とはいえ、わからないでもない

2011年01月

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Buy U a Drank / T-Pain feat. Yung Joc




T-ペインを聴いていたら、「オートチューン」のことが気になったのでWiki で調べてみた。その「歴史」が面白い。




1996年、技師として石油会社のエクソンモービルで働いていたアンディ・ヒルデブランド (Andy Hildebrand) は地震データ解析用ソフトが音程の補正にも使えることを偶然発見した。翌1997年アンタレス社はこの技術を製品化し、「オートチューン」と命名し発売した。1998年、アメリカの歌手シェールは楽曲「Believe」において本来の音程補正目的ではなく、ロボットボイスを生むエフェクターとしてこのソフトを使用した。同楽曲がヒットしたことによってオートチューンは一躍有名になった。




ええ、覚えていますとも覚えていますとも。当時、リアルタイムでこの曲を初めて聴いたときはびっくりしたものなあ。




Believe / Cher






しかし、Wiki の記述はこのようにつづいている。




「Believe」はヒットしたが、その機械的なボーカルはあまりに独特であったため、ポップスの世界ではオートチューンをエフェクター的に使用することは一過性の流行に終わり、以後しばらくは本来の音程補正用ソフトとしてのみ使われ続けた。しかし、2005年にデビューしたT-ペインが自身のほとんど全ての楽曲にオートチューンを使用し、「I'm Sprung」などのヒット曲を生み出していったことをきっかけにオートチューンは再度注目されるようになった。




そうかなあ。私は、「すごいなあ、これからの音楽ってのは、ヴォーカルまで機械でいじくれるようになるんだなあ」と感動していたものだが。

ちなみに、T-ペインはリアルタイムで知らなかったけど、m-flo × 坂本龍一の『I WANNA BE DOWN』*1をリアルタイムで聴いたときは、「ああ、cher の流れだよなあ、すげー」と思ったものである。オートチューンではないのかもしれないけど。




I WANNA BE DOWN / m-flo loves 坂本龍一



オープニングの、バラバラに分断された個々のサウンドがまとめあげられていく部分は、いま聴いても鳥肌が立つ。絶対ヘッドフォンで聴くべし。




で、「オートチューン」の中の記述で気になったものをYouTube で視聴してみた。




Auto-Tune the News #3 / The Gregory Brothers




おそらく、ニュースの音源に音程をつけているのだろう。まったく英語のヒアリングができなくても相当愉しめる。もちろん、英語が聴き取れればもっと面白いのだろうが。



*1:アルバム『ASTROMANTIC』(2004)より。



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かりそめの恋をする日や更衣




「更衣」は「ころもがえ」と読み、夏の季語。上掲句は、昨年度の全国高校生俳句大会の優秀賞に輝いた青森県の高校2年生(17)の作品。この誰にでも一度はある経験を瑞々しく謳った彼の写真がたまたま手に入ったので、ここに掲載したい。




f:id:todotaro:20110130211908j:image




……えっと、嘘です。

全国高校生俳句大会うんぬんが嘘です。画像は与謝蕪村(1716-1784)。ざっと二百数十年前の作品。恋は普遍なり。



さて、「衣替え」といえば、現代の大詩人も最近その詩の中で触れている。




カレンダーより早く

シャツの袖口まくって

太陽が近づく気配

僕の腕から衣替え




そう、秋元御大である。




ポニーテールとシュシュ / AKB48




相変わらず導入部が長い。ファンじゃなけりゃ辛いな。私は辛い方。



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ふと気づいたことだが、うちの2匹の猫のうち、ヒメ(元臆病)は名前を呼ぶとこちらを見たり、近寄ってきたりするのに対して、モモ(活発ないたずら坊主)は名前を呼んでも、顔を向けることすらしない。

モモは、まだ自分の名前がわからないのである。

こたつの上で食事をしていると、2匹ともこたつの天板に上がろうとするのだが、ヒメは一度注意すると、上りたそうにしながらも諦めるのに対し、モモは何度も何度も天板に上がっては私に叱られることになる。

これまでは「いづれ言うことを聞くようになるだろう」と優しく注意するにとどまっていたが、最近では何度言っても効き目がないので、一応頭をはたいてこたつから下ろすことにしている。びっくりしたモモの表情を見ていると、「ああごめんごめんごめん」と頭を千回くらい撫でてやりたい思いに駆られるがそこは我慢。叱った後は、飼い主としての威厳を誇示しつづけなければならない。安易に優しく触れることで、猫が「ああ今のは怒られたんじゃなかったんだ」と勘違いしないようにしている。

でもモモや、自分の名前くらい、もう覚えようぜ。



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最近話題になっている映画『ソーシャル・ネットワーク』を観てきた。

うーん。映画館で1,800円払ってみる映画かと問われれば、私だったら「No」と答えるだろう。

そりゃあ、いまフェイスブックが(日本以外では)大流行しているし、創業者のマーク・ザッカーバーグは、Time 誌の「2010年の今年の人」に選ばれたほどだ。

でもね、映画ってのはそういうこととはまた別に存在するもので、この映画はゴールデン・グローブ賞の作品賞、監督賞、脚本賞を受賞したようだけど、興行的にヒットするのとはまた違う評価をしなければならないのではないか、と個人的には考えている。

……とまあ、否定的意見ばかり述べても面白くないので、少しくらいはいいところを挙げていこう。

まず、主人公の彼女(だった)エリカ・オルブライト役のルーニー・マーラがすごくきれいだった、ということ。




f:id:todotaro:20091204195433j:image


Patricia Rooney Mara




あと、投資家(?)として途中からフェイスブックに参加するショーン・パーカーの台詞がちょっと興味深かったので印象に残っている。

当初、主人公のマーク・ザッカーバーグは「クールじゃない」としてフェイスブックに広告を載せることを否定していた。それをショーンに相談したとき、彼も「広告はクールじゃない」とマークに同意する。彼の意図は、クール(広告なし)なままでもっと登録ユーザーを増やしたときに広告を募集する、というものだった。そのときの台詞。




フェイスブックの評価額について)100万ドルなんてクールじゃない。クールなのは、10億ドルだ。




インターネットのビジネスではよくある話なのかもしれないが、最初から金儲けができるシステムを構築できなくても、その利用者が増えてくれば、あとはどうとでも金がついてくるというものなのかもしれない。重要なのはユーザーとその満足度。つまり、まずはじめにユーザーが満足できるものを考え、それを突き詰めていくことに執心しなければならないということだ。これはちょいと参考になった。

あとは……、CEO のマーク・ザッカーバーグという名前、今までどうにも覚えられなかったのが、この映画でやっと覚えられたということかな。

そうそう、エンディング曲で少しだけヒネリみたいなのが感じられた。




Baby, You're A Rich Man / The Beatles




ベイビー、きみも金持ちになったんだね。



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ファースト・インプレッション


装幀とタイトルから、なんとなく悲しい印象を受ける。中身(ストーリー)は知らなかった。

読む。作者(上野顕太郎)の絵を知らなかったので、開始早々の人物画に多少のショックを受ける。古い絵。ただし、泉晴紀*1の絵に慣れている私は、すぐに慣れることができた。

読み進めていく。作者の気持ちが「生」のまま提示される。辛い。絵が古いということは、絵が稚拙であるということを意味するわけではない。どころか、なんという表現だと驚かされるところも往々にしてある。しかし、辛い。

やがて、「生」であると思っていた作者の感情が、「生」の感情を再現しようとする作者の必死の表現だということに気づき、また辛くなった。

登場人物であり当事者である作者は、愛する妻を亡くしても、泣きわめき叫ぶようなことはほとんどない。ゆっくりと、そして淡々と、ただ絶望に落ちていくだけ。



開始30ページ弱で、(漫画としては)少し長い前書きが出てくる。ぜひ引用しておきたい。




これは、一人の男を突然襲った悲しい出来事と、その後の1年間を描いた物語だ。



残念ながら1年後も彼は絶望の淵にいた。

しかしその後、彼は新たな幸せを見つけ、希望を取り戻してゆくのだが、

それはまた別のお話。



そしてこれはまた、苦しく短い生涯を懸命に生きた女の、

最後の瞬間を巡る物語でもある。



彼女の最後の11年間には、病気と向き合いながらも、

幸せなひと時があったのだと、信じて描いてゆきたい。



葬式が済んだ直後に、私はこの作品に着手する旨を担当に表明しており、

直ちにネームにとりかかっている。

それは生々しく、作品としての客観性を欠いていた。



それはそれで作家性が色濃く出て、「有り」だとも思うが、

時間が経過した現在、ある程度の客観性が持てた今の方が、

作品としては、より良い表現が出来るだろうと考える。

そもそも当事者が完全な客観視を出来るわけもなく、

しかし、その心情は当事者にしか味わえないのだから、

要は、主観と客観のバランスをいかに上手く取るかということだろう。



ただ、内容が内容なだけに、新たなる家族には、本当に申し訳なく思う。

自分自身も「何故苦しい思いをしてまで描かねばならないのか?」

という事実に、執筆を開始してから思い至るような有様だ。

ただそれでも「描かずにはいられなかった」わけだが、ではそれは何故か?

「自分の思いを誰かに知ってもらいたかった」

ということに、尽きるのではないだろうか。

辛い目にあった人々は多かれ少なかれ、「誰かに話を聞いてもらいたい」とか、

「気持ちを分かってもらいたい」と、思うようだ。



まして自分は表現者だ、これを描かずにいられるだろうか。

いや、あえて俗っぽく言うなら、

表現者にとっての「おいしいネタ」を描かぬ手はない。



この作品に思いを込め、過去は過去として気持ちを整理し、

この先の未来を見据えてゆきたい。



この作品の最後にあるのは絶望だ。

だがその先に希望があることを今の私は知っている。



2009年6月24日 上野顕太郎







この作品は「感動的」なのか


死というものは自身では絶対に経験できないものだから(経験した時点で、経験した意識が消滅してしまうわけだから)、「リアリティのある死」とは、「(自分ではない)他人や他の生き物の死を意味する」と言うことができるかもしれない。

誰か/なにかが死んでしまっていなくなってしまうという喪失感は、それを経験する以前と以後では世界が形を変えてしまうほど、大きなものだ。この『さよならもいわずに』という作品は、その「世界の形の変わり方」あるいは「世界の意味のなくなり方」を淡々と丁寧に描いている。

実話である(34歳の病弱な妻が急逝してしまう)ということは、実はこの作品を評価する上であまり関係のないことだ。この作品をセールスする側は、「感動もの」とか「泣ける話」というわかりやすいコードに乗せるのかもしれないが、それをアテにして読んだ人は、おそらく戸惑うことになる。

ちなみに、上記「セールスする側」には、出版社のエンターブレインは含まれていない、と私は考えている。それは、この作品の本当に最後のあたりで、「編集 株式会社エンターブレイン/コミックビーム編集部」の文字を見たときに、直観した。出版社および編集者たちは、作者がこの作品を描いたということに一種の敬意を表しているように感じられた。なぜだろうか。そのように思わせる厳粛なデザインをしていた、と言ってしまえばそれだけのことなのかもしれないが、いや、おそらくそれだけが原因ではないのだろう。

「厳粛さ」といえば、この作品全体が厳粛な雰囲気を持っている。もちろん人の死を扱うわけだから軽々とは描けないわけだが、一般的な「死の物語」とはどうも勝手が違うように思う。作者にとって死者はとても身近であるはずなのだが、その死を意図的に客観視して描いている。その距離に咳ひとつしてはいけないようなある種の厳粛さを感じるのかもしれない。それが上で述べた「感動のみを求める読者を当惑させる」理由なのだと思う。

書店やブログ、あるいはブックレビューなどでは、「感動的!」の文字が躍ることになるだろう(実際はどうかわからないが)。*2でも本当にそうだろうか。

私には、この作者の悲しみを共有することができなかった。そのことにとても驚いている。





作者の苦しみを共有できるのか


当然のことながら、想像力をもってすればこの作者(主人公)の辛さや痛みというものは頭で理解することはできる。苦しい。息が詰まるほどだ。

だが、どれだけ想像をしてみても、主人公と同じ苦しみを味わうことはない。たとえば、妻が死んで3週間ほどが経った頃、近所の大きな広場を歩いているときに主人公は思う。




ああ…

誰かが…

俺を狙撃してくれないもんだろうか




この苦しさを、少なくとも身近な人間が死んだことのない私が理解できるわけがない。「自分も死んでしまいたい」どころか「自分殺されたい」だなんて、言葉や頭では理解できるけれども、そんなことを身体や心の底から感じることはできない。

それに、もともと作者は、読者にただ単純に共感してもらいたくてこの作品を描いたわけではなかろう。

前掲した前書きに、




辛い目にあった人々は多かれ少なかれ、「誰かに話を聞いてもらいたい」とか、

「気持ちを分かってもらいたい」と、思うようだ。




とあるが、これは「話をすること」に意味があるのであって、話を聴く相手側の理解/無理解にあまり重きを置いていないのだと思う。

しかしその一方で、作者の表現方法はものすごい。これはもう実際に読んでもらうほかないのだが、「辛い苦しい悲しい」という感情だけでは描いていない。「どうやったら当時の主人公(作者自身)の気持ちを一番適切に描けるのか」ということに心を砕いているのが、ところどころに散見される。けれども、このような事象を客観的に扱い、「自分は表現者だ、これを描かずにいられるだろうか」という自身への束縛が1ページ1ページから滲んで見えるようで、それが読者としては二重に苦しい。

そしてやはり、それでも私は、作者の心の痛みの100分の1さえも共有することはできなかった。



妻(名前はキホという)が死んだあと、主人公がいつも歩いている道で通りすがる人たちを見て思う。




いつもの道

いつもの駅前

何故……

一体 何故

何故キホが!?

何故あなたではなく………




この「なぜ(死んだのが)ほかの誰かではなかったのか」と思わせているなにかの重みが、死者(この場合はキホさん)の知人たちと、私たち無関係な人間たちとを隔てている。それが、「共有できないこと」の最大要因なのではないか。





この作品の提示するもの


まあ、読み方によっていろいろと感想は変わるとは思うので、この作品はぜひ大勢の人に読んでもらいたい。

たしかに、2010年を代表する漫画は『進撃の巨人』なのかもしれない。しかし、『さよならもいわずに』は2010年どころか、漫画のみにとどまらない、日本の表現芸術の歴史の中に残る作品なのではないか、という個人的印象を得た。

この物語(と呼ぶのもヘンな感じがするが)が表現しているのは「誰にもぶつけることのできない静かな怒り」や「救いを求める祈り」であるかもしれないが、「安易な悲しみ」ではない。ただそのことだけは書いておきたかった。

ヘンな先入観を持たずに、静かに作者の声を聴いてほしい。





*1:[http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%93%E3%81%84%E3%81%84%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%A4%E3%82%AD-%E6%89%B6%E6%A1%91%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B3%89-%E6%98%8C%E4%B9%8B/dp/4594025773:title=『かっこいいスキヤキ』]の作画者。


*2:ちなみに、オビには「心が引き裂かれる"音"を、聴け。」とある。無責任でセンセーションナルなコピーではないと思う。



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昨日の「クローズアップ現代」を見て腹が立った。

「あの事件」以来、禁止されていた秋葉原の歩行者天国が2年半ぶりに再開されたということは喜ばしいのだが、再開にあたって設けられた禁止事項が問題。

なんと、「一切のパフォーマンスを禁ずる」とある。

この「パフォーマンス」には、電気店のスタッフが歩道に出てチラシを配ったりすることも含まれ、それらの行為をすれば、警察官やボランティアのパトロールが来て、「やめろ」と注意することになる。

ただ人待ちをしているだけコスプレイヤーの写真を撮る人がいれば、撮影者はおろか、撮られたコスプレイヤーもその場所からの移動を迫られ、はては外国人が立ち止まって記念撮影しただけでも、警察官が移動しろと命令する始末。

なぜそのようなことになってしまったかというと、当初は「違法なパフォーマンスを禁ずる」とするにとどまっていたのが、「どこからどこまでが合法で違法かわからない」という意見が出たためだとか。

「そんなの、おまえが生きてきた〈常識〉内で判断できんのか?」と思った。

世の中には、規則がないと死んでしまうかのように不安がる連中がいるが、その人たちが望んでいるのは、本当の監視社会なんだろうな。

いや、その人たちだって、それがベストだとは思っていまい。けれども、判断する基準に不安があるのか、あるいは自身が判断(決断)することを避けたいためか、ともかく、判断しなくてもいい機械的な方法をベターだと思い、それを選択しただけだ。



今までそんなことは思ってもいなかったけど、最近有名な「非実在青少年問題」も、そのような「自由阻害」の観点に立てば、急に反対したくなってきたぞ。

あるコスプレイヤーがいいことを言っていた。

ホコ天は単に道を広くする、ということだけじゃないはずです」

偉い人にはそれがわからんのです



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弟からメールが来て、河東碧梧桐の名前から以下の句を思い出した、とあった。




赤い椿白い椿と落ちにけり  碧梧桐




さらに、この句から以下の句も連想された、とあった。




牡丹散て打かさなりぬ二三片*1  与謝蕪村






一方、昨日私が年輩の方と花の話をしていたときのこと。その方の好きな花は鶏頭ということで、そのときに私は「たしか正岡子規の句で鶏頭を詠んだ有名なものがありましたね」と言うにとどまったが、それは正確に思い出せなかったからである。

家に帰り、調べて膝を打つ。なんでこんな簡単な句を思い出せなかったのだろうか。




鶏頭の十四五本もありぬべし  子規




実は、「十数本」ということは思い出していたのだが(実際には「十四五本」だけれど)、「ありぬべし」が思い出せなかった。

「ありぬべし」。私の貧弱な古文の知識によれば、「きっとあるだろう」という意味になるはずで、「ありける」のような単純な事実描写でないところが記憶阻害の一因であったのだろう、と自身の中で勝手に結論づけてみたが、子規の晩年の状況を想像してみるに、ずっと病牀に伏したままで庭の鶏頭を直接見られないといった様子が容易に浮かばれ、なんとも悲しい気持ちになった。

「近江/丹波」「行春/行歳」の話ではないが、「鶏頭」が「チューリップ」、「十四五本」が「百五十本」になったらどうかと単純な想像をしてみるが、どうにも風情がないようだ。



田舎道の傍の高速を走っていたら、ふと「○○フラワーパーク」の文字が見え、「ちょうどいい、腹ごしらえでもするか」と朝からなにも食べていないことを思い出し、入園料を払い、入り口近くのそば屋で味の薄いそばをすする。

「腹ごなしに」と園内を軽く散歩してみる。「フラワーパーク」の看板のわりには、思ったほど花はなく、なんとなく寒々しい気分に陥る。

園を出て、再び車を駆る。車上にて、園内では比較的多く植わっていたチューリップを思い出す。そこで一句。




チューリップ百五十本もありぬべし




あそこにあったチューリップは、多いようで案外少なく、かといって、少なくとも百本ほどはあっただろう。いや、百五十本くらいはあったかもしれないな。

……うーん。俳句というより、ただのツイートだな、これじゃ。

やはり「鶏頭」の句は、子規が詠んだということで光に照らされている部分が大きいのだと思う。




*1:「ぼたんちりて うちかさなりぬ」と読む。



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行春を近江の人と惜しみける  松尾芭蕉*1




森澄雄はこの句にずいぶんと思い入れがあるらしく、『俳句への旅』で何度か言及している。意味はそのまま、「行く春を近江の人と一緒に惜しんだ」ということだが、そこに、芭蕉とその弟子去来との興味深いやりとりが『去来抄』に残されている。




先師曰、尚白が難に、近江は丹波にも、行春ハ行歳にも有べしといへり。汝いかが聞侍るや。去来曰、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をおしむに便(たより)有べし。殊に今日の上に侍るト申。先師曰、しかり、古人も此国に春を愛する事、おさおさ*2都におとらざる物を。去来曰、此一言心に徹す。行歳近江にゐ給はゞ、いかでか此感ましまさん。行春丹波にゐまさば、本より此情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成(まことなる)哉ト申。先師曰、汝は去来、共に風雅をかたるべきもの也と、殊更に悦給ひけり。




古文は苦手だが、意訳すると、尚白という人が、「芭蕉の句は『近江』を『丹波』に、『行春』を『行歳』に、変更することもできるだろう、だからよい句ではない」という批判をしたが、去来にどう思うかを訊くと、「いや、いいと思いますよ。尚白の指摘は誤っている」と答え、そして、「『行く春を丹波の』うんぬん、あるいは『行く歳を近江の』うんぬんとやってしまえば、芭蕉の詠んだ句のような感動を呼ぶことはまったくできないでしょう」というふうに答えたものだから、芭蕉も「あんたはほんとにいい弟子だ」と喜んだそうな。



さて。医療が現代ほど発達しておらず、また、交通機関や情報伝達の手段が原始的と言ってもけっして過言ではなかった時代だからこそ、行く春をわざわざ惜しむわけである。来年、またこうして春を惜しむなんてことができるのかどうか、それははっきりとは言えないよね、だからせめて今だけはこうやってあんたと一緒にここにいたいんだ、というわけである。

でも今は違う。

発達したテクノロジーが、季節感と、「今ここにいる/ある」ことの代替不可能性(=かけがえのなさ)を奪ってしまった。それを否定しはしない。芭蕉だって、現在に生まれていたら、去来とFacebook で連歌をしたり、Twitter で俳句論を交わしたりしたかもしれない。あるいは、Ustream やニコ動で『おくのほそ道』を定期配信するかもしれない。ニコ動だったら(Ustream ってよく知らないけど)、毎回、「芭蕉キター!」などのコメント弾幕が張られるかもしれない(それはそれで、面白いけど)。

けれどもときには、インターネットや携帯電話がうまく隠蔽してしまっている「時間や空間の本当の隔たり」を意識するくせはつけておいた方がいい。iPhone のCF で、単身赴任(?)と思われる若い父親が、遠くにいる家族が用意してくれたバースデイケーキのろうそくの火を、iPhone 上で吹き消す、というのがあったが、それがはたしてすばらしいことなのか、どうか。







見方を変えれば、これぞ『マトリックス』で主人公のネオ(キアヌ・リーブス)たちが否定しようとした世界のような気がする。その直観は間違っているかもしれないけど、仮想現実と現実の境界線がかなり曖昧になりつつあるのはたしか。



*1:「行春」は「ぎょうしゅん」と読んでも「ゆくはる」と読んでもいいのだろうが、私としては、音がより柔らかい後者の方が好き。


*2:原文は踊り字を使用。



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