とはいえ、わからないでもない

2010年06月

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今日はラジオから流れてきたBUMP OF CHICKEN の『Happy』の詩に感動した。
最後の部分。
消えない悲しみがあるなら 生き続ける意味だってあるだろう
どうせいつか終わる旅を 僕と一緒に歌おう
「世の中は希望や夢に溢れていて、だからぼくたちは幸せなんだ」みたいな歯の浮くような歌詞じゃ、今の時代は救われない。いや、そういう人生の捉え方もきっとあるのだろうが、それだけじゃない、ということを今やわれわれは知っている。
コミュニケーションのツールが発達しているのにもかかわらず、われわれが感じる孤独の程度は軽減されていない。たぶん。
世界が繋がっていると思えるときもあるが、全然断絶していることに気づくこともある。物事の良い面を知れば知るほど、その裏側にある「なにか」にいつ裏切られるかわからないから、身構えたまま、身体も心も硬直しつづけている。
それでも、「世界は生きるに値しないわけがない」と彼らは歌っているように思う。
彼らは安易な約束を歌わない。見せかけの美しさも歌わない。ただし、つまらない絶望も歌っていない。
下は『魔法の料理』のコーラス。
楽しみにして 楽しみにして
楽しみにして でも覚悟して
希望を持つということは、それと同時に自分の人生に覚悟(=責任)を持つこと。「セカイ系」のように、簡単に絶望して人生を投げ出すのとは対極にある。「誰か助けて下さいっ!」と声を上げて泣いたって誰も手なんて差し延べてくれない。

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久しぶりの映画。"Suddenly I See" の件や、また、とある人との会話の中で出てきたので、『プラダを着た悪魔』を観た。
全登場人物の中で、ナイジェルというハゲたおっさんが一番好きだった。結局、「ファッションってすごくないようだけど、実はすごくて、かと思えば、人生で大切なのはそんなんじゃない」みたいな話?
主人公の友達の女の子(黒人)が、『レント』に出ていたレズビアン弁護士だったのにちょっと驚いた。メリル・ストリープの顔ってずいぶんと四角いのな。
最初のテンポの良さはいいんだけど、ずいぶんと中だるみしたように感じられた。

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リモンチェッロを作るのに失敗したから、というわけではないが、梅のシェリー酒漬けというのを作ってみた。
  1. 青梅(南高梅)500g を水に6時間ほど漬けてアク抜きする
  2. 1.の梅のホシ(軸の部分)を竹串で取り除き、丁寧に水気を拭き取る
  3. 4L のびんに、2.の梅、てんさい糖300g、シェリー(ティオ・ペペ)720ml (まるまる一本分)を入れる
さて、結果はどうなることやら。とりあえずは一ヶ月置いてみよう。

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今日、『バカボンド』を知ってるかと人に問われ、知っているけど読んだことはないと応えた。その人も読んだことがなかったのだが、「面白いということなので今度読んでみようと思っている」と言っていたので、「他にももっといい漫画はあるよ」と言ってしまった。言ってから数分経って、余計なことを言ってしまったと後悔した。
『バカボンド』の噂はよく聞く。面白い。すごい。カッコイイなどなど。去年くらいだったか、「モーニング」でちょっとだけ立ち読みしてみたとき、主人公の武蔵が(作者の手書き文字だが)「ファック」と呟いていた。それ見た瞬間、「ああ、そこまでの漫画なのね」と思った。おそらくこの直観は間違っていないと思う。
『ベルセルク』が、一時期めちゃくちゃなハイテンションで漫画史に残るような傑作シーンを描きまくっていたのにもかかわらず、ここ最近箸にも棒にもかからないような漫画に堕してしまったのは、妖精のパックを中心とした脇役「パーティ」がパロディ・ギャグ方面で人気取りをするようになってからだ。
そもそも『ベルセルク』が息をもつかせぬような閉塞感・絶望感に充ち満ちていた時代、主人公のガッツは基本的に孤独であり、それだからこそ生じる悲哀があの漫画にはあった。
ところが今の『ベルセルク』はただのRPG レベルの「冒険」があるに過ぎず、悲しみも苦しみもまるで書き割りのようにしか感じられないし、そもそも誰かがまた死んでしまうという恐怖もない。(途中から読むのをやめてしまったので詳細はわからないが)「パーティ」の連中が残酷に殺されることなど、今後はないのだろう。
そのような水戸黄門のような「安心漫画」になってしまったのも、パックの「メタ台詞」が原因であり、その安心と引き替えにスリルと昂奮を失ってしまった。
武蔵が「ファック」と呟いたことで、作者の井上雄彦は読者を笑わせることと引き替えに「この漫画は安心漫画ですよ」と宣言してしまった。
言い換えれば、それは「この漫画では『マンガ的』なことが行われるから、リアリティなんて考えないでね」ということである。
たとえば、主人公が深傷を負ったとしても、翌週(漫画でいうところの「次回」)にはきれいさっぱり治っていることもあるかもしれないということだ。「だってマンガだもん」と作者は言い訳すればいいだけ。
しかし、『バカボンド』のウリはなんといってもリアリティだったように思うのだが……。
もちろん、『バカボンド』について、絵がすごいとか、ただ単純に楽しいと評価している人はそれでいいのだと思う。そのような評価にはまったく相応しい漫画だと思うからだ。
だがしかし、「リアリティのある漫画」という評価だけは誤っていて、もし「ファック」という台詞を読んでも同じ評価をつづけるのだとしたら、その人はなにも見えていないということになる。
まあ鳥山明といい、この井上雄彦といい、過剰評価されすぎなんじゃないの、というのが素人の感想。絵は誰もが言うように、うまい。しかし、そのレベルで話をすれば『バキ』の板垣恵介だって相当なもの。板垣が始めたと思われる漫画表現もあるし。
商業音楽も漫画も、いわゆる「芸術」とは異なり、「売れている・人気がある」ということがひとつの重要な要素になることがある。でもそれは、レコード会社や出版社が気にすべきことで、消費者が考慮すべきことではない。『ドラゴンボール』や『バカボンド』を手放しで評価する人たちの中に、出版社の思惑にみごと乗せられている人がいなければいいのだけれど……。
まあ、漫画読みにもいろいろあって、単純に楽しめればいいと思う人も多いだろう。その人に余計なことを吹き込まなくてもいいし、それは自分の価値観の押しつけになってしまう。だから、私はただ「『バカボンド』は読んだことがないんだよねえ」とだけ言っておけばよかったのだ。反省しきり。

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マッシュアップの最高傑作だと思う。

元ネタは以下。
DaftPunk - Technologic
吉幾三 - おら東京さ行くだ
Capsule - Starry Sky
Beastie Boys - Ch-Check It Out

幾三が絡んでいないバージョンもYouTube にアップされているが、幾三が入った方が絶対に昂奮するはず。冗談ではなく、死ぬほどかっこいい。
個人的にはこれも好き。ジャクソンファイブの『I Want You Back』とのマッシュアップ。

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いよいよ「ハーバード白熱教室」も最終回。
これまでにいろいろな哲学者たちの考える正義というものが呈示されてきたが、今回はマイケル・サンデル教授自身が正義というものを示していくという。
彼は二つの問いを行った。
  • 正義の問題を論じるとき、善と無関係でいられるのだろうか?
  • 善を論じる方法はあるのか?
彼は上記の質問の双方に対してYes と答える。
その前に、モンテスキューの面白い言葉が引用された。どの文脈で引用されたかは忘れたが。
本当に有徳な人は、もっとも遠いところにいる人にも、近くにいる友人と同様の迅速さで駆けつけることだろう。
本当に有徳な人に、友人はいない。
いづれにせよ、正義を論じる際には、善の議論を回避することはできない。だが、その方法には細心の注意を払う必要がある。なぜなら、特定の文化に根づく善を正義とした場合、正義は「環境の産物」となってしまうからだ。これは善を相対的に取り扱うことから生じる弊害である。そうではなくて、人類を前進させる善を正義としなければならない。だが、多元的な価値観を認める社会では、善を決定することは不可能(自由への侵害)。それでも、善を論じる方法はあると教授は言うのだ。

同性結婚を認めるか否かで学生たちの意見を求めた。
反対派のカトリックの学生は以下のように述べた。
セックスの第一の目的は生殖であり、社会制度としての結婚はテロスの表明であり、結婚への許可はそれに名誉を与えるものだ
一方、賛成派の学生は以下のように述べた。
多元的社会であるため、国家が一宗教たるカトリック的観点における価値観に基づくべきではなく、国家は、結婚やその他のテロスに対していかなることをも許可すべきではない(中立であるべきだ)
マサチューセッツで起こった「結婚の枠組みを同性にまで拡大せよ」という訴訟が起こり、そこでマーガレット・マーシャル裁判長は以下のような考えを示した。
多くの人たちは同性愛行為を批判するが、その一方で、その資格を認めるべきだと考えている
すべての民事婚には、愛し合う二人と国家の三人が関与し、国家が結婚を認めるということは、新たに誕生する家族への称讃を意味する
結婚の目的は生殖にあるのではなく、パートナーのお互いに対する恒久的な約束がその本質的な目的なのである
いつものように、引用は適当。ここらへんでメモが錯綜しているのだが、つまりサンデル教授が言いたかったのは、多元的社会においてできるだけ中立であろうとするはずの国家においてでさえ、ひとつの善・テロスを示さざるを得なかった場合もあるということではなかったか。
本当に中立な国家・政府であったなら、(個々人の結婚は自由意思によるもので国家と無関係であるから)結婚の機能制度を廃止するだろうが、そうではなく、国家・政府は、なにかについて合法・違法の判断をすることによって、その社会がどのような信条を正義とするかを示すのである。
善を論じる方法に、あるいは正義や権利、善き生について論じる方法に、唯一の原理はない
とサンデル教授は言う。彼は、ソクラテス的対話の方法(ロールズの言う「反照的均衡)を用いて正義と善の問題へ取り組む態度を呈示する。そして、ロールズの
正義の観念は自明ではない。それは、多くの考察に支えられ、整合性を得た場合に正当化される
という言葉を引用し、更に次のように付け加える。
多元的な社会において価値観の相違がある限り、議論を通じて判断と判断の根拠となる原理を行き来し、関わりあい、学び、他人の意見を拝聴し、そしてそれに挑み、ときには自身の意見を修正していくことによってのみ社会における様々な善を理解できるようになる
これはまさしく哲学者の正しい態度であり、原理主義者に対する警鐘でもあろう。哲学とは、ひとつの問題に対してある定義を適用するだけのテクニックを言うのではなく、とことんまで考えつづける態度を言うのである。簡単に答えが出ないことも往々にしてあり、ときには死ぬまで考えつづけることもあるかもしれない。だがそれでも考えつづけるという行為をやめないのが哲学者なのだ。
最後に教授は言う。
たしかにわれわれはひとつの到達点にまで達したかのように見える。しかしそれはまた、新たな道のりの出発点でもある。
この講義の最初の回に、私はカントの言葉を引用し、「懐疑主義は一時の休息所にはなり得るが、それは永遠のものではない」と伝えた。懐疑主義では「理性の不安」を解消することはできないのだ。
もしこの講義によってきみたちの「理性の不安」を目覚めさせることができたとしたら、われわれは大きな成功を成し遂げたと言うことができるだろう。ありがとう。
解説の小林教授が言うようにこの言葉は実に感動的だった。私は「考察」することもできずに、特に後半はメモの列記に終わってしまったが、次は「これからの『正義』の話をしよう」を読みながら諸問題について考え整理していこうと思う。また、その際に課題となってくる書籍にも目を通さなくてはならないだろう。「忙しい」とよく口にしてしまうが勉強する時間は死ぬまでたっぷりとあるはず。
なお、サンデル教授が今年の八月に来日して特別講義を行うらしい。詳しくはNHK のサイトから。「我こそはサンデル教授と正義について議論したい」という人はどうぞ。

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懐かしい。
Ironic / Alanis Morissette
95年の曲。
一方、こちらは今日初めて聴いた。
Suddenly I See / KT Tunstall
05年の曲。この二つの曲の隔たりは十年。

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考察 #1

さて、ハーバード白熱教室もあと二回を残すのみ。「考察」と謳っているが、今回も結局は考察に至ることができず、おそらくメモの列記に終わるだろう。対して、実際に受講している学生たちはよく勉強している。さすがハーバードといった感じ。まず、サンデル教授はカントによるアリストテレスの批判を紹介する。
アリストテレスの言う「善き生」とは重要ではあるが、(多元的な認識を認めず)法律や制度によってそれを特定してしまうと自由を侵犯してしまうおそれがある
ここで自由について、アリストテレスとカントの考え方を挙げる。
アリストテレス
  • 人間はその適合性を理解すれば自由である
(自己にふさわしい生を見つけることができれば自由な生を生きることができる、ということか)

カント
  • 自分が自分に対して法則を与えること、すなわち自律的であれば自由である
(人間は自ら選択しない限り、いかなる道徳的つながりにも束縛されることはない)
ここでコミュニタリアニズムという考え方が登場する。これはサンデル教授の思想でもあるらしい。アラスデア・マッキンタイアという政治哲学者(?)がいて、その人の考え方に「自己の物語的な観念」というのがある。これはメモしきれなかったのだが、おそらく次のような概念だと思う。
人間は特定の社会的アイデンティティーの一員として周囲とつきあっているが、属するコミュニティによって負荷を受けることが、道徳的出発点である
つまり、自分が誰かと考えるとき、その属するコミュニティの歴史や文化を無視することはできないということである。
コミュニタリアニズムの立場では、「義務」には三種類あると考える。普遍的な義務、特定の義務にくわえて、連帯・忠誠・集団の構成員としての義務がある。
たとえば、エチオピアにおいて飢饉があった際、イスラエルはその中でエチオピア在住のユダヤ人のみに対して救出作戦を行った。これは、ユダヤ人というコミュニティを優先させた結果の行動だが、これがコミュニタリアンの考える集団の構成員としての義務の発露である。

コミュニタリアニズムに対する学生の反論。
連帯による義務を選択すると、個人が複数のコミュニティに属している場合が多いため、義務が競合するのではないか?
つまり、複数のコミュニティに属している場合、それぞれのコミュニティが要求する「道徳的正しさ」が相違する可能性があるのではないか、ということだ。これに対して学生のうちから、「どんなコミュニティに属していたとしても、地球人であるという考え、自分は人類であり、地球の住人であるという広い帰属意識を持っていれば、そのような義務の重複は避けられるのではないか」という意見があったが、上記懸念を示した学生は、「そうではなく、もっと具質的なもの(コミュニティ)を考えなければならない」とし、「たとえば地球人、アメリカ人の前に家族を優先させるような」と付け加えた。
この他、「コミュニタリアニズムは、情緒的にすぎ、それは道徳的なものと言えないのではないか」という反論も挙げられていた。

解説。
マッキンタイアの考え。
コミュニティにおける物語の中で、善き自己を実現していく
サンデル教授の考え。
負荷ある自己/負荷ありき自己
(個人は、帰属する集団の持つ歴史や文化に無関係ではいられず、生まれたときから負荷を有する、という考え)

考察 #2

コミュニタリアニズムの基本的な考えとして、
人間にはコミュニティに対して共同の責任があり、コミュニティは根本的なアイデンティティ形成を担っている
というのがあるが、これに対する反論はなかなか尽きないようだ。
ロールズは「自らの意思で選択する場合を除き、政治的な義務はない」とした。これはアリストテレスやコミュニタリアニズムに対する反論と見てよいだろう。また、反コミュニタリアニズムとして、「コミュニティの連帯義務は、集合的な利己心ではないか」という意見も採り上げられた。たしかに。コミュニティの持っている価値観や道徳観念を優先するあまり、他のコミュニティに対して非寛容的になることはあり得ないのだろうか。そして、「人間が社会に対して自動的に(選択した場合を除き)なにかを負っているということがあってはならない」という反論もある。これは自由への侵害に対する懸念であろう。
#1にもあったが、個人が信奉する正義の原理と、コミュニティの連帯から生じる義務とが競合する場合、どうなるのかという問題もある。これに対し、サンデル教授はいくつかの例を挙げた。その中で印象的なものを。
マサチューセッツ州議会議長のビリー・バルジャーは、その弟が指名手配犯であるが、州警察から弟の情報提供を求められたとき拒否した。
これは孔子の論語の中にも同じような話がなかったか。
誰かが言った。「わたしの村の正直者(徳のある者?)は、自分の息子が罪を犯したとき、それを役人に突き出しました」と。これに対し、ある者が言った。「わたしの村の正直者(徳のある者?)は違います。自分の息子が罪を犯したときには、息子を匿います」 と。こんなような内容。もしかしたら混同があるかもしれない。荘子だったか。
人類愛的な感情よりも、愛国心や属するコミュニティに対する忠誠心が、そしてそれよりも家族の連帯感情が優先されるというのは、直観的に得心がいくものだが、さてそれが本当に正しいことなのか。私の理解はピント外れではあろうが、コミュニティに対する共同の責任がありそこからアイデンティティが発生しようとも、そこに存在する特定の道徳的価値を無批判に信用してはいけないのではないか。そして、それを信用する際の根拠がそのコミュニティに属するから、というだけでは判断および思考の停止とはいえないだろうか。
1950年代の人種分離主義者(南部人)のインタビューを扱ったドキュメンタリー「獲得すべきものを見つめて」が流れた。この中である南部の白人は「自分たちのしていること(白人と黒人を差別すること)は非難されるべきことなのかもしれないが、自分たちはこの生活様式を守っていきたい」と述べていた。これは、特定の文化に根づく正義が道徳的に正しいものとは限らないというコミュニタリアニズムに対する強い反証となる。さて、これをコミュニタリアンたるサンデル教授はどう反論していくというのか。
次回は最終回。「善き生を追求する」

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