とはいえ、わからないでもない

2010年07月

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人生初のファンレターだったが、書いて良かったと思う。
こんなものが今日届いたからだ。

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なんと、住所や宛名が手書きのうえ、さらに差出人がこのようになっている。
蓮乃辺市庭崎町三丁目○○-△△
日野家一同
なんか本当に嬉しいなあ。集英社は絶対葦原大介に次回作を描かせてほしい。
そして、このような嬉しいファンサービスをしてくれる葦原先生にファンレターを出すチャンスはまだまだあるので、コミックス3巻を購入ついでに出してみてはどうだろうか。

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一日。たった一日しか一緒にいられなかったが、喪失感を覚えないわけがなかった。
私が帰ってきたときにはもう、腰が立たないようになっており、それでも前肢を使って必死にいざろうとする姿に、生命の厳しさを感じた。あまりにもかわいそうだったので、まだまったく汚れていない彼女ら用のベッドに載せてやったが、あわれなことにクッションが柔らかすぎて寝返りさえ打てなくなっていた。そして腕の力でさえ、筋ジストロフィーにかかったように、弱々しいものになっていた。なにが彼女の身体をそうさせてしまったのかは未だにわからない。
真夜中、断続的な眠りから覚め、ふとベッドから降ろして元のタオルの上に横たえていた彼女を見ると、既に身体が冷たくなっていた。一所懸命に打ち鳴らされていた心臓の鼓動も、もうなかった。
見ると、驚くほどに細い後ろ肢だった。腹は膨れ、目は半開き、なにかを訴えかけるように口も少しだけ開いていた。
堂々とした子だった。わりあいと警戒心が少なく、すぐに身体を触れさせてくれるようになった。探求心も強く、すぐにいろいろと室内をパトロールし始めた。もうひとりの臆病くんを後ろに引き連れ、ちょっとしたアネゴというところだった。性格のいい子ほど早く天国へ行ってしまう。これはこの世の中の常だ。
残された弟は、上述したように極度の臆病者だ。目薬をもらいに行こうと動物病院に連れて行こうとした際に逃げ出し、三時間半も行方不明になった。それでも戻ってきたときはどれほど嬉しかったか。

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あまりにも早い姉の死を受け容れられずに、一日半を泣き暮らしていたが、ようやく私の許に身体を擦り寄せてくるようになり、さきほど初めて喉を鳴らすのを耳にした。もう誰の背にも隠れることはできなくなったのだ。
日中はあまり構ってやれないが、これからもよろしく。このPC の後ろで新聞紙の束をひっくり返して遊んでいる元臆病者に声を掛けておいた。長生きしてくれよ、とも。

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なんかすげークランベリーズっぽいぜと思っていたら、ほんとにクランベリーズだった。
Analyse / The Cranberries

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『チャンピオンたちの朝食』(カート・ヴォネガット・ジュニア/ハヤカワ文庫)を読了。もう四度目くらいになるか。小説のその最良の部分を抜き書きするなんてほんと最低の所業だと思うけど、でもこれだけは自分のためにもしておきたい。
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(以下はすべて小説の中の話)
こんな絵をある画家が描いた。地の色は「ハワイアン・アボガド」で、また縦の線はオレンジ色の蛍光反射テープでできている。この作品に対して、ある町の大金持ちが五万ドルを払った。ちなみに'73年当時の五万ドル。作品の名前は「聖アンソニーの誘惑」。
この町の住民たちはこの作品に対して憤りを感じていて、要は「こんなふざけた絵にあんな大金が支払われたなんて」ということだった。
作者は相当にイヤミな人物で、あるとき町のカクテル・ウェイトレスと口論になってしまう。つまりそのウェイトレスは「五つの子供だって、あれよりゃましな絵を描くわよ」というのである。周りには人が大勢いて、みんながその成り行きを注目している。というか、その画家がみんなから大ブーイングの嵐を浴びてその場所(カクテル・ラウンジ)から退出することを期待している。ちょっと前置きが長かったが、そのときの画家の台詞。
「(前略)あの絵は、人生の中で本当に重要なものを、なに一つあまさず表現している。あれはあらゆる動物の意識を描いた絵だ。あらゆる動物の非物質的な中核 ―すべてのメッセージがそこに送り込まれるところの"わたしは存在する"の絵だ。それだけがわれわれの中で生きているすべてなんだ― ネズミの中でも、鹿の中でも、カクテル・ウェートレスの中でも。それは、どんな途方もない冒険がわれわれの身にふりかかろうと、揺るがずに純粋なままでいる。聖アントニーを神聖な絵にすれば、それは一本の、直立した、揺るがぬ光の帯だ。もし、ゴキブリが彼のそばにいたなら、それともカクテル・ウェートレスがいたなら、その絵には二本のそうした帯が表現されるだろう。われわれの意識は、だれの中でもただ一つ生きているもの、そしてたぶん、ただ一つ神聖なものだ。それ以外のあらゆるものは、死んだ機械に過ぎない。
いまさっき、ぼくはここにいるカクテル・ウェートレス、この直立した光の帯から、彼女の夫と、シェパーズタウンで死刑になる直前の白痴についての話を聞いた。よろしい ―五歳の子供に、その出会いの聖なる解釈を描かせようじゃないか。その五歳児に、愚かさや、鉄格子や、待ち受ける電気椅子や、看守の制服や、看守の銃や、看守の肉と骨を、すべて剥ぎとらせようじゃないか。どんな五歳児にも描ける、その完全な絵はどういうものか? 二本の揺るがぬ光の帯だ」
そして、本当は前後するのだが作者たるヴォネガットの独白も引用しておこう。この物語において皮肉や残酷さやヒューマニズムが渾然一体となっている理由がわかる。
なにがアメリカをこんなに危険で不幸な国、実生活でなにもすることのない人びとの集まった国にしているのか、いったんそれを理解したとき、わたしはストーリーテリングを避けようと決心した。人生について書こう。どの人物にも、ほかの人物とまったくおなじ重要性を与えよう。どの事実にもおなじ重みを持たせよう。なに一つなおざりにはすまい。ほかの作家たちには、混沌の中に秩序を持ち込ませておけ。わたしは逆に、秩序の中へ混沌を持ちこもう。自分ではそうしたと思う。
もしすべての作家がそうしたなら、文学を職業としていない市民たちも、われわれをとりまく世界に秩序などないこと、むしろわれわれは混沌の要求するところに順応していかなければならないことを、理解するようになるだろう。
混沌に順応することはむずかしいけれども、それはできる。このわたしが生きた証拠だ ―やればできる。

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『スティール・ボール・ラン』の最新巻(第21巻)で、瀕死の状態にあるルーシー・スティールをある人物が助けることになるのだが、それに激怒したファニー・ヴァレンタイン(大統領)は、その助けた男の首根っこを摑み、こう言い放つ。
おまえ 英雄になろうとしているのか?
それとも彼女の父親のつもりか?
…やめろ…
おまえなんかの薄っぺらな「志」などどうでもいいことだ
この台詞を読んで、第六部のプッチ神父の台詞を思い出した。
たしかウェザーリポートが神父にやられて、それをアナスイが助けようとして「ダイバーダウン」を出現させたとき、
安っぽい感情で動いているんじゃあないッ!
と神父が叫ぶ。
どちらも、「『運命』の前のちっぽけな悪あがきなんてしたってしょうがない」という絶対的な暴力を持つ悪役(私自身はプッチもヴァレンタインも好きだけど)の傲慢な台詞なわけだが、逆説的に言えば、作者の荒木飛呂彦はそんな「安っぽい感情」に、人間が人間であることのいじらしさ、悲しさ、強さを見ているのだろうと思う。
そして、「運命」の前で言い訳ばかりを思いついて手をこまぬいている人間より、なにか行動を起こす人間に対して深い敬意を注いでいる。そう、敬意だ。
驚いたことに、荒木は二十数年前、既にそのことを『ジョジョ』の中で描いている。
臆病なポコという少年がその姉に、いつも「明日はちゃんとするから」と空約束をするのだが、そのたびに叱られる(うろ覚え)。ところがひょんなことから、生死をかけた行動を彼は起こすことになる。死ぬ恐怖に怯えながらも、人間としての「勇気」を行動に移して見せた彼はこう叫ぶ。

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思えば、『ワンピース』の最初の方で、まだずんぐりむっくりだったコビーが、勇気を振り絞ってアルビダに罵声を浴びせるところなども、このパターン。盗作だなんて言うつもりはさらさらないけど、おそらく『ワンピース』作者の尾田にも、このポコの台詞がずっと心に響きつづけているのだろうと思う。

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猫好きとしては、この記事に感動せずにいられない。
ミケという名のオスの三毛猫(これだけでも珍しいんですよ!)が今まで六十二の山を「登山」したという。

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夫妻を置いてダッシュで登ったり、疲れて途中で座り込んだり。夫妻だけなら30分で登れる山も、ミケの足だと1時間近くかかる。それでも岡田さんは「一緒にゆっくり登ることが、とても楽しい」と笑う
もう、この文章を見るだけで微笑んでしまう。猫は気まぐれでなにかを一心にやりつづけるというのは苦手なはずだが、飼い主の方にうまくノせられて、今まで「登山」してしまったのだろう。
このミケちゃん、現在は十五歳とかなり高齢。それにくわえて皮膚ガンも患っているそうでなかなか大変だとは思うけど、飼い主の方は「秋にはまた一緒に登りたい」と思っているそうな。これが犬の話題だったら全然スルーなんだけど、猫だと思うと、めちゃくちゃ偉業を成し遂げているように思えるのが不思議。
本も出ているそうですよ。

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日本酒の凋落とは好対照に、焼酎ブームは依然つづいているわけですよ。
で、例によって「幻の焼酎」詐欺も後を絶たないわけです。「森伊蔵」とか「魔王」が安く手に入るよっていう、いつもの手口です。
しかし、これらの焼酎ってほんとに高いよなあ。昔聞いたのは、作り手は定価(2,500円程度?)のままで売っていて、あとは中に入っている「業者」的な奴らが吹っかけているだけだとか。
もしそうだとしたら、そんなの買って誰が喜ぶのかっていう疑問があるけど……え? 買った本人が喜ぶ? ああ、高いけど有名品を飲んだっていう自慢ができるから嬉しいと……そうですか、そりゃあよかった。
楽天のワイン屋に書いてある記述だから信用できないかもしれないが、スクリーミング・イーグルっていうカリフォルニアのカルトワインがあって、2000年に行われたナパ・ヴァレーで行われたチャリティ・オークションで、92年ヴィンテージ(6,000ml)になんと50万ドルの値段がついたそうで。為替相場は当時とかなり変わっているだろうけど、今現在で単純計算しても約4,400万円ってところですか。チャリティというご祝儀相場を考慮してもこの金額はすごい。
通常でもこのワインは高価で、20万円以上はするみたい。でもこれも、作り手には125ドル分しかお金は入ってこないとか。ほんとかねえ。
金を預けすぎて銀行から文句を言われている、なんていう人が世の中のどこかにはいて、仕方なしに上のようなワインにお金を遣っているんだろう。そういう意味じゃ最初の焼酎詐欺なんて、ちゃちいものかもしれない。
そうそう、学生時代にアルバイトしていた居酒屋では普通に「百年の孤独」が置いてあって、社割で2,000円ぐらいで買っていた。というか、キープで時間切れになったのを持ち帰ったりもしていたし。タイトルとデザイン以外、特にうまいっていう印象はなかったなあ。

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スタジオジブリが発行する小冊子『熱風』で、宮崎駿がiPad について批判したそうな。ソースはこの記事
非常に的を射ていると思うので、宮崎の言葉を引用しておく。なお「あなた」というのはiPad をいじくっているインタビュアーのこと。下線はすべて引用者である私による。
あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります。その内に電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだらけになった時も、ウンザリして来ました。
よせばいいのに、インタビュアーは、「資料探しの道具として使いこなせば良いのでは? 時間をいただけるなら、文献を調べて取り寄せることもiPadで出来ます」と言ったらしいのだが、これを受けて宮崎はいよいよ本領を発揮する。
あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男達への感心も共感もあなたは無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。

一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。あのね、六〇年代にラジカセ(でっかいものです)にとびついて、何処へ行くにも誇らしげにぶらさげている人達がいました。今は年金受給者になっているでしょうが、その人達とあなたは同じです。新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。
あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい
実に素晴らしい。
どうせこの言葉は「職人ならではの変わった主張」と受け取られて「はい、おしまい」なんだろうけど、そうじゃないだろう。宮崎の言いたいところを汲むと、生産できないから消費する方に回るということなのではないか? そんなことを言っちゃ世界中の人間が悲観してしまうから言わないだけで。

「いまスマートフォンがすごいんですよー」みたいな話をちょっと前のクローズアップ現代で見たけど、たしかにすごい。でもそれは作った技術者たちの技術がすごいんであって、それを買っていじくる人間がすごい人間になれるわけではもちろんないのだが、そこらへんがどうも誤解されているよう。
アプリだかなんだかがいっぱい出ていて「便利なんですー」と言う人もあるかもしれないが、その便利さがなにかを生んでいると言うのだろうか。その便利さによって生じた「余暇」が、芸術的あるいはその他の生産的な営為に繋がっているというのだろうか。
インターネットによって発達したのは、主に(すべてとは言いませんよ)編集技術。このブログのように、発信しているふりをしてその実はなにもせず、いろいろな「情報」(バカほどこれをありがたがる傾向がある)を右から左へ移しているだけ。ほとんど意味はない。「意味ないことをやりつづける意味」もない。0はいくら積んでも0のまま。
『もののけ』以来、宮崎作品はつまらなくなったと思うが、それでも気概は失っていないようで安心安心。なにかで読んだけど、年寄りは文句を言ったり批判をしてこそ、その価値がある。若い世代に迎合する好々爺なんて社会にとって害悪になるだけだからなあ。僕らの宮さん、まだまだ健在でした。

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