とはいえ、わからないでもない

2010年05月

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なんか韓国のWonder Girls ってのがすごくいい感じ。
Tell Me / Wonder Girls
PV 中に出てくるワンダーガールに変身する女の子(おそらくメンバーだと思うけど)の変身前と変身後を見ていると、フィギュアのキムヨナが氷上で大変身するのもなるほどと思う。
やっぱりアジアの女の子は、ベースがちょっとのっぺりしているくらいの地味な感じの方が、メイクをしたときドラマチックに映えるからいいね。
こっちが最新曲。
2 Different Tears / Wonder Girls
「しょせん顔しか見てないんでしょ」だって? はいそうです。なにしろアイドル好きなもので。

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#5の答え。
15. 『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』(高橋源一郎/新潮文庫)

内容を完全に失念していたために二日間をかけて読了した。
「ブンガク的な価値」および「ブンガク史的な価値」が本小説のどこかにあるのかもしれないが、いま読めば噴飯物という印象は否めない。『ボボボーボ・ボーボボ』をリアルタイムから十年くらい遅れて読んでいる感じ。「なんだこれ、こんなのが当時は面白いって思われていたのか?」っていう。
金子光晴やらカール・マルクスや伊藤整などの記号が意味ありげに登場するが、その底に流れていた当時の「恰好よさ」というのも、今になっては通じない気がする。
『さようなら、ギャングたち』はそれでも、ひとつの美しいテーマに数々のエピソードが繋がれ結びついていたという印象があるが、本書は空中分解のままストーリーを終える。「つまりこの破綻ぶりが小説の凄さなんだよ、言葉の凄さなんだよ」という言い訳も、当時は通用したのかもしれないが、今はとてもじゃないけれど、無理。高橋源一郎の不誠実さの片鱗が伺える一作。
なお、新潮文庫版は絶版だが、講談社文芸文庫版なら入手可能。

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ウイスキーが昨年あたりから流行っているようで。小雪のハイボールのCF のおかげかしら。
ともかく、流行るとなるとみんな一気に同じものを口にするってのが日本流。気持ちはわからなくもないけど、はしたないでやんすよ。
でもそれじゃいつまで経ってもウィスキーのことわからないじゃんと思う人はひそかに(かつ、ちょこっと)勉強すればいい。
たとえば、AllAboout の記事でおいしそうな飲み方を見つけた。
ウイスキー・ミスト
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主にロックグラスにクラッシュドアイス(粒状に砕かれた氷)をたっぷり詰め、ウイスキーを適量(30〜45ml)注ぐ。レモンピールを搾りかけたり、グラスの中に落としてもよい。
よく冷え、グラス表面が霧(ミスト)がかかったようになり涼感たっぷりで、これからの暑い季節におすすめの飲み方
だそう。有名なのかな? 夏向けでうまそー。
あと、酒に強くない私は水割りだと飲めるのだが、その水割りもかなりこだわることができるようだ。
記事を要約するに、

  1. グラスに氷をたっぷりと入れ、ウイスキーを注ぐ
  2. よくステアし、氷が溶けた分、再び氷を足す
  3. ミネラルウォーターをウイスキーの2〜2.5倍ほど入れ、完成
ということのよう。キモはよくステア(攪拌)することらしい。 ミネラルウォーターを注ぐ前に充分なステアを行う理由は、ウイスキーに水が混ざると希釈熱というものが生じるからで、温度が3度ほど上昇するのだとか。だからステアを目一杯しろというわけ。ちょっとした豆知識。

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面白いという評価をちらほら聞いたので、『サマーウォーズ』を観た。
前作『時をかける少女』が面白かった(大傑作!)ので、すごく期待したのだが、全然面白くなかった。
CG 部分は本当にすごかった。ただしそこには技術的な進歩への感動しかない。
ストーリーはどうしようもないとしか言いようがない。特に、主人公サイド(厳密には主人公だけは別なのだが)の家系への自負が非常に鼻についた。
初期ドラクエの主人公たちは王家や勇者の血を引いていることが多かった。主人公が強いのは血筋からして当たり前で、だから特別なのだというロジックだ。
ドラゴンボールの孫悟空は、実は地球人ではなくサイヤ人というケタ外れの戦闘民族で、だからずば抜けて強いのもうなづける、という設定だった。
『ワンピース』のルフィの場合、ガープという海軍の祖父とドラゴンという革命家という父を持っており、やはり名門信仰に裏付けされている。ここが『ワンピース』で唯一不満な点。そんな設定でない方が全然面白いとは思うんだけどね。なお、『ワンピース』は、そんな欠点(ですらない、とほとんどの読者は思うだろうが)を補って余りあるほど面白いということを付け加えておく、念のため。
『ワンピース』に限らず、「ジャンプ」漫画の多くは、「生まれ」や「父親」というのが重要なキーワードになっている。ナルト、ブリーチ、ハンターハンター、テニプリ。そこをあえてスルーしたのは、ちょっと思いつくだけで『アイシールド21』くらいなものか。『スラムダンク』には、たしか桜木の父親は出てこなかったと思うが、『アイシールド』にはごく平凡なセナの父親が登場していた。そういう部分に原作稲垣の隠し味が利いていて、「おお、やるなあ」と感心したものだ。
『スケットダンス』のボッスンの父親は、「無名のスーパーヒーロー」で、それをボッスンが憧れているという構図が実にいい。
ちょっと脱線してしまったので話を戻すと、『サマーウォーズ』のヒロインの家族(陣内家)にはすごく胡散臭さがあって、家族が団結してなにかしようとするときに、「陣内家の人間はなあ……」とか、「陣内では昔から……」などの枕言葉が必ずつくという印象がある。つまり、「普通の家族」ならなにもしないんだけど陣内家は特別なんだよ、みたいなノリが画面から流れ出ていて、それがなんとも気持ち悪い。そのノリの気持ち悪さは『ポニョ』でも同じ。子供が自分の母親を名前で呼び、それがあたかも「先進的」な家族のように演出した宮崎駿に少し失望したほどだ。
そういうワケでむかむかして観ていたのだが、それでも途中になって、「ああ気のせいかもしれないなあ」と考えを変えたのだが、最後の場面での行列の長さ(ネタバレになってしまうので、詳しくは書かない)に、いかにも陣内家が周囲に影響力を持っていることを象徴させているように感じられ、最後の最後になってやっぱりいやらしさを覚えた。つまりなんなんだこの映画は? なにが言いたい?
調べたわけではないのでほんの思いつきで書くのだが、欧米だったら正反対のストーリーを作るのではないかと思う。貧しく名のない一族が団結してセカイ的な偉業を達成する、というような。その方がウケはよいだろうし、感情移入がしやすい。
こんな「一族もの」を観るくらいだったら、岩明均の『七夕の国』の方がよっぽど面白い。ある一族を描かなければいけないという動機があるし、ある一族であることの哀しみがあるし、なによりも面白い。
そうそう。日本人の名門信仰を顕著に示す例が他にも。
今の首相も、前の首相も、前の前の首相も、前の前の前の首相も、みなさん揃いも揃って「名門」ご出身です。最終的にはさんざん無能呼ばわりされてからその地位を逐われることになるけど。日本の政治家は世襲制だと考えている人間が多いから、こんなにもうじゃうじゃと二世議員がはびこっているのだと私は思う。

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豆好きの私にはたまらなくうまそーな記事が「AllAbout」に。
「ファラフェル」という中東料理で、ひよこ豆(ガルバンゾ)や空豆をすり潰してコロッケにしたものだそう。パンに挟む食べ方もあるらしく、それがこれ。

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「場所は?」と記事を読むと、南麻布だと。一生行けないね、そんなとこ。
東京では他に、赤坂や神泉にファラフェル屋があるらしい。今度東京に行くことがあったら行ってみるか。

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15.
そしてわたしが話す番になった。

「だが、ほんとうのところ、その一切の原因は『カール・マルクス』本人にあった。
なぜなら、もうずっと以前から『     *1』はいたるところに存在していたからである。
右目を瞑れば、残った左目に『     *2』は映った。
左目を瞑れば、残った右目に『     *3』は映った。
両方とも瞑れば、ちょうど『ウルトラマン』が一九七三年一月二日毎晩、ただ一晩の例外さえなくジャンプするカンガルーの夢にうなされつづけたように、『     *4』の夢に悩まされねばならなかった。
そいつは、その煮ても焼いても食えない代物である『     *5』は、現実が存在しなくとも資本論が存在しなくとも金子光晴が1ダースも集団で現れようとも機械仕掛けのプロレスラーがリングの上で水死しようとも、その度に『カール・マルクス』たちが度肝を抜かれ死ぬほど驚かされ恐怖のあまり右往左往しあげくの果てに正面衝突し口から泡を吹いてぶったおれるというのに、へいちゃらで存在することができたのである。
『     *6』が消滅する兆しはどこにもなかった。
『カール・マルクス』たちは死にかけており、どこからも助けがやってくる気配はなかった。
『おれは死ぬまで退屈しつづけるだろう』と『カール・マルクス』は考えざるを得なかった。
つまり一切は元に戻ってしまったのだ。『     *7』だけが残ったのである」

わたしは話を中断した。
「面白くない」と娘が文句をつけたのだ。
「あいまいだわね」と女も同調した。
「滅茶苦茶」と娘。
「馬鹿みたい」と女。

「うるさい」と私は言った。
「どんな話をしようとわたしの勝手だ。聞きたくないなら、二人ともさっさと寝ちまえ」
「七ヶ所、空白があったよ」と娘。
「*1 から*7 まで。あそこには何が入るの?」
今度はわたしがうろたえる番だった。
「実は何を入れていいのかわからないんだ。何か入れなくちゃいけないんだけどね、あとで考えるよ」
「待っちゃいられないね」と娘。
「そうとも」と女。
「わたしたちにばっかり話させてさ、ふん、おまえなんか尻(けつ)くらえ!」

「わかったよ」

わたしにはわたしの悩みがあるのだ。だが、それを言い訳にすることはできない。
『     』の中にいれる言葉を捜してくるまで、今までのテープをPLAY BACK

(なお、文中の斜体は原文では傍点)



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考察 #1

前回にひきつづきジョン・ロールズの「正義論」が採り上げられている。
正義の原理は仮設的契約から導かれる
ロールズによれば、無知のヴェールの背後にある原初状態にある人々は以下のふたつの原理を選択するはずだという。
第一の原理: 基本的権利の自由をいかなる経済的利益とも交換しない
第二の原理: 格差原理(最も恵まれない人々に便益を与える不平等のみ認める)
もちろん、格差原理でいうところの不平等というのは、フラットに扱うのではなく、厚遇するという不平等を指す。
後からサンデル教授が言ったことをここに補足すれば、ロールズはこの格差原理を選択肢のひとつとして捉えるのではなく、正義であるとし、正義であるために必ず行わなければならないものとした。そしてこのことが社会保障や福祉国家を正当化させる。これは能力主義に対する反論であるが、それは後で出てくるだろう。
さて、上記の格差原理について、ハーバードの優秀な学生の中には反論を持つ生徒もいた。いわく、「なぜ政策や社会制度を、上から決定するのではなく、下からの視線で決定しようとするのか。社会が能力主義を選択すれば、みなが努力し、みなが努力から正当な報酬を得られる。そうすればたとえ恵まれない境遇に生まれたものでも努力をすることになり、その結果、それら最下層というものの底上げにも繋がるだろう」
これに対しては別の学生から反論が出た。「たとえ能力によって適正に評価されるとしても、社会的、文化的、あるいは経済的環境による影響はあるのではないか?」
さて、ここでは非常に重要な話題が取り扱われている。つまり、能力主義は一見、誰に対しても平等であるかのように見えて実はそうでもないのではないかという疑問である。
私はこの講義を見るまでは、「たぶん平等だろう」というように思っていた。そのように思う根拠は、おそらく過去の比較によるものだったのだろう。封建時代に較べれば今は平等・自由だよ、と。ただ、それが完全な平等・自由であるかは深く考えていなかった。
話は戻る。ここでサンデル教授が学生たちに質問をした。
「アメリカの優秀な大学の生徒を対象に、その出身環境を調査したところ、貧困層出身者の割合はどれくらいだったと思う?」
うーん、私はなんとなくわかるぞ。
「答えは、3% だ。それに対し、富裕階級出身者は75%」
だろうねえ。ハーバードは私立だが、東大は国立なのに富裕層出身者が多いと聞く。となると当然、本当に能力主義は万能なのかという疑いが強くなる。
ロールズによれば、
所得や富、機会の分配は恣意的な要素に基づくべきではない
という。たとえば封建的社会に対しては、生まれによって決定されるということは道徳的見地からは恣意的であるとし、これを批判している。
また、機会の自由だけではスタートラインが異なることまではカバーできない(=恣意的である)ということで公正とは言えないとし、「公正な機会均等」を主張する能力主義を批判。能力主義の是正処置として、貧しい地域の学校を特に支援するという試みもあるようだが、これですらロールズは公正とは言えないということで批判する。たとえ経済的環境による不平等を是正しようとも、「才能」という両親による遺伝の問題が残り、これもまた個々人の能力によるものではない=恣意的であると言うのだ。つまり、能力主義は超克されなければならない。
公正さを保つためといって、(共産主義のように)水準を一定にする必要はない。才能や出身環境によって得られる報酬を調整すればいい、とロールズは考える。
恵まれた者は、恵まれない者の状況を改善するという条件のもとでのみその幸運から便益を得られる
これがおそらくロールズの理論の根幹なのではないか。
たとえば、年間3,100万ドルを稼ぐマイケル・ジョーダンは多額の税金を払い、この税金を社会の貧困層の状況改善に用いる、そういうシステムのもとでのみ、彼のずば抜けた所得は認められる、ということになる。
これに対し、学生から反論が挙げられる。「それでは才能のある者からインセンティブを奪うことになってしまう。才能のある者がその才能を最大限に発揮できるのが能力主義だ」
サンデル教授は学生たちに面白い質問を行う。
「きみたちの中で、兄弟のうち第一子という者はどれだけいるだろうか?」
驚くほどの手が挙がる。75%〜80% というところ。
「実は私もなんだ」
それが医学的にどういうことを証明するかまでは教授は述べていない(はず)。だがおそらく統計的にそういう事実(=優秀な学生たちが第一子に多いということ)はあるのだろう。これは後に教授が行う質問だが、引用しておこう。
「はたしてきみたちの力によって、きみたちが第一子であることを選択できたのだろうか?」
ちなみに私も第一子だが、高校の同級生たちを見るに、わりと第二子たちが優秀だったように思う。

考察 #2

分配の正義の理論
  1. リバタリアン - 自由主義システム
  2. 能力主義 - 公正な機会の均等
  3. 平等主義 - 格差原理
ロールズは、1. については形式的な公正でしかないとし、また、2. については前回書いたように、機会の均等だけでは恣意的な要素を完全に排除することはできないとし、それぞれを批判。
サンデル教授は二つの例を挙げる。
ある教師(中学? 高校?)の年収が4万ドルなのに対し、デイヴィッド・レターマンというコメディアンは年収が3,100万ドルだという。また、合衆国最高裁判事の年収が20万ドル以下なのに対し、テレビ番組(おそらくバラエティーだろう)で活躍中というジュディ判事の年収は2,500万ドルらしい。
サンデル教授は学生たちに問う。これらの例ははたして公正といえるかどうか。ロールズによれば、
課税され徴収された税金が最も恵まれない人たちの便益となるかどうかによる
という。

さて、前回で学生が質問していたように、格差原理についてはいろいろと反論がある。これを大きく三つに分けると以下のようになる。
格差原理への反論
  1. インセンティブはどうなるのか?
  2. 努力はどうなるのか?
  3. 自己所有はどうなるのか?
これに対するロールズの反論は以下。

「インセンティブはどうなるのか?」についての反論

インセンティブは不利な条件への効用から認められ、そのバランスが取れればよい。


「努力はどうなるのか?」についての反論

勤労倫理や労働意欲でさえ、自分の功績とは主張できない。また、能力主義の擁護者のうち努力を主張する者は、努力の本質を信じていない。彼らの道徳的根拠は、努力でなく貢献である。

「自己所有はどうなるのか?」についての反論

自然の分配は正義でも不正義でもなく、事実である。正義や不正義は、社会が自然の分配をどう扱うかによる。また、人間は自分自身を所有していない。
ここらへん、メモは残っているが、理解が抜け落ちている。たとえば1. の反論部分の「不利な条件への効用」とはなにを指すか忘れてしまっている。これまで何度も出てきている「恵まれない者への救済という不平等」のことか。
また、3. の反論部分の最後、「人間は自分自身を所有していない」の詳細がわからない。同意に基づいた共同体に所属している以上、公共の福祉という問題は不可避であり、そういう意味(なんらかの協力を提供しなければならないという意味)において自己を所有していないということなのだろうか。
補足だが、2. の反論部分のうち、努力ではなく貢献を道徳的根拠とする、とあるが、これは過程ではなく結果しか見ていないということだろうと解釈した。

ロールズによれば、
分配の正義は道徳的な対価とは無関係であり、これは正当な期待への資格の問題である
という。彼によれば、「努力」と「偶然性」は、恣意的な要因であるという。「偶然性」とは、その人物の才能を重んじる社会に生きているという偶然のことである。
たとえばある人物が才能を有していないことによってその社会で不遇であったとしても、それは単に、その社会が必要とする資質を、偶然、彼/彼女が持っていないということだけであり、彼/彼女の人間の価値が低いということを意味するわけではない。彼/彼女は、あるいは他の社会に行けばその資質によって歓迎されることもあるかもしれない。このように、才能というものは実に恣意的な要因である、とロールズは考え、そして次の言葉を残した。
資質を自分の功績とするのは間違いであり、うぬぼれである
ロールズの考えは、賛同できるかどうかは別として、能力主義の欺瞞を手際よく暴いているように思う。人間がその社会において「成功」するのは、運の要素が多分に強いからであって、その運の良さは、社会の中で調整されてしかるべきのものである、というその考えは、掛け値なしの「平等」そのものであると思う。
たしかにこれをそのまま採用してしまうと、努力の抛棄、無効化を引き起こさないわけではない、ということは容易に想像できる。だが、人間をまったくの善意の生物と仮定したとき、この理論は十全にその効力を発揮するだろう。少なくともロールズの一番最後の言葉は、幸運な人間であればあるほど、よく銘記し、噛み締めておくべきだ。

なお、カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』だったか、平等が完全に実現された世界では、才能のある人間が障碍を持つ人間と同じ条件に立つため、その能力に応じてハンディキャップを身体につけて生活している、という内容の描写があったように記憶している。たとえば足の速い者は足に重りをつけている、というような。
あれは冗談の意も当然込められているのだろうが、ヴォネガットの優しさの表れでもあったのだろう。

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考察 #1

先週来客があったおかげで深夜に再放送を見るはめになった。直前まで仮眠を取っていたおかげで、いつも内容理解に不安があるのに、今回はそれにさらに輪を掛けたものになっている。
これは再確認事項になるが、私はこの一連の考察を単なる私的なメモと考えており、内容の是非や正確さを一々検証していない。なぜなら私は、この考察をひとつの実験の記録として捉えているからである。
その実験とは、「もし私がハーバードの学生だったら」と仮定し、その状態 ―予習や復習をせず、また授業にデジカメやラップトップPC 等のデバイスを持ち込まずに、原始的な方法すなわちノートにペンで走り書きをすることによってのみ授業を受ける― で、はたしてどれほど理解ができるのか、あるいは理解できないのか、ということを試すものである。
この実験の結論は既に出ている観があり、それは「復習は非常に重要であり、また、デジカメであろうとラップトップPC であろうと、持ち込めるものはすべて授業へと総動員させることが重要である」というものであるが、だからといってこの実験を途中で止めるつもりはない。続行させる。
さて、冒頭を見逃したために、ベンジャミン・コンスタンの言葉から今回のメモは始まる。
嘘をつくことを完全に禁止するのは間違っているし、これは道徳的にも認められない
この前の文脈がわからないので少し辟易したが、これはおそらく前回の講義で採り上げられていたカントの考えと対立するものなのではないか。というのもそのあとカントの考えとして、帰結を考慮し始めると(帰結を優先させようとするために)全体の枠組みが崩れてしまうということへの危惧が紹介されていたからである。
ここで非常に興味深い例題がサンデル教授によって提出された。
友達と家で遊んでいるとき、殺人犯が家にやって来て、友達の居場所を教えろと言う。このとき、どうやったら嘘をつかずに、かつ友達を庇うことができるか?
この二つの条件を成立させるには、学生たちが答えたように、「いまどこにいるのかわからない」という一種の詭弁を用いなければならない、と思う。この主張のポイントは「いま」という部分であり、殺人犯と話している最中、友達が視界に入っていないのだから、友達が逃げたのか、あるいはクローゼットに隠れたのかということは、正確には(=本当のところは)わからない、だから嘘は言っていないということになるだろう。形式上論理上においてのみ体裁を整えてはいるが本質的には嘘をついているということが明白なため、この主張が詭弁であるということはすぐに直観されるが、実はカントはこの行為に対してそれほど批判的ではないようなのだ。後述。

1998年のビル・クリントンの発言が採り上げられていた。日本では「不適切な関係」というキーワードで話題になっていた記憶がある。
このときクリントンが「秘書と性的な関係を持ってはいない」と発言したことについて、それを追及しようとする共和党とクリントンの弁護士との形式上の諍いがちらと紹介されていたが、これは日本でもよくあることで、代表的なのは流行語にもなった「記憶にございません」というやつである。
この発言は、一見、厳格な哲学者カントからは認めてもらえないような気がする。なぜならその発言の動機は、理性に基づく義務によるものではなく、あくまでも真実の隠蔽に重きが置かれているから、と普通は考える。ところがサンデル教授によれば、このクリントンの発言に見られるような「誤解を招く真実」は、「明白な嘘」とは異なるという。その根拠とはこうだ。
発言者は「嘘をつかない」ために最大限の努力をしており、その努力の裏には、道徳法則に対する調和へのある種の敬意が感じられる
カントは行為の道徳的な基礎を結果に置かないということも、上記の考えの背景にあるのだろう。つまり、結果としては人を欺くことにはなるかもしれない「誤解を招く真実」ではあるが、「明白な嘘」を避けたいという努力(=過程)に重きを置けばそれは尊重されてしかるべきだということなのだろう。面白いねえ。感覚で物事を考察するのではなく、あくまでも論理の上で思考を展開していく。こういう頭脳を持っていたらなあ、と素直に思う。

考察 #2

カントは正義・権利の原則を生み出す契約は理性の理念に基づくとし、現実的な契約に対し、「仮説的契約」という概念を呈示した。
ここで現代の哲学者ジョン・ロールズが登場。解説の人によればこの人によって現代における政治哲学の復権が為されたのだという。
ロールズもやはり功利主義に批判的であり、
人間は正義に根ざす不可侵性をを持ち、それが揺らぐことはあってはならない
としている。毎回のことだが、引用は不正確。
ロールズの呈示する概念に「無知のヴェール」というのがある。ここらへん、集中力を欠いてしまったために少しわかりにくかったのだが、集合した人々の多様性による差異 ―知識、経験、社会的地位、宗教etc.― をいったん留保することによって生じる公正さのための条件、というところだろうか。そしてこの条件によって仮説的契約が成立する、という流れか?
ともかくも、ロールズによれば、
無知のヴェールは平等の状態を作り出し、不公正な結果を原理的に阻止する
ということらしいので、やはりこれは仮説的契約に関わるものであろう。

「現実的な契約の道徳的効力」として二つの問題がある、とサンデル教授は言う。おそらくカントの考えなのだろう。「いかにして契約によって生じた拘束を負わせるか」ということと「いかにして契約を生み出す条件は正当化されるのか」ということ。
前者の設問に対する解答として、二つの種類がある。「同意に基づく義務」と、「互いの便益に基づく相互性」だ。また、後者の設問に対する解答は、「正当化しない」。これは、同意があったとしてもその内容が正しい、公正であるとは言えないからで、84才の未亡人が雨漏りの修理で5万ドル(?)ボラれそうになった話が紹介されていた。修理の契約には当然のごとく相互の同意が存在したのだが、問題は未亡人が修理の相場を知らなかったということにある。ここから、同意の事実は義務があることの十分条件ではなく、さらに必要条件でもないということがサンデル教授によって強調された。つまりそれらは互いに独立しているということだろう。
一度まとめると、
現実的な契約の道徳的効力に関する二つの問題

Q1. いかにして契約によって生じた拘束を負わせるか
A1-a: 同意に基づく → 義務
A1-b: 互いの便益に基づく → 相互性
Q2. いかにして契約を生み出す条件は正当化されるのか
A2: 正当化しない
というところか。ここに書いた以上の例題や学生とのやり取りがあったのだが全部漏らしている。残念。だが、「一度きり」というルールに則り、このまま。おそらくここらへんのことはほとんど理解できていない。頭の中でしっかりとした整理もできていない。全十二回の講義が終わったあと、時間があればちゃんと本にあたって復習し直そう。なにしろ初めからわかっていたことだが、圧倒的に予備知識が足りず、なおかつ集中力が足りない。
次回は、「能力主義に正義はない?」

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昨日、岡嶋二人の『クラインの壺』を読了。
アマゾンでは高評価を得ているようだが、私にはちょっと疑問。私のようなミステリ(あるいはSF ?)慣れしていない人間にも中盤当たりで展開が読めてしまうというのは、ちょっと問題ありなのではないか。
少し擁護しておくと、本作はいわゆるミステリとは少し異なる。方向としては(あくまでも方向のみ)、ディックなどのSF 系を思い起こさせるが、人物描写のペラッペラ具合のため、文学的昇華はまったくできていない。それどころか、「未回収」気味のエンディングによって消化しきれていない印象さえ受ける。全然擁護になっていないか。
この手のミステリはつづきが気になるので最後まで一気読みしてしまうが、なかなかうまいオチに出会えることは少ない。テレビの「世にも奇妙な物語」を「充分おもしれー」と思える人なら本作も楽しめるだろうと思う。

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