23日)に合わせてサントリーは「プレミアムモルツ」を期間限定で販売するらしい。4月23日が「ビールの日」なわけは、1516年の同日、バイエルン公国(いまのドイツ)においてヴィルヘルム4世が、「ビールは大麦、ホップ、水のみを原料とすべし」という「ビール純粋令」を制定したから。同法は1556年に「原料に酵母の使用を認める」として以来、現在も適用されているそう。当時、日本では室町時代。
なお、「ドイツネットコム.com」では、新宿の「ツム・ビアホフ」というところで行われる「ビールの日」(明日!)のイベントを紹介している。東京在住で興味のある方は行ってみてはどうか。
参考までに三年前のAll About のビール関連記事をリンクしておく。
・「色で選ぶワイン、タイプで選ぶビール
・「原料を知って、ビール通になろう!
・「4月23日はビールの日! ビールで乾杯!」これでビールを売れなきゃいつ売る?

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レビューというのは実に難しいと思うもので、「アマゾン」や「みんなのシネマレビュー」や「価格ドットコム」にまともなものが少ないのは、レビュー者が、レビューを書くということ以上に、自身の価値観ひいては自身そのものの表明に躍起になってしまうところにその理由があるのではないか。
それは自分の家でやってくれ、と。
ネットが発達したせいで、ある「モノ」に対する批評の数が、「モノ」自体の数を上回るようになった。もしかしたらネット以前もそうであったかもしれないが、その時代のその規模はたかが知れている程度であった。
ところが今や、日々、というより時々刻々、この瞬間瞬間にもレビューや感想やクチコミやらが作り上げられ、伝えられている。恐ろしい時代だ。
このままではみんな、作る方ではなく、批評する方へと流れてしまう。そちらの方が簡単だし、自身が批判されない分、気が楽だからだ。
「『ナルト』は十年も連載を続けているのに、相変わらずしょうがない絵を描いているなあ」と私が描くのに要する時間は、十秒もない。しかし作者の岸本斉史は、ネーム作成の時間も含め平均で一日8時間漫画を描いているとすると、
8 × 365 × 10 = 29,200時間
(1時間 = 3,600秒だから、29,200時間 = 105,120,000秒)
を『ナルト』に費やしていることになる。ざっと言って一億秒である。
アイデアを振り絞り、締め切りというプレッシャーを感じながら、一億秒をかけて絵を描くという技術を振るってきた岸本に、私がなにを言えようか。ましてや十秒で。
だから批評をするな、という話ではない。批評とは、その己の不甲斐なさの認識からスタートしなければならないということであり、その戒めはまさに私自身に降りかかってくる。
おそらく、私が「レビューにまともなものが少ない」と感じる理由には、冒頭にも書いたように「自己表現の場」と勘違いしている人間が多い、というのと同時に、自身が批評するに足るのかということを問うていない人間も多い、というのがあるのだろう。
ブログという(非公開にしていないという意味において)一応の公の場で簡単に批評をする、という私の行動そのものが、上記二要件を充分に満たしている。その厚顔をつねに忘るべからず。

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ラジオで「相対性理論」を聴いた。なるほどいいねえ……ってもちろんアインシュタインじゃない方ね。
これが今の流行りってのはなんとなくわかるなあ。好きな感じだぞ。ただこれを男が歌っていたらすげー嫌いだろうけど。
ミス・パラレルーワールド / 相対性理論
頭の中でずっと「パラレルパラレルパラレルパラレル……」が響いている。
マイハートハードピンチ / 相対性理論
同じく、「あいうえおっとかきくけこれは何かとクセになりそうだ」も響いている。

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