とはいえ、わからないでもない

2010年10月

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台湾芸術大学の学生たちが作ったというアニメーション。







ネット上では既に有名だそうで。

「足りないもの」を「足りないもの」のまま惨めに哀れに描くことは簡単だが、そうではなく、ときに「満ち足りているもの」より豊かですらあるということを、こうも素晴らしくストレートに描けるとは。



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ついに完結した時代劇残極描写漫画。おそらくはみ出た臓物の数では他者の追随を許さないであろうが、本作品が際立っているのは実はそこではない。

シグルイ』では、人があっけなく死んでいく。非重要人物はもちろん、ちゃんとした見せ場は用意されているが重要人物もあっけなく死んでいく。

刀を振るい、死ぬことが珍しいことではなかった時代(それが時代考証的に正しいのかどうかは別として)を描くためには、登場人物たちは死ななくてはならない。これはごく当たり前のことだが、この「当たり前」のさじ加減が難しい。

あまりにもばたばたと人が死んでいけば、ただの残酷漫画に堕し、読者はなにも感情を移入することのないまま読み進めることになってしまう。

反対に、「掟破りの復活技」(死んだはずなのに生き返る!)や「ピンチのときの都合の良い助っ人の登場」などでは、読者は子供騙しだと思って本気で読むことが難くなってしまう。

その点、『シグルイ』は淡々と人と人が刀を振り、そしてときには拳と拳で、殺し合う。そこには「どりゃぁーっ」などというみっともない叫び声はなく、不気味なまでの静謐さがあるのみだ。



この作品では、最後の最後までなにが起こるかわからなかった。原作を読んではいたのだが、まったく別物と言っていいほど脚色がなされていたので、たとえば「二輪」という虎眼流剣士二人の真剣による演武では、演者の藤木と牛股が本当に死んでしまうのではないかと息を呑みながらページを繰ることになった。たかが演武でこの通りである。

実際の試合では、びっくりするくらいに指が飛んだり、顎を打ち砕かれたり、脳天を割られたりする。それも、序盤の頃ではほとんど木刀しか遣っていなかったにもかかわらず。

また、主人公が藤木か伊良子のどちらかよくわからない、というのも本作品の特徴。

たいていは藤木の復讐劇として藤木源之助を主人公として読んだのかもしれないが、私としては伊良子の復讐劇として読んでいたので、藤木は憎かった。藤木には最後の最後になってやっと同情したくらい。

ともかく、描写に信じられないほどの労力と分量を割いたおかげで、『シグルイ』は漫画史上に残る時代劇作品となった。

作者山口の描写の量と質が生んだのは、圧倒的なリアリティだった。ときにグロテスクすぎると評されたその描写は、リアリティを表現するための一手段にしかすぎない。

そして、それがあったからこそ読者は、登場人物たちと同じように息を呑み、そのじつ心臓を激しく搏ちながら、物語、というか藤木と伊良子の運命を追うことができた。

イロモノなどではない、まぎれもない傑作なのである。




シグルイ 1 (チャンピオンREDコミックス)

シグルイ 1 (チャンピオンREDコミックス)



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アマゾンで註文した本書だが、半日で読んでしまった。はてなの近藤社長の著書。

極めて簡単に書かれているが、内容はいたって真面目で感心するところが多い。

いくつか銘記しておく。







  1. 情報の私物化を禁止する

  2. 情報は閲覧者が選択する

  3. 新しいアイデアに対しては、なるべく否定的な意見を言わず、質問や代案によって議論を交わす

  4. 業績評価に相互評価方式を採用し、さらに、評価の高かった人の判断(評価)に価値を加えて、総合的な評価を行う

  5. 50% の完成度でサービスをリリースする

  6. ユーザーを絶対的に信頼する




1. と2. は関連しているが、なるべく情報は生のまま共有するようにし、記録者の恣意的な判断・操作によって記録されないようにする。これは社内情報の開示についてで、「これは隠匿しておこう」だとか、「これなら開示しても問題ないな」などという判断は記録者は絶対にすべきではない、情報はすべて共有できなければならない、という近藤の考えらしい。

本書では、具体例としてプログラムのソースコードの私物化を禁止するということが書かれていたが、この「私物化の禁止」は、実際にはいろいろな「情報」へ適用されていることだろう。



3. は私が実際に痛感したことでもあって、いろいろな新しいことを行っていく際に、否定的意見はすぐに思いつくのだが、肝腎の「新しいアイデアをどう実践にまで持って行くか」という思考にはなかなか至らない。だが、そのアイデアの芽を殺さず、しかも活かしていくというのは組織にとって本当に大切なこと。



4. は面白い評価方法で、ただ単純に集計した評価の平均を取るのではなく、集計したうち支持を得た人物の判断(評価)に価値を与えるというもの。たとえばGoogleページランクのアルゴリズムは「価値の高いウェブページからのリンクがあるページは価値が高い」としているらしいが、それと同じ。



5. もはてな独自のものだろう(少なくとも日本でははてなが始めたやり方だろう)。乱暴にまとめてしまえば、基本的で絶対に外せないもの(セキュリティシステム等)と、そのサービス独自のものを完成させてしまえば、それをユーザーに普及させるときに生じるであろう弊害(リスク)に対する管理は最低限で済ませ、後はリリース後に、ユーザーとともにそれを修正していく、というやり方。これもとても参考になる手法。ウェブの利点をものすごくうまく利用していると思う。



6. 結局5. もこの思想が背景にあるために実行できるのだろうが、ユーザーを規制したり、サービスに細かいルールを適用させるのではなく、なるべくユーザー自身が成熟できるような場を創出することが肝要だと近藤は考えているようだ。

規制は可能性を限定するが、オープンな思考や手法は、可能性を増大させる、というのが銘記しておくべきはてなの思想。実に面白い。



「へんな会社」のつくり方 (NT2X)

「へんな会社」のつくり方 (NT2X)



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作者の森雅之の友人によれば、「描かれた時に、もうすでに古い恋人たちだった」という1988〜1989年に描かれたラヴストーリー。

古臭いし、青臭いし、それに現実ではあり得ないような純粋な世界なんだけど、やっぱり好きなんだよなあ。少女趣味? そうかもしれない。

だけど、もっと多くの人に読んでもらいたい作品。



追伸―二人の手紙物語

追伸―二人の手紙物語



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予告篇を見てからずっと観たい観たいと思っていた『ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢』のDVD を借りて観た。

予告篇の出来は良かったが、本篇はそれ以上。こういうことは珍しい。



まず、編集が素晴らしい。

本作は再演版『コーラスライン』のオーディションを追ったドキュメンタリーだが、すべての台詞(インタビュー)や音楽がきちんと練り上げられた上で構成されている。

視聴者(われわれ)は、ときにオーディション受験者側に立ち、ときに制作側に立ち、そしてときにブロードウェイファン側に立つ。視点は次々と変化していき、いつしか視聴者は感情を高ぶらせ、不安に陥り、緊張のあまり、そして感激のあまりに涙を流す。まさに『コーラスライン』そのものみたいじゃないか。

冒頭8分ほどのあたりで、ちびででぶっちょの振り付けおばちゃんのバイヨーク・リーが鏡の前で受験者たちにステップを教えている。

ひととおりステップとそのコツを伝えたあと、じゃあ合わせてやってみましょうか、という感じで音楽を流し、そこで急に声を張り上げる。

Five, six, five, six, seven, eight!

このときの彼女のちっちゃい身体から突如として溢れ出すエネルギーと躍動といったら。

つまり、有名なこの場面である(開始から1分ほどのところ)。




I hope I get it




ちなみに、私がこの曲を知ったのは実は『コーラスライン』からではなく、野田秀樹の『半神』のオープニングからだった。



特に印象的だったのは、バイヨークの「カウント」のほかに3つ。

時間は前後するが、クリスティン役のクリッシーがとてもキュートで、これは絶対に受かるだろうと思って観ていた。オーディション風景を見ていても、彼女のはじけるような個性(かわいらしさ)に、他の誰も太刀打ちできないというのがすぐにわかってしまう。

もちろん受験者の女性たちはみんなダンサーでもあり、女優でもあり、そして多くが整ったルックスを持っているのだが、それでもやはりそれ以上のなにかがスターにはあるということが感じられた。

そんな彼女が最終オーディション前日のインタビュー中に急に泣き出すところで、思わずもらい泣きをした。

最終銓衡に残った彼女たちは、都合8ヶ月ものあいだ、私なんかにはまるで想像できないような緊張の中で練習をしていて、その糸がぷつんと切れた瞬間だった。

彼女たちは、先天的に他の人より恵まれたものを持ってはいるものの、重圧と不安になんとかして耐え、日々修練を積み、そのうえで輝いている努力の人間たちだった。一人として、才能の上にあぐらをかいている人間などいない。だから、ある瞬間に感情が堰を切ってしまう。喜びで。悲しみで。不安で。なにがなんだかわからなくなってしまって。



ポール役のジェイソンの演技には、本当に心を震えさせられた。

彼の口や身体からあまりにも自然に流れ出す言葉は演技と表現するのが少しためらわれるようで、これは演者のジェイソン自身のストーリーであり、それを審査員たちに向かって告白しているのではないか、と思ってしまう。

彼の心の底から湧き上がる情感はそのまま審査員たちの心を衝き、演出のボブ・エイヴィアン、配役ディレクターのジェイ・バインダー、振り付け師のバイヨーク・リーらはこぞって泣いた。オーディションの演技にもかかわらず、だ。

実際、ボブは「オーディションとは思えない」とジェイソンに言い、彼が部屋を去ってから、みんなで泣き笑いをし、「僕が泣くなんて ― 30年ぶりだよ」と話す。

彼らがみんな泣いたのは、ポールの哀しみがジェイソンを介して伝わったということももちろんあるだろうが、それ以上に、ジェイソンの演技の素晴らしさ、ひいては、演技という芸術表現そのものの素晴らしさに心を打たれたのではなかったか。

少なくとも私は、舞台表現が不滅であるということをジェイソンの演技から感じ、そして、演出家たちのような(失礼だが)年輩者たちがその年齢にしてもなお心を枯渇させずに涙を流せるということに感動し、そこからもやはり舞台表現は不滅であろうということを感じた。本当にこのシーンだけでも一見の価値がある。



いよいよ配役が決まり、やっとのことで舞台の初日にこぎつける。いろいろなキャストたちがいろいろな想いを語る。そして、残念ながら配役に選ばれなかった者たちも、「次こそは」とチャンスがやがて巡って来ることを信じて別の道を歩み出している。

そう、この映画中で何度も語られる言葉だが、この『コーラスライン』は真実の物語であり、だからなお、人々の、特にショウビズ界を夢見る人々の心をとらえて離さないのだろう。

そして、キャシー役に選ばれた女優が『コーラスライン』の『メタコーラスライン』的存在であるこのドキュメンタリーを締め括るような言葉を口にする。




(『コーラスライン』は)私たちの物語よ

とてもキビしい世界

でも身も心も……



喜んで捧げる




そして、この曲で大団円。




One




どう? うまくできすぎでしょ? まあ、この流れを見ていくと、"One"で自然とスタンディング・オベーションになるのも無理はない。誰だってそうするだろう。

いやあ、舞台って本当に素晴らしいですね。






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私の大好きな森雅之

本書は漫画というよりは、詩に絵がついていると言った方がよいが、いつもの森らしく、地味だけど素晴らしいできばえ。

森ワールドは、たとえば冒頭のこんな言葉からも感じ取ってもらえるだろうと思う。






散歩をすると

好きな唄を

想い出す。



散歩をすると

唄を好きだった事を

想い出す。




まだぼく/わたしの心は枯れてないよ、という方におすすめ。




散歩手帖

散歩手帖



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間違えて消しちゃったから、再びアップ。







前にもどこかで書いたことがあったが、この外国人が無表情で完璧にダンスをすれば最高だったのに、と思う。少しずれがあって、制作者側としてはそこの「ゆるーい感じ」がいいと思ったんだろうけど、せっかくBGM がカッコイイのだから、すべて格好良くすればよかったと私個人は思う。



こんなのも見つけた。








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